函館検定観光
2014.7.20

 函館に転勤してきてから間もなく4か月になる。18歳まで函館で過ごし、23年間という時間を函館以外で生活した。今年故郷である函館に戻ってきて、しばらくは函館で生活する予定である。

 高校時代の生物部顧問である対馬先生より、「函館検定というのがあるから受けるといい」と言われた。

 函館検定?なんだそれ??と思ったのだが、これには初級と上級があり、函館や道南地方の政治、経済、歴史、自然、文学など、様々な分野から問題が出て、初級は100点満点の70点、上級は100点満点の80点で合格というものらしい。もちろん、初級と上級では問題が違う。

 高校卒業まで函館で過ごしたものの、自分の故郷がどのような歴史を持っているのか等についてはほとんど知らない。自分の故郷に愛着を持って生活したり、色々なことを知るのも悪くないなと思い、「受ける」と宣言した。函館検定には教科書のようなものがあり、約200ページ。この中から多くの問題が出題される。

 転勤してきて1か月位したころ、教科書を購入し、読んでみた。読んだところ、さっぱり内容がわからない。

 へぇ〜、函館ってそんなことがあったんだ〜と思うならまだしも、教科書内に出てくる人物はほどんど初めて目にする名前。書かれていることの意味が分からない。色々なことがあった時の年号が覚えられない・・・・・等々。

 自分は函館の外れの方に住んでいたので、函館山や中心街の事について何も知らない。有名な五稜郭だって、なんかの戦争があったのは知っていたが、それがどんな戦争で、誰と誰が戦って、とかも全然知らない。

 そんなこともあって、そのうち函館検定にむけての観光をしてみようと思っていた。そして、昨日「明日は天気もそんなに良さそうじゃないので函館山の方でもぐるぐる回ってこようかな」と対馬先生になんとなく言っていた。

 今日の朝、対馬先生から電話が入った。もし函館山の方を色々回るなら案内してあげるという内容だった。

 対馬先生は函館検定上級に合格している。合格者は70名ほどしかいないらしい。自分で周るだけでなく、上級合格者をガイドに出来るなら、こんなにいいことは無いと思い、案内をお願いすることにした。

 妻も誘い家を出て、対馬先生を迎えに行き出発。

 函館の観光中心部(西部地区)に向かいつつ、今日は観光客がそんなに来ないような所も案内してくれるというので楽しみだ。

 まず最初に来たのは下の画像の場所。

日本最古のコンクリート電柱

 だたマンションが建っているだけだと思ったが、注目するべきはこの電柱。日本最古のコンクリート電柱ということだった。珍しい四角い電柱だ。

 この電柱がたてられたのは1923年(大正12)。高さ23メートル。上の方が細くなっている。実は隣に同じような電柱がもう1本あって、夫婦電柱と呼ばれている。当時は木の電柱が主流であったようで、ここに当時の函館水電会社(今の北電)が建てたものだ。耐用年数はすでに過ぎているが、今なお現役で活躍している。

 こういう電柱があるのは教科書で読んで知っていたが、ここにあるのか!とか、実際に実物を見るのと教科書だけで頭に入れるのでは全然違うなと思った。

 次に向かったのがここ

北海道第一本の地碑

 ここは東浜桟橋という場所らしいのだが、青森と函館の航路は1873年(明治6)に開拓使の弘明丸が最初であり、1908年(明治41)に比羅夫丸、田村丸が青函連絡船として就航した。その当時は連絡船は桟橋まで来ることが出来なかったので沖に停泊して、艀舟(はしけ)で桟橋と連絡船を行き来していたそうだ。そしてこの東浜桟橋は1871年(明治4)に作られたものだ。その後、連絡船の桟橋は1910年(明治43)に若松埠頭に移転したが、東浜桟橋も色々と活用された。

 この碑は北海道の開道100年を記念して1968(昭和43)に建立された熊とイカリをモチーフにした碑である。ちなみにその100年前は1868年という事になるが、これは鎖国から函館が開港した年である。

