戻る
 SAGA Shurine 上野(上州) 小平 


--------------由 来 解 説------------------
始めに:小平と嵯峨宮の創立をご理解頂くにはこの時代背景の物語「太平記」をまずお読み頂きたい。
例:「私本太平記」吉川英治 講談社


(三)小平(おだいら)  里俗(さとぞく)の説(せつ)に昔(むかし)嘉暦(かりゃく)の際(さい)武士(ぶし)七名(しちめい)あり、北条高時(ほうじょうたかとき)の乱(らん)を避(さ)け、この地(ち)に匿(かく)れ遂(つい)に一村落(そんらく)をなし、名(な)を小平村(おだいらむら)といふ、七名は中曽根紺右衛門(なかそねこんえもん)、磯田藤十郎(いそだとうじゅうろう)、細金日向(ほそがねひゅうが)、東林坊(とうりんぼう)、高森信濃(たかもりしなの)、谷大掾(たにだいじょう)、林伊賀(はやしいが)(みな)その何許(いずこ)の人(ひと)たるを知(し)らず、蓋(けだ)し官軍(かんぐん)に属(ぞく)せし者(もの)ならん、後(のち)村落(そんらく)衰廃(すいはい)す、天正(てんしょう)十八庚寅年(じゅうはちかのえとらどし)に至(いた)り故(もと)に復(ふく)すといふ。(群村誌(ぐんそんし)) 又(また)福岡村郷土誌(ふくおかむらきょうどし)に往古年月未詳(おうこねんげつみしょう)、高森忠國(たかもりただくに)、藤原定房(ふじわらさだふさ)に隋(したが)ひ鎌倉(かまくら)に下向(げこう)し再(ふたた)び帰郷(ききょう)せず、共(とも)に奥州(おうしゅう)に下(くだ)り會々(たまたま)本村(ほんそん)に移(うつ)り、嵯峨神社(さがじんじゃ)を建立(こんりゅう)し、該社對向(がいしゃたいこう)の小平に居(きょ)を卜(ぼく)し草蕪(そうぶ)を開(ひら)き以(もっ)て本村(ほんそん)を創立(そうりつ)したり。初(はじめ)小平村(こだいらむら)と稱(しょう)し後(のち)小平村(おだいらむら)と改(あらた)めたありと。この両説(りょうせつ)は同巧異曲(どうこういきょく)にて蓋(けだ)し原據(げんきょ)は一なるべし、これ即(すなわ)ち本村が所謂(いわゆる)落人(おちうど)によりて創設(そうせつ)せられたることを推知(すいち)し得べし。兎に角(とにかく)本村は本郡中(ほんぐんちゅう)の武陵桃源境五箇荘的郷(ぶりょうとうげんきょうごかのしょうてきさと)にてその開発(かいはつ)も比較的(ひかくてき)(おく)れたるものならんか、小平の名義(めいぎ)は山間(さんかん)の小平地(しょうへいち)の意(い)なるべし、平(へい)は山腹(さんぷく)の傾斜(けいしゃ)の比較的(ひかくてき)(ゆるやか)なる地(ち)の稱(しょう)なり、浅原村(あさばらむら)に大平(おおだいら)の小字(こあざ)あり小平(おだいら)と小峡谷(しょうけいこく)を隔(へだ)てて相接(あいせっ)す。彼此(かれこれ)(かんが)ふべきなり。山田郡村誌小平村誌(やまだぐんそんしおだいらそんし)に曰(いわ)く、天正年間(てんしょうねんかん)榊原式部大輔(さかきばらしきぶたいふ)館林(たてばやし)これを領(りょう)す。寛永年間(かんえいねんかん)旗下(はたもと)設楽長兵衛(したらちょうべえ)采地(さいち)とす。正保年間(しょうほねんかん)松平泉守(まつだいらいずみのかみ)館林(たてばやし)これを領(りょう)すと。寛文元年(かんぶんがんねん)館林藩主(たてばやしはんしゅ)徳川綱吉(とくがわつなよし)の所領(しょりょう)となり、天和分給(てんなぶんきゅう)の際(さい)は甲斐荘喜右衛門(かいのしょうきえもん)の采地(さいち)となる。明治元年(めいじがんねん)岩鼻懸(いわはなけん)に入(はい)り同四年(どうよねん)群馬懸(ぐんまけん)に入(はい)り同年更(どうねんさら)に栃木県(とちぎけん)に転(てん)じ、同九年再(どうくねんふたたび)び群馬懸(ぐんまけん)に属(ぞく)す。
用語解説

