あの桜のように
近頃、リクは定期的に京都を訪れていた。
宗家としての教育を受ける為である。
流派章の位が示すように資質的には、ずば抜けてはいるものの知識・経験・歴史・組織形態・・・一般の天流闘神士ですら普通に知っている事を殆ど知らないのだから仕方がない。この先、天流という組織の頂点に立つ者として身に付けるべき事は山のようにある。頭では分かっていても、学業にさえ振り回されるリクには余分なモノを詰め込まなければいけない現実には辟易してしまうのである。ただ、それを口実に堂々と心許せる人達に会えるのだから文句ばかりではないのだが。
今回の課題を早めに終えたリクは久々にゆっくりとした時間を京都で持つ事が出来た。せっかく時間が出来たのならどこかへ行こうというヤクモの提案にリクはおずおずと言った。
太白神社の周辺を見て回りたいです、と。
ヤクモがどんな景色の中で育ったのか知りたかった。同じ景色を見てみたかった。この近所を見て歩きたいというリクに、何もないよ?と言いながらもヤクモは快く頷いてくれた。
子供の頃ヤクモが溺れそうになった川、いつも機嫌が悪いお祖父さんのいる家、秘密基地を作った場所、学校への近道、町を一望出来る場所・・・そんな他愛も無い、けれどキラキラするような話を沢山した。ヤクモの言うように有名な観光名所は全くないので自然と時間を過ごせる場所は決まってくる。ブラブラと時間を潰したが結局は天流遺跡に寄ってから太白神社へと帰るくらいしかなかった。
太白神社へと続く帰り道は春色に染まっていた。舗装されていない道端の草木は優しい緑色に衣替えして、道の向こうに見える枝垂桜は7分から8分咲きだ。見上げた空はややオレンジ色になり始め、桜との境界線が茜色のグラデーションになって空を染めていた。
「 御神木は同士であり、心の拠り所でもあるのです。」
先ほど天流遺跡で出会った老人の言葉が甦った。天流遺跡を訪れた二人は御神木の前に紺色の着物を着た一人の老人の姿を見つけた。御神木を見上げていた老人に、
「 優しい目でこの木を見るんですね。 」
思わず聞いたリクへの、それが返答だった。
リクの声に振り向いた老人はリクの姿に驚き、その横に立つ頭一つ高いヤクモを見つめ、改めてリクに視線を戻して深く微笑んだ。老人の顔には齢を重ねた深い横皴が多く刻まれ、薄茶色の茶人帽から覗く髪は綺麗な白髪だった。首から肩にかけてやや猫背で立っている姿は祖父ソウタロウと同じくらいか、少々上のように見てとれた。
「 御神木も私もただ貴方様をお待ちしておりました、宗家。」
この老人との面識はない。こちらが名乗ってもいないのに、リクの素性を言い当てたという事はヤクモとは顔見知りなのだろう。そう思い至ってリクは隣に立つヤクモを仰ぎ見た。二人は自然に目を合わせたがヤクモは肩を竦めた。知り合いではないらしい。老人に重ねて質問しようとしたリクの視界が僅かに翳った。警戒したヤクモが自分の体でリクを庇うように、だが完全にリクと老人の話を遮らない形で立ち位置を変えたからだ。「 まただ・・・ 」声に出さずリクは呟いた。ヤクモのリクを思っての言動は嬉しい。とても大事にしてもらっていると感じる。だが、ヤクモの負担になっている自分の存在が情けなくて、リクは無言で眉根を寄せた。二人が自分を警戒している事に気付いているのかいないのか、老人は桜の木と改めて対峙した。
「 御神木があったから堪えられました。何年も何百年も何代も切れそうになる糸に縋るような気持ちで待って。待ち疲れても此処に来れば御神木が居てくれたのです。どんな姿になろうとも宗家をただ黙って待っている姿に心が揺さぶられました。何時しか思いに共感しておりました。可笑しな話ですが、御神木の姿を目にするだけで自然と笑顔になるのですよ。」
横皴の中に埋もれそうになるほどに目を細めて老人は桜の巨木を見上げた。その背中を見つめながらリクはどう返事をすればいいのか分からなくなっていた。
宗家というものの何と重いことか。
自分が居なくなっていた千年という刻の何と重い事か。自分は一体どれだけの人生を狂わせてしまったのだろうか。どんな思いで待っていたのだろうか。そして、そんな思いの支えになっていた御神木 ――
リクの心の葛藤をよそに老人は再び振り返った。
「 千年の思いを咲かせた御神木を見て難しい顔にはなれません。 」
見上げた桜は大きくて、痛々しくて、逞しくて、みすぼらしい、けれど威厳に満ちて、優しい花を精一杯つけていた。それっきり老人は御神木を見上げて言葉を発する事はしなかった。
――― ただ、そこにあるだけで人を笑顔にしてしまう御神木。
リクは隣を歩くヤクモの疲れた顔を伺い見た。胸が苦しくなった。本人は上手く隠しているつもりだろうが、顔には疲労の色がはっきりと見える。
