トップページに戻る

小説ページに戻る
 


誤変換修正回路
作:高居空


「細川君、君の作った書類の事なんだが、ちょっとこっちに来て貰えないかな?」
  衝立の向こうから顔を出した山名課長にそう声を掛けられた私は、嫌な予感を覚えながらも席を立った。
  私はこの春から人事異動で新たに製品開発部で働いている。課長の言っている書類というのはその私が携わっている新製品開発プロジェクトのこれまでの経過をまとめた報告書だ。明日の会議で使うからと昨日突然課長から言われて急いで作ったのだけれども、どこかまずい所でもあったのか。昨夜は大学の時の友達と女同士で飲みに行く約束があったから、それこそ慌てて作って完成後のチェックはろくにしなかったのだけど……。
  私は同僚達……特に女性社員の憐れむような視線を感じつつ、一つ小さく息を吐いてから課長の座る空間へと足を踏み入れる。
  この会社のオフィスは課長とそれより下の役職の人が座る席とが衝立で仕切られている。課長よりも上の役の人達はそれぞれ専用の部屋を持っているのだが、課長はそこまででもないというのが会社の考えなのだろう。ある意味まさしく中間管理職なのだが、とりあえず、中の様子が見えないプライベート空間が用意されているのは確かである。それは言い換えれば、そこで何があろうとも物音さえ立てなければ外からは分からない、という事だ。
「ああ、細川君、実はこの書類のここの部分なんだけどね……」
  山名課長は私がこちら側に入ってくるやいなや、予想していたとおり下卑た笑みを浮かべながら席から立ち上がると私の背後に回って左手を腰に巻き付けてきた。
  私は不快感を覚えながらも、課長のもう片方の手に握られている書類へと目を向ける。ここで声を出したりしたら後々面倒な事になるのは分かっていた。山名課長は何の考えもなくセクハラ行為を行っているのではない。課長のやり口は女子社員の仕事上の失敗を見つけ、それに対する注意もしくは助言をするという名目で自分の所に呼び出すというもの。つまり、呼び出されるのには何かしらの理由があるという事だ。そして、この課長は小さな話を大きく膨らませる事に関しては他の追随を許さない。ここで変な声でも上げようものなら、たちまちこちらの失敗をそこら中にばらまかれて人事評価は大幅ダウン、最悪退社という事態にもなりかねないのだ。私も一応は社会人。その辺の理屈は理解しているつもりだ。我慢するところは我慢しないと……。
  そう自分を言い聞かせながら書類に目を通す私。課長の持っているページにはタイトルとして大きく『新製品開発の為のプロレス』と書かれており…………って、プロレス!?
「いやあ、これまで僕も色々な社員を見てきたけど、新製品を開発する為にプロレスを利用するなんて斬新な発想の子は初めてだよ。どういう『プロセス』でそういう発想が導き出されたのかぜひとも聞いてみたいと思ってね」
  そう耳元で囁きながらゆっくりと私のお尻をなで回す課長。対する私はただ固まるしかない。
「とはいえ、さすがにウチが柔軟な発想を重んじる会社だとは言っても、ちょっと新製品の為にプロレスをやるというのは難しいと思うなあ。まあ、君が『このままで良い』というのならこのままこの文書を上の会議に提出しても良いんだけどね……」
  山名課長はそう言いながら今度は私の胸元へと手を伸ばしてくる。私はそれを黙って受け入れるしかなかった……。





