引率教師の日誌より抜粋

      『 今を生きる 』 宮地忠雄思索集 昭和62年(1987)発行 発行人 宮地多美

            掲載にあたり ご遺族の許可を頂いております

    宮地忠雄先生の略歴

    大正4年(1915)9月 富山県八尾にて誕生・富山県師範学校卒業・八尾尋常高等

    小学教師・文部省師範学校高等女学校教員試験検定合格・昭和16年(1941)東京

    女子高等師範学校附属小学校主事 堀七蔵氏に請われて上京 附属小学校の教師に

    着任・昭和17年(1942)結婚・昭和20年(1945)学童疎開引率(低学年)・昭和33年

    〜39年(1958〜64)附属小学校教頭・お茶の水女子大学文教育学部講師・昭和56年

    (1981)退官・十文字女子短期大学講師・昭和60年(1985)逝去 享年69歳

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    宮地先生は、再疎開地富山の福光に 2年生15人を引率されて着任されました。

    ホームページを作っている管理人は当時5年でしたので、学年ごとに宿舎や生活は異なっ

    ていて、先生は毎朝二つの教室の間の廊下に立たれて『疎開学園情報』という各種の

    伝達事項をお話になるのと 国史のお授業以外 先生とは接点がなかったように思います。

    しかし この『疎開学園情報』は子ども達にとって最大の情報源でしたから、沖縄の玉砕・
    
    ドイツイタリア の降伏・広島長崎の特殊爆弾のこと・そして敗戦によってこの戦争が終っ

    たこと・全て宮地先生によって伝えられました。

    終戦の日は、先生のご郷里が 八尾 であったので、折からお盆でご自宅に帰っておられ

    ました。敗戦をお知りになった先生は 急遽福光にもどられ、子ども達には 翌 8月16日の

    『疎開学園情報』によって伝えられました。

    おおかたの学校は終戦2ヶ月後の10月には疎開地から 引き上げて行きましたが、女高

    師は校舎の一部に文部省の図書部が入っていたこと、戦後の社会状況などから、東京に

    帰るのは半年後と決まり、疎開児童は栄養失調のからだで寒い北国で冬を越しました。

    そのことは 親と離れて辛い生活も 日本が勝つため と幼心に決めていたものが、戦争が

    終ったのに家に帰れない という目標のなくなった生活の方が子ども心にはつらかった

    のでした。
   
    先生方は 生徒達を元気付けようと良く娯楽会を開いて下さいました。宮地先生は三階節。
   
   ♪米山さんから 雲が出た いまに 夕立が来るやら ピッカラ シャンカラ ドンカラリンと音がする♪
   
    三階節は富山ではなくて新潟の民謡?あれ?どうして新潟?いまとなっては 先生にお尋ね

    することもできません。

    先生というより 寂しがる子どもの親がわりになって、温かく包み込んで下さった日々でした。

    昭和21年3月 富山での疎開生活は終って懐かしい東京に帰り、学校のある大塚駅に着いた

    子供たちの目を驚かせたのは、見渡す限り一面の焼け野原の風景でした。

    そのとき 宮地先生が受け持たれた子ども達は、栄養失調で越冬に耐えられないため一足

    先に東京に帰った生徒を除き出発時の 1/3 になっていました。

    疎開生活と宮地先生 先生にとっても この1年間の体験は先生の日誌の抜粋を拝見しても

    印象的であったことを 窺い知ることができます。

         福光疎開中の日誌より       宮地 忠雄

    昭和20年4月9日  再疎開出発の日
    
      愈々、4月9日が来た。

     今日まで、荷物の整理と再疎開のための仕事と、学級事務の整理との三つの

     仕事に追われ追われて毎日を送って来たが,総てを解決してこの朝を迎えた。

     沖縄本島の周辺において、帝国海軍の総攻撃の火ぶたがきられた との報道を

     耳にしつつ、出発の準備に忙しい。

     午前中荷物に名札をつけ、午後大日本教育会と富山房へ寄って担当事務の打ち

     合わせを して来た。

     午後7時、重い荷物を背負い両手にも大きな荷を下げて、雨の中を仲町へ急ぐ。

     重くて仕様がない。

     ようよう電車に乗ると片山君がいたので助かったと思う。

     上野駅で児童を迎える。わが子を手離す時「先生お願いします」と言う保護者の

     心情に胸あふれるものを抑えて、生命かけてこの子等を守ることを心に誓う。

     車坂口の階段下に集まった保護者は、背伸びしてわが子を探し涙をためている。

     「○○雄、よく先生のおっしゃることを聞いて元気に暮らすのよ」

     「○○子、体に気をつけてね、トランクの中のあのお薬、おなかが痛くなったらすぐ

     飲むのよ」語る親。うなずく児童たちの様子を見ていると熱いものがこみあげて

     きそうだ。 

     「安心してください。必ず立派にお育てします」

     「大丈夫 引き受けました」

     教師も硬直した声で答える。

     やがて9時40分、愈々別れの時だ。児童の方は案外元気に列を整えるのに、

     保護者のざわめきが鈍い電光に照らされて波の如く動く。

     児童等は指揮に従って、親に向かい最後の別れの言葉を言った。

     「お父さま お母さま、さようなら」と長く引いた声が絶えると、涙に濡れた頬を

     ぬぐいもやらず背伸びしつつ尚、わが子の姿を追う親の顔を見て、責任の重大さ

     を強く感じる。

     10時乗車。

     児童の中には、まるで旅行にでも出掛けるような気軽ささえ見られる。中には

     「早く動かないかなぁ」「警報の出ないうちに東京を離れてくれ」と言う児もいる。

     十数回に及ぶ爆撃で、児童たちは疎開を望んでいたのであろうか。

     (注 久米川より富山へ再疎開のため、一時帰宅していた間の空襲の回数)

