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マグロ
作:高居空


「さて、それではそろそろ仕上げにかかるとするか……」
  窓から差し込む西日に赤く染まるアトリエで、芸術家の卵にして俺の悪友である西崎はつぶやくようにそう言った。
  大きなテーブルの上に寝かされた俺を見下ろす西崎。その目には芸術の為なら手段を選ばぬといった類の半ば狂気じみた力が宿り、手には日の光を受けて輝く鋭利な刺身包丁が握られている。
  横たわる俺の脇には今まで西崎が黙々と捌いていたハマチやサーモン、タコ、イカ、ホタテといった刺身の具材が並べられていた。
  俺は包丁を手にゆっくりと近づいてくる西崎の事を黙って見上げることしかできなかった。俺に行動の自由はない。なぜなら、今の俺の体はマグロと化してしまっていたからだ。



「なあ、今日これから俺の芸術の為に少し協力してくれないか」
  西崎にそう声を掛けられたのは、冬休み後最初の学校の授業が終わり、休み明け特有の気だるさを感じながら教科書を鞄へと詰め込んでいた時の事だった。
「なんだ、冬休み中に何かピピンとくるような事でもあったのか?」
  西崎の目にインスピレーションが降りてきた時特有の光を認めた俺は、やれやれとばかりに肩をすくませる。
  西崎は常識にとらわれぬ天才肌の感性を持った、文字通り芸術に命をかけている男だった。遊びや異性交遊といった俺達の年代では断ちがたい誘惑を自ら放棄し、自宅に作ったアトリエでひたすら心の赴くままに一切の妥協なく作品へと取り組むその姿は求道者を連想させ、その姿勢が奴の周りにある種の近寄り難さを醸し出していた。
  だが、そんな西崎は同級生からは芸術家の卵というよりも頭のネジが少々足りない変人として認識されていた。原因は西崎の自由すぎる感性にある。奴は常々「鶏の足は本当は4本ある」「人間の肌の色は本当は青色だ」等というようなことを平然と言い放って周りの者を困惑させていた。確かに奴の感性に従って作られた4本足の鶏のブロンズ像や全面青く塗りたくられた人物画は素人でも思わず感嘆してしまうほどの強烈な存在感を放っていたが、常日頃から奴には世界がそう見えているのだと思えば、頭の中がどうかなっていると考えるのもある意味当然といえるだろう。
  そんな西崎にとって、俺は学校の中で唯一友と呼べるような存在だった。周りからは何であんな奴と付き合ってるんだと半ば白い目で見られるようなこともあったが、そこはまあ、ガキの頃からの腐れ縁なのだから仕方がない。俺の家と西崎の家とは俺達が生まれる前から親交があり、そのため俺も物心つくかつかないかの頃から奴と付き合ってきた。まあ実際には振り回されてきたという表現の方がより正確なのだが……。
「インスピレーションか。まあそんなところだ。年末年始に日本の様々な伝統行事を体験しているうちに、ふと日本の伝統的な美というものに挑戦してみたくなってきてな。色々と準備をしてはみたのだが、どうしても一番肝心な物が手に入らない。そこでお前に手伝ってもらいたいのだ」
「手伝うってなにをさ」
「お前にしか頼めない事をだ」
  半ば予想していたその言葉に、俺は再び大きく肩をすくませた。西崎がそのような言い回しで頼んでくる時は大抵ろくな目にあわないということはこれまでの経験で十分すぎるほど分かっている。だがその一方で、奴にとって俺にしか頼めない事が存在するというのもまた事実なのだ。
  西崎は類い希なる芸術センスを持った男だが、その他にもう一つ、人とは異なる特殊な力を先天的に有していた。いや、むしろ特殊な力を持つように意図的に仕組まれて生まれてきたといった方が正確だろう。