「はあ……」
  昼休み。私はコーヒーの自動販売機の前でカップにコーヒーが注がれるのを眺めながら大きくため息をついた。
  やっぱり報告書を作り終えたあの時に面倒くさがらずに中身を一度確認しておくべきだった。私には急いで書類を作ろうとすると誤字や誤変換にまったく気が付かないという悪い癖がある。先を急ぐあまり、モニター画面をろくに確認せずに文字を打ち続けてしまうのだ。そんな時に限って打ち間違えやら誤変換をやらかしてしまう。今回もそうだ。よりにもよって「プロセス」を「プロレス」に打ち間違えるだなんて……。これさえなければあのエロ上司にあんな事されなくて済んだのに……。
「あら、どうしたんですか? ため息なんかついて」
「あ……」
  気が付くと、私の後ろには柔らかな笑みを浮かべたショートカットの女性がバッグを片手に立っていた。
「せ、世島局長!」
  その女性が誰であるかを理解した私は慌てて背筋を伸ばす。
  世島局長は私の元上司で、若いながらも私の会社の中でトップシークレットとされる新技術を開発・研究している技術開発局の全てを任されている女性だ。多くの若い女性社員にとっては憧れの対象でもある。それだけ目立つ存在である以上、彼女の事を快く思っていない人も少なくはないだろうが、表立って彼女にちょっかいを出そうとする人間は今のところ皆無だった。いや、実際にはいたのだろうけど、あの局長を敵にまわすという事は……。元部下として言える事は、世島局長を筆頭とする技術開発局の主な面々は文字通り常識が通用しない存在だということ、そしてそこで研究されている品々もどれもまともじゃない物ばかりということだ。技術開発局から“普通の”開発部に私の異動が決まったときには正直胸をなで下ろしたものだ。もっとも、異動先で待っていたのはあの山名課長だったのだが……。
「そう畏まる事はないですよ。で、どうしたんですか? なにか悩み事でもあるみたいですけど」
  穏やかな笑みを浮かべながら尋ねてくる世島局長。そう、この笑顔が怖いのだ。一見すると笑みのお陰で何とも人の良さそうな感じを受ける局長だが、その瞳の奥では相手の事を常に観察しているのだということを私は部下として働いた経験上よく分かっていた。そして、こうして悩みの相談に乗ると言ってきたときは、こちらが話す前からその人が何で悩んでいるのかを既に知っているのだということも。
「実は……」
  それでも私は自分の悩みを世島局長に打ち明ける。こうして声を掛けられてしまった以上、はぐらかしてしまう方がよっぽどリスクが高い。局長はこうした時、こちらの悩みを知った上でその解決策となりえる開発局の試作品を……大抵はまっとうなものではないのだが……用意してきているのだ。その厚意(?)を無にしてしまったとしたら、それこそ後が怖い。
「……なるほど……」
  私の言葉に何度も相槌を打ちながら考える素振りを見せる局長。ちなみに私が話した悩みは誤字や誤変換が多くて困るという事のみ。山名課長の関係には一切触れていない。今私達がいるのは社内でも結構人通りのある場所だ。そんな誰が聞いているか分からないような場所で迂闊な事を言うわけにはいかない。それに自分の失敗さえなくなれば私が課長席に呼ばれる理由も消滅するのだ。私個人単位でいえば一応これで問題解決にはなる。
「そういう事なら細川さん、実は私の所で作ってみた試作品があるんですけど、これを使ってみませんか?」
  一通り私の話を聞いた世島局長は予想通りバッグの中から何かを取り出してくる。それは、一見するとただのノートパソコンのように見える機械だった。二つ折りの機械を開くとキーボードとモニターがあり、サイドにはACコードの差し込み口やUSBポートなどもついている。これだけではこれがどのような機械なのか想像もつかないけど……。
「ふふっ、細川さん、外見をいくら見てもそれはただのノートパソコンですよ。今回開発した試作品はこのパソコンの中に特殊な回路として組み込んであるんです」
  そう言って人差し指を立てニコリと微笑む世島局長。
「その回路の名前は『誤変換修正回路』といってですね、ワープロソフトを使っていて仮に誤字や誤変換をしてしまったとしても、その文章でつじつまが合うように世界を『修正』してくれるという優れものなんです」
「…………」
  私は世島局長のその説明に声を上げることもできなかった。そんなバカな機械があるわけない……と普通の人なら一笑に付す所なのだろうけど、その点については私は疑問には思わない。元々技術開発局ではこのような世界の法則がどこかに吹っ飛んでしまったような代物ばかり研究しているのだ。今回の試作品だって、世島局長がそのような機械だというのなら恐らくその通りなのだろう。問題はその効果だ。誤字に合うように世界を修正というのは、さすがにちょっとやりすぎのような気がする。例えば「的を射る」を「的を得る」に打ち間違えたら「的を得る」が正しい用法になるというくらいの修正なら可愛いが、もしも今回の私の失敗、「プロセス」を「プロレス」に打ち間違えたのを修正した結果、新製品の開発にはプロレスが必要不可欠な世の中に変わってしまった……なんて事になったら目も当てられない。そして、世島局長の開発する機械はそれだけの力を持っているという事を私は経験上十分理解していた。
「え……と、それはさすがに……」
  恐る恐る断りの言葉を切り出そうとする私に向かい、世島局長は再び指を立てると説明を付け加えてくる。
「そうそう、あくまでこの回路は誤字や誤変換を修正するための装置ですから、元から間違った内容の文章を書いても回路は作動しませんよ。あくまで最初に意味の通る文章があって、その中に発生した誤字や誤変換を修正するというのがこの回路の本来の役割ですから」
  ……そこまで回路が判別しているのなら、誤字や誤変換の方を意味が通るように修正した方がどう考えても正しいのでは?
  喉元まで上がってきたその言葉をすんでの所で飲み込む私。そんな私の事を世島局長は楽しそうに眺めていたが、さらに何かを思いついたのか両手をポンと叩くと再び私に話しかけてくる。
「ああ、そういえば細川さんの今の上司の山名課長ってどんな人なんですか?」
  突然の話題変更、それもまさに悩みの核心をつく内容に思わず口ごもる私に向かい、世島局長は笑みを浮かべながら冗談めかした口調で言葉を続ける。
「私、夕方の管理職会議でそちらの課長さんとご一緒するんですけど、あの人の事はほとんど分からないんで、後々の為にも色々と知っておきたいんですよね。細川さん、その会議までって言うのは難しいでしょうけど、後で山名課長の事をまとめて文書で報告して貰えませんか?」
  文書で報告? 局長の発したその言葉に私はピンと閃く物があった。
  ああ、なるほどそう言う事か。まったく局長は人が悪い。本当、人をオモチャにして楽しむのが好きなんだから……。
  私は心の中でそう思いながらも、世島局長から品物を受け取ると深々と頭を下げた。
「分かりました。それでは今日中に報告書を作っておきますね」
  その言葉に世島局長は心底楽しそうな笑みを浮かべたのだった。





