「砦」
玄徳、玄徳、玄徳。
なんども、口の中で、舌の上で、ころがした言葉。
だが、いざ、口から出ると、ちがう形に変わってしまう。
「―――左将軍」
正面に座る劉備が、卓上の茶菓に落としていた視線を、こちらへ向けた。
「宮廷には、慣れたか?」
劉備は、その、澄んだ瞳をすこし細め、よどみなく答える。
「凡下の生まれのわたくしが、このように、つつがなく過ごせますのは、これすべて、閣下のお引き回しのおかげでございます」
「左様か。それは重畳なことだ」
曹操の言葉に、目礼を返した劉備は、視線を、再び卓上へ戻した。
帝への謁見を終えた二人は、退出の準備をする、わずかな時間を、宮廷内の控えの間で過ごしていた。
うららかな春の陽射しが、庭に面した窓から入り込む。
射し込むひかりに照らされて、白い面輪にやわらかい陰影が浮かび、けぶるような、長い睫毛の影を濃くしている。
ふと、その頬に触れてみたくなり、つうっと、手をのばした。
指先で、白い頬に、そっと触れる。
劉備は、曹操の指の感触に、ぴくっと震え、視線をあげたが、すぐに目を伏せた。
先日の、執務室での一件以来、劉備は、従順かつ慇懃な態度を崩さない。
それはまるで、最後の砦、とでもいうように。
今ここで、頬に触れた指先を襟にかけ、その胸元をくつろげても、彼は、抵抗しないのだろう。
つめたい瞳を、むけたまま。
「失礼いたします」
扉の向こうから、従者の声がした。
「退出の準備が、ととのいましてございます」
その声に、己の、いささか邪な想念が破られ、思わず苦笑する。
のばしていた手を、潔く、引っ込めた。
劉備は、あきらかに、ほっとした表情をして、
「では、参りましょうか」
と、促すように言った。
「うむ」
軽くうなずいて立ち上がると、劉備も続いて座を立ち、扉を開ける。
午後の、あたたかい陽光が、室内に満ち、曹操の身体を包み込んだ。
その、思わぬ心地よさに、目前の霧が晴れたような、爽快感をおぼえる。
大きく息を吸いながら、扉の外へ、一歩、足を踏み出した。
そうだ。手をこまねいていても、しようがない。
攻略できぬ、砦はない筈だ。
後に続いて、回廊へ出た、劉備にむかって振り返る。
「今宵は、夕餉をともにしよう。―――玄徳」
そのまま、背をむけて歩き出す。
はい、という声が聞こえるまでの、ほんの数瞬を、とてつもなく、長く感じる。
そして、その後の安堵感―――。
曹操は、その詩才をもってしても、言葉にあらわせない感情があることを、はじめて知った。
***
どこか、おかしい。
劉備は、目の前の男のようすに、不審をおぼえた。
もちろん、その心底を、目容にあらわすようなことはしない。
気遣わしげな風をよそおい、声をかける。
「閣下、どうかなさいましたか。食が、すすまぬごようすですが」
じつのところ、おかしいのは、そのようなことではない。
宮廷を、退出してからこれまで、曹操は、いつになく機嫌がよかった。
常から、快活な男だが、今日はそれに弾みが加わり、鷹揚な、君子然とした姿に華やぎを添えていた。
ところが、先ほどから、ひと言も口をきかず、黙然として、杯をかさねている。
劉備の言葉に、ちら、と視線をむけたが、その口が開くことはなかった。
そろそろ、辞去のあいさつをする、頃合なのだが―――。
曹操の態度が変わったことで、その時機を、つかめない。
わずかに感じた苛立ちを押し隠し、さらに、言葉を重ねた。
「閣下、ご気分がすぐれませぬか」
「そのような、ことはない」
「ですが、閣下。お顔の色が・・・」
「玄徳」
曹操の低音が、劉備の声をさえぎるように、響いた。
「わしには、他にも呼び名があるのだが・・・」
そう言って、ぷい、と横をむいた。
劉備は、一呼吸おいてから、曹操の言葉を、頭の中で反芻する。
曹操が、自分を字(あざな)で呼んでいることに、遅まきながら気付いた。
沈黙が、流れる。
窓から入った夜風が、燭台の灯りを、ふっ、と揺らした。
「ご命令とあらば」
抑揚のない、言葉が、紅いくちびるから紡がれた。
すべての表情を消し去った、その顔貌は、氷のようにつめたい。
曹操が、ゆらり、と立ち上がる。
劉備は、座したまま、無機質な瞳で、近づく男の視線を受ける。
曹操の長い指が、劉備の頤(おとがい)をとらえ、くい、と上向かせた。
「さても強情な。それほど、わしが疎ましいか」
「滅相もございませぬ。わたくしは、ただ、畏れおおいこと、と・・・」
「では、その答え、身体へ、訊いてつかわそう」
黒曜石の瞳が、きらり、とひかる。
挑むように、見あげる、そのまなざし―――。
難攻不落の砦こそ、堕としがいが、あるではないか。
「玄徳」
白いくびすじを、そっと、なでながら、やさしげに、ささやく。
「泣くまで、許しはせぬ。―――これは、命令だ」
「―――御意」
腕をつかんで、引き寄せる。
劉備は、されるがままに、曹操の、腕の中へとおさまった。
男の、胸の鼓動を聞きながら、口の中で、舌の上で、声にできぬ、言葉をころがす。
孟徳、どの。
ほほえみながら、そう、言えたなら、どんなにか―――。
帯が、解かれる。
夜風が、燭台の灯りを吹き消し、宵闇が、すべてをつつみこんだ。
了
執筆>『やみつきPJ』のりまき様
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