多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)によって建てられ、藤原
恵美朝臣朝カリによって修復されたことを記念して建てられたと言うことが書かれています。
さて、この大野朝臣東人「按察使(あぜち)兼鎮守(ちんしゅ)将軍従四位上勲四等大野朝臣
東人」とは何人であろうか。
養老4年(720)9月に蝦夷が反乱を起こし按察使(陸奥国守を兼ねる)の上毛野広人(かみつ
けののひろひと)が殺され、この反乱は征夷将軍多治比県守(たじひのあがたもり)以下の大 軍派遣により鎮圧されます。
この後大野朝臣東人は、神亀元年(724)2月に従五位下から従五位上に昇叙されます。
その位階は陸奥国守の官職に相当するためこの年陸奥国守に任命されたと思われます。
その翌年3月又蝦夷が反乱を起こし大判官を殺したため、朝廷は大将軍藤原馬合(うまか
い)・副将軍高橋安麻呂(やすまろ)を派遣して平定します。
この功により、大野朝臣東人は従四位下勲四等に三階級特進しました。
その後、天平9年(737)大野朝臣東人は陸奥国から出羽柵への道路を通すため男勝村征圧
に乗り出します。朝廷はこれを許可し兵部卿藤原麻呂を持節大使(天皇の名代の将軍)
に任じ騎兵1000人を向かわせます。東人はその一部を加え騎兵459人を含めた奥羽兵6
000人を動員しました。
天平11年(739)4月大野朝臣東人は、陸奥国按察使(あぜち)兼守鎮守府(ちんじゅふ)将軍
大養徳守(やまとのかみ)従四位上勲四等となり参議になります。
即ち、前年天平10年12月藤原広嗣(ひろつぐ)が大養徳守から太宰少弐に左遷された後こ
れを東人 は引き継ぎました。
又参議にもなったため、陸奥国守や鎮守府将軍は遥任として介(次官)や副将軍 に委ね事
実上奥羽から手を引きます。
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