 ただし、函館が本当に最初に開港したのは1854年に有名なペリーが来航して開港を求め、日米和親条約により、下田(即刻開港)と箱館(翌年開港)を開港することになった。ただ、この開港は船の欠乏品の補給や漂流民の保護、救助等に限られていた。その後、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、自由な貿易や人々の行き来が出来るようになったという事もあり、この年(1858年)が開港の年というふうに考えるのが一般的らしい。(その意味での函館の開港は1859年)

 次に向かったのは北島三郎記念館だ。

北島三郎記念館

 ここには以前来たことがあるので、ロビーだけの見学。

北島三郎記念館のロビー

 作者が誰だかわからないという壁画が飾られていた。

 北島三郎記念館は、実はけっこうおもしろい。サブちゃんそっくりなロボットが「祭り」を歌うのは圧巻である。函館に観光に来たら是非一度行ってほしい。そのほかにもサブちゃんが高校生の頃に知内から汽車で通っていた一場面を再現したものや、これまでたくさん発売されたレコードの表紙など、色々見どころがある。

 次に訪れたのは新島襄海外渡航の地碑である。

 新島襄は、この前大河ドラマになっていた八重の桜で、八重の夫が新島襄である。自分は大河ドラマを見ていなかったからよくわからないが。

 この人は、1864年、禁止されていたのにもかかわらず、ここから船に乗り海外に渡って行った人だ。
 (1864年は五稜郭が出来た年)

新島襄海外渡航の地碑

 新島襄は日本では得られない色々な知識を得たいと考えて、1864年に江戸から箱館に来た。(箱館から海外渡航をしようと考えていた)
 ハリストス正教会の2代目主教であるニコライに日本語を教えたりしながら過ごし、福士成豊(函館測候所開設者)の助言を得て6月14日の深夜、ここから船に乗り込み海外脱出に成功した。
 アメリカで10年間学んで帰国し、1874(明治7)に帰国した後、翌年同志社大学の元となる同志社英学校を創立した。

 この碑には
 「男児志を決して千里を馳す。自ら辛苦をなめてあに家を思わんや 却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭なお夢む故園の花」という漢詩が書かれている。
 新島襄の自作で自筆のもので1865年に香港で作られたものだ。(自分はどんな意味の詩かよくわかりませんが)

 本名は新島七五三太(しめた)というが、航海中に船長から「ジョセフ」という名前をもらい、それを略して漢字を当てはめて襄(じょう)としたらしい。
 1890年(明治23)48歳という若さで亡くなった。

 次に来たのが函館市臨海研究所。

函館市臨海研究所

 ここは元は函館西警察署があったところで、西部警察のロケでも使われたとか。しかし、ここに来たのは西部警察のロケ地だからではない。

 ここは本州などから来た北前船が交易をするときに税金を徴収した「沖の口番所」というのがあった場所である。

 松前藩は沖の口番所というのを作り、そこにいる問屋は北前船が持ってきた米や塩などの商品を預かる傍ら、価格の4%の税金(入口銭)を徴収た。そして、この米や塩などを場所請負人(商人)に渡した。

 場所請負人(商人)は、北海道の海産物(昆布とか)を沖の口番所に持って行き、沖の口番所(問屋)に4%の税金(場所口銭)を支払った。北海道の海産物は北前船に乗せて本州に持っていくのだが、北前船は北海道の海産物を購入するときにも沖の口番所(問屋)に4%の税金(出口銭)を支払う必要があった。

 要するに北前船は商品を北海道に持ち込むときと、北海道の海産物を買う時にそれぞれ価格の4%の税金を支払い、北海道の場所請負人(商人)も北前船に海産物を持ち込むときに価格の4%の税金を支払っていた。という仕組み。

 その税金を徴収していたのが沖の口番所(現在の函館市臨海研究所)ということだ。

 この仕組みは教科書に書いてあった。しかし、その実際の場所がここだという事は今回初めて知った。

 次に行ったのは太刀川家住宅店舗だ。

太刀川家住宅店舗

 こんな建物、函館検定の勉強をしなければ興味すらわかなかったと思う。でも今日、初めてここに来て、「これが太刀川家の建物か!」と、見ることが出来て嬉しく感じてしまった。

 この建物は現在、国指定の重要文化財になっている。何がそんなに重要なのか??