     11時近くなって漸く汽車が動き出し、児童に「眠れ」の号令が下った。
      
    4月10日  車中にて朝を迎える 夕刻福光到着

     碓氷峠でもう夜が明け初めた。

     児童達に充分睡眠をとらせようと思っても,明け初めた窓外の景色の美しさに

     眠さもすっかり忘れたらしい。

     車中、浅間・川中島・善光寺・親不知・などの名所案内をしながら富山に着く。

     高岡駅で城端線の郵便車に無理やり押して乗り込み、福光で下車。雨に濡れ

     ながら福光校まで歩く。まだ荷物も着いていない。

     山下・波多・石黒・吉江・中村・桐山・勢藤・船岡・前田・などの家々に4年生以下の

     児童は分宿し、5年以上は立野ヶ原の滑空訓練所に宿泊することになる。

     雨の降る暗くなった町に出て行く児童たちを見ていると、胸が熱くなってくる。

     幸い町民の親切に包まれて一夜を送る。

    4月11日   宿泊の夜半

     荷物が着かないので、借りた布団に2年男子が寝ている。
    
     もし寝小便をしたら大変。12時と4時の2回、起こしてご不浄へ連れて行く。

     寝ぼけ顔をして障子にぶちあたり、また床の中に坐り込む忠昭、眼もあけないで

     うろうろしている靖雄。

     夜、荷物が着いたとの電話あり。

    4月14日   寝小便

     ー 前文略 −
     久し振りに入浴したのでぐっすり寝込んでしまったらしく、ふと目覚し時計を
     
     見ると2時半。
     
     驚いて児童を起こし ご不浄へ行かせたが、△が妙に床から離れない。
     
     「やったか!」と言うと
     
     「ハイ すみません」と電光に寝ぼけた顔。他の児童はもう便所に行ったのに、

     ただ○雄だけが もじもじしながら傍にいる。

     ○雄は△と一緒の布団に寝ていたので、自分が粗相をしたのかと思って大模様

     に描かれた地図を眼をしばたきながら眺めている。

     「○雄 君じゃないんだ。さあ早くご不浄に行ってらっしゃい。だけど このことを

     友達に言ってはいけないよ」と言うと

     「ハイ」と素直に答える。

     「△、君は家でおねしょしたことがあるの?」と聞くと

     「ときどき」と言う。

     考えてみれば、まだ2年生だから仕方がないし、別にこんなことで叱る気にも

     なれないが、ただ自分が少し寝込んだことが悔しい。

     神妙にしている△が可愛い。ズボン下・パンツ・腹巻を換えて すぐご不浄へ行

     かせ、敷布団を取り替えて二人を寝かせた。
    4月18日   虱 ( しらみ )    −虱については次回解説しますー

     児童があまりかゆがるので身体検査をした。
     
     別に虫がいるわけでもないのに、虫に刺されたように赤くはれあがって血が
     
     にじんでいる。

     よく見ると、全く驚いたことに 一人の女の子の頭に虱がいた。

     頭に手を入れてみると一体どうしたことか虱のたまごが無数についている。

     早速、他の子ども達と別にして水銀軟膏をつけようかと思い、近藤さんに聞いて

     みると(注 近藤さん=養護の先生)今はすき櫛も薬もないという。

     虱はとって、たまごは土曜日の入浴の時、念入りに洗髪することになった。
   
    4月20日    望郷の涙

      近頃、低学年児童が望郷の念にかられ、相寄って泣いていることが多くなった。
     
     薫はこっそりとアルバムを抱いて涙し、永田・内海・中村・梅原は家の焼失が

     心配だと泣く。

     そのうえ、八木・茂木が頭痛、早くこの状況より出ることを考える。
 
     4月29日  天長節

      今日は天長節というので児童は張り切っている。

      昨日の午後、理髪し入浴しているので皆清潔な顔をしている。朝の掃除を

      手早く済ませ制服に着替えて朝食に行く。

      赤飯に心づくしの副食物、児童は今の生活で食事に最も関心が深い。

      夢を持たない自分は、今は唯この疎開の児童達が健やかに伸び育ってくれる

      ことを祈るのみ。このためにこそ、捨我精進 を自分は続ける。

      生に対する執着も死に対する恐怖も今はない。

      ただ、この今を生命かけて最も充足せしめたい。

      5月12日   人生の空虚

       既にヒットラー死し、ムッソリーニ死す。
       
       欧州の風運 今や 米・英・ソ の支配下に静まらんとす。

       沖縄の戦い、また急なり。

       偉大なる世紀に生まれ合わせたるとの意気が、深刻なる現実の危局に

       至るも、皇国の前途転々感慨無量。

       今にして、しみじみ人生の空虚を痛感する。

       我々が青年時代に自負した人生は、現実に基脚をもたぬ夢にすぎない。

