おやじの海

遺作展

 教員志望であったが、戦争に駆り出されて生死の狭間をなんとか生き残った。帰還後は、食糧難から農業で生計を立て、ワガシャらを育てた。
 農耕にも使う牛を飼い、田んぼを耕し、野菜を育て、林産物(木材)の育成に精を出した。
 ワガシャの記憶では、二頭を飼っていたときもあった。肥育には、餌として毎日草を刈らなければならない。朝飯前にも一仕事、夜遅くまで作業は続くー。田んぼの耕作は、牛で粗起こし、代掻きも牛、稲刈りは戦後当分の間手狩りだった。後には手押しの稲刈り機が出回り、自走式の稲刈り機の登場は、かなり後のことである。
 当時は、現代のような紙袋は無く、60キロ入りの俵仕様である。俵を編むのは母の仕事、夜なべをしたり、冬の農閑期の作業だった。
 子供も労働力として当てにされていて、稲刈りやハデ架けでは、月明かりで8時頃までー、ワガシャは腹が減るやらたいぎいやらーの思い出が蘇る。一番しんどかったのは、ハデ干しした稲を、家の倉庫まで背負って帰る作業だ。天日で干したとはいえ稲はずっしりと重く少年(ワガシャのこと)の肩にくい込む。坂道をずっしり重い稲をか弱い(これワガシャのこと・・小学生のころの身体はまだひ弱いの(^-) ) 少年は足がだるくなり、腰が痛くても・・、   なんか、ワガシャの話になってきたなー
 ワガシャが学校に行かせてもらえたのは、シイタケ栽培のお陰だった。しかし、当時、農業で現金収入を確保するのはなかなかの事、当時の両親の苦労は、帰ってから、母親のポツリぽつりの話からわかったー
 元来、器用な親父が趣味の陶芸、木工、ゲートボール、グランドゴルフなど楽しむことができたのは、ワガシャがやっと落ち着いてからであったー
 「おやじの海」ならぬ「親父の山」「親父の田園」か・・・

おやじの陶芸コーナー
今は、物置にー

ワガシャが整備した木工機械や道具を使っての木製品、しらん間にワガシャより腕は上になっていた。コケシなども親父の作。
一人でする木工より陶芸作品が多く。お仲間がいて楽しかったようである。

海はよー、うみはよー