9月 國行紀子父 資料

           ▼以下は4年國行紀子さんのお父様の手記です 

4年女子國行紀子さんの日記 添え書き (日記は昭和20年8月17日〜20年9月14日)

戦後3年経って、日本の復興期のある日 くずかごに捨てられている私の疎開学園当時の
日記の一部を父が見つけ、手記をつけてひもで綴じ、すぐに返してはまた捨てると思ってか、
その後10年近く経って 私に返してくれた。
今ではかけがえのない宝物のひとつになっている。
−疎開記録集 総覧 日記についてよりー 

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           紀子の学童疎開日記    (4年女子 國行紀子父)

ある日曜日に家の中を掃除したり日頃乱雑になり勝ちの書類を整理していると、無雑作に

くず籠に投げ捨てられてある1冊の帖を発見した。

何気なく見ると それは紀子の学童疎開当時の絵日記である。何枚かあったものと思うが


それを破りとって その残ったものが捨てられたものらしい。

紀子にしてみれば親の許を離れて暮らした、あの不自由な面白くなかった日の記録に何の

意味もなく 早く忘れてしまいたいに違いない。


しかし子供を疎開せしめた親の心はどうであったろうか、戦争から子供を完全に守るため

には、東京に置いて一緒に暮らす事は危険であるに違いない。けれども疎開先もまた必ず

しも安全とは言い得ない。飛行機による全国土爆撃は何の雑作もなく行われる。

また子どもの集団生活が果たして完全に行い得るであろうか、不自由は仕方がないとして、

病気に罹りはしまいか、先生に迷惑をかけはしないか、また 親達の安否を気づかって心配

してはいないだろうか。教育の不完全なのは勿論しかたがないとして、情操教育は欠くるとこ

ろが多いと思う。


こんなことを考えて宣夫と紀子は学童集団疎開をさけて家政婦をつけ西多摩郡羽村に疎開

せしめた。


しかし羽村もあまりよくない。多分19年の9月から20年のはじめで切り上げをして、学校の集

団疎開学園に参加せしめた。

紀子は久米川、宣夫は保谷の学校農園の疎開学園にいた昭和19年の秋頃から20年の初頭

にかけて東京爆撃が漸時峻烈になったときに、特に荻窪三鷹を中心とする中嶋飛行機製作所

の襲撃が強くなって来た。久米川保谷の附近は屡々(しばしば)爆撃を受ける。親子別れて住ん

でいてもその度毎に子の無事を祈るのである。


こんなことで終に学園は再疎開となって宣夫は20年3月23日早朝池袋駅前に集合して、元気に

疎開地上越線石打に出発した。石打は雪が深いところだから まだ雪があるだろう。今日は空

襲がないようにと祈った。これより先3月10日は東京最初の大空襲で、本所深川は大部分焼失

し非常に多数の犠牲者を出してしまった。

次に紀子である。自分の家の強制疎開による引越しであるトラック荷馬車は終に我々の手に入

らない。自力による引越し以前の方法はない。終に荷車を引いた。妙子は馬力を出した。家政

婦の五十嵐女史も参加した。3月10日からはじめた疎開の引越しは終に4月2日自然に車輪がこ

われて動かなくなるまで続いた。紀子は(再)疎開準備で4月3日の神武天皇祭の日に妙子が久米

川へ迎に行き、夜遅くなって帰って来た。夜遅く眠いので不機嫌だったが元気だった。再疎開地は

富山県福光町で9日出発の予定だった。用務の都合で見送りが出来なかったが、暫くして福光町

の疎開学園は開かれることになった。

尚子は勤労奉仕で芝の安立電気会社へ出かけていたが、5月11日に これもまた富山県糸魚川

学校疎開に加わって出発してしまった。

これから子ども達が帰る10月までは全く生死境を出入りする生活であった。毎日の生活が命のや

りとりの生活だった。いま回顧しても実にいやな日であった。


8月15日終に終戦の大詔があった。 終に行くところまで行った。しかし 当時言われていたよう

に、本土決戦とまで押し詰められていたら 親子の再会は到底望め得なかったであろう。

終戦後疎開孤児が相当数出来てしまった。国力が衰えた日本が如何にして、この子ども達を教育し

て行くのであるか、思えば戦争の一番の被害者は子ども達である。

この日記は ただ紀子の疎開学園の日記とのみ考える事は出来ない。太平洋戦記の1頁だと思う。

いま苦しいながらも、先に光明を認めて働けるようになって来た。勿論インフレであり、物資は少く、

暮して行くのに非常に骨が折れる。けれども親子が無事再会して一緒に暮らしていける幸福を思う

とき、感謝の祈りを捧げざるを得ない。       昭和23年天長節佳日
  

                                      一郎 記 

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