       今、壮年期に感ずる生甲斐は現実に足を突っ込んでいる。

       人生は 無 であり、空虚 である。

       真実を求めて苦しみ、自然の生に憧れる自分は結局、今の生活に総てを

       賭してかち得られる生甲斐である。

       今に生甲斐を感じる人は、常に今に 永遠を把持し得る人である。

       今の仕事に前例を打ち込み得る人は、永遠の生甲斐を感得しうる人である。

       降伏とは生甲斐を感じ得らるるか否かということであり、自己を打ち込み得る

       仕事を持っているか否かによって決定される。

      5月31日   低学年の教育は根気比べ
 

     
昨今授業せざるも人間的な生活訓練に効果あり。
       
       2年生の生活訓練の行動により、このことをしみじみと知った。
      
       下手に手を出すより、2年生なりに何でもさせることが肝要なり。

        低学年の教育は根気比べである。

        躾とは根気よくしつける所に、はじめて可能となる。

       
      7月25日   体力の低下 

     
近頃、児童たちが下痢気味である。パンツを汚して便所に捨てたことを 

        

        語る。やはり食事の為か、体力が落ちて来ている為かと心配になる。 
       
        注意を要す。教官も下痢する者あり。
      8月2日    富山大空襲

       3月9日の本所深川の空襲より念入りで徹底的であった。
      
       真っ赤な焔と黒煙が星の下まで昇り、その上橙色の積乱雲が覆い敵機が
      
       赤く輝きながら二 三 機づつ飛来する。

       山の麓の火勢に、西富山へ疎開させている妻子の安否が気づかわれる。

       午前2時、空襲警報解除の合図を待って、西富山へ直行す。

       途中、道路にうずくまりながら、火災を拝んでいる沿道の人たちの様子に全く

       胸ふさがる。

       全速力で自転車を飛ばし、やっと妻の里に着いた。

        大型不発弾が屋根を突き破って落下したるも、幸い火災は免れたのでホッと

       する。朝8時過ぎ富山師範に見舞いに赴く。 - 後文略 ー
        
      8月15日   墓参のため八尾にて敗戦を知る

       午前6時起床。
      
       皇国の現状が如何になりつつありや夢知らず、平凡に起床し予定の通り
      
       墓参に赴く。

       隣組の回覧板で、正午の報道の時間に陛下ご自身の重大なる放送が
     
       ある由、耳にする。

      
       ソ連に対する宣戦布告・若しくは更に国民に対する一大奮起の御要請、

       種々
考えながら9時 かんかんと照りつける川端道を、長男忠雄・母・妻・妹・

       義明 を
打ち連れて墓参に出かける。
  

       親子連れのこの墓参は平和そのものであった。
 

       墓地で警報に接するも、思いなしか虚ろなるものを感じながら、先祖に対

       して
敬虔な祈りを捧ぐ。
 

       疲れた足をひきずりながら、家に着き ラジオ を聞く。

       思いきや、今こそ大東亜戦争終結の勅語を耳にするとは。
 

       ラジオの前に集まった家人、皆相擁して泣く。

       夢ではないか、否 夢であれかし・・・・・。

       されど今や聖断は下ったのである。

       興奮と激情を押さえもやらず、直ちに帰福の用意を整える。

       福光着、午後8時半。直ちに主事宅を訪ね、今後の方針を尋ぬ。

       晩は転々として安眠できなかった。

       世界萬般の情勢下に於て、陛下の断は賢明なり と しみじみ思ったが、

       前線に散った幾多の勇士、尚いま敢闘中の勇士のことを思うと、今後の日本

       のことが思われ全く暗い気持ちに襲われる。

       傍らでぐっすり寝込んでいる可愛い児童たちの寝息を聞きながら、次世代の

       皇民の姿を思い、再建教育の重大性を深く思うのであった。

       自分はいま、教育者としてあることに絶対の幸福と使命を感ずる。

       必ず、再建日本の大道を建設しよう。

          
       8月16日    慟哭の16日 

        涙の15日は暮れて、慟哭の16日来たる。

        朝食後、児童に語り相共に涙す。

        されど、涙の裡に我等、皇国の再建を深く誓うのであった
。   

   

           敗戦に  言うも物憂し  今日の月

     星輝きて命あり されど 輝けるがゆえに  我は悲しき

                                           −次回に続くー

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