福 光 へ 疎開先 富山県西砺波郡福光町
福 光 に は 着 い た け れ ど
昭和20年4月9日の夜 上野駅から汽車に乗り、座席に3人づつ座って出発 北国に向いました。
母親へのアンケートで もう会えないかも知れないと思った・汽車が出たあとホームにしゃがみ
こんで泣いている母親を見た などの回答もありました。
翌10日 午後高岡で城端線に乗り換え夕刻福光駅に到着。薄暗くなった雪道を4キロぐらい歩い
たでしょううか、実際の距離はもっと短かったのかも知れませんが、雪まじりの冷たい雨の中を重い
荷物を持ち 心細く 子ども心に遠く遠く感じられた、その夜の宿舎 立野ヶ原までの道のりでした。
交通事情で荷物が到着していなかった為で、結局荷物は12日に到着しました。
この月から、当時の5年男子15名の担任の斎藤喜門(よしかど)先生が輪番制に子ども達に絵日記を
書かせていたものが残っています。4月の終りに斎藤先生の『日記についての上書き』を載せます
のでご覧下さい。どの学年も自分の日記以外に交代で絵日記を書いた筈なのですが、残念ながら残っ
ていません。
戦後40年めに わずかに自分で持っていた17名+男子15人 68冊を集めることが出来ました。
特に数少ない男の子の日記は貴重なものとなりました。しかし紙質の悪いわら半紙に書かれたもの
ですから劣化が激しく、いまでは さわるのも難しい状態です。ここでは記録のためにカラーコピー化
したものを使用しています。作業終了後に男子2名(3年と5年)の絵日記が届けられ、今回のHP上に
は順次載せることが可能となりました。
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| 4月9日(月)雨 6年女子 ↓ クリック |
いよいよ出発する日が来た。何だかうれしいような 悲しいような気がする。 朝 ちょっと目を覚ますと、お母様が私を抱きしめていて下さった。暖かいやさしいお母様。私は目に涙が出て来た。私は富山に疎開してお手本になるようなりっぱな少国民にならなければならない。 そして来年帰って来たならば、お母様のお手伝いをしようと心にちかった。 先生の評 よく感じが出ていますね ↓ 下に続く |
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お食事が終ってから、お姉様はお家で私の つぎもの お母様と私は雨の中を明治神宮へ参拝しに行った。 雨が降っているが参拝しに来ている人もいた。玉砂利をさくさく踏んで行った。神殿の前、何とも言えぬ神々しさ。心の底まで澄むようだ。「パチパチ」二拍手の音がこの静かな神殿にひびいて行った。 私は「どうか日本の国が勝ちますように。私が疎開して りっぱな少国民になりますように」とお祈りした。 家へ帰って、お母様とお姉さまといっしょに私のお弁当を作って下さった。 夕食も終り、いよいよ家を出かけることになった。お家の方に「行ってまいります」をして玄関を出た。なんだか寂しい気がする。お家ともしばらくお別れだ。 上野駅まではお母様とお姉さまとお兄様がお見送りに来て下さった。上野駅を降りて車坂口に行った。行ってみると私達の組の人たちは2〜3人いらしていた。しばらくして集合になったので、おかあさまなどからお荷物を受け取りお別れした。荷物はとても重い。 整列してすこしたってから、お母様方の方を向き、みんないっしょに「行ってまいります」と大声で言った。しばらくしてからホームへ入った。「お母様さようならー」ホームで待っていると汽車が来た。急いであわてずに乗った。乗ってから先生に荷物を上げていただいた。ひとつの椅子に3人ずつ座った。すこしたつと「ポー」と汽笛が鳴り、走り出した。 外は真暗で何も見えない。「早くお休みなさい」と先生に言われたが なかなか眠れなかった。が、知らないうちに とうとう寝てしまった。 |
| 4月9日(月)雨 5年女子 ↓ クリック |
