昭和63年に書いた 随想 より    

        阿 波 丸 に 思 う

                      小笠原 靖子    雑誌『朝霧』昭和63年8月号よりより転載


昭和16年12月8日に勃発した第二次世界大戦のさ中、米国民政府は日本軍が占領していた南方諸地域に抑留

されている連合軍将兵と民間人に対し、慰問袋を配布して欲しいとの申し入れをして来た。

我が国政府は人道上の見地よりこの申し入れを受け、大東亜省事務次官を団長とする使節団を派遣する事を決定、

日本郵船所有の阿波丸をこの目的に利用することとし、船は長崎を出港、委託された慰問袋を荷下しつつ南方諸地

域を巡港した。

復路の阿波丸は 緑十字船 として連合軍から航海の安全を保障され、安導券 を交付されていたので戦争に直接

関係のない人々(民間人及び婦女子を含む)と沢山の軍需物資を乗せて敦賀港を目指し船脚を速めつつ帰路にさし

かかっていた。

時に昭和20年4月1日夜半、突如米国の潜水艦クイン・フイッシュ号より魚雷4発が発射され、船体のほぼ中央に

命中、2070名の尊い人名は積荷や船体もろとも一瞬にして海底のもくずと消え去ったのである。

救助された唯一人の生存者はコックの下田氏であったが今は故人である。

日本政府は米国に対し、その不法を抗議すると共に謝罪と賠償を請求すべく中立国のスイスを通じて交渉を開始した

が、わずか4ヶ月後の8月15日、日本は敗戦による無条件降伏するに立ち至り、国も国民も呆然自失の状態に陥った

のである。

月日がたつにつれて次第に復興の兆しも見え始めて来た昭和24年の第5国会(吉田内閣)に於いて、日本の戦後復

興に多大の協力を惜しまなかった米国に対し、感謝の念を表す手段として、阿波丸事件賠償請求権を放棄する案が

与党より上堤され、絶対多数で決議された。

遺族に対しては人命1人につき僅か7万円の見舞金を一方的に支給するのみで、この問題は終了したとされている。



以上が阿波丸事件の概要である。


私の父は民間人であったが、昭和19年に陸軍司政長官の命を受けてジャワに赴き、大任を果たしての帰途選ばれ

て阿波丸に乗船し、ついに還らぬ人となった。今か今かと待ち侘びていた母と、6人の幼い子どもが取り残され、悲嘆

のどん底に突き落とされた。家庭を大切にし、子ぼんのうで故国に待つ家族のもとへ一刻も早くとの思いを抱きつつ

海に散った父の事を考えると断腸の思いで一杯である。そしてこの無念さは43年を経た今日でも変わることはない。

遺族らは時を経て遺族会を結成し『賠償請求権に伴う国の善処方』を時の総理大臣に請願する傍ら、東京芝の増上

寺のご好意で境内に土地を得て、犠牲者がもと所属した団体や世の一般の友人知己のご理解と遺族らの熱意によっ

て、昭和52年10月に 阿波丸殉難者合同慰霊碑 を建設し、犠牲者の冥福を祈った。

慰霊碑は約40坪の土地の中央に主碑、裏面に事件の由来と遺骨収納箱、後方両側面に2070名の犠牲者の俗名

が刻まれ、外側に植樹したさくら、つげ、つつじが季節が来れば花を咲かせて彩を添えてくれる。


昭和54年に中国が水深60メートルと比較的浅い処に沈んでいる阿波丸を発見。遺骨、遺品、積荷の一部を回収

したと発表し世間を驚かせた。中国側の好意で、引き取りに行った遺族代表に手渡され無言の帰国をし慰霊碑に

納められると共に、遺品は所有の判った物のみ遺族の手に戻ったのである。

錆びた時計、万年筆、眼鏡、荷札、靴、尺八、パイプ、陶製の人形 等等を見て新たな涙を誘われるのだった。

重要な人材と軍需物資を満載した阿波丸の撃沈は、米国の故意かそれとも過失か、真相は依然として謎に包まれた

まま闇に葬り去られようとしている。遺族の一人として諦めることの出来ない事件である。


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