福 光 再 疎 開 の 計 画   堀 七蔵


以下は堀七蔵著『学童の疎開』 ‐ 昭和40年発行 ‐より抜粋したものである。
堀先生は当時主事として(通常の学校の組織では校長)この集団疎開に関して
筆舌に尽くせぬご苦労を重ねられた。昭和53年11月 【教育】 に専心された
92年の生涯を閉じられた。


11月ごろになると(注 昭和19年)東京空襲がさらに頻発となり、小平など西部

沿線にも爆弾投下があり、西武線も不通になることがあった。東京都の学童疎開

は、東北地方や北陸地方に大仕掛けに教育局で手配された。


しかし官立(注 国立)の附属国民学校などは手が廻らないため、各校それぞれに

疎開地を探さねばならなかった。私は再疎開地を富山県礪波地方と決めた。

昭和20年2月下旬、富山県に出張して深い積雪の中を井波町の本願寺別院瑞泉寺や、

城端町の城端別院善徳寺を訪ね歩いたが、いずれも事情が許さなかった。

そこで福光町に至り、福光国民学校校長 中邨栄蔵(私の実弟)に相談した。福光町

のお寺には既に東京の赤松国民学校が来ていたので、久米川の場合同様 福光国

民学校を中心として、民家に分宿する方針をとることに決めた。


そして 中邨、山下、石黒、吉波、前田、舟岡、の各家に学寮の開設をお願いし、承

諾を得ることができた。更に塩谷宇一町長に女高師附属国民学校の集団疎開の受け

入れ方と、福光国民学校の一部に調理場を設けること等をお願いして大急ぎで帰校、

4月上旬に久米川より福光へ移動するための一切の手続きを進行させたのである。
 

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  昭和20年(1945)の福光    平成16年(2004)の福光(福光HPより

  本町通りは突き当たりに前田寮がある。現在は道路整備のため取り壊されて

  通リが北東方面に突き抜けている。

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4月10日夕刻、私ども集団疎開の一行は福光駅に到着。

久米川から送ってあった児童達の荷物はまだ着いておらず、その夜は4年以下は各寮に

分散、5年以上は立野ヶ原滑空訓練所に宿泊させていただいた。

第一夜から福光町の多くの人々の親切に包まれて疎開生活は始まったのである。

11日 町及び学校の受け入れ式。

12日 荷物到着。福光校の高等科男児も手伝ってくれて駅から宿舎まで荷物を運搬。

13日 各寮舎荷物の整理整頓。

中邨寮 3年女子 ・ 山下寮 2年男子と女子 及び3、4、5年男子 ・ 石黒寮 1部

6年女子 ・ 吉波寮 2部6年女子 ・ 前田寮 4,5年女子 ・ 舟岡寮 6年男子

このとき児童124名(全在籍児童の約30%)教職員を含めて総勢144名であった。

21日から授業開始。

福光国民学校と赤松国民学校との関連については、次のような方針でのぞんだ。

 1) 根本方針=  行事、経営、訓練体系は独自の立場をとる

 2) 国家的行事= ご真影奉拝の要ある四大節は合同して行う

             (注 元旦・紀元節・天長節・明治節) 

 3) 郷土的行事= 春秋の祭礼・開町記念日・出征兵士の歓送迎・英霊の出迎え・
 
              防空日などの参加。

 4) 月例行事= 行軍・発表会・非常訓練などは、その都度適切な連絡をとる。

教場は2〜3年は各寮舎において。4年以上は図書館、女学校、国民学校を使用。

8月7日 西尾寮開設 4,5年男子。8月9日 本田寮開設 2〜3年男女子。 

その直後迎えた 8月15日(注 日本の敗戦)であった。 

  
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