| 戦後60年にあたって 管理人 美川季子 戦争が終って60年 8月15日がやって来ました。戦後40年に私達疎開児童は疎開先の 富山県福光町を訪ねました。そのとき、全員が毎日欠かさず書いていた『絵日記』をまだ持っている人が何人かいることが判った事から、疎開生活を記録に残そう と言う活動がはじまりました。以来20年が過ぎ、その間の活動は大きく3っに分けられます。 @日記他資料の収集、先生・親・受け入れ先の取材を行い、学校の創立記念日に合わせての校内での展示、小冊子の発行など『お茶の水疎開の会』を結成して、有志による連日の作業が続きました。資料をまとめカラーコピー化して国立国会図書館に寄贈しました。完成を一応の終点として『疎開の会』は解散。出来上がった資料をより多くの方々にご覧頂く為『平和祈念プロジェクト21』を結成。(但しメンバーは3名) A展示を各所で行いました。会場は東京新宿伊勢丹・伊勢丹相模原店・大阪ガス各支店・岡山子ども博物館など、たくさんの来場者をお迎えすることができました。 翌年には、兵庫県宝塚市の『手塚冶虫記念館』でも、手塚治虫さんの漫画とのコラボレーションで展示会をして頂きました。同時に『ガラスの地球を救え』という市民参加によるミュージカルも上演しました。 Bミュージカルは素晴らしい出来でしたので、展示とミュージカルを持って外国へも と いう話が具体化しましたが、メンバーのひとりが体調を崩し、メンバーから抜けることになりました。折からバブル崩壊の末期となって、外国へ持って行く事は断念せざるを得ませんでした。 以後8月の終戦記念日が近づくと、あちこちから問い合わせがあり、貸し出しなどと同時にパソコンに挑戦、ホームページを作ろうと思い立ちました。当初2年の予定が3年かかりましたが、ようやく日記の上では 子どもたちは疎開先から家に帰ることが出来ました。少し肩の荷が軽くなったところです。 折から、戦争が終って60年。 メンバーのうち、健康を害して1人抜けましたから、結局『記録に残そう』と最初に提案した2名の言い出しっぺが残りました。私達は寿命の続く限り資料の守番をやっていくつもりです。 藤子不二雄という漫画家は2名でひとつ名前を使っていましたが、このホームページの管理人も1人ではなく、前田徳子(旧姓梛野)・美川季子(旧姓大沢)の2名です。 10年ひと昔と言いますが、む(六)昔とは言いませんね。ずい分前のことのようで、でも私達にとっては、ちっとも 昔 のことではありません。私達が生きて来た時代は昭和から平成へと、変化の激しい70年でした。生きることだけが一生懸命だった時代から、気がついてみると、平和が続いたというのに、失くしたものの多さにも呆然とする今の世の中です。60年の間 私達は何か間違っていたのだろうか と考えることもあります。 ホームページの始めの『ご挨拶』や『はじめに』にも書きましたように、私は60年前の戦争で亡くなった全ての方の命を頂いて、いま生きていると思うのです。人間は1人では生きることはできません。周りの人や国同士と手を繋がなくては、人間にしかできないことです。命と 自由と 平和 は、当たり前にあるものではないことを、次世代に伝えたいという思いを胸に、ホームページを作って来ました。 敗戦から7ヶ月後、疎開から我が家に帰ってホームページの日記は一応終了しました。あとは、数々の資料を続けて載せて行きます。 戦争を放棄した日本の未来の平和を心から願って、私達に出来得る精一杯の力を出して作ったホームページページです。引き続きご覧下さいますようお願い申し上げます。 2005年8月15日 美川 季子 |
我が家の8月15日 管理人 前田徳子
昭和20年8月15日 私の家族は、両親と兄妹の一家6人が五ヶ所に分かれて、
その日を迎えました。
父は 軍医として南方軍で
母は 中学1年の次兄と共に東京の自宅で
長兄は 大連の大学から動員されて旧満州で
姉は 女学校4年 動員先の中島飛行機製作所で
そして私は 学童集団疎開先の富山県福光で
父と母と私の 8月15日 の日記から。
父 正午天皇陛下のご放送を拝聴す。(よく聞こえた)大日本帝国遂に敗れたり。
母 正午戦争終結の放送あり。驚きの外なし。
私 ・・・体重測定があった。増えていると良いけれど減っていたらいやだなあと思いながら
計るところに行った。測ってみると0.8キロ減っていた。「減ってもこの大東亜戦争には
必ず勝つぞ!」と思った。・・・中略 油みそのなす、お薯ご飯、とてもご馳走だ。この戦
争中 こんなおいしいご馳走をいただけるのは、本当にありがたいことだと思った。・・・略
(戦争が終ったことをまだ知らない。一部の生徒はこの日に敗戦を知ったが、私達が知
るのは翌日になる=ホームページ 敗戦を知るーその2 参照)
16日の日記には 「終戦の大詔を拝して」という題で感想文を書いた。思ったことをどんどん
書いた。これからの自分の決心を書いて終りにした。」とだけで、内容は書かれていません。
記憶を辿っても全く思い出せません。
この日全員が書いた感想文は他の書類と共に焼却されたようです。一ヶ月後ぐらいでしたで
しょうか、疎開先の校庭で先生が山と積み上げた書類を長い時間燃やして居られたことが、
印象に残っています。
日記に終戦の事実を知ったとき、驚き、泣いた、と書いていますが、一方 戦争が終ったのだ
から空襲はなくなり、家に帰れる と単純に考えてもいたのだと思います。
また「進駐軍が来たら何をされるか分らない」というような事が言われていた中で、軍人だった
父のことを独り心配していたことも確かです。
母の日記は、父の今後に起きることについて(戦犯に問われるのではないか?)、長兄につい
ては 文部省 外務省に問い合わせても生死の情報も得られない不安について、ほんのわず
か触れているだけでしたが、今迄と違った不安を抱えてどんな思いでいたのでしょうか。
以下母の日記より
姉 20年8月20日 工場行き終了。
私 21年3月 雪国での越冬を終えて帰京。
父 21年9月 心配していた戦犯には問われず、無事帰国。
長兄 22年3月 兄とは判らないようなやつれた姿で帰国。生きるために食堂で働いていた
とのこと。
電報を依頼したのに、東京駅には誰も迎えに来ていないので皆死んでしまったかと思ったそうです。
玄関先での「誰もおらんのか」の声に家の中にいた家族はびっくり。代金だけ取って電報を打たな
かったのでは?(当時はそのようなことは頻繁にありました)
何はともあれ 昭和16年12月4日父が出征してから 5年3ヶ月ぶりに家族全員が揃いました。
一家の誰もが欠けずに顔を合わせることができたこと、昭和4年に建てた我が家が戦災に遭わな
かったことは、犠牲になられた方には申し訳けありませんが、ありがたいことでした。
戦争は絶対にしてはならない。
何よりも尊い命を失い、文化を失い、武器には多額のお金が使われる。それを地球上から
飢餓をなくすことや病気を治す為に使われる世の中になることを願っています。
今日 8月15日は終戦から60年。第二次世界大戦を知る人も少なくなりました。
世代ごとに それぞれが戦時中に体験したことを次の世代に語り継ぎ、文書で伝え、私達が
いなくなったとしても、それを引き継いで頂きたいのです。
1日も早く 世界が平和になることを祈念しています。
2005年8月15日 前田 徳子
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