良寛の人間像の「真髄」の再考

ⅴ)諸国行脚【34歳~39歳まで5年間】

 良寛は33歳で印可を受けると、それから良寛が何処を放浪していたかは明らかではない。ここに流浪時代の記録が残っている。
  江戸の国学者近藤万丈が土佐の国(四国)を行脚(あんぎゃ)していた時、良寛らしい人と一夜を過ごすという手記「寝覚めの友」である。これを読めば「あたかも小さい穴を通して広くてゆたかな風景を見渡」(吉野秀雄)すような気持になる。この手記を吉野秀雄訳によって紹介する。【良寛35歳ころ、近藤万丈20歳位】
「自分(近藤万丈)が若い頃、土佐の国へ行ったとき、城下から三里ばかりこっちで、雨もひどく降り、日も暮れた。山麓にみすぼらしい庵が見えたので、そこへ行って宿を乞うと、色が青く顔のやせた坊さんがひとり炉をかこんでいて、食い物も風を防ぐ夜着も何もないという。この坊さん、始めに口をきいただけであとは一言も物を言わず、坐禅するのでもなければ眠るのでもなく口のうちに念仏を唱えるのでもなく、こちらから話しかけてもただ微笑するばかりなので、自分はてっきり気狂いだと思った。」
 翌日も雨、頼んで庵に居たが僧侶は依然として口をきかない。そして庵の中には「荘子」一巻があるだけで何もない。それで持っていた扇に賛(さん)を求めると扇に「冨士の絵」と「書」を一気に書き「越州の産了寛 書」としたとのことである。
 良寛は、「話さない」「言葉を発しない」。今で言えば自閉症的である。従って自己を主張しない。残るのは、書、漢詩その他である。
 岡山県玉島にこんなエピソードが残る。
 托鉢の途中、良寛はある商家の白壁にもたれて眠っていた。すると町の人がいぶかり、大騒ぎとなった。良寛は盗人に間違われたのである。しかし、良寛は黙ったまま何一つ弁解しないため、危うく生き埋めにされそうになる。そこへ円通寺を知る人が通りかかり命拾いをした。良寛は助けてくれた人に「人はいったん疑われるといくら弁解しても無駄なもの。だから黙っていた」と言ったという。
 又同じようなエピソードがある。
 越後(新潟県)に帰ってきた良寛さんは単なる乞食坊主、勧進坊主でしかなかった。
 浜辺の船小屋が火事になった時のこと、火をつけたのはこの乞食坊主だと勘違いされ、頭にきた漁師は怒って砂の穴に埋めてしまった。良寛さんも「おれではない」と必死に弁解してみたもののどうすることも出来ない。翌朝、良寛さんを知っている人がそれを見て「良寛さんどうしたことだ」と尋ねると「村の人からそう思われているのだから仕方がない」とすっかり諦めていたという。
 寛政7年(1795年)良寛38歳のとき父以南、京都の桂川に投身自殺〈入水自殺・享年60歳〉?。



ⅵ)五合庵在住時代【39歳~59歳〈1816年〉の20年間】

 良寛は39歳頃になって郷里の越後に戻る。橘屋を見捨て出家したのであるから当然生家にはもどらず雨露をしのげる場所を転々とする。
 「辛苦して虎になろうとしたが、猫にもなれなかった」、「徒労を重ねて今日ふる里へ戻って来た」とかということらしい。
 寛政9年春、大森子陽塾時代の仲間、解良叔門、安部定珍、原田鵲斉らの地元実力者の仲介により国上寺中腹の五合庵に移り住む。「五合庵」とは元禄初め釈万元建之、国上寺の住職良長が万元に米五合を与えた事によりこのように呼んだことによる。
 但し、五合庵〈8畳ぐらいの広さ〉は元々国上寺の隠居僧のためのものであったため、時には国上寺の隠居僧のため一時に庵を出なければならなかったこともあったらしい。
 従い、密蔵院、西照寺、本覚院〈国上寺〉、西生寺、観照寺〈国上寺〉などを転々とし、良寛47歳の時、国上寺の住職義苗没し、再び「五合庵」に入ることになる。
 この「五合庵」在住時代は、良寛の文学的な円熟期になる。
 はっきり言えばこの郷里で、それ以後36年間無為無策の後半生を送るのである。
 良寛は自分で「僧に非ず、俗に非ず」と言いきり、酒を好み、タバコもたしなんでいたという。事実寺も持たず、当然経を唱えたりすることもない。
 又逸話の中で、生家の山本家に良寛が戻ったという噂が届いたため、弟の由之が長男・馬之助の放蕩を諫めてくれと呼んで泊めた。しかし良寛は、酒を飲んでいるだけで何も話さない。翌日になっても何も話さない。馬之助も良寛が何のために来ているのかうすうす知っているのであるが、ただ顔を見ただけで帰ってしまったという。それで馬之助は、改心して放蕩を止めたとか。
 良寛逸話の中で、25話以上もある亀田鵬斎は常に良寛宣伝の助手役として登場し、いつも良寛に一本取られるという役回りである。
 この鵬斎とは何者かと言えば…
 文化6年〈1809年〉江戸の大儒・亀田鵬斎が佐渡ケ島へ門人に招かれた事から始まる。9月9日越後高田に到着、さらに柏崎から出雲崎・燕に滞在した。さらに翌年、雪解けを待って出雲崎に戻り佐渡への船の便を待っていたとき、良寛との邂逅があったらしいという。【良寛52歳・鵬斎58歳】
 この時、亀田鵬斎は寛政異学の禁のためどうしても江戸を離れなければならなかった事情があった。
 亀田鵬斎は、谷文晁、酒井抱一らとともに江戸時代後期を代表する儒学者で、宝暦2年(1752年)江戸・神田に生まれた(異説では群馬県上五箇村が出生地)名は翼といい、のち長興といった。折衷学者井上金峨(きんが)に学び、山本北山とともに荻生徂徠の古文辞学を排撃し朱子学を批判した。ために寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書をよくし草書は近世を通じての名手といわれている。著書に「論語撮解」(ろんごさっかい)「善身堂詩鈔」などがある。晩年は下谷金杉に暮らし「金杉の酔先生」と呼ばれて親しまれた。(享年は文政9年・1826年75歳)
 亀田鵬斎は、この期潤筆料を稼ぐため多くの揮毫を行い残している。尼瀬の名主・京屋野口寛蔵家や敦賀屋鳥井直右門家にも出入りし、京屋野口寛蔵家のために書いた有名な「北海雄風」などを残している。良寛との邂逅があったと言われるが、一通の往復書簡も残されていない。但し、良寛の実弟由之宛の書簡の中に「良寛師へよろしく」の文面があるのみである。
 この鵬斎が立ち寄った翌年文化7年、度重なる失敗から「橘屋排斥出訴」に破れ橘屋は家財取り上げ、由之は所払いとなった。〈由之49歳・馬之助22歳〉【破産・良寛54歳】
 由之隠居し、馬之助家督継承。〈由之出家、由之上人〉
 この間、「代官所復帰問題で橘屋敗訴」【良寛44歳】、「出雲崎百姓、橘屋排斥出訴」【良寛47歳】





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