「ああ、細川君、今日は随分遅くまで頑張ってるね。何かトラブルでもあったのかい?」
  山名課長がそんな事を言いながら会議から戻ってきたのは、時計の針が9時を回った頃の事だった。
  既にフロアには私の他には誰も残っていない。本来なら上司が仕事をしているのに部下が帰ってしまうのは失礼にあたるのかも知れないが、管理職会議は夜遅くまで行われるのが常なため、下の人間は自分の仕事が済んだら帰宅して構わないことになっているのだ。照明も私の机の列以外は節電のため全て落とされている。
「いえ、どうしても今日中にやっておきたい事がありまして。でも、もうすぐ終わりますので」
「そうか、あんまり根を詰めすぎるなよ」
  答える私にそれだけ言うと課長は衝立の向こうの自分の席へと戻ろうとする。フロアに2人きりというこの状況なら課長の事だから何かしら手を出してくるのではとも思ったが、どうやら今夜は課長は早く家に帰りたいらしい。
  その背中を横目で眺めながら、私は世島局長から預かったパソコンのキーボードに指を走らせる。
「山名課長はエロ上司……」
  課長に気付かれないくらいの声で呟きながら文字を入力する私。
  モニターには私の指の動きに合わせて『や・ま・な・か・ち・ょ・う・は・え・ろ・じ・ょ・し』という文字が浮かび上がる。
「さて、これで変換……っと」
  変換と書かれたキーを叩き、私は文字を変換する。
「うっ!」
  それと同時に発作を起こしたような声を上げて動きを止める課長。そして私が見守る中、その後ろ姿は徐々に本来とは全く異なる姿へと変貌していった。
  やや長身だった身長が段々と小さくなる。体格がほっそりとし、ウエストがくびれ、臀部が張り出してくる。ズボンの二つの筒が一つに合わさりながらどんどんとその丈を短くしていく。革靴はハイヒールへと代わり、剥き出しになったむっちりとした足を肌色のストッキングが覆っていく。髪がバサッと伸び、それが独りでに結わかれていく。
「ああっ……」
  喉から漏れるその声も、既に艶やかな女性の物へと変わっていた。
  そして変化が終了した合図なのか課長は体を一度大きく震わせると、その後何事もなかったかのように衝立の向こうへと歩を進めようとする。
「あの、課長?」
  呼び止めた私の声に反応して、課長が振り返る。
「あら、なあに細川さん? アタシになにか手伝って欲しいのかしら」
  そう言いながらこちらに向き直った課長の姿は、どこからどうみても女性そのものだった。
  元の面影が全く感じられない美しい顔の口元には真っ赤なルージュが走り、大胆にカットされたシャツの胸元には大きな二つの胸が作り出す谷間がくっきりと浮かんでいる。短いタイトスカートのサイドにはスリットが入り、ハイヒールと合わせてその脚線美を強調していた。一応は役職にふさわしい知的な雰囲気も感じられるものの、その姿は自身の女らしさを意図的に強調しているエロティックな女性にしか見えなかった。
  妖艶な笑みを浮かべ、腰を左右に振りながらこちらに向かってくる課長。
「ふふっ、それとも細川さん、ひょっとしてアタシに可愛がって欲しいのかしら? 夜の会社に2人きり……なかなか良いシチュエーションよね」
  そう言ってペロリと舌なめずりする課長の姿に、私は背中に冷たい物が走るのを感じた。
  ああ、そう来るか……。女になってしまえば女性社員に対するセクハラはなくなる物と考えていたけど、どうやら課長は男女構わず自分の性欲の対象とするとんでもない『エロ女史』のようだ。それなら……。
  私はモニターに浮かぶ『山名課長はエロ女史(やまなかちょうはえろじょし)』という文章を再変換する。
「あん!」
  艶めかしい声を上げ、再びその動きを止める課長。その姿が先程と同じように大きく変わっていく。
  30代半ばに見えたその姿が、どんどんと若返っていく。髪の毛の結い目がほどけ、長い髪が背中に垂れると、その色が茶色に染まる。シャツはピンク色にその色を変えると生地の面積を一気に縮め、体のラインがはっきりと浮き出るピチピチのTシャツに変化する。その短い丈のせいで剥き出しになる腰回り。スカートはデニム地に変わるとその丈を更に縮め、大きな尻を強調するローダウン気味のホットパンツへと変貌する。ストッキングに覆われていた足は剥き出しになり、ハイヒールはピンク色のサンダルへとその姿を変えていた。その事によって露になった足の指先にはラメの入ったマニキュアが塗られている。体型的には大きな変化はないものの、その顔つきは子供以上大人未満という十代の少女特有の物へと変わっていた。
「あ、あれぇ?」
  やがて我に返った少女は、自分の置かれている状況に戸惑いの声を上げる。
  そんな彼女に向かい、少しきつめの声をあげる私。
「何ですか貴方は。こんな夜中に人の会社の中に入り込んだりして。何か用でもあるんですか?」
「え、えぇ〜と……」
  私の詰問に口ごもる少女。まあ、それは仕方のない所だろう。私のパソコンのモニターには『山中調はエロ女子』という文が表示されている。この誤変換に合わせて『山名課長』が『山中調』という名前のエッチな女の子に修正されたとしても、その彼女が今この場所にいる理由まではフォローされていないに違いない。
「じぃ、実はぁ……」
  しばらくおずおずとしていた少女は、やがて意を決したように私に向き直ると、その小さな口を開いた。