 2階は住宅で、一階は喫茶店になっている。この時もお客さんが来ていた。

 この建物はレンガ造りの外側に漆喰を塗っている。白く見えるが中はレンガなのだ。店舗の真ん中あたりの二本の柱は鋳鉄の柱で、その上には3つのアーチ型の模様のようなものが見える。見た目の工夫もされているという事だ。

 函館は昔、度重なる大火に見舞われた歴史もあり、そういうことから燃えにくいようにレンガや漆喰で作られている建物なのだ。和風にも、洋風にも見える。

 1901年(明治34年)に、太刀川善吉(米や漁業や回漕業などで活躍した人)が建てた歴史ある建造物だ。

 そして、このカッコいい船。これは函館丸という。

函館丸

 この船は、続豊治(つづき とよじ)という人が造った日本初の洋式帆船(スクーネル船)だ。彼は造船技術を学んでおり、1854年にペリーが箱館に来航した際、箱館奉行から艦内見学を許可された。その後、スクーネル船の模型を製作。この模型の出来が良かったため、箱館奉行は続豊治に本物のスクーネル船を作るように命じ、この函館丸を完成させた。(1857年)自分で工夫して設計し造り上げた所が凄い。
 奉行の堀利煕は江戸に帰るときにこの函館丸に乗って帰った。
 更に2隻目の亀田丸が1859年に完成しロシアへ航海に出た。

 この船は本物ではなく、青函トンネル開通記念博覧会(昭和63年)のために復元されたものを続豊治の6代目、続博さんなどが寄贈してくれたものである。

 次は函館港改良工事記念碑だ。

函館港改良記念碑

 ここで特筆するべきものは、この改良工事に使われた石垣の多くが弁天台場の土塁を用いているという事である。

 弁天台場というのは昔の基地みたいなもので、江戸時代の末期に武田斐三郎(五稜郭もこの人の設計)が設計したもの。
 外国船の襲来に備えて作られたもので、大砲などもあったが、実際には函館戦争で旧幕府脱走軍に使われた。
 明治30年に取り壊された。

 その弁天台場の石を使って作られた箱館漁港の護岸が下の画像

箱館漁港の護岸

 

函館港改良施設群は土木遺産にも認定されている

 海から山の方に向かい、高龍寺という所に向かった。何か行事をやっているようだったが、中の見学をさせてくれた。

 まずは傷心惨目の碑

傷心惨目の碑

 この高龍寺は函館戦争の時、旧幕府軍の病院として使われていた。(実際には現在の高龍寺とちょっと違う場所)

 新政府軍が1869年(明治2)5月11日に箱館に総攻撃を始めた時、この高龍寺にいた傷病兵を殺害して寺に火を放った。殺された者の中に多くの会津遊撃隊の武士がいたことから、1880年(明治13)に会津藩の有志がこの碑を建てて、殺された藩士を供養したというものだ。

 高龍寺の中に入ると、あまり見たことのない祭壇?があった。

 更に進んでみた。

廊下を歩く対馬先生

 すると、凄い数の仏像か何かわからない人形みたいのがある部屋に行きついた。五百羅漢と言ってたような。これは何なのかよくわからなかったが、1体1体を買うことが出来るらしい。買ったからと言って持って帰ってもいいわけではなく、ここに置いたままだ。どの仏像を誰が買ったか書いているものもあったが、いったいこれを買うのにいくらかかるのかとても気になった。

