は じ め に 2
当時子どもであった私達が、戦後40年経った頃から 疎開に関してのできるだけ
のこと を調べて遺しておこうと思い立ち、疎開参加者に呼びかけたところ
参加者約250名のうち、17名の人が絵日記を持っていることが判りました。
個人でなく先生が男子生徒(15名)に日替りで書かせた日記も残っていました。
ほかに家庭との往復書簡や絵などもあり、富士ゼロックスの全面協力で
カラーコピーとして遺すことが出来ました。3000枚にわたる膨大な資料は国立
国会図書館でご覧になれます。〔 国会図書館での閲覧請求NO YQ4―115
〕
子育てを終えたあとのエネルギーを注入した記録作りから15年程が過ぎました。
資料の中には「記録として公表することはしたくない」と言われる方の日記もあり、
このホームページを作りながら、許可を得つつ進んで行こうと思います。
無理をせず毎月少しずつ資料を足して参ります。
疎開地は 区ごと で割り当てられました。私達の学校は官立→いまの国立で
あったために割り当てから外れ、独自で探さなくてはならなくなりました。
前半 学校の郊外園の一部を急遽改造して本部とし、寝泊のみ近くの民家に分宿
食事・勉強は全て戸外で行いました。昭和19年から20年にかけての冬は特別の寒さ
でしたから、戸外での生活は、それは厳しいものでした。
女高師は(現 お茶の水)一種のエリート校だから、疎開生活も恵まれていたに違いない
と言われる方があります.お寺や旅館などが疎開先となった 他の学校と比べると、
現実は冬でも一日中を戸外で生活を強いられた過酷な日々だったのです。
疎開地 都下久米川 (S19年8月→20年3月)は都心に近く、11月以後の後半は度々空襲に
見舞われ、安全ではないということで、主事(校長)先生の故郷富山に再疎開しました。
富山県福光 S20年4月→21年3月 しかし戦争が終わっても、空襲によって焼け出された
文部省の一部が校舎を使っていたため、疎開生活は更に半年延び、東京に帰ったのは
終戦の翌S21年3月でした。
以上のことを頭の中に置いて資料をご覧頂ければと思います。
《平和祈念プロジェクト21》というグループ名について
あの戦争を伝える人間の証言者は やがて確実に誰もいなくなるでしょう。
私達が消え去った後も絵日記に時代の証言者となって次の世代に伝えて欲しい。
命と 自由と 平和は あたりまえにあるのではなく、とてもとても大切なことなのだ
ということ。私達は平凡な家庭の一主婦ですが、私達に出来る範囲での戦争体験を
20世紀から21世紀のみなさんに伝えたいのです。
戦争のない,日本の,世界の平和を祈念し,私達の心からの願いを込めました。
追加記事
記録作業が終了した後に出てきた日記類があります。4名9冊と前回カラーコピー
化に間に合わなかったためにモノクロでコピーをしてあった3名7冊、計7名 16冊を、
2003年にキャノン株式会社に於いて、追加コピ−をして頂き、3部作成しました。
前回同様 1部は私ども 平和祈念プロジェクト21 が、お茶の水大学附属小学校の
同窓会室に保管して居ります。1部は お茶の水大学附属図書館に、1部は
国立国会図書館にそれぞれ追加納入の予定です。(2005年3月)
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