迷 い 雨
雨は天(そら)に昇った人の想いの表れだという。
心に収まりきれなかった想いが天に召されたものだ。
ただ。
人の想いは強くて。
昇華しようとする神様の手を拒んで雲という形になって空に浮かぶのだ。
人は、その時初めて想いという名の形を目にすることが出来る。
人の想いは強くて。
想いは想いに重なって空を覆う。重さに耐えきれなくなった空は雲を切り離す。
離された雲は雨という形になって、その時々の想いを抱えたまま地上に降り注でいく。
すべての存在を想いで覆い尽く為に―
雨は嫌いじゃない。
雨が想いで出来ているのなら雨に触れた箇所から何かが伝わってくるのだろうか。
雨に当たれば当たるほど心の中にまで届いて弱い心に力を与えてくれるのだろうか。
音のない雨がゆっくりと降り続いていた。
雨がもたらす薄闇で、いつもより早く点灯した外灯が無人の路上を淡く照らしていた。遅いとはいえ夕刻と呼ばれる時間帯のはずが人通りはどこも少なく、ひっそりとした町をリクは一人歩いていた。
全身ずぶぬれだった。
カバンの中の傘は差さなかった。雨に当たれば何かが変わるかもしれないと漠然と思ったからだ。
― ごめん。
そう呟いてリクは少女から目を逸らすように足元に視線を落としていた。
今日の雨はきっと、あの子の雨だとリクは思った。
雨は静かだった。体を濡らす雨は優しくて、リクの中の何かを塗り替えていくような気がした。
― ううん、いいの。わかってたから・・・
消えそうな少女の声が鼓膜に突き刺さる。
「 リク!! 」
道に出来た大きな水溜りの水を勢いよく撥ね上げながら傘を差して走ってくるヤクモの姿が見えた。
「 ヤクモさん?!え? 」
回想の海から急に引き戻されて驚くリクにヤクモが大慌てで傘を差しかけた。
「 びしょ濡れじゃないか!風邪ひくだろ! 」
心配からもたらされる怒った声にリクは、まさかワザと濡れましたとも言えず上目遣いに首を竦めた。
「 ヤクモさん、どうしてここに? 」
「 今日から2、3日ソウタロウさん本社詰めになるって聞いたんだ。一人だと食事も大変だろうから留守の間マサオミと飯炊きに来る事にしたんだ。事後承諾ですまないな 」
「 ありがとうございます 」
二人の気遣いをありがたく思いながらも自身の料理の腕前・味覚に自覚の無いリクは、一人で食事くらい作れるのになぁと小さく呟いた。ヤクモはその呟きに引き攣った笑顔を張り付けた。
ヤクモはちらりとカバンから覗く傘に目を留めて一瞬目を眇めたが、口にはしなかった。
「 さっき、凄い勢いで学校帰りのモモちゃんが来て大変だったんだ 」
話の意図が読めず不思議そうに見上げるリクにヤクモが更に言葉を重ねる。
「 リク 」
「 はい? 」
「 好きな子とか、いるのか? 」
聞かれた内容に硬直しかけたリクは上ずった声を出した。
「 急にな、何の話ですか?! 」
あたふたとするリクの様子にヤクモは可笑しそうに言う。
「 モモちゃん、リクが女子にコクられたって大騒ぎで飛び込んで来たぞ 」
「 な、何でモモちゃん知ってるんだろう・・・ 」
「 気が気じゃなかったみたいだぞ?断ってたとか言ってたけど、真っ赤になって大騒ぎして何か訳の分からない言い訳をしてリクが帰ったら詳しい内容を必ず教えろと固く約束させられたよ 」
リクはまさかモモに告白された現場を見られ、尚且つヤクモ達にまで話が漏れていたという事実に恥ずかしくて俯いてしまった。
ヤクモはそんなリクを微笑ましく思いながら、あの時のモモの勢いを思い出して苦笑した。モモがリクを好きなのは周知の事実で気づいてないのは当人達だけだったりするのだが、いつもは元気なモモが話していくうちに段々と不安そうになりヤクモとマサオミを映し出す瞳には心細さがにじみ出ていた。そんなモモが何だか可哀相に思え、ヤクモも妙に気になってリクの帰りを今か今かと待ったがなかなか帰ってこない。痺れを切らせて迎えに来てみれば全身ずぶ濡れのリクがいた。モモではないが何があったのかと勘ぐってしまう。
