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嵯峨宮世話人会 |
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嵯峨宮は小平村と共に、鎌倉時代末期の嘉暦(1326年)、武士七名により設立された、と山田郡誌にあります。
まさに太平記の時代がうねり始めたときでした。 都より大望を抱いて鎌倉へ下向した朝廷側の人達が、願い叶わず奥州に向かい、その帰りに当地に立ち寄り、 大望を祈願して数通の文書を埋め、その上に創設したのが嵯峨神社でした。 祭神には後嵯峨天皇を祀っています。 しかし、時代の波に藻屑と消え、再び浮かび上がるのは250年も後、天下統一されてからでした。 その後は地域の神社として、小平と共に今日迄在り続いています。 | 山田郡誌 |
「嵯峨宮頼り」は、地域の方々や嵯峨宮に関心ある方々に、”嵯峨宮を通して”の情報を発信しています。
小平は関東平野と足尾山地の重なる渡良瀬川東岸を、少し山に入った関東平野の縁(へり)にあります。 若い人達が都会へ出て過疎化が進み、衰退の危機に瀕しています。 嵯峨宮頼りがその一助になることを願って、概ね隔月で発行しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「 秋の大祭」は嵯峨宮の伝統的なお祭りです。
毎年曜日に関係なく10月14・15日に実施されます。 昔は15日の午前零時を期して氏子の皆さんが赤飯を上げに来ましたので、役員が順番でお籠りし、お迎えしていましたが、今は来る人もなく平成30年(2018年)で終わりにしました。 又演劇や催し物、屋台なども出て活気ある祭でしたが、今はカラオケ大会を公民館で開き、神社にお参りする程度になっております。 それでも旗や行燈を参道に立て、宮司に祝詞をあげて頂き、お供え物をしてお祝いします。 新しい住人が参加してくれると活気づきます。 祭がお開きになったら氏子に護符を配布します。 |
「埋蔵祈願」とは
平成30年(2018年)10月、世話人会は嵯峨宮創立時の言い伝えにならい「埋蔵祈願」を行うことにしました。 山田郡誌の「里俗の説に昔嘉暦の際武士七名あり ・ ・ この地に匿れ・ ・ 嵯峨神社を建立し ・ ・ 」で始まる小平の草創はこの嵯峨神社を創建することから始まります。 他の資料によれば、それは十二月で「書」数通を埋蔵して祈願した、とあります。 今から凡そ七百年も昔のことでした。 「始め小平(コダイラ)と言い、後小平(ヲダイラ)に改めたり」のくだりは、私達をその時代にタイムスリップさせてくれます。 廃村あり、再興あり、飢饉あり、ガチャマン時代あり、そして今、過疎化が急速に進んでいます。 最近も小平を代表する名家が取り壊されました。 嵯峨宮頼り第一号で、嵯峨宮も変わります、と宣言させて頂きました。 嵯峨宮が小平に在り続けるためには、時代の変化に対応すべく、自らを変えてでもチャレンジしなければなりません。 いかに変わるか、悩ましく、迷うが、迷ったときの原則は原点に帰れです。 嵯峨宮の原点は、書を埋蔵して祈願したことに始まります。 深く悩み、迷い、大望を祈念する人々と共に、原点に帰ることとしました。 古例に倣い、祈願書を埋蔵して月日が経ち希望の芽が地上に出るときを祈りつつ。
祈願書の埋蔵
埋蔵は毎年十二月中旬の日曜日に行います。
埋蔵場所は嵯峨宮境内地内です。 | ||||||||||||||||
「埋蔵祈願 申込方法」
嵯峨神社に備え付けの祈願用紙に、願文と氏名を記入し、折りたたんで糊付け封印します。 祈願料と祈願書を封筒に入れお賽銭口より投入します。 神社ではそれを保管し、12月の埋蔵祈願式の時、祈願書を境内地内に埋蔵祈願致します。 尚、間に合わなかったものは翌年の分として取り扱わせて頂きます。
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絵馬:
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御朱印:
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御神籤(おみくじ):
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・小平の里
昭和後期に発見された鍾乳洞の周辺を観光公園化したもので、食事の出来る建物、銭湯、野外ステージ、キャンプ場、親水公園、水車小屋などがあります。 ・カッコソウ保護地 この地域だけに自生するサクラソウ科カッコソウは絶滅危惧種に指定され、ここでしか見られません。4月から5月始めに観光ガイドの会が案内しています。 ・谷山城(やつやまじょう、八ッ山とも)址 小平の里キャンプ場を登った山頂に削平された一画や曲輪がある。戦国時代の天正二年(1574年)10月上杉謙信により「一人残らず男女共にことごとくなで斬りにした」と大間々町誌に記されている所です。道は整備されていません。 |
群馬県みどり市大間々町小平214-1 嵯峨宮世話人会 宛 |