  西崎の家は歴史の裏で綿々と息づく魔術士の家系だった。地元の名士としての顔を持つ一方で、彼らは裏で先祖から伝わる魔術を高め極めるべく、合法、違法を問わず様々な儀式を執り行ってきた。そして、その集大成として大規模な儀式の末に生まれた、特殊な魔術を先天的に扱う力を持った存在、それが目の前にいる西崎なのだ。
  西崎の持って生まれた魔術の力、それは“神言”と呼ばれる人間にはどう見ても過ぎた力だった。社会派のドラマなどで「例えクロでも上がシロといえばシロ」といった台詞が出てくることがあるが、西崎の力は言うなれば「例え世界の法則がクロでも西崎がシロといえばシロ」といった類のものである。つまり、奴が対象を前にして「お前は何々だ」と宣言すると、対象は全ての法則を無視して奴が言ったとおりの存在に変わってしまうのだ。例えば鶏を前にして「足が4本ある」と言えばその鶏は足が4本生えた鶏になるし、絵のモデルに向かって「肌が青い」とつぶやけば、その瞬間にモデルは青色の肌をした人間になってしまう。そしてさらに困ったことに、そのような異常事態にも関わらず、周囲の人間は変えられた本人も含めてその事について誰も疑問に思わないのだ。奴の力は対象を“元からそのような存在だった”ことにしてしまうと同時に、それを見た者の意識も“そのような者が存在していてもおかしくない”というように書き換えてしまう。先ほどの例で言えば、青色の肌になったモデルは自身も含め関係する者の中では“生まれたときから肌が青かった”ことになり、なおかつその姿を見た第三者も“青色の肌の人間がいるのは普通の事だ”と思いこんでしまうのだ。
  だが、そんな奴の力に対抗できる能力を持つ人間が奴の周りには一人だけ存在していた。つまりは俺の事だ。俺は本来の世界の法則と奴が作り変えた世界の理との相違点を認識し、元の形へと対象を戻すことができる力を持っていた。どんな理屈でそんな事ができるのかは俺にも判らないが、しかし、どうして俺がそんな力を持っているのかは分かっている。要は俺は西崎が暴走したときのためのストッパーなのだ。俺の家は西崎の家と昔から“親交”があった。それ以上のことは言わなくてもまあ想像がつくだろう。
  ガキの頃、西崎は力を無意識のうちに使っていた。今に続く奴の独特の感性はその時に育まれたものに違いない。普通の者なら空想として処理するような物でも、奴の場合はそれを口にするだけで実際にそれが目の前に出現してしまうのだ。そのような状況で育てば現実と空想との区別があいまいになり、世界を見る目が歪んでくるのも致し方のない所だろう。俺はそんな西崎が変えた世界を元に戻すべく、奴の周りをうろちょろしながら日夜奮闘していたが、奴の力を完全に抑えることはできなかった。そもそも、俺の力は奴の力と違い即効性がない。奴の場合、奴が言葉を口にした時点で効果が発動するが、俺の場合は変わってしまった対象に力を送り込んだ後ちょうど24時間経ってから効力が発揮される。つまり、最低でも1日は奴の妄想の通りに世界のルールは書き換えられてしまうのだ。更にある時には俺自身が人形に変えられてしまったこともあった。こうなると後が大変だ。意識しなくとも……というか正確には無生物にされた時点で意識は消えているのだが……俺の体は1日すれば元へと戻るのだが、その間の西崎はまさに檻から解き放たれた猛獣状態。元の姿に戻った後、あまりに変わり果てた世界に思わず呆然とした事を俺は今でも覚えている。