止むのかと思われた雨足は先ほどより少しきつくなっていた。視線の先には雨で輪郭がはっきりした紫陽花が道を照らすかのように咲き誇っている。
「 で、真相は? 」
口調はふざけているのに目にはどこか真剣さを帯びたヤクモがリクを見つめて言った。
「 真相? 」
「 本当にふったのか? 」
「 ・・・はい 」
― 本当に謝ったりしないで。私が勝手に好きなんだから。ずっと見ていたからわかってたんだ。
今時珍しいくらいの黒髪をした子だった。背中を流れるサラサラの髪が目に焼き付いている。顔は何度か学校で見かけた事があった。 好きだと言われ本当にどうすればいいのか分からなかった。どうして僕なんかをという戸惑いと、気持ちに応えられない気まずさと、結果がわかっていながら告白してきたという少女の想いに頭も体も上手く動かなかった気がする。
「 ドキドキした? 」
「 え? 」
「 女の子にコクられて全然ドキドキしなかった? 」
― 太刀花君、好きな人いるんでしょ?いつも遠くを見てるもの。
無理に作る笑顔が酷く痛かった。好きな人がいるのかと言われリクの心は目の前の少女を飛び越え別の人を見ていた。悪いことをした。気持ちには応えられなくても、もっとちゃんと見てあげれば良かったかもしれない。下ばかり向いて違う人のことばかり考えていたなんて本当の意味で気持ちを踏みにじった気がする。酷く傷つけてしまったかもしれないと思うとヤクモが言うようなドキドキよりは自己嫌悪の方が勝っている。
けれど紛れもなく、あの瞬間浮かんだ顔はただ一人の人だった。リクはその事実に戸惑った。今も下ばかり向くリクにヤクモが質問を浴びせかける。
「 もしかして好きな子がちゃんといるとか? 」
「 好きな子・・・? 」
「 じゃなかったら勿体ないだろ?可愛かったって言ってたし 」
「 ヤクモさん、あの・・・ 」
言いよどむリクを横目で見やりながら悪ふざけが過ぎるな、とヤクモは自嘲気味に笑う。リクを好きだと言った子だから真剣に想いをぶつけてきたのだろうにモモや少女をダシにして結局、リクの本音を探ろうとしている。 ヤクモはただ、リクの気持ちを知りたかった。リクの見ている視線の先にいる相手を知りたいと強く思ってしまった。それに気付くと気持ちが先に立って誤魔化す余裕も飾り立てた言葉も上手く口から出なくてリクを責めるような言い方になってしまう。余裕のなさに子供だよなぁと眉を顰めた。
たわいない話題に盛り上がって、怒って、ちょっとした悩みがあって。それらの感情を削ぎ落としてきたリクが今、漸く手にした現実なのに、そんなリクを見るのが嬉しいのに、その視界の中にヤクモの存在がないかもしれないと思うといてもたってもいられなくて苛立つ。頭の中でザワザワと音がするのだ。
「 好きな子じゃないなら気になる子がいるとか? 」
更に問いかけてくるヤクモの声を聞きながらリクは唾を飲み込んだ。
ヤクモはいつもこうだ。いつもこうやって前触れもなく気持ちの真ん中に言葉を投げかける。飾りも婉曲も誤魔化しもしない代わりに逃げることも許さないのだ。
グチャグチャになる頭を整理したくて下唇を舐めると、かさりとした感覚が伝わった。雨で濡れているはずなのにカサカサする唇はまるでリクの言葉を乗せる事を拒んでいるように思えた。
雨足は益々激しさを増し周囲から二人を隔離しているかのようだった。濡れた制服が体にべったりと張り付いてリクの体温を奪っていく。なのに体の中は熱かった。ヤクモを想うといつも体の中で何かが動き出す。一つ一つの臓器がドクドクと熱を持って痛みを伴って疼く。痛くて、嬉しくて、切なくて、幸せで、苦しくて。こんな感情は知らない。これが人の言うレンアイカンジョウなのかなんて分からないけれどリクの心の真ん中にはいつもヤクモがいる。好きな人と聞かれて浮かんだのはただ一人、ヤクモの顔だった。
