福 光 の 生 活 が は じ ま る


       ご飯が少ない 身投げがしたい つらい 
   ふだん思っていたことを 全部はがきに書いて 先生に叱られる


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 4月13日(金)晴
    6年女子

  
 
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朝食が終ってから、吉波寮へ行き、荷物を出てきちんと整頓をした。それが終ってからうすべりをとり、下に敷いてあった紙もとって はいた。うすべりなどをしいてから、きれいにふいた。とてもきれいになった。

 4月14日(土)晴
    5年女子


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今日は朝5時起床だった。それは入営の方を送るためだ。お洗面をせずに並んで駅まで行った。朝早く外を歩くことはめったにないので気持ちが良い。
汽車の窓から3人の兵隊さんが体を乗り出していらっしゃる。私達は汽車が見えなくなるまで ばんざいを叫んだ。何だか目が熱くなるのを感じた。
午前中富山のお山のそばまで おさんぽした。小川にそって歩いた。本當にうれしい たのしいおさんぽだった。つくしの ぼうやもたくさん暖かい日尚に(注 日差しの誤り?)目(ママ芽)を出していた。
4月17日(火)晴
     5年男子
  
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今日は、午前中しゃしんをとりに行きました。神社でとりました。しゃしんやがなかなかこないでとてもたいくつしました。
午後本を読みました。夜神尾先生に本を読んでいただきました。そして花火をしました。
 4月20日(金)曇
     6年女子

    
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今日は朝会の時に運道具の配給があった。男子4年以上は、野球のバットとボールで他の組は大きなボールだった。大切に責任をもってお使いなさいと岩丸先生が言われた。大切に皆で使おうと思った。
1時間目の国語は山下寮の八畳でした。2時間目も山下寮で暗幕のかぎを糸でつけた。3時間の地理では6年全体でした。
昼食の後は、校長先生からのお手紙が来て斎藤先生が読み上げて下さった。

13日の空襲で女高師に焼夷弾が5,60発も落ちたそうだ。附属国民学校には28発も落ちて火災が起きたが、みな消し止めて一眠も(注 一睡の誤り?)しなかったそうだが翌日には もう工場に行ったそうだ。もう当に(注 本当に?)えらい。
午後はお裁縫を石黒さんに帰ってした。それから お風呂に入ったり日記を書いたり手紙を書いたりした。
4月21日(土)
   晴のち曇り
    6年女子


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朝会が終ってから吉波寮に帰って綴方用紙と筆箱を持って小矢部川へ行った。川の音を聞きながら黒龍江の解氷をやった。とても気持ちが良かった。
それが終ってから自由題で綴方を書いた。私は「春が来た」という題で書いた。お昼までに書き上げた。午後は自習なので吉波寮へ帰って日記を書いた。
夕飯もすんで寮舎へ帰ると、森先生がお散歩に誘いにいらっしゃった。高田先生が
「行きたい人いらっしゃい」とおっしゃったので私はついて行った。5人で手をつないで
「夕焼け小焼けで日が暮れて」と歌いながら堤を歩いて行った。
桜がとてもきれいだった。下を通ると良い匂いがした。きれいな桜が落ちていたので、お留守番の方のお土産にした。鉄橋を渡り始めると雨がぽつぽつ降って来た。
お墓の前に行くとこわいので急いで通り過ぎた。雨がだんだんひどくなって来たので、5人でさっさと行った。先生と離れてしまうと急にこわくなって きゃーきやー言いながら先生のところにもどった。帰ってからお土産の桜を一輪挿しに挿した。とてもきれいだった。

 4月22日(日)晴
     6年女子


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今日は青少年学徒に賜りたる勅語記念日で本當であれば明治神宮に行軍して必勝を祈願するが、こちらへ来ているし。畏れ多くも米機が神域に投弾したりして 行軍も出来ない。明日立野ヶ原の訓練所に行軍する。朝会後八幡様に参拝して、はるか東京の方へ向いて明治神宮に拝礼し 勅語を奉読した。
午前中お洗濯物を持って小矢部川に行った。燕が電線に取って(注 止まっての誤り?)いた。燕がこの若葉の萌る日本に来てきっと東京の方へも行ったろう。そうして焼け跡を見てどんなに思ったろう。小矢部川の川原でごしごしとお洗濯をした。
明るくって とても良く洗えた。洗えた順に
そこらの木にひっかけた。できてから半乾きだが持って帰って山下寮で干した。
午後は桜の花が咲いているので花見に歩いた。小矢部川のほとりで、すみれやのびるやいろいろ摘んで帰った。ずいぶん歩いた。採ったのびるは、玉はお味噌をつけて食べて、葉はおつゆに入れていただいた。
 4月23日(月)晴
     5年女子

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今日は行軍だ。訓練所が目標だ。一生懸命に歩いた。畠道を正しく列を作ってー。あついので何枚もぬいだ。
石黒所長さんからグライダーの事についてお話をお聞きした。ずい分かんたんな仕掛けで作ってあっても、うまく飛ぶのでびっくりした。野原で楽しくお弁当をいただいた。
それからゴム飛びをした。疲れたので野原に寝そべっていろいろお話した。

何だかお家に帰りたくなって目に涙がたまって来たが、ぐっとがまんした。
前田寮に帰ってから日記を書いた。今日は私の班長だった。
良い班長で過せたかしら?
 4月30日(月)晴
     5年男子

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今日午前中授業をしました。午後はがきを書きました。そのときみんな ごはんが少ない、身投げをしたい、つらい、という ふだん思っていたことを全部はがきに書いてしまいました。
ぼくが弟のところへ見舞いに行って帰って来ると、みんな7号室に集まって斎藤先生に何やら言われています。入って聞いていると その原因がわかって来ました。
それは葉書の事なのです。夕食後3部5年
だけ残されて、みんなとても叱られました。しかしぼくたちだけ呼ばれないので、不思議に思って行って見ると、べつに何も
言われませんでした。
 

日記のカラーコピーによる記録が終了した後、更に 個人が所有していた
日記や往復書簡などがみつかりました。
しかし3000枚に及ぶ膨大な量を社会貢献として無料で引き受けて下さった
フジゼロックス社に「また出て来ました」とこれ以上お願いする勇気は流石になく、
さて、どうしたものか と思案して居りました。
今度はキャノン社にお願いをしてみようと思い、私どもの主旨を書類にして郵送致し
ましたところ、幸いにもキャノン社の 社会貢献部 で、ご快諾頂き、後から出た15冊を
2003年秋カラーコピーで前回と同じく 3部作成して頂くことができました。
男の子は先生が輪番で書かせたものしか残っていなかったのですが、これによって
5年と3年の男子個人の日記が新しく加わりました。このホームページ作成までの展示や
出版『疎開の子ども600日の記録』には間に合わなかったものですから、ホームページ
上が初公開になります。
上記の おなかがすいた・みなげがしたい・つらい・とみんなが葉書にに書いてしまった
事件は、叱られたことがよほどこたえたのでしょう。
新しく加わった日記の著者 当時5年の 守口 孝 さんの日記から同じ内容のものが
以下の日記です。

    上の絵と同様拡大してご覧下さい


         ↓                      ↓



5月30日に日記が
書かれていないので、先生の
30日の日記をつけよ
の朱書きがあります

    4月30日(月)晴

    注 5月2日に書き
       足したものです。

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