  だが、そんな西崎も小学校に入る頃には自分が特異な力を持っていること、そして自分と他の人間とでは世界を見る目が違うということを理解し、力を制御できるようになっていた。とはいえ、入学当初の頃はまだまだその力を使って様々な問題を引き起こしていたのだが、ある時を境に奴はぱったりと人前で力を使うことをしなくなった。何でも社会科見学の一環で美術館にいった時、奴はそこに展示されていた前衛芸術を見て雷に撃たれたような衝撃を味わったらしい。小学校に入ってからの奴は自分が感じる世界を他人にも分かってもらうために力を使っていた節があったが、そのような事をしなくても自分の世界を表現する方法がある事を奴はその時学んだのだ。それ以降奴はすっかり芸術の虜となり、時間ができると自宅の一室を改装したアトリエに籠もって創作活動に没頭するようになったのだった。
  しかしながら、それからの西崎がまったく力を使わなくなったのかといえばそうではない。奴が力を使わなくなったのはあくまで人前だけ。今でも奴の創作活動の拠点であるアトリエの中では、奴はちょくちょく力を使用しているのだ。例えば、特殊なモデルが必要になったときや入手が困難な素材を使わなければならなくなったとき、奴は躊躇わず自らの力を利用してそれらを強引に“作り出す”。そして、その後始末のために呼び出されるのが俺……つまり、俺にしか頼めないというのはそういう事なのだ。近頃はモデルとして俺自身を利用することも増えてきて……西崎の力は無から有を作り出すのではなく対象を自分の思う形に変えるという物のため、力を使うには存在を変えるための対象が必要となるのだが、最近そんな物を用意するよりも俺自身を変えてしまった方が手間が省けて良いということに奴は気づいたらしい……正直勘弁してもらいたいところなのだが、放っておけば奴の周りでは四本足の鶏や青い肌の人間が跋扈することになる。まあ、見方を変えればそれらを誰も疑問に思わない以上実際には放置しておいても別に問題はないのかもしれないが、やはり世界の秩序を考えるならば放っておく訳にもいかないだろう。
「仕方ねえな。お礼として後でなにかおごれよな」
「承知した。今週の学食代は俺が負担しよう」
「今週の昼食全部か? 何かやけに羽振りが良いな」
「当然の対価だ。気にするな」
「…………対価、ねえ…………」
  その言葉に一抹の不安を覚えつつも、俺は奴の頼みを引き受けることにした。そもそも、ここで拒絶したとしても奴が力を使えば結局は俺が後片づけをする羽目になるのだ。それならば報酬が出る方を選んだ方がまだましというものだろう。
「やれやれ…………」
  俺は西崎に聞こえないように小声でつぶやくと、肩をすくませ小さく息を吐いたのだった。



  俺が一度荷物を置いて西崎の家を訪れると、既に西崎はアトリエで何らかの準備に入っているとの事だった。家の人にアトリエへと案内される俺。そんな俺の目に最初に飛び込んできたのは、アトリエの中央に置かれた大きな木製のテーブルだった。人が横になっても平気なくらい大きなそのテーブルの周囲には、白い発泡スチロールの箱が無造作にいくつも置かれている。ちらりと中を覗いてみると、そこにはたくさんの氷とともにバラエティー豊かな海の幸が入っていた。そこから少し離れた場所に小さな机が置かれ、そこで西崎がこちらに背を向けたまま何やら作業に取り組んでいる。気づかれぬようそっと近づき様子を覗いてみると、奴は机の上に置かれたまな板に乗せた鯛を真剣な面持ちで捌いていた。普段から絵やら彫刻やらで繊細な作業をしているからかその包丁捌きはなかなか堂に入ったもので、見るからに美味そうな魚肉が絶妙な大きさで次々に切り分けられていく。
  その見事な手捌きに少々見とれながらも、想像していたのとは大分違うアトリエの様子に俺はわざと呆れたような声をあげた。
「なんだ、日本の伝統的な美なんて言ってたからてっきり日本画か何かにでもはまったのかと思ってたが、挑戦したいっていうのは寿司屋の真似事だったのか?」
