対馬丸  3

  
  
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  平成9年12月14日(日) 読売新聞                                 ↑ここをクリック
  平成10年3月7日(土)夕刊 読売新聞    両記事共読売新聞社の許可を頂いて居ります                                          
                          

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昭和25年、沖縄民政府は公告によって遺族を招集し、那覇市壷屋小学校に於いて、対馬丸遭難学童遺族大会を催した。
11月、沖縄群島政府主催の合同慰霊祭が行われた。
28年5月”小桜の塔”除幕式・32年8月13回忌慰霊祭・”戦没学童の像(朝倉響子作)が小桜の塔に飾られる。
37年6月、悪石島に供養塔と慰霊碑建設。41年靖国神社に対馬丸遭難死没者合祀・45年3月”小桜地蔵"
建立・51年8月・52年9月には遭難現場悪石島沖に於いて33回忌の海上慰霊祭が行われた。
しかしながら、対馬丸を引き上げ遺骨を故郷にと言う遺族の悲願は果たされていない。

胸いっぱいの悲しみと怒り (沖縄一のマンモス校の主席訓導として 新里 清篤

「サイパン島玉砕!」の悲報で沖縄の様相はガラッと変った。何しろ南洋諸島は第二の沖縄県と呼ば
れるほどに県民が移り住んでおり、昭和17年当時の在留邦人7万人中、県出身者はその8割、約5万8千人を
占めていて、それが玉砕したというのだから、県民の受けたショックは大変なものだった。ー中略ー
われわれに「沖縄戦近し」を強く感じさせた。そのような緊迫した情勢の中で、閣議決定に基く「学童疎開実施
要綱」が通達されたのである。
私の立場としては「父母学童に疎開を呼びかけるには、まずわが家族を率先させねば・・・」と考えた。−中略ー
大切な学童達を戦場から救い出さなければならない、できる限り多数の学童を疎開させねばならない、と学校
長を先頭に全職員が熱心に勧奨して廻って、8月の10日頃には約150名の希望者を集めることができ、出発の
日を待つだけになっていた。私は何としても先ず自分の家族を送り出そうと腹を決め、身重の妻と3人の子どもを
疎開させることに決め、兄の家族7名と母も含めて、あわただしい疎開の準備が始まった。
今にして思い起こすと、当初から「死神に取り付かれていた」としか思われない程、乗船間際までの間にいくつも
いくつもの障害にはばまれ、さしさわりにあい、「いっそ疎開をやめようか」とか「ひと船出発を延ばそうか」と何回
考えたか知れない。思い悩みながら8月21日の午後が来て、家族らは運命の疎開船対馬丸に乗船した。 
そして一人残らず遭難してしまった。兄の家族7人も全滅した。ー後略ー

  
 対馬丸事件のことは沖縄戦の陰に隠れて、本土にいる私達は全く知ることがありませんでした
遅まきながら戦後50年を前にして自分達の疎開の資料をまとめ出してから詳しいことが判ったのです。
私達の疎開は幸いにして死者や怪我人が出るなどの大きな事故はなく、他の学校の疎開の事を
調べてはじめていろいろなことを知りました。
宿舎の旅館の火事で死者が出たこと、19年9月には静岡で大きな地震があり、学童に死者が出たにも拘らず
当時の新聞には「学童疎開者には被害なし」とか「疎開学童は無事」とのみ報道されています。
疎開史史上最大の悲劇である"対馬丸の遭難”に関しては、全く隠されたままでした。
このたび皆様に少しでも知って頂きたいと思い”あゝ疎開船対馬丸”(対馬丸遭難者遺族会発行 発行S53年8月) 
より、いくつかの証言を抜粋して載せました。胸を締め付けられるような記録と証言はまだまだ沢山あってここには
載せることが出来ませんでしたので、何卒図書館に行かれてご覧頂きたいと思います。  

  
対馬丸記念館  http://www.tsushimamaru.or.jp/


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