座 談 会       久 米 川 編    里にうつりて より


  この内容は、記録を小冊子 【里にうつりて】 にまとめるにあたり、日記では

  説明が足りない部分を補足するために、昭和63年6月に久米川の疎開参加

  者数名によって行われた座談会です。小見出しは戦時中の標語を使っていま



    進め一億火の玉だ

司会者以下 司 に省略) 日本にとっても、学校にとっても、親も、子も、何しろ
    
   初めて直面した非常事態で 戸惑うことばかりだったと思いますが?。

○  勝つことだけを信じて参加した疎開だったから、あの頃は当たり前だと思っ

    ていましたね。

   そんな中で いちばんうれしかったことは面会?

○  日曜ごとなんだけど、3・5年と4・6年と言う風に学年ごとで隔週だったから、

    親が来ない学年はすごく寂しい思いをするんですよ。

○  面会した子も、親が帰ったあと いっそうションボリするから、先生が青空で

    紙芝居をして下さったわね。

○  何しろ 親がつい食べ物を持って来るから、面会の翌日は下痢。

○  それで どんどん制限がきつくなって、月に2回が最後には1回になっちゃっ

    たの。空襲が激しくなったことも原因だけど。

○  親も一緒に防空壕に入ったり、電車が不通になって来られなかったりね。

○  お腹空いて 紙食べたの覚えている?

○  えッ 紙!歯みがきは食べましたね。

○  それからお薬まで食べ出して、親が早々に連れて帰っちゃった人もいた。

○  何だか水が思うように出なかったでしょう?

○  それで井戸掘ったんだ。阿部先生の指揮でね。それから防空壕。学年ごとで

   真ん中にフタのついているやつ。あれは大変だった。

○  空襲がひどくなったのは暮れ近くなってからね。

○  陸軍の兵器の補給廠が近くにあったから、すごく狙われた。

○  僕は久米川と言うと、おできが良くできたことを思い出す。武蔵野療養所へ

    ゾロゾロ行った。

○  あれは栄養不足も原因でしょうか。私も行ったわ。

○  僕はシラミを連想する。薬も何も無いから林の中に連れて行かれてさ、着てい

    る物を鍋で煮るんだ。

○  私は松林の中で柵があって、囲いの中の生活だったという印象が強い。

  久米川はいきなりの環境の変化だったから、やっぱりホームシックになった?。

○  線路を見ると ここを辿って行けば家に帰れるんだなって。

○  実行しちゃった人もいるね。

○  男の子の場合は、戦時教育を受けているから、日本男児としてそんな事は考え

    ていないふりをしていたけど、やっぱり心の中では帰りたいと思っていた。なま

    じっか近かっただけにね。

○  私達は集団脱走と間違えられたの。石炭がらだったか薪を貰いに行って、先生

    にこっちから帰った方が近いからって引率されて帰ったんだけど、残った方の人

    は知らないから集団脱走だって大騒ぎになったらしい。

○  草抜きをすると薪をいただけるからって、しょっちゅう行ったわね。

○  帰り道 土地の子がチェーン持って待ち伏せしていた。

○  へぇーはじめて聞いた。今で言うガンつけたってわけ?それで?

○  いよいよやるか!ってことになって、いざというときに先生に見つかって実行まで

   はいかなかったね。


     
鬼畜米英

 
 飛行機が落ちた時は?(注 米機   1944 昭和44年1月)

○  寒いときだったわね。男の子達はすぐ飛んで行って、薬莢(やくきょうー注 火薬

    を詰める容器)や缶詰なんか拾って来たでしょう?

○  死体があって1人は女らしいって噂だった

○  まっくろで判らなかったけれど、指輪してたんで女ってことになったらしい。あの頃

    の我々の感覚では、男が指輪しているって考えもつかないからね。

○  ものすごく大きい靴があってびっくりした。

○  先生からいただいたアンケートの中に「死体の腿の太さを見て日本は負けたと思っ

    た」というのがあったわね。


   
 吹けよ神風

  どんどん空襲が激しくなって東京大空襲のとき、あんなに東京の空が真っ赤では 

    もう家も燃えてしまって帰れないと思って泣いたわ。

○  あれは3月10日で、6年生は卒業で帰ることになっていたからね。(1945 昭20年)

  日記を見ると、もう帰るって決まっているのに参加者が増えてくるでしょう?

○  女学校に推薦してもらうには、集団疎開に参加してなければダメということがあった

    みたいね。 

○  なるべく縁故疎開をして下さいと言われたのに、いざとなると復校できないかも知れ

    ないと言われたって、いまだに憤慨している人がいるもの。

○  男の子は帰ったらすぐ受験だったんだけれども、どさくさで無試験になっちゃって、卒

    業式には仮証書をもらった。勝ったらちゃんとしたのをあげるって約束で。

○  卒業して33年後の 昭和53年に正式のを頂きました。

    
    
欲しがりません勝つまでは 

 
あの頃体罰は?

○  もぐりで食べたと言って、相当激しく殴られた。

○  私達は林の中を逃げ廻って追いかけられて、叩かれてね。面会も1回抜かされちゃっ

    たの。

○  親が苦心惨憺して全員に渡るようにって集めて来たパンを「子ども達にひもじい思いは

    させていません」って持って帰らせたとか。

○  疎開は食い物の恨みに尽きるって訳だ。

 そうよ。私なんか食べ物ってゼッタイに残せないし捨てられないしで、全部自分の胃袋に

   ほうりこんじゃうから肥っちゃうんだけど、これは疎開後遺症。 
                                          
ー久米川編終了ー  


         
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