リクが京都を訪ねた時は大抵こうだった。京都には、天流が施した守護結界がある。しかし古い術なので弱まっている箇所が多々あるのだ。本来それこそが闘神士としての仕事であるのに組織的な活動は芳しくなく、個々人が其々に対処しているのが現状なのである。そんな所にリクのような力の強い、けれど気力を上手く制御できない存在が現れたら。夜中の外灯に群がる虫のごとく魑魅魍魎の標的となる。その上、瓦解しているとはいえ天流内の宗家を巡る権力争いにうっかりしていると巻き込まれそうになるのだ。全ての面からヤクモはリクを守ろうとしてくれる。リクがいるというだけで、こんなにもヤクモに負担をかけている。ただ側に居たいだけなのにヤクモの重しになっている自分が嫌だった。多分、今日は一睡もしていない・・・情けなかった。いつまでも頼ってばかりで、負担になっている自分が。本当は自分こそがヤクモの支えになりたいのに。もう自分は何も出来なかった子供でも、何も知らない子供でもないのだから、矢面に立って傷つくような事も、辛い思いもしないで欲しい。それでも、きっとヤクモは言うのだ。リクを守る事が自分の役目で、俺自身がしたいからするんだ、と。
「ヤクモさん」
静かなヤクモへの呼びかけだった。
「 ヤクモさんにとっても御神木の存在ってそうなんですか?」
ヤクモは一瞬なんの事か分からなかったようだが、すぐに先ほど別れた老人との話だと思い当たったようだった。
「 あぁ、うん。そうだな。人によって違いはあるだろうけど天流の人間なら多かれ少なかれ、ある思いなんじゃないかなぁ。」
ゆっくりとした足取りを更に緩めてリクはヤクモを仰ぎ見た。ヤクモもそれに合わせるように自然に歩調を遅くする。
――― 見ているだけで笑顔になれる御神木。
「 僕も御神木のような存在になりたいです。 」
真っ直ぐにヤクモを見上げてリクは言った。自然と手には力が入っていた。
「ヤク・・・」
ヤクモの名前を全て口に乗せる前に口を噤んで慌てて目を逸らした。
「・・・皆にとっての」
何かに耐えるようにリクは言葉を止めた。迷いのない直前の声とはまるで違っていた。上げていた視線はいつの間にか下ばかりを向いていた。
「御神木のように、そこにあるだけで大事な相手を支えられる、笑顔にできるそんな存在になりたいです。」
リクは自分の小心さに腹が立った。折角の決意なのに、この後に及んでまでも自分の本心を曝け出す恐怖に言葉を濁した。もし受け入れてもらえなかったら。そんな思いが先に立った。
リクはヤクモにとっての、ヤクモだけの桜の木になりたかった。
あんな風に思われたい。桜があるから支えられる。桜の姿を見ると自然に笑顔になれる。
ヤクモさんがいつも笑っていられるように。それ以上の事なんて自分は望んではいないのに。
その為ならば天流本社の中ででも上手くやっていける。闘神士としてももっと強くなるから。せめて支えにくらいなりたいから。だが、思いを伝える事は出来なかった。自分が傷つくのが怖い、ただ、それだけの理由で。ヤクモの幸せを望んでいるのにヤクモに見放される恐怖を思うと堪えられそうにないなんて自分はなんてズルイのだろう。
グルグルと空回りする思考の中で顔を上げる事さえ出来ずにいた。ヤクモはそんなリクを黙って見つめていた。リクを見つめる、柔らかく、けれど、やるせないような瞳が何かに迷ったように不意に逸らされた。喉まで出かかった言葉をヤクモもリク同様に飲み込んでいた。
リクは気付いているのだろうか・・・御神木のように。その想いは純粋に誰かの支えになるというばかりではなく、宗家という肩書きを全て背負うという事を。権力に固執する人間に利用させるかもしれない。心を裂くような決断を下す時があるかもしれない。いつしか心が壊れてしまうかもしれない。リクの伯父のように。
リクにはいつも笑っていて欲しい。
幸せになって欲しい。そうならなければいけない。リクの思いは嬉しいが天流の勢力争いにリクを巻き込みたくなんてない。自分が守るから ―――
ヤクモは何も言わなかった。自重気味に逸らされた視線はリクの告白から逃れるように前だけを見つめた。ヤクモは、返事を怯えるように待つリクの頭に手を置いた。
はぐらかされた・・・
居た堪れなかった。
自分の言葉は届かなかったのだろうか?それとも気付いてもらえなかったのだろうか・・・分かっていたのだ、自分は。だから、言い直した。逃げ出した自分がちゃんとした答えを貰おうなんて勝手過ぎる。だけど・・・髪に優しく絡まる指の感覚に心が締め付けられる思いがした。
「そろそろ夕飯の時間だ。遅れると何言われるか。早く帰ろう。」
「 ・・・はい。モンジュさん、時間とかに拘りますもんね。」
何事もなかったかのように話を振るヤクモにリクも条件反射で返事をしていた。胸の内を口に出しさえしなければ永遠にヤクモの横はリクの定位置だ。この場所を失うくらいなら自分の想いも、さっきまでの決意も全て無かった事に出来ると思った。
上げた視線の先にいるヤクモの背中に沈みだした太陽の光が差していた。手が届く距離に居るのにオレンジ色に染まった背中はヤクモを酷く遠くに見せた。
リクは黙ってついて行くしかなかった。
終わり