五百羅漢の部屋


1体1体顔が違う

 高龍寺の廊下には掛軸が飾ってあり、思わずなんでも鑑定団の事が頭をよぎったが、よく見てみると、地獄かなにかの怖い絵ばかりだった。

鬼にはさみで首をちょん切られそうになっている人の絵


人間が臼のようなものに入れられ、鬼に杵で餅つきのようにされてグチャグチャになっている絵


こんな感じで怖い絵が掛けられていた

 なんで寺にこんな怖い絵があるんだろう?信仰心をなくし悪い事をすると死んだあと地獄に送られて、こんなにつらい目に遭うんだぞというという戒めだろうか??
 自分もこれまでの人生を振り返るとさんざん悪い事をしてきたような気がする。死んだら地獄だろうか?地獄で痛い目に遭うのは嫌なので、どうせなら鬼の側のほうがいいなと思ってしまった。どうやったら鬼になれるんだろう?

高龍寺の外観

 今度は近くにある外国人墓地に行くことにした。でもその途中に「赤墓」と呼ばれるのがあり、ちょっと見に行くことにした。ここに「赤墓」と呼ばれるものがあるのは知っていた。だけどそれが何なのかはわからなかったので、今回勉強になった。

赤墓(天下の号外屋翁の墓)

 この墓は1894年(明治27)、着ているもの全て赤い信濃助治という人が箱館にやってきて、北海新聞の号外を市民にまき、天下の号外屋と称し、赤服と呼ばれた。赤い服装でまとめたのは、「赤心」といって、偽りのない心(日本武道の神髄)という意味である。
 日清戦争に勝った後、各地の将軍を訪ねて書を書いてほしいとお願いするなどの奇行があり、地元の新聞にも奇人として紹介されたそうだ。そういう人の墓だから真っ赤に塗られているというわけだ。
 これまで何度かここを通ったことがあるが、なんで赤いのかなど、疑問にも思わずに通り過ぎていた。

 次に、外国人墓地の近くにあるこの建物。気にしなければ気付かずに通り過ぎてしまいそうな建物である。

函館俘虜収容所

 この函館俘虜(ふりょ)収容所というのは、簡単に言えば太平洋戦争の時の捕虜を収容する場所で、函館だけではなく道南に3か所の派遣所と分所、道内と東北地方に述べ7か所の分所があった。
 終戦時にはこの俘虜収容所全体で1597人が収容されていた。

 作られた当初の目的は常設消毒所としてであり、1885年(明治18)当時の主要な6つの港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に建設された。ここは事務所として使用された建物。

 昭和20年の敗戦後には樺太からの引揚者などの検疫も行っていた。昭和43年に検疫所は移転し、平成4年に施設自体が廃止されたが、検疫所として唯一残っている建物であり、初期港湾施設の遺構として平成元年に市の景観形成指定建築物に指定された。

 そんなものがあった事すら知らなかった。

 そんなものがあった事すら知らなかったと言えば、次の墓もそうだ。

万平塚

 外国人墓地のすぐ近くにあるこの万平塚は、実は乞食の墓である。乞食でありながら石川啄木の歌に登場するのだ。

 「むやむやと 口の中にてたふとげの事を咳く 乞食もありき」

 という歌だ。意味はよくわからないが、この乞食、乞食のくせに人から恵んでもらうことは無く、毎朝いろんなところのごみ箱から食料などを探し、そのごみの様子からその家の人たちの人物を評し日記の様なものに仕上げて書き残していたそうだ。
 
 今それをやったらどうなるだろう?ご近所の出したゴミ袋を開けて、「あ、お隣さんこんなもの食べてる!」とか。逮捕されるんじゃない??