  その声によってようやく俺がいることに気がついたのか、西崎は一瞬驚いた表情を浮かべると、その場に包丁を置いてこちらに向き直った。
「ああ、何だ来てたのか」
「ちょうど今来たところさ。しかし何だこの魚の山は? まさか本当に刺身か寿司でも作るつもりなのか?」
  そんな俺の問いに西崎はこちらに向かって歩を進めながら、分かってないなとばかりに鼻をフンと鳴らした。
「美術館に並べられるような物だけが芸術ではない。壊されること、崩されることが分かった上で生み出される一瞬の美もまた、まごうことなき芸術なのだ」
「…………まあ、確かにそうかもしれないけどな」
  その答えに俺はふうっと息を吐く。まあ、奴の主張も理解できなくはない。分かりづらい表現をしているが、おそらく奴が言いたいのは、料理の盛りつけというのも一つの立派な芸術であるということなのだろう。確かに高級料亭などでは、まるで食べるのが惜しくなるような美しい盛りつけをした料理を出してくる。食されることによってその美が破壊されることを宿命づけながらも、素材はもちろん盛りつける皿の色彩にまでこだわったその料理は、奴の言葉どおり一瞬の美と称するのが正しいのかもしれない。だが……ただ美しい盛りつけの刺身や寿司が作りたいだけなのだというのならば、今回奴が力を使う必要はどこにもないはずだ。魚介類なら奴の家の財力と人脈ならばよっぽど珍しい物でない限りは容易に集められるだろうし、盛り付け用の皿ならば気に入る物がなければ自身の手で作り出すのが芸術家というものだろう。それなのに俺が呼ばれたというのは、つまり奴が作りたいのはただの刺身などではない、ということなのか? そういえば、さっき学校で奴は「どうしても一番肝心な物が手に入らない」と言っていたが…………。
  そんな俺の疑問に答えるかのように西崎は言葉を続ける。
「しかし、こうして芸術の為の素材のうち手に入る物は全て取り寄せたのだが、この作品に必要不可欠な素材が一つ、どうしても入手することができないのだ。そこでお前に協力してもらいたいと思ったわけだ」
  なるほど、つまり手に入らない素材を力で作り出そうというのか。しかし、裏の世界にも精通し非合法な物であっても大抵はどうにかなる西崎の家で入手できない物っていうのはいったい何なんだ?
  怪しむ俺の肩をこちらに近づいてきた西崎がぽんと叩く。
「分かっていると思うが、俺はあくまで理想とする作品が作り出せればそれで良いのだ。その後で“とって食おう”などとは考えていないから安心するのだな」
  とって食う? その響きに不吉な物を感じ取った俺は西崎の顔を見返したが、その時既に奴の唇は動き始めていた。
「お前はこれから“マグロ”になるのだ」
「!!」
  次の瞬間、俺の体から一気に力が抜けた。床に崩れ落ちそうになる俺を背中から手を回して抱き止める西崎。
「…………!」
  声を上げようとするものの、唇を含めてまったく体の自由がきかない。西崎に抱きかかえられながら俺はその事実に恐怖した。このまま俺はマグロになってしまうのか? そして西崎の奴に包丁で捌かれて刺身に…………。
  だが、自然と自分の体を見下ろす形になった俺は、徐々に変化していく自分の肉体に違和感を覚えはじめていた。どうも様子がおかしい。俺の目には自分の胸がゆっくりと膨らみを帯びていっているように見えた。それに反比例するようにズボンを押し上げていた股間のモノがどんどん小さくなり、足が徐々に内股になっていく。突然バサリという音とともに、垂れ下がった黒い長髪が視界へと入ってくる。
  何だ……何で俺の体が女みたいに…………
  予想外の展開に困惑する俺の脳裏に、次の瞬間天啓が降りたかのごとく閃きが走る。
  まさか…………まさか西崎、マグロってそういうことなのか…………!?
