私達の間で 図書館のおじさん と呼んでいた 石崎俊彦さん は優しい方でした。
福光に疎開している間のお勉強は、福光国民学校や女学校で使っていないお教室を
やどかりのように移動してお勉強をしていましたので、時とすると居場所がなくなって
しまうことがありました。そういうときは女学校と続いて建っている図書館に行くことが
多かったのです。特に自習時間のときなど良く行きました。
冬は大きな火鉢とおじさんが炊いてくださるストーブのまわりで、凍えた手足を温めな
がら 家のことや、食べもののことや、いつ東京に帰れるのだろうか、などを話したも
のです。
私達を慰めようと、レコードコンサートを開いてくださったり、良くお話をして下さったり、
私達にとって生まれてはじめて過す雪国でしたが、図書館のおじさんのことは、思い出
すと胸にポッと火がともるような あたたかい方でした。
石崎さんがお書きになった下記の 疎開児童と図書館 を読んで下さい。
| 疎 開 学 童 と 図 書 館 石崎 俊彦 昭和20年4月10日、疎開の東京女高師附属の国民学校生徒、144名の寮生活も始 まり、その頃同校主事の堀七蔵先生が来館されて、館の一部を教室に利用されたき 希望との事であった。 昭和19年には すでに福光国民学校に赤松国民学校生徒124名が入校していて、教 室不足の深刻な状況下にあった。晴天の日は出来得る限り野外を利用して青空教室 で凌ぎ、雨天の場合の対策との事であったが、この頃の図書館はほとんどその機能を 失った存在であったので利用出来得る室々を役立ててもらう事となった。 私は司書として仕事に就いていたが、いつ応召されるか判らない立場にあった。当直 日誌に下記の表がある。 5月15日 東海31223部隊が置かれ(中略)図書館児童室も医務室として接収された 8月30日 同部隊が解散となり、児童室も返却されたので以後利用も可能となる 10月19日 赤松校は帰京したが、東京女高師は越年して引き続き疎開生活を行うこと になった 私共としても出来得る限りの心配りをしなければならなかった。冬が去り春が来て小矢 部川の川水も水嵩を増す頃、愈々帰京の日が迫り、私は学童達に記念の寄せ書きを 書いてもらうことにした。3冊の冊子がこうして残された。どのページにも1年間の思い 出が書き込まれ、辛く苦しい事ばかりでなく嬉しい事もあって、そんな画や文集を識っ て私はほっとした思いであった。 コンサート・童話・川遊び・蕨取り・石炭ストーブ・・・・・。 肉親や家屋を失った苛酷な立場の学童もあると言う。辛苦に耐えて1ヶ年の疎開生活 の思い出を抱いて帰京する学童達を、21年3月7日の駅に見送り、この人達の行く末に 幸多かれと願って手を振った。 『私の図書館史』より抜粋・抄録 |
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当 時 の 福 光 町 図 書 館
私達はこの入り口から出入りをしました
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お別れに書き残して来た3冊
わすれな草 偲びくさ 想ひ出草
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