 とてもユーモアのある人だったそうだが、この乞食の人柄を気に入った藤岡惣兵衛が万平の死後に知人の協力を得てこの供養塔を建てたそうだ。
 供養塔と言っても墓にしか見えないが、人から恵んでもらわなかった万平が、墓は恵んでもらったという形になっている。死んでしまっては断ることもできないが、彼は喜んでいるんだろうか?と感じた。

 いよいよ有名な外国人墓地に到着。

外国人墓地(ロシア)

 外国人墓地は道路を挟んで海側と山側にあり、山側にあるこの墓はロシア人の墓ということだった。墓石が横に寝かせられているような感じが特徴的だ。
 全部で43の墓があり、中には函館の初代ロシア領事であるゴシケーヴィチの夫人の墓もあるらしい。ゴシケーヴィチ本人の墓はどこにあるんだ??

 次にレンガ造りの塀に囲まれた中国人の墓地。海側にあった。

中国人の墓地

 最後はプロテスタント達が眠る墓地。道路の海側にある。外国人墓地と言いながら、キリスト教徒の日本人の墓もあるらしい。しかし、函館で死んでしまった外国人はほとんどここの墓地に埋葬されたことから、いつの間にかここいらを外国人墓地と呼ぶようになったそうだ。

 しかし私は知っている。ここはこれまで「外人墓地」と言われていた。昔は外国人墓地とは呼んでいなかった。外人という言葉が差別的だという事で、最近外国人墓地と言うようになったらしい。

 1854年にペリーが来航した時に二人の乗組員が死亡したと教科書に書いてあった。その二人、ウオルフ(50歳)とレミック(19歳)の墓もここにあるそうだ。教科書には二人を埋葬した場所について書かれていなかったので、「外国人墓地に埋葬されたのかな?」とちょっと気になっていたのだが、謎が解けて良かった。でも、なんで50歳と19歳という若い二人が函館の地で死ぬことになったのか?これもかなり気になる。
 

プロテスタントの墓

 道路を挟んで向かい側にはまた立派な墓のようなものがあった。

有無両縁塔

 この墓のようなものは、1864年に遊郭の経営者たちが建てたものである。死んでしまって引き取り手のない遊女を供養するために経営者たちが合同で建てたものだ。

 元の山の上町(現在は船見町という場所)、函館山の麓あたり?にはたくさんの遊郭があって、箱館奉行が1868年にそこを山の上遊郭として公認し、更に開港によってたくさんの外国人たちも往来するようになってすごく賑わっていたのだが、やはり病気になって死んでしまった遊女も多かったという事だろう。可哀想に。
 引き取り手が無いということは、それなりの事情を持って、仕方なく遊女という仕事を選んでいたという事も考えられる。そういえば、何年か前に仁(JIN)という、綾瀬はるかと大沢何だかという人のドラマがあって、大沢何だか(みなかた先生)という医者が現代から江戸時代にタイムスリップするという内容のドラマの中で遊郭の女の人が梅毒だか何かで死んでしまうという内容があった。この供養塔を見てそれを思い出した。
 そんなことが150年くらい前の函館でもあったんだなぁ〜と。

 墓も見飽きてきたところで次の場所に移動。これはあまり知られていなさそうな

鯨族供養塔

 昭和39年に捕鯨船の船長であり砲手でもあった天野太輔さんが83歳の時に建てたものである。

 若い頃、自分は何の罪も感じずに鯨を殺していた。その数は2千数百頭。中には親子の鯨もいた。しかし、妻や子供たちが先に死んでしまい、だんだんとこれまで殺してきた鯨に対する罪の念が積もってきて、せめて自分たちが殺してきた鯨たちの供養にと思い立ってこの鯨族供養塔を作ったそうだ。