リクを濡らす雨が降り続いていた。
「 ヤクモさん 」
体の中から溢れる熱のせいで乾いた喉からは掠れた声が出た。ヤクモが静かに強く見つめ返してくる。リクは慎重に言葉を口にした。
「 気になる人なら、います 」
言葉を発するたび、熱が上がっていく気がした。胸の中の何かにひどく急きたてられる。真正面からヤクモを捉えたリクの視線は微動だにしなかった。
「 ヤクモさんが・・・ヤクモさんが気になります 」
リクは体内の熱に浮かされるようにヤクモの名前を繰り返した。
雨のせいだと思う。
きっと雨に体の芯まで濡れたから、気づいてはいけない想いに力が与えられて外に出てしまったんだとリクは思った。ヤクモが気になる。ヤクモだけが気になる。鼓動が高まって、息をするのが苦しくて、ヤクモの返事を知りたくて、ヤクモの声を聞くのが怖い ―
動悸は治まらなかった。ヤクモの視線が体に飛び込んでくる。体が疼く。この人を見ていたい。この人の側にいたい。この人に見つめられたい。それだけでいいのに。他のモノも他の人も要らないから。
ヤクモはリクの言葉に息を呑んだ。外灯のやや赤みを帯びた光にリクの半身が照らされている。光と影の作用なのか見上げてくる瞳に熱が含まれているからか普段よりも大人びて見えた。リクの本心が知りたいと詰め寄っておきながら今度は逆に追い詰められ、戸惑っている。潤んだ瞳。紅潮した頬。浅い呼吸・・・
不意にヤクモの手がリクの額に当てられた。
「 やっぱり 」
怒りを含んだ溜息を吐き出してヤクモが言った。
「 おかしいと思った。熱がある 」
心配が滲んだヤクモの声。複雑なヤクモの表情。リクをいつも支えて見守ってくれるヤクモの手。でも、それは今リクが欲しいているものではなかった。
リクは胸を押し潰された気がした。
「 ・・・して・・・ 」
悔しくて言葉が上手く形にならない。ようやく口にした想いはヤクモにとって熱のある、おかしな行動でしかないのかと思うと唐突に小さな怒りの感情が湧き上がった。苦しくて、いたたまれなくて、腹が立って気持ちの持って行き場がなくてリクは唇を噛む。先ほどとは比べようもないくらいにきつく噛んだ。
「 何で、どうして!! 」
リクがそう叫んだ瞬間、パシッという音を伴ってヤクモの手に軽い痛みが走った。リクがヤクモの手を振り払っていた。リクの行動にヤクモの動きが固まった。上目使いにヤクモを見るリクは必死に声を吐き出そうとするのだが感情が高ぶって言葉が纏まらず、ただ眉根を歪めて瞳をギュッと閉じるしかなかった。胸の内の激情に耐える為に。
ヤクモさんが本気で聞いてきたと感じたから僕も本気で今の気持ちを暴いたのに。
その貴方が誤魔化すのですか。
熱が上がる。
今、この胸が苦しいのは、息が上がるのは、熱のせいだけなんですか、ヤクモさん!
内に滾る嵐を言葉に出来なくて、リクは口を噤む方法しか知らなかった。ヤクモは30cm先のリクに触れることが躊躇われて動けずにいた。そんなヤクモに更に怒りが沸く。たった30pの距離がお互い酷く遠く感じられた。永遠に続くかと思われた時間はリクによって壊された。クッと顔を上げたかと思うと瞳に力を込めて闘神符を取り出し気力を込め“道”を開いた。
「 先に帰ります! 」
「 リク?! 」
掛けられたヤクモの声を振り払うかのように体を投げ出しリクは急いで“道”を閉ざした。ヤクモは予想もしてなかったリクの行動に呆然と立ち竦んでしまい止める事が出来なかった。視線の先のリクの背中はヤクモを拒んでいるようで尚更手を伸ばせなかった。
相変わらず雨は紫陽花を濡らしている。暗い景色の中、光るように咲く姿、変化する色合いの花はリクのようだと何故かそんな風にヤクモには思えた。その姿がひどく美しく悲しげに見える。ヤクモは振り払われた己の手を見つめ捉えられなかった何かを掴むように強く握りこんだ。そこには何もないとわかっていても。
続く・・・