■闇夜■








それは、ある風の強い日だった。
執務終了後、曹操は帰路につく劉備に声をかけた。
それは、今宵の酒宴への招待だった。

義弟たちはすでに借家に帰っているらしい。
それを知っていても、申し出ずには居られなかった曹操だった。
答えを待っている間、悲観的な思考ばかりが頭をよぎる。
しかし、劉備の口から出た言葉は意外にも肯定だった。


段々と強くなりつつある風を気にしながら、曹操は隣で酒をあおっている劉備を見つめていた。
彼からすれば、ここは敵の陣中に等しいだろう。それなのに、おだやかな表情を浮かべて頬を染めている姿は、
まるで古くからの友人のように落ち着き払っている。
まぁ、そういう奴だよな。曹操はそう心の中でつぶやくと、口を開いた。

「今日は、わしの誘いのってくれてありがとう。酒は旨いかな?」
「はい。今まで呑んだ中でも、一番です」

微少を浮かべて答える劉備。
その笑顔に、彼の心の裏を読もうとしていた曹操は、それまでの思考を払拭する。
今、何を考え何を迷っても、すぐに答えを出せるものはない。
それならばせめて、このひとときを楽しもう。
そう考え直せば、後は早い。曹操は酒がなみなみ注がれた杯を、勢いよくあおった。
と、
ふいにかたかたと屋敷が鳴った。どこからか風が舞い込み、蝋燭の炎が揺れる。




「けっこう風が強くなってきたようだな」





曹操はぼそりとつぶやき、劉備をあまり長居させることはできぬなと、ため息をついた。

「この屋敷は、そんなにやわではないはずだ。
今帰るのはなんだから、ちょっと落ち着くまで待っていたほうがいい」

無意識のうちに「劉備が帰るだろう」と想定して言葉を発したのが悪かったのか、助言をもらった相手は小さく笑った。

「お心遣い、まことにありがとうございます。ですが、私は子供ではないですよ?」
「いや、そういう意味で言ったわけじゃない。大事なおまえになにかあったら、大変だと……」
「孟徳殿。それが『子供扱い』と言うんです」

口調は責めるようなものではなかったが、やんわりと非難している言葉に、こちらは苦笑を浮かべるしかなかった。


「これは、一本取られたな」


曹操は、お詫びともいわんが如く、劉備に酌をしようと酒瓶を持った。その瞬間、
再び大きな力が建物を揺らし、蝋燭が蝉のような音を奏でる。
条件反射で辺りを見回そうとしたとたん、一瞬にして視界から色が消えた。

暗闇に目が慣れるまでは、しばしの時間を要する。
曹操は先ほどまでの記憶を頼りに酒瓶を置き、見えぬ劉備に向かって言葉を投げた。


「すまんな、玄徳。まさかこんなことになるとは……」


風は日中から強かった。雲が群をなして流れ行き、日差しも遮られる時間が多かった。
こんな状態であったから、昨日であれば差し込んでいた月光も、今夜は雲に邪魔されているのだろう。
なんとなく物の輪郭が見え始めたころ、まったく声を発しない劉備を気にして視線を移す。
すると、そこには先ほどまででは考えられぬ姿の彼がいた。
頭をかかえて、まったく身動きしない劉備。
はっきりとはわからないが、小さく身震いしているようにも思える。
あまりにも心許なく思え、曹操はそっと声をかけた。

「おい玄徳。どうしたんだ? ぐあいでも悪い……」


腹部に生じた衝撃で言葉を飲む。
伝わってくるのは体温。身をかがめているのか、顎の辺りにすべらかな髪の感触がある。
背に回った手は、曹操の着物を強く掴んでいる。
先ほど子供扱いするなと言ったくせに、このざまはなんだ? 
敵地同然の状況で、腹が据わっていると感心していたのだが、それはすべて間違いだったのか?
そんなことを思ってはいたものの、曹操は正反対の言葉を口にした。

「心配するな。俺はここにいる」

頭をなで、背をさすり、劉備を強く抱きしめる。
己が体温を、己が生命の鼓動を、劉備に知らしめるように。
しかし、これでは状況を打開するには至らない。
曹操は意を決して口を開いた。


「このままというのも悪くないんだが、そういうわけにもいかん。
灯りを取りに行ってくるから、放してくれないか?」


ゆったりとした口調で解放を促すが、劉備の腕は力を抜いてはくれない。
いや、さらに力を込めているようだ。

「おい、玄徳っ」

強引に引き離すわけにもいかず、曹操はしかたなくこの体勢のまま立とうとする。
前方に体重移動が始まり、腰が浮こうとした時。




「いやだ! 行かないで!」




劉備の悲痛な声が部屋の中にこだました。
思ってもみない反応に、曹操はあぜんとした。もちろん、また座り直してしまう。
こんな劉備は見たことがない。
いつも凛とした輝きを放ち、依存などという言葉は存在しないがごとく、
真っ直ぐ前を見据えて歩いている。それが、曹操の知る劉備像であった。
しかし、この劉備はどうだ。
不安を抱え、誰かの体温を欲している。まるで、子供のように。
あまりの変貌に言葉を失っていると、劉備がぼそりと話し出した。



「す、すみません。ですが、もう少しこのままで……」



心なしか涙声で、曹操は言葉を挟むことを忘れる。
しばしの沈黙。相手が口を開かないのがわかったのか、劉備が続けた。

「突然、これまでのことが頭をよぎってしまったんです。
私に救いの手をさしのべてくれた人、逆に救いを求めてきた人。彼らを、私は救えなかった。
手桶に汲んだ水のように、小さな隙間からさらさらと零れていってしまった」

曹操の頭の中に、陶謙たち劉備と関わった人物の面影が浮かんだ。

「闇夜は視界を奪います。そして、思考を増幅させる。だから、つい孟徳殿に……抱きついてしまって……」

気恥ずかしいのか、最後の方は声がかすれていた。
たぶん、光のもとで劉備を見たならば、桃色に染まった顔が拝めるだろう。
普段見られないものを見るのはとても好きだ。
そんな曹操は、伏せたままの劉備の顔に手をかけ、ぐいとこちらに向ける。
色はわからないものの、下がった眉と細められた瞳は確認できた。
まじまじと直視されるのが嫌なのだろう。瞳はこちらを向いてはいない。

「玄徳……」

女性に使う声色で、曹操は彼の名を呼んだ。
親指でそっと目尻を拭うと、湿った感覚を覚える。
なにをそこまで想う。曹操はそう叱咤したい気分になった。
己の人生は、己の力で生きるべきだ。
それを、わざわざ他人の負の感情まで拾ってやることはないだろうに。
「お人好し」。その四文字が頭に浮かぶ。
それと同時に、「こいつにはお似合いだな」と認めてしまう。


「まったく、困った奴だな」


曹操はそうひとりごちると、劉備の身体を抱きしめた。









執筆>野沢はるみ様 〔英雄奇譚

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野沢様より素敵な曹劉小説を頂きました!
先日、
絵雑記でちょっとだけ曹劉妄想を書き込みまして
その天音の妄想話をネタに、野沢様が小説を書いてくれたという経緯です〜v
野沢様、本当に…本当にありがとうございます!

えと、
この小説のほかにおまけ小説も頂きました!
何から何までありがとうございます///
おまけ小説は「裏」のページにおいておりますのでぜひそちらも召されて下さいませ〜!!
本当にありがとうございました。