 簡単に要約するとそういう事の文が刻まれている。函館山の麓にたくさんある坂のうち、千歳坂という坂の所にこの鯨族供養塔はある。

 観光はまだまだ続く。

 次に訪れたのはロシア領事館。

旧ロシア領事館

 このロシア領事館は現在使われていない。しかしながらカメラを構えた時に、妻が気付いた「窓から猫がこっちを見ている!」

 妻の言う方向を見ると、玄関の上の部分のガラスから確かに猫が顔を覗かせこっちを見ていた。誰もいない建物なのに。ちょっとお化けが出てくるのではないかと思いビビった。

 函館市景観形成指定建造物になっている。明治43年建造。赤いレンガと白い漆喰が美しい。幸坂の上の方にある。

 函館山の麓を外国人墓地側から立待岬側に向かって観光は進んでいく。

 元町公園というメジャーな観光スポットに着いた

 レンガでできた倉庫があった。

旧開拓使函館支庁書籍庫

 ここで注目したいのはレンガである。現在の茂辺地という地域にある、茂辺地煉瓦石製作所のレンガを使用しており、レンガが造られた当時の年号が刻まれている。写真のレンガには明治7年と刻印が押されているのが見える。

明治7年と刻印されたレンガ

 次は函館四天王と呼ばれた人たちの銅像。そういえば自分も帯広時代に四天王と呼ばれていたことを思い出した。何の四天王かって??それは「半袖四天王!」


函館四天王

 この人たちは一体なぜ四天王と呼ばれているのか。左から今井右衛門、平田文衛門、渡邉熊四朗、平塚時蔵である。

 函館戦争終結後に新し街を色々な方法で開拓した人達であり、また私財をなげうって慈善事業などをするなど現在の函館の産業の礎を築いた人達である。
 まだこの辺は詳しく勉強していないのでこれから頑張る。

 元町公園のところには色々な観光スポットがあって、一番のものは元町公園の奥にある旧函館区公会堂だろう。だが、今回はそこをスルーし、それ以外のものに目を向けた。

 

旧北海道庁函館支庁庁舎

 ここにもともとあった建物は明治40年の大火で焼失してしまい、1909年(明治42)に現在の建物になった。ここの地は徳川幕府の箱館奉行所があったり、開拓使函館支庁があったり、函館県庁になったりと、政治の中心地でもあった。

 建物の特徴は何と言っても4本の大きな柱とその上の三角屋根。画像ではわかりにくいが、この4本の柱は真ん中が膨らんでいて、エンタシス風という。

 函館が市になった後は渡島支庁庁舎など北海道関係の施設として使用され、現在は1階が元町観光案内所、2階が函館市写真歴史館として使用されている。

 元町公園は多くの観光客で賑わっていて、観光都市函館と感じた。さすが昨年は480万人の観光客が訪れただけのことはある。

 元町公園をあとにして向かったのは、カトリック元町教会

カトリック元町教会

 ちょうどお祭りみたいのをやっていて、中も見学できたが写真撮影はダメのようだった。中にある祭壇はローマ法王ベニディクト15世から送られたものだそうだが、遠くてよく見えなかった。

バザーみたいのをやっていた

 教会の後は日本の寺ということで、東本願寺に来た。

東本願寺函館別院

 屋根瓦がすごく印象的な建物だ。幕末には違う場所(富岡町)にあったが、1879(明治12)の大火で焼失し現在地に移転。しかし、1907(明治40)の大火でまたもや焼失してしまい、鉄筋コンクリートで建てなおした(日本初の鉄筋コンクリート造りの寺院)

 中に入ることもできた。
 入口が凄く小さく、妻は頭を思いっきりぶつけていた。

東本願寺函館別院の中

 日本の寺院のあとはまた教会。

函館正ヨハネ教会

 ここは遠くから見て写真を撮っただけ。建物の上から見ても十字にみえる建物になっている。大火で焼失したりしたこともあったようだが、1979年(昭和49)に現在の聖堂が完成した。

 そして、函館で一番有名なんじゃないかと思える教会がこれ。

函館ハリストス正教会復活聖堂

 通称ハリストス正教会。写真や絵のモチーフになることも多い美しい教会だ。
 日本初のロシア正教会。1907年(明治40)の大火で焼失し、レンガ造りの耐火建築物として1916年(大正5)に建てなおされた。
 美しい白い色は漆喰が使われている。
 建物の中にはイコンが飾られている。
 ここも遠くから写真撮影しただけで次に進んだ。
 
 鐘の音から「ガンガン寺」と呼ばれている。教会を寺と呼んでいいんだろうか?

