最年少者の記憶
茂木 朝之助 再疎開地福光 国民学校2年生
疎開随想より(1988年に書かれたもの)
とに角、もの凄い風が吹いていた。防空壕から出ると空はどす黒い赤色に染まり、
13間もある広い道路には火の粉が砂漠の砂塵のように舞い上がっていた。
屋根瓦、トタン屋根、畳までが燃えながら空中を飛び、電柱は焼け倒れ、ガラン
ガランと金属音をたてて焼夷弾が落ち真っ赤な炎を吹いていた。火の海はすぐ
近くまで寄せて来ていた。姉と手と手を取りながら凄まじい騒音と熱気の中を逃げ
まわった。
何百人もの人間が近くの学校の講堂に逃げ込んだが、背後からの火を逃れ狭い
出口付近で幾重にも折り重なって倒れた。下層部の人間は重圧に耐えられず、
上層部の人間は炎に嘗め尽くされて、講堂から出られたのは ほんの一握りの数
に減っていた。
昭和20年3月9日の夜を満7歳(1年生)であったわたしは、今でも鮮明に記憶している。
当時在京していた父母との家族4人は翌日の夜遅く避難本部でめぐり合い、全員の
無事を喜び合った。それから約1ヶ月の間、親戚友人知人の家を東京の街を何度も
横断する程歩いて訪ね、その場凌ぎの毎日であった。
そんなある日、母に連れられて大きな汽車の駅に着いた。学校の友達も担任の先生も
見覚えのある先生上級生が集まっていた。(注 2年生 4月)
私の学童疎開はこんな状況で始まったのだ。非常用の食糧はすでに食べ尽くし、救急
用具だけが詰まった小さなリュックサックだけが所持品だった。車中でわけてもらって
食べた菓子の甘さが、その後数年の間懐かしい思い出を作った。
降り立った駅は雪に中にあった。身長よりはるかに高い雪の壁の間を歩きながら、遠い
所に来たんだなぁと思ったが、家を失った今 何事もしかたがないんだと本心達観していた。
同年の友人は4人だった。難しい漢字が並ぶ地名を書くのも面倒であったが、父母の
所在も解らないこともあって、手紙を書くこともあまりしなかった。友人の中にはせっせと
葉書を書く者も、ひとり静かに涙している奴もいたが、何故か悲しさも寂しさも感じたことが
なかった。毎日が淡々と過ぎた気がする。
寝小便の得意であったわたしには毎日の布団乾しは重労働であった。着替えの下着がなく
素肌にズボンは年中で、町の同年の子ども達にからかわれることも度々であった。
食料不足による空腹感は余り苦にはならなかったが、大半が大豆の粥が続いた時には
下痢腹で悩まされた。行軍の最中での便意は苦しく、列を離れて何度も用を足した。小便三丁
糞十丁(行軍から遅れること)の言葉が今でも耳を離れない。
山下寮の中庭で飛び交う蛍の群れには驚いた。歌でしか聞いたことのなかった昆虫が現実に
現れたからだ。消灯後 はだしで窓から庭に降り追ったが一匹も捕らえることはできなかった。
断片的には さまざまな光景が目に浮かんで来るが、残念ながら それ等の事柄の前後の整理
がつかない。
戦争に負けた。泣けと言われて泣いた。海軍大将になることを志していたわたしは、負けた悔しさ
も大きかったが、終ったという実感の方が強かったのかも知れない。
疎開の集団の中に姉がいた。教師として赴任して来た姉とは、食事の時間や登下校その他毎日
顔を見る機会はあったが、互いに訪ねることも 親しく姉弟の会話を交わした記憶は全くなく、まして
ものを貰うこともなかった。姉はただ、ひとりの教師にすぎなかった。
9月の終わりごろ、突然母が迎えに来た。再び東京の焼け野原を見ることとなった。
わたしの学童疎開は6ヶ月で終了したが、疎開生活もさることながら戦争の結幕としての悲惨な
体験は決して忘れ去る事はできない。
そしてこの体験が、私の長い人生の中で目に見えない大きな力となっていることは 事実である。
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