  俺の頭に浮かんだもの。それは、マグロという単語のかなりアブノーマルな用法だった。

『マグロ』……性行為の際に相手にされるがままで自分からはまったく動こうとしない者を指す隠語。

  …………た、確かにそっちの意味での“マグロ”なら表の世界はもちろんのこと、裏の世界でもそうは売りに出されているような物ではないだろうが…………。し、しかし、俺をマグロ、しかも女にして西崎の奴これからなにをするつもりだ……って、やっぱりナニなのか!?
  その想像に身の危険を感じつつも、俺は相変わらず指一本動かすことができない。西崎はそんな俺を両手で抱え上げると部屋の中央に置かれたテーブルへと移動し、俺をその上へと横たえた。そしてそのまま器用な手つきで俺の衣服を脱がし始める。
  西崎にされるがまま、生まれたままの姿を晒していく俺。視線は天井を向いたままで顔を動かすことができないため体の様子を確認することはできないが、奴に見られていると意識するだけで顔が熱く火照ってくる。
  そんな俺を見下ろしながら、西崎は満足そうに独りごちた。
「ふむ。やはりこの芸術に“マグロ”は必要不可欠だな。作業中に動かれでもしたら構図も何も台無しになってしまうが、これなら安心して制作に集中できる」
  ……ってどういうことだ、それは?
  そのまま何度か頷いて俺の側を離れていく西崎をどうにか動く眼球で追いながら、俺は奴のこぼした言葉について考える。
  どうやら奴には先ほど宣言したとおり、俺を“とって食おう”という気はないらしい。だが、それならどうして俺を裸にする必要がある? 奴が俺を身動きができない裸婦にしたのには、必ず何らかの理由があるはずだ。常識的な線で考えるならヌードデッサンモデルといったところだろうが、それだと奴が買い込んだ海産物や先ほどまでの会話と結びつかない。刺身、日本伝統の美、そして動けない裸の女性。これらから連想できる物は…………って、まさか!?
  俺は何とか自由になる目を動かして西崎の姿を追う。奴は俺がアトリエに入ってきたときと同じように再び机に向かっていた。背中を向けているため何をやっているのかははっきりとは見えないが、時折包丁が見え隠れするところを見ると、おそらくはさっきと同様、買い集めた海産物を捌いて刺身を作っているのだろう。その姿からは一見すると俺に対して全く興味を失ってしまったかのようにも見える。
  だが、俺には奴のやろうとしている事について大体想像がついていた。奴は俺に関心がないのではない。むしろ、俺の姿に創作意欲をかき立てられたからこそ、ああして黙々と魚を捌いているのだ。俺を素材として使用するには、まずは集めた魚介類を全て捌き終わらなければならない。奴が刺身を全て作り終え盛り付けに入るその時こそ、初めて俺は必要とされるのである。そう、奴が言っていた芸術というのは、日本に古来から伝わる刺身の盛り付けの中でもある意味頂点の盛り付け法……いわゆる“女体盛り”の事だったのだ。

『女体盛り』……刺身を皿にではなく、裸の女性の上に盛り付けたもの。とある特殊な場所にて提供される事があると言われている。公の場で注文すると警察のお世話になる可能性が非常に高いので注意が必要。

「………………」
  相変わらず身動き一つ出来ぬまま、西崎のことをジト目で見やる俺。そんな俺の視線に気付いているのかいないのか、西崎は着々と準備を進めていく。既に俺の周りにはハマチやサーモン、タコ、ホタテといった刺身の具材が並べられていた。もうすぐ奴は全ての素材を捌き終わるだろう。そしてその後、これらの具材は俺の体に盛り付けられることになるのだ。その光景を想像し、俺は内心げんなりした。何で俺がこんな目に…………。
  だがその一方で、俺は心のどこかで奴に女体盛りにされるのを望んでいる自分がいる事にも気がついていた。奴の力は対象を奴が言ったとおりの存在に変えてしまう。そしてその力は姿形だけでなく、中身までも外見に見合ったものへと変えてしまうのだ。俺の場合は奴に対抗する力のおかげで何とか元の自我を保ててはいるものの、それでも奴にされるがままにされるのを喜ぶ、マグロ女の俺も確かに存在しているのである。奴の後ろ姿を眺めながら、俺は嫌悪感と期待感という相反する感情に心を揺さぶられていた…………





「さて、それではそろそろ仕上げにかかるとするか……」
  窓から差し込む西日に赤く染まるアトリエで、西崎は包丁を片手にそうつぶやいた。
  大きなテーブルの上に寝かされた俺を見下ろす西崎の瞳には芸術の為なら手段を選ばぬといった類の強い光が宿っている。そのある意味純粋な目を見た俺は、不覚にも一瞬ドキリとときめいてしまっていた。まずい、奴を前にすると奴に植え付けられたマグロ女の自我が抑えきれなくなる……!