 函館の文学は自分の苦手な分野だが、それでも石川啄木の名前は知っている。そして、立待岬に向かう途中、石川啄木一族の墓があるもの知っていた。

 石川啄木は函館に滞在したのはわずか132日と短かったが、その間、青柳町に住んで弥生小学校の代用教員を務めたりしながら過ごし、大火によって函館を離れてしまったが、死ぬときは函館で死にたいと言っていたので、死んだあと、ここに墓が建てられた。

 大森浜の方には銅像もある。

石川啄木一族の墓


墓には啄木の歌が刻まれている

 東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたはむる

 という歌だ。

 この他にも大森浜の所にある銅像(啄木小公園)と函館公園に啄木の歌が刻まれている。

 いよいよ最後に来た場所。立待岬から帰る途中、車を止めて100mか200m位歩いた場所にある碧血碑。

 

碧血碑

 函館戦争では新政府軍と旧幕府軍が戦い、新政府軍が勝利した。戦死者は新政府軍300人に対し旧幕府軍は800人。

 戦争が終了した後、そこらへんに転がる旧幕府軍の遺体を回収して埋蔵し、慰霊を行ってはいけないというお達しが出たが、侠客柳川熊吉は命令に反して遺体を回収した。
 その事が明治政府にわかって熊吉は追及を受け打ち首になるところだったが、その堂々とした態度に感銘を受けた薩摩藩士が「こういう男を死なせてはいけない」と打ち首を取りやめさせて無罪放免された。

 函館戦争では有名な土方歳三とかも戦死したが、これら戦死者の慰霊のために建てられた碑だ。旧幕府軍総裁の榎本武揚や大鳥圭介らが熊吉と協力して明治8年に建てた。

 旧幕府軍として榎本武揚総裁や大鳥圭介陸軍奉行と一緒に戦った土方歳三や中島三郎助親子などは戦死したが、榎本武揚や大鳥圭介は生き残り、その後の明治政府で重要な役職について活躍した。

 部下を大勢死なせた榎本武揚が、死罪にならなかったのには理由があってのことだが、もし自分が総裁ならたくさんの仲間を死なせておきながらその後、政治の表舞台で活躍するなどとてもできないなと感じた。

 1日で観光する量としてはお腹いっぱいになりすぎである。かなり巡った。帰ってくる間に忘れてしまった事もあったが、かなり勉強になった。ただ、時間的な制限もあるから1か所につき滞在する時間は短かったので、機会があればまたゆっくり巡ってみたい。
 見るべきスポットはまだまだあるのだ。

 対馬先生を自宅まで送り、夜は道新花火大会を見に行くことにした。

 実家の近くの港に行き花火を見ることにしたが、豪華客船が停泊していた。

 この船のせいで花火が見れないかと思ったが、何とか見ることが出来た。

豪華客船(サン・プリンセス)

 暗くなってから函館山方面から花火が上がった。去年まで帯広に住んでいて、勝毎花火大会という凄い花火大会を見てきたので、それに比べるとちょっとしょぼかった。更に、花火の打ち上げ場所から見物場所がかなり遠くて、花火が光って5秒後位に音が聞こえる感じ。

花火

 花火が高く上がると雲に隠れて上半分が見えないこともあった。

ちょっとしか見えない花火

 半袖半ズボンで行ったが、風が強くて最後の方はこごえてしまった。

花火(奥に雲に隠れた函館山。右側は豪華客船)

 花火が終わり30分ほど歩いて実家に帰った。実家から自宅に戻ろうとしたら車のエンジンが全くかからなくなっていた。

 はぁ〜また故障したか・・・。