山田郡誌:昭和14年3月発行、山田郡教育会
*嘉暦(かりゃく) : 年号(1326.4.26~1329.8.29)。正中の後、元徳の前。後醍醐天皇の代。
*北条高時(ほうじょうたかとき):鎌倉幕府第14代執権。最後の得宗。新田義貞の鎌倉を攻めで東勝寺で自刃、鎌倉幕府は滅亡する。
*匿(かく)れ:人目をさける
*中曽根紺右衛門(なかそねこんえもん)
*磯田藤十郎(いそだとうじゅうろう)
*細金日向(ほそがねひゅうが)
*東林坊(とうりんぼう)
*高森信濃(たかもりしなの)
*谷大掾(たにだいじょう):国司の四等官、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の大掾
*林伊賀(はやしいが)
*何許(いずこ):どこ、どのへん
*蓋(けだ)し:おおかた、おもうに
*官軍(かんぐん):朝廷側の人
*往古(おうこ):遠い過去、大昔
*衰廃(すいはい):おとろえすたれること。
*草蕪(そうぶ):雑草のおい茂った土地。荒れ地。
*天正年間(てんしょうねんかん):1573~1593
 天正(てんしょう)十八庚寅年(じゅうはちかのえとらどし)1590年、秀吉関東平定、家康江戸城に入る。
*同巧異曲(どうこういきょく):同工異曲または異曲同工(手法は同じだが趣のことなること、又見かけは異なっても中身は同じことにもいう)
*原據(げんきょ):もとになるよりどころ
*高森忠國(たかもりただくに):
*藤原定房(ふじわらさだふさ):吉田定房(1274~1338) 鎌倉後期・南北朝時代の廷臣。後醍醐天皇の討幕計画を幕府に密告したが、天皇の信任厚く、建武新政府に重きをなした。南北分裂後は初め北朝、のち南朝方。日記「吉槐記」がある。


*武陵桃源境五箇荘的郷(ぶりょうとうげんきょうごかのしょうてきさと):武陵源は中国湖南省景勝地、五箇荘は熊本県の隔絶された 隠田集落。
*浅原村(あさばらむら)大平(おおだいら):現みどり市大間々町浅原
*榊原式部大輔(さかきばらしきぶたいふ):[1548~1606]徳川家康に仕え、姉川・長篠などの多くの戦に軍功をあげ、徳川四天王の一人に数えられた。関東入部後、上野(こうずけ)館林で10万石を領した。
*寛永(かんえい)年間:元和の後、 正保の前。1624~1645年
*籏下(はたもと)
*設楽長兵衛(したらちょうべえ):幕府代官
*采地(さいち):領地。知行所。
*正保(しょうほ):1644~1648年、寛永の後、慶安の前。将軍は徳川家光。
*松平泉守(まつだいらいずみのかみ):松平和泉守乗寿
*寛文(かんぶん)年間:(1661.4.25~1673.9.21)。万治の後、延宝の前。
*徳川綱吉(とくがわつなよし):5代将軍。1661年15才で館林藩主となる。
*天和(てんわ):(1681.9.29~1684.2.21)。延宝の後、貞享の前。
*分給(ぶんきゅう):分け与えること。
 天和分給:館林藩領は延宝8年(1680)綱吉が将軍職を継承すると,天和2年役料地方直しにより分給となった。
*甲斐荘喜右衛門(かいのしょうきえもん):楠木正成の弟楠木正季の子孫が河内国錦部郡甲斐庄を領有し、甲斐庄を名乗ったことに由来。甲斐庄正親。加増を重ね天和2年4000石の大身となる。
*明治元年(めいじがんねん):1868年。
*岩鼻懸(いわはなけん):明治4年7月14日廃藩置県当初に設置された県。府県名は都市名(府県庁所在地)を付けたもの。高崎市岩鼻町。
 
     
参考)この時代の地図

地図

参考)この時代の年表

年表

(吉川弘文館「標準日本史地図」)