D'Artagnan物語・三銃士T

第二段階・貴族のフロンド(Fronde princie're)  2004/10/09 13:33:50

 第二段階・貴族のフロンド(Fronde princie're)
「高等法院」のフロンドは、フロンド派に組みした人々の要求はあらかた満たされたものの「D'Artagnan物語・三銃士(復讐鬼)第5巻」に記載の通りゴンディ神父やシュヴルーズ公爵夫人などは何も得るところはなかった。
しかし、実際はマザラン派やマザラン枢機卿本人も不満の残る結果となったのである。
特にコンデ公は、パリ包囲を行って実際のフロンドの乱を終結に導いた立役者であるのにコンデ公としての考えとしては大した恩賞も得られたかった。
即ち、ロングヴィル公爵夫人も考えていたとおりマザラン枢機卿を追い落とし自ら摂政となる画策を仕始めたのである。
本来前王ルイ13世もアンヌ・ドートリッシュは摂政会議の一員としてのみ認定していたのであって、アンヌ・ドートリッシュが摂政会議を独裁したのは一種の革命であったことは既に述べた。
従い、本来の王族、特に王位継承者であるコンデ公としてはフロンド乱を鎮圧したのであるから当然のこととして政権を担う狙いがあった。常に中心となる立場に置かれないと我慢出来ないコンデ公としては、メンツとして譲れないことである。
しかし、ここでマザランが政権を譲れば身の破滅であることはいつの世も当然である。
よってマザラン枢機卿は機先を制して(陰謀を察知して)1650年1月18日コンデ公一門(コンティ親王、ロングヴィル公など)の逮捕に踏み切った。

これに対して、お祭り好きのパリ市民は喜んだのであるが、コンデ大公一族の夫人達を中心として貴族達は反マザランで一致してしまった。
王族である……そして時となれば国王にもなりかねない(王位継承者)コンデ親王を、外国人の摂政と貧乏イタリア小貴族出身の枢機卿にすぎないマザランが逮捕するとは何事だと言うことである。
コンデ大公一族の夫人達は、彼女の夫が総督をしているブルゴーニュBurgundy、シャンパーニュChampagne、ノルマンディNormandyなどで兵を挙げたのである。
国王軍は、反乱軍鎮圧のため移動しこれに追従して宮廷も移動する。ルイ14世(11歳・未成年)もブルゴーニュBurgundyの戦闘で初陣をしている。
反乱軍を押さえて取りあえず戦乱を収拾したマザラン枢機卿ではあったが1650年暮れになると、味方についているはずの高等法院が何故かル・アーヴルに幽閉されているコンデ公達を釈放するように要求し始めた。
翌1651年になるとオレルアン公爵(フランス軍司令官)・ガストン・ドレルアンも反マザラン派に鞍替えし、高等法院はマザランの追放をも要求し始める。
マザラン枢機卿はここに至って、パリの主要な貴婦人達(伯爵夫人)を追放したものの…身の危険を感じる様になった。

人生の機微が分からず、理屈ばかり言うアンヌ・ドートリッシュに対して、相手に逆らわないようにしてそして、怒らせることなくまとめてきたマザラン…大番頭…に取っては事が破綻してしまったのである。

マザラン枢機卿は、1651年2月16日赤い色のジャケットと羽帽子…即ち一般の貴族のような風体に変装して夜陰に紛れてパレ・ロワイヤルを脱出。
ドイツ・ケルン司教区に亡命した。
その途中、ル・アーヴルでコンデ公ら三人を釈放。
親王達はバリに凱旋入城した。



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