島村抱月・松井須磨子のご紹介
(2018多聞院イベント)


ご挨拶
 
みなさま,
本日はお忙しい中,また遠路お運びいただきまして,まことにありがとうございます。
芸術座研究会の相沢と申します。
発起人の一人としてひと言ご挨拶申し上げます。
このたび私たちは日本の演劇と芸術世界に大きな足跡を残して時代を駆け抜けた島村抱月と松井須磨子の歿後百年を記念して,須磨子の墓所があり抱月とも縁の深かったここ牛込の多聞院において,ご法要と奉納イベントを執り行わせていただくこととなりました。
抱月・須磨子のご親戚筋の方々にもご列席を賜りまして,光栄に存じます。
 
ご法要に先立ち,まず両人の略歴をご紹介させていただきます。
お手元の「島村抱月と松井須磨子(略年譜)」をご覧ください。
 
卓抜した文学者・演劇人であった島村抱月は明治4年島根県那賀郡小国村(現・浜田市金城町)に佐々山滝太郎として生を享けました。
零落による困窮から苦学していた俊英は,浜田に赴任してきた検事嶋村文耕に見込まれ,養子となることを条件に学資の提供を受け,上京。
早稲田大学の前身である東京専門学校文学科を首席で卒業後,母校の教壇に立ち,海外留学生としてイギリス・ドイツに3年あまり留学しました。
欧州で数多くの舞台にじかに触れて刺激を受けたことや,松井須磨子との運命的な出逢いを契機に,抱月は次第に演劇に傾倒するようになり,書斎の人から実践の人への転換を見せます。
 
わが国で最初の女優と言われる松井須磨子は,明治19年,長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町)に生まれました(本名は小林正子です)。
養父と実父を相次いで亡くし,上京しての嫁ぎ先からすぐに離縁させられて自殺未遂を起こすなど,前半生は幸薄いものでした。
その後,坪内逍遙と島村抱月が率いた文芸協会付属演劇研究所の第1期生となり,明治44年5月に帝国劇場で行なわれた最初の公演で「松井須磨子」の名でオフィリアを演じて,「女優」デビューを飾りました。
その後須磨子は32歳で亡くなるまで30作以上の芝居に出演していますが,「舞台では捨身」になって「体当たり」の演技を見せたと言われ,その「命がけの芸」は観客を魅了しました。
 
明治から大正にかわる頃,抱月と須磨子の抜き差しならぬ関係が問題化すると,抱月は逍遙と訣別し,大正2年7月,須磨子や早稲田の弟子筋らとともに芸術座を旗揚げしました。
翌年帝劇で公演したトルストイ作『復活』は大成功を収め,以後芸術座のドル箱となります。
 
この後,『サロメ』,『闇の力』,『生ける屍』,『沈鐘』,『緑の朝』など,芸術座はヨーロッパの新しい演劇を次々と翻訳・翻案して上演し,わが国の文化シーンを刺激し続けましたが,
その際,いわゆる文化人・教養人のみならず,広く一般大衆にわかるように上演した点に大きな意義があると思います。
 
その象徴が劇中歌,つまり芝居の途中に歌を挿入したことで,これが大変な人気を博し,ちょっとした社会現象にもなりました。
『復活』のために作られた『カチューシャの唄』は劇中歌から流行歌になった第1号で,この後『ゴンドラの唄』,『さすらいの唄』と続きます。
 
艱難辛苦の末に抱月の劇団経営が軌道に乗りかけ,遠大な構想を実現しようとしていた矢先に芸術座を不幸が襲います。
今から100年前の大正7年11月5日,抱月がスペイン風邪のために急逝し,さらにそのちょうどふた月後,年をまたいだ1月5日には須磨子が,抱月のあとを追うように非業の死を遂げたのです。
 
抱月の遺骨は東京都豊島区の雑司が谷霊園と,抱月の実家佐々山家の菩提寺である島根県金城町(現・浜田市)の浄光寺に分骨されました。
須磨子の方は信州松代の小林家の墓地と,ここ牛込弁天町の多聞院に分骨されました。
須磨子は遺書の中で抱月といっしょに葬られることを切望しましたが,叶いませんでした。  
本日は島村抱月と松井須磨子の短くも激しい生涯とその濃密な仕事ぶりとをみなさまとともに偲ぶ一日といたしたく存じます。
どうぞ最後までよろしくお願いいたします。
 
 
平成30年12月8日
真言宗豊山派 多聞院 本堂にて
芸術座研究会(代表)相沢 直樹

 

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