座 談 会 福 光 編 国 破 れ て 小冊子 里にうつりて より
この内容は、記録を小冊子 【里にうつりて】 にまとめるにあたり、日記では
説明が足りない部分を補足するために、昭和63年6月に福光再疎開参加者
数名によって行われた座談会です。小見出しは疎開先で良く歌った歌の歌詞
を使っています。
里にうつりて
司会者(以下 司 に省略)他の区立は いち早く疎開地が決まったのに、女高師は官立(国立)
だから 継子になっちゃって、あっという間に行き場がなくなったのね。
○ 受け入れ体制のない農園に200人以上の子どもと先生が行って、授業も食事も野天で
車座になって。
○ 雨の日や雪の日は本当にみじめだったし、疎開の意味がないくらい空襲には見舞われ
るし。それで更に安全な所を求めて、富山県の福光に再疎開となるわけだ。
○ 堀主事先生(校長)の出身地ということもあって、他の学校の疎開や 久米川での生活
に比べれば、土地の方たちのあたたかい協力で ずい分恵まれていた と 今になって
みれば思うんだけど、やっぱり欲求不満は続いたね。
○ その頂点が 食糧倉庫襲撃事件。
○ 私達 女の子はぜんぜん知らなかったわ。
○ あと 当分隔離されていたしね。きっかけは「先生は我々より多く喰ってる。ケシカラン。」
○ そうかなぁ。 先生は私達より小さいのを(芋)おとりになった と日記に書いてあるのも
あるわよ。
○ 少なくとも、そう思えるくらいの飢えた精神状態だったってことさ。常に「あいつのは俺の
より盛りが多い」とかってね。
○ で、みつかったの?
○ そりゃ、急いで腹いっぱい喰ったから下痢はするし腹痛は起こすし、あと八鍬先生に こん
こんと諭された。殴られたり、叱りとばされたりはしなかった。
水は清きふるさと
○俺達は舟岡寮から本田寮に移ったとき、てっきり つまみ食いがばれたと思い込んで
40年間ずっと心の傷になっていたけど、この間の福光行きのとき (寮の)おじ様が復員されて、
(兵隊から帰ること)南方でかかった病気が再発して 子ども達にうつすといけないからだった
とわかって、やっとホッとしたんだ。
○ 舟岡さんのおば様も、つまみ食いは「知らん顔していましょうね」と言って下さってたって。
○ 僕達の寮では梅干をナイショで喰って、種の捨て場に困ったもんだから井戸に投げ込んで
ポンプが詰まったという事件があった。
○ 女の子と男の子ではお腹の空き方のケタが違うのよね。自分が子どもを育ててみて、これ
からが一番食べ盛りって言う年頃だもの。
○ホント、福光は寒かったけれど、あたたかかった。
ここはお国を何百里
司 ほとんどの子どもが、雪国は はじめてだったんでしょう?
○ 上野を夜発って、ひとつの座席に3人座って 次の日一日中汽車の中。高岡で貨車に
乗り換えて着いたら夕方。4月というのに雪が残っていてね。
○ みぞれの中、荷物を持ってその晩泊まる所まで歩いた時の情けなかったこと。
○ あの時も寒かったけど、冬越しになって食糧運搬の時の寒さは本当につらかった。
○ 長靴持っている子はほんの何人かでね。下駄の歯に雪が挟まって歩けなくなるし、裸足
で運んだり、大根やお米や薪を運ぶのに手にくい込むし、泣きたくなっちゃうし、足の感覚
はなくなるし。
○ オネショもよくしたな。
○ こたつの絵で、横に湯気のあがっているおふとんが描いてあるのがあるもんね(笑)
○ 僕は寝るふとんがなくなって、先生のふとんにいれてもらい、そこでもした(笑)
○ 今は笑って話をしているけれど、寒い、お腹が空いた、帰りたい、どれもガマンして、
子ども心に自分自身の心と闘う日々だった。
更けゆく秋の夜
司 もう時効だからって先生が話して下さったんだけど、食糧調達 特に冬越しと決まって
からが大変だった。
○ お正月はどうしても子ども達にお餅を食べさせたいからって、齋藤先生(与助)と阿部
先生と2人で一升瓶提げて警察に頭下げに行かれたってね。ヤミ米を買うから見逃して
欲しいって。
○ 阿部先生は何度も取り調べに遭って、そのたびに石黒さん(寮のご主人で神社の神主
さん)が貰い下げに行って下さったとかね。
○ 先生も必死になって、私達を無事に過させよう、寮の方々も子ども達が里心がついて
寂しい思いをしないようにと、いろいろな心遣いをして下さって。
○ 図書館の石崎さんは、戦後レコードコンサートを度々やって下さった。(戦争中は敵の
音楽を聞くことはできなかった)この前の福光訪問のときには、帰るときに書き残してきた
3冊のノートを思いがけず見せていただいて感激。
戦いすんで 日が暮れて
司 終戦の時は?
○ 先生からお聞きしたのは翌日なんだけれど、その日のうちに知っていた寮もあって
2年生が教えに来た。
○ それ、オレ 俺 (笑) 先生と一緒にラジオを聞いて なんだか解らないけど「負けた」
知らせに走った。
○ その日は緘口令(しゃべってはいけない)だったね。
○ 16日に宮地先生から「日本は負けました」って聞いて、皆泣いた。
○ 泣け!って言われたゾ。
○ でも これで帰れる!と思ったのに、冬越しでガックリ。
○ だから僕達にとってはこの冬との闘いがあって、翌年の3月に東京に帰ったとき
はじめて戦争が終ったということになる。
戦争がが総てを叩き潰してみんなを巻き込むことを、次の世代にぜひ伝えたい。
ー 終り ー
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座談会のはじめに 食糧倉庫襲撃事件 のことが出てきます。
詳しくは 目次6月と7月の間にある、当時6年の平田煕の『ある事件のこと』をご覧
下さい。尚1994年発行『疎開の子ども600日の記録』−目次 書籍のご案内 参照
ーP166より当時の担任 八鍬重夫先生にインタビューをした記事を転載致します。
私は当時27〜28歳であった。この事件のあと、子どもたちと小矢部川の土手を毎日
歩いた。歩くことは私にとってある意味で救いになったが、この時のことは今もはっきり
と記憶している。
事件が起きたとき、私のやり方や考え方が甘かったのではないか、他の学年の生徒や
一緒に指導に当たっている先生に申し訳ないと率直に思った。しかし それ以上に、子
どもたちがそのような行為をせざるを得なかったと思うと、頭からどやしつけたり、叱る
ということはできなかった。
それより子どもたちがこの事によって、変な方向にそれることがあっては と苦慮した。
どのようにしたらよいか考えるだけで、精一杯だったと言ってもよい。
今になって考えてみると、疎開という形での育ち盛りの子どもたちの行為に対し、自分が
厳格な処置をとらなかった(とれなかった)ことは、何かふっきれないものを感じる。
しかし 子どもたちの気持ちを考えると、これでよかったと思っている。
ー インタビューは平成6年に行いました ―