対馬丸  2


            生存者の証言


当時船舶砲兵 吉田薫夫氏

救命筏の上に3人の子どもがいた。島が見えたが泳げないと言う子がいたので上陸を断念。翌日飛行機が来て
確認した様子だったので 助けに来てくれるんだね と期待したが、又夜になる。海水が容赦なく筏の上を洗い
8月といえども水も食べるものもない夜の海の上は寒い。やがて怪我をしていた体力のない子が最後に「お母さ
ん」と叫んで息を引き取り、暫くするともう一人の学童も息を引き取った。風が強くなり大波が来て、あッと言う間
に2人の遺体は真っ暗な海に呑まれてしまった。筏の上は残った少年と2人になった。驟雨にふるえながら筏が
木の葉のように揺れるが、しがみつきながら24日の朝を迎た。そしてその日の夕方小型船に救助される。吉田氏
はその後昭和52年12月、40数時間生死を共にし、別れたままだった少年とTV番組上で再会を果たした。


当時天妃国民学校高等科訓導 田名宗徳氏

爆破された船倉にはすさまじい勢いで水が流れ込んでいて、その中から「助けてくれ」という子ども達や教師の声
が聞こえてきた。階段を駆け降りてみると、中はゴウゴウと流れ込んだ水が渦を巻き、その中から助けを求める声が
聞こえるが助けるすべもなかった。と、そのとき船は船尾から傾きバリバリと恐ろしい音をたてて甲板を崩しはじめた。
私は急いで駆け上がったが沈没の渦に巻き込まれた。、もうだめだ!まさに息が切れようとしたとき私の頭は水面
に上がっていた。ー中略ー4日目一緒に筏に乗っていたおじいさんが海に飛び込み鮫にかまれて出血多量で死亡。
5日目は私が幻影が見えるようになる。公会堂の前に筏が横付けになっているので「おい那覇に着いたよ 公会堂
の前だよ 早く家に帰ろう」と言うと他の人はまわりは全部海だと言う、(幻影によっても多くの命が失われた。海に
飛び込んだおじいさんも幻影を見たと思われる)右も左も断崖絶壁の島に着き、自力でその断崖を這い上がって救
助を求め、妻も共に救助される。、6年生の娘と母親は死亡。


当時国民学校四年(9歳)平良啓子さん

家族6人で乗船。ー中略ーひとつの筏を何十人もの人々が奪い合っている。すがりついても力のある者が力の
弱い者を振り落としてくい下がっていく。やっと這い上がったかと思うと、また次の人に引きずり落とされる。体の
小さい私は這い上がる自信を失っていたが、しかし、とりすがらなければ死んでしまう。私は筏の裏の方へ回っ
た。ここぞと真ん中めがけてもぐりこみ、体をできるだけ小さく丸めてうつむいて押し黙っていた。何日目かの昼
過ぎ、頭の上を日本の飛行機が飛んできて、みんないっせいに「おーい助けてくれ!」と手を振ったが飛行機は
それっきり姿を見せなかった。2人の老女が、ひとことも言わず死んで流れて行き、40歳ぐらいのおばさん2人
もいなくなった。乳飲み子が母親の乳首にかみついて痛いと言っていたが,その子も母親の腕の中で息をひき
とり、いつの間にか波にさらわれてしまった。
体は陽に焼け皮膚は赤黒くただれ、頭髪はバサバサに縮れ、抜け毛も多くなった。
鮫が別の筏の老爺にかみついているようであった。そして100メートルほど先から鮫がこちらへ向かって来る
「次は私の番だ」先頭にいる私は「海の神様どうか私をお助け下さい」と両手を合わせて一心に祈った。目をあけ
ると鮫は向きを変えてそれて行った。みんな一言も言わずだまっていた。うっすらと夜明けが近い頃、筏は島に
向かって押し流されていた。私達は助かったのです。筏を降り、四つん這いになって陸地へ向かった。この手こ
の足で石や砂を握りしめたのです。私達の喜びは言葉には言い尽くせない。目がくるくるまわり、体が安定せず
両足で立てなかった。しばらく岸のくぼみにうつ伏せになって気を静めた。ひとりの女の子は上陸寸前に息を引
き取り母親が悲しんでいた。着いたところは無人島であったが、この島の近くのお百姓さんによって救出され、ご
はんと黒砂糖を食べさせてくれた。あの島での水とごはんと黒糖の味は今も忘れない。このご恩は一生忘れない。
生き残ったのは10人中大人3人、子どもは私1人のたった4人であった。



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