良寛は33歳で印可を受けると、それから良寛が何処を放浪していたかは明らかではない。ここに流浪時代の記録が残っている。
江戸の国学者近藤万丈が土佐の国(四国)を行脚(あんぎゃ)していた時、良寛らしい人と一夜を過ごすという手記「寝覚めの友」である。これを読めば「あたかも小さい穴を通して広くてゆたかな風景を見渡」(吉野秀雄)すような気持になる。この手記を吉野秀雄訳によって紹介する。【良寛35歳ころ、近藤万丈20歳位】
「自分(近藤万丈)が若い頃、土佐の国へ行ったとき、城下から三里ばかりこっちで、雨もひどく降り、日も暮れた。山麓にみすぼらしい庵が見えたので、そこへ行って宿を乞うと、色が青く顔のやせた坊さんがひとり炉をかこんでいて、食い物も風を防ぐ夜着も何もないという。この坊さん、始めに口をきいただけであとは一言も物を言わず、坐禅するのでもなければ眠るのでもなく口のうちに念仏を唱えるのでもなく、こちらから話しかけてもただ微笑するばかりなので、自分はてっきり気狂いだと思った。」
翌日も雨、頼んで庵に居たが僧侶は依然として口をきかない。そして庵の中には「荘子」一巻があるだけで何もない。それで持っていた扇に賛(さん)を求めると扇に「冨士の絵」と「書」を一気に書き「越州の産了寛 書」としたとのことである。
良寛は、「話さない」「言葉を発しない」。今で言えば自閉症的である。従って自己を主張しない。残るのは、書、漢詩その他である。
岡山県玉島にこんなエピソードが残る。
托鉢の途中、良寛はある商家の白壁にもたれて眠っていた。すると町の人がいぶかり、大騒ぎとなった。良寛は盗人に間違われたのである。しかし、良寛は黙ったまま何一つ弁解しないため、危うく生き埋めにされそうになる。そこへ円通寺を知る人が通りかかり命拾いをした。良寛は助けてくれた人に「人はいったん疑われるといくら弁解しても無駄なもの。だから黙っていた」と言ったという。
又同じようなエピソードがある。
越後(新潟県)に帰ってきた良寛さんは単なる乞食坊主、勧進坊主でしかなかった。
浜辺の船小屋が火事になった時のこと、火をつけたのはこの乞食坊主だと勘違いされ、頭にきた漁師は怒って砂の穴に埋めてしまった。良寛さんも「おれではない」と必死に弁解してみたもののどうすることも出来ない。翌朝、良寛さんを知っている人がそれを見て「良寛さんどうしたことだ」と尋ねると「村の人からそう思われているのだから仕方がない」とすっかり諦めていたという。
寛政7年(1795年)良寛38歳のとき父以南、京都の桂川に投身自殺〈入水自殺・享年60歳〉?。 |
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