「で、どうなったんですか? その後は」
「どうもこうもありませんよ……」
  コーヒーカップを片手に興味深そうな声でそう尋ねてくる世島局長に対して、私は肩をすくめながら答えた。
  今、私は元の職場である技術開発局を訪れている。昨日世島局長から預かった例の試作品を返却しにきたのだ。そしてこうして局長に機械を使用した結果について報告をしているのだが……。
「その娘、『山中調』が言うには、通勤途中の私の姿を見て同性にも関わらず一目惚れをしてしまったってことなんですよ。そして昂ぶる自分の気持ちを我慢できずに会社の前で待ち伏せをしていたのだけれど、夜9時を過ぎても一向に出てこないのでこっそり中に忍び込んでみたってことらしいんですが……さすがにちょっと強引すぎませんか?」
「なるほど。恐らくは回路が『エロ女子』という言葉を重要キーワードとして彼女が会社にいる理由を作りだしたんでしょうね。で、その後は?」
「え、その後……ですか?」
  思わず口ごもる私に向かって、世島局長は意味深な笑みを浮かべる。
「やっぱりあれですか? その娘のエロエロパワーに押されて食べられちゃった……とか。いや、むしろ食べられたんじゃなくて逆に食べちゃった可能性もありますね」
「うっ……ひ、秘密です!」
  局長の意地の悪い質問に対し、思わず顔が火照ってくるのを感じる私。
  そういえば結局何だかんだであの娘の事元に戻すの忘れてたけど……。まあ良いか。一応私の職場上での最大の悩みは解決したんだし……ね?


トップページに戻る

小説ページに戻る