  そんな俺の内心になどまったく興味を示していないであろう西崎は、用意した刺身を手にすると俺の体に一枚一枚丁寧に盛り付けはじめた。敏感な素肌に冷たい魚肉を乗せられるというこれまで味わったことのない感覚に襲われる俺。普通ならば反射的に体を動かしてしまう所だろうが、マグロと化した俺の体はピクリとも動こうとはしなかった。その点では確かに奴の考えは当たっていたといえるだろう……って感心してどうするんだ!?
  そうこうする間にも奴の盛り付けは進んでいく。それに比例するように、俺は自分の体が徐々に興奮してきていることに気がついていた。おいおい、ちょっと待て、何興奮してるんだよ俺。まさか、こうされるのが気持ち良いとかいうのか? それとも盛り付けが終わった後にあんな事やこんな事をされるのを楽しみにしているとでも……!?
「よし、完成だ」
  そんな俺の葛藤と妄想を断ち切ったのは、西崎の発した満足げな声だった。一度汗を拭くように顔を手でぬぐった西崎は、その後それこそ珠玉の芸術でも愛でるかのように熱い眼差しで俺の事をまじまじと見つめてくる。その視線に胸の鼓動が不随意に早くなっていくのを感じる俺。
「ふむ、これは思った以上の出来だな」
  西崎はそう言うと今度はどこからかカメラを持ち出してきて俺のことを色々な角度から撮影し始めた。自分が裸なのを思い出した俺は恥ずかしさに顔を上気させる。やがてひとしきりシャッターを切り終わると、西崎は張りつめていた精神をほぐすかのように大きく一つ伸びをした。
「さて、一仕事終わったことだし今日はここまでにしておくか」
  そう独りごちるとカメラを片手にアトリエから出て行こうとする西崎。
  …………ってちょっと待て! まさかこのまま俺を放っておくつもりなのか? 確かに奴は芸術以外のことには全く興味を示さない男だし、とって食うようなことをしないと宣言した以上、手を出してくることがないことは分かっているが、この格好のままここに置いてかれるというのは色々な意味で納得いかないぞ!?
  そんな俺の心の声が聞こえたのか、西崎はこちらへと向き直るとやれやれといった感じで大きくかぶりを振った。
「お前も知っての通り、俺は芸術にしか興味のない男だ。そんな俺が、自ら作った物とはいえ芸術を自分の手で破壊するようなことができると思うか?」
  た、確かにそう言われればそうかもしれないが……。
「どうせ1日もすれば元に戻れるのだ。それまでは芸術品としてそこでおとなしくしているのだな」
  そう言い残して今度こそドアの向こうへと去っていく西崎。西日の差し込むアトリエには、いやらしく盛り付けをされたまま動くことの出来ない裸の女が一人残されて……ってこの状況ってもしかして、いわゆる“放置ナンとか”っていう奴じゃないのか!?
  誰もいないアトリエで、俺は文字通り声にならない叫びを上げるのだった。



『放置』……放ってそのままにしておくこと。ただし、後ろに“プレイ”と付けるといかがわしいニュアンスになるので注意すること。




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