阿 波 丸 の こ と


             このページは3つに分かれています。

             1  6年女子 是松 靖子 さんの 絵日記
            2  昭和63年に書いた 随想 より
            3  阿波丸と疎開に関する短歌     

 
1  6年女子 是松 靖子 さんの 絵日記

是松靖子さんは途中からの参加です。この頃になると、
進学のため6年生の疎開参加者が急に増えて来ます。

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今日から集団疎開学園に
     

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  1月14日(日)晴   6年女子


私は今日から久米川の集団疎開学園に入れていただくことになりました。
短い期間ですが しっかりとした生活をしようと思いました。5ヶ月の間
皆さんとお別れしていましたが又御一しょに勉強が出来るのかと思うと
うれしくてうれしくてたまりません。
今日 山口先生はお家に帰っていらしゃるそうです。夜宿舎に帰ってから本をお借りして読みました。
 御下賜の御菓子を
 いただいて
      

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皇后陛下より疎開児童にお菓子を賜った。
  1月28日(日)晴   6年女子


今日はうれしい6年の面会日です。
山口先生はお帰りになって いらっしゃいませんでした。
朝早く御下賜の御菓子をいただいてずっと母の来るのを待っていました。すると警戒警報が発令されたので待避しました。解除になったので火鉢の所で待っていると、又発令されたので待避しました。本当ににくい敵です。その頃から急に風が出て来たので園舎に入りました。
お昼過ぎやっと母が来ました。警報でおそくなったそうです。いろいろ足りない物を持って来てくれました。お話をしました。
父は2月10日頃までに帰ることになったそうですが、途中が危険なので
母は心配していました。

1月18日の日記の最後の2行にお父様のことが書かれています。

次に載せてある 小笠原靖子さん←旧姓是松靖子さん の文章を読んで頂ければ、

このお母様の不安は的中し、お父様は乗られた 阿波丸と運命を共にされたことが解ります。

私達もこの記録をしたことによって、はじめてこの事実を知ったのです。

卒業の為に是松さんは集団疎開から3月10日に東京に帰られました。お父様は はじめ

2月10日頃に飛行機で帰られる筈でしたが、安全な船があるのでそれに乗ってお帰りになる、

という情報があったまま何の消息もなく、4月にお父様の乗られた船はアメリカの潜水艦の

魚雷によって沈められていたのです。

しかし当時のこと、当然発表や知らせはありませんでした。疎開船対馬丸と全く同じケースです。

不安な日々を過されるうち、6月頃に阿波丸が沈んだことが噂として聞こえて来て、お父様が

亡くなられたことは、嫌でも認めざるを得ない状況になりました。

そしてその事実は、保障もされないまま戦後の日本の政治の犠牲になることに繋がって行くのです。

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