今日は朝からしとしと雨が降っていた。もうお家での1週間が夢のように過ぎ去ってしまった。夜はこのお家を出なければならないと思うと悲しい。又いつピアノを弾けるかどうかわからないので、午前中ずっとピアノを弾き続けた。私の可愛いピアノ。 夕飯は母の心づくしのお赤飯やおしるこやみつ豆などのごちそうだった。父も私のために早く帰って来て下さった。大きくなってきっと御恩返しをしなければ。 夜、父と母と姉と中川さんのお家の方と雨の中を行った。悲しくて目に涙がたまっていたけれど、真っ暗で見えなくて良かった。上野で又引っ込んでいた涙があふれた。でもお国のためだと思って悲しいのをがまんした。自分の心の弱いのを自分でしかりながら汽車に乗った。 |
| 4月10日(火)雨 5年女子 ↓ クリック |
今日は朝汽車の中にいたのでびっくりした。お食事はおにぎり2つだった。汽車の中でいただくお食事は又違った感じがする。しばらく行くと浅間山や川中島が窓の外に見えた。本当に歌の中にあるように山や畑があとへあとへと飛んで行ってしまった。トンネルをいくつもいくつも通る。だんだん雪が見えて来た。高い山がいくつも雪にかこまれた感じで並んでいた。 午後高岡で乗り換えて荷物車に乗った。混んでつぶれそうだったが、がまんした。福光へ着いた。 国民学校の(注 福光の)生徒さんがお迎えに来て下さった。まだお荷物が着いていないので立野ヶ原の訓練所でお泊りだった。床の中に入ったらとても悲しかった。知らない間に眠ってしまった |
| 今日は午後4時半ごろ福光へ着くそうだ。 朝から待ち遠しい。ここで(注 汽車の中で)朝と昼のごはんをいただくのかと思うと、うれしくて待ち遠しい。先生に「乗り換えはいつですか」などと聞いた。汽車の中の人が「朝のご飯です」と知らせにいらっしゃった。それから少ししてから朝食をいただいた。あまりお腹が空いていないので、あまりおいしくなかった。 それから国行さんや菅村さんとトンネルの数を数えた。23ぐらいあった。宮地先生が浅間山のことや妙高山のことを説明して下さった。私達も6年になって「平和だったら登れる」と思うと、とてもうれしくなった。 さて いよいよ乗換えだ。重い荷物を持って城端線に乗った。郵便車で座るところはひとつもない。5つか6つめに福光へ着いた。雨なので とても歩きにくい。やっと福光国民学校にへ着いた。 「やれやれ」と思いながら講堂へ入った。今日は まだ荷物が届いていないので、立野ヶ原の修練所へ泊まらせていただくのだそうだ。又雨の中を行った。ずいぶん歩いてやっと修練所へ着いた。暖かい湯気の出ているご飯や、おみそ汁をいただいて、少ししてから寝床についた。2つのふとんに5人なのでとてもきゅうくつでおふとんからはみ出そうだった。でも寝られるだけありがたいと思った。 |
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| 4月12日(木)晴 5年男子 ↓ クリック |
立野ヶ原の練兵所で目をさましました。 先生が「今日は荷物が来ているぞ」とおっしゃったのでみんなは声を立てて喜んだ。 朝食をすませてから、所長さんにおわかれをして、練兵所を出た。道は遠い。1里たっぷりある。5・6男は駅に荷物を取りに行き運んだ。 先生方の使うくわは(注鍬?)一番重かった。 福光国民学校の高等科の男子も手伝ってくれた。こうして 1日は楽しく暮らした。 |
| 4月13日(金)晴 5年男子 ↓ クリック |
今日は午前中 自分達の荷物のせいとんをした。その途中に警戒警報があった。でも つづけてやっていると、敵 B29のような爆音がした。だれかも「敵機 敵機」とさわいでいる。 午前中に全部片づいたので喜門先生に見ていただいた。 午後から ほかのいろいろな寮舎を見に行った。石黒寮や中村寮(注 中邨寮の誤り)などと見ていくうちに帰って来てしまった。そのあとでいろいろなことをして遊んだ。 注 到着の夜の宿舎について 立野ヶ原 訓練所・修 練所・練兵所・など 書く人によって表現が異って いますが、同一場所です。 ※ この日、アメリカの大統領ルーズベルト 死去のニュースが伝わる。 |