7 月


    訓練上まことに憂慮すべき問題発生せり

  
     
ある事件のこと               
                      平田 煕 (福光 6年)


福光疎開時代―さびしさや わびしさ もさることながら、何よりもひもじかった。

”最上級生”ということもあって、たえず下級生の模範たるべく、先生方の指導は

厳しかった。でもナンダ!!先生たちのごはんは おれたちより、ずーっと多い!

大きな弁当箱に山盛りじゃないか!!ズルイゾーッ。

ときどき おやつとしての鯨煎皮(クジラの脱脂した皮を乾燥させたもの)や、乾パ

ンの配給があった。乾パンには うじ虫が巣くっていることもあったけれど、どうせ

乾パンを食べて育だったうじだ。エーイッ いっしょに食っちまえ、といった調子だ

った。

6年男子の作業のひとゆに、倉庫からの荷物の運搬があった。その中には食料

品も含まれていた。作業途中で 失敬 できる”ヤクトク”があるので、この作業に

は皆熱心だった。でも目だたない程度の”ヤクトク”はサソイ水でもあった。

そのころのクラスのボスはQ君だった。ついでに言うと、男子だけのクラスだった

3部6年には、たえず1人のボスがいて、一定期間のうちに それは次のボスにと

って代わられるのだった。今でいうところの”イジメ!"は、当時でも日常茶飯事だ

ったと言ってよい。

Q君のリードで、ある夜 その倉庫の襲撃が計画された。「風呂敷とか袋を持って

いる者は皆持ち寄れ」 コワゴワ僕も参加した。Q君の指揮さばきは見事だった。

たいした苦労もなく倉庫へ侵入出来た。暗ヤミの手さぐりの中で、先ずは手当たり

次第にムシャムシャ食べに食べた。たしかな手ごたえの品々を風呂敷や袋に詰

め込んで、寮に逃げ帰った。

この「事件」は、もちろんすぐにバレた。鯨煎皮を一度に食べ過ぎて、腹痛を起こ

す者下痢で便所から出られない者・・・・・。

その後3部6年のクラスは、他の学年クラスから切り離されて授業を受け給食をす

るハメとなった。そのときの「教室」は、しばしば小矢部川岸の広々とした土手の

上であった。トンボ・チョウ・バッタ の飛び交う「青空教室」は、むしろさわやかで

さえあった。

担任の八鍬先生に引き連れられて 毎日「青空教室」に向かう。しかし、先生はこ

の「事件」について、僕達を強く問責されることもなく、いつものように淡々と授業

を進められた。僕達自身は、この「隔離」された日々を どんな気持ちで過したの

だったろうか?

八鍬先生のふだんと変わらない暖かみに満ちた授業振りだけが、今も鮮明に記

憶の底に刻み込まれている。

私達の「福光」は、日本全体が「軍国」一色にぬりつぶされていた中で、明るいス

ポットライトの輪の中のように、地元の人々の素朴な溢れる善意と、先生方の必

至の集団生活指導に囲まれていたにちがいない。

「大東亜共栄圏」という美名の下にくりひろげられた 他民族侵略・略奪・暴行・殺

人行為は それを遂行する国の民衆自身にも、巨大な犠牲を強いたのであった。

とりわけ、子どもたちを わびしさと ひもじさへと追い込み、お国のために「欲しが

りません勝つまでは」という虚偽の世界へと導いて行ったことを、私達は決して忘

れてはならないだろう。

何故なら 40数年後の今日「負けたことだけが不幸だった」と唱道してはばから

ない人物を、一国の首相にまつり上げて恥じない、という性癖を 私たち日本人の

多数はまだ持っているのだから。                   〔1985年筆〕

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

訓練上まことに憂慮すべき問題発生せり 

この文字を学校資料から見つけたのは、お茶の水の学童集団疎開を記録に残すべく

活動を開始した 戦後45年が過ぎた頃でした。この”事件”は密かに処理をされたことも

あって、語られることもなく疎開を共にした私達のほとんどは知らずに何十年間を過して

いたのでした。記録作業の中で当事者の当時6年だった上級生から聞き、はじめて知る

ことになりました。

しかし 6年男子の日記は1冊も残っては居らず、この”事件”が一体福光での生活の

中で いつ のことだったのか、全く不明でした。例え日記の類が残っていたとしても、

おそらく記述はされていなかったと思われます。

たまたま 学校資料が小さいダンボール1箱みつかりました。資料は残っていない可能性

が大でした。終戦のすぐあとで、占領軍が来る前にと、先生方が慌ただしく沢山の書類を

福光国民学校の校庭で燃やしていらっしゃったのを おぼろげながら覚えていたからです。

敗戦とわかった翌日、戦争に負けた悔しさを感想文に書いた と日記に書いていますが、

現物はひとつとして残っていません。燃やした物の中に入っていたに違いありません。

軍国少年・少女だったのですから、かなり過激なことを書いた筈です。

出て来た学校資料は最小限のものでしたが、その中に”事件”についての記述がありま

した。これによって 5月半ば頃からしばしば倉庫の食料のつまみ食いが行われ、遂に6月

半ばに大きな食料倉庫襲撃事件 となったことが解りました。先生方はどんなにご心労だっ

たかと思いますが、なんとか秘密裏のうちに過ぎたようでした。

それにしても、平田さんの文中にある 担任の八鍬先生の対処は、今にしてまことに お

みごととしか言いようがありません。あの頃のことですから、往復ビンタが飛んでも不思議

ではない時代に、淡々と授業をすすめられたということは、なかなかできることではありま

せん。子どもの心に傷を残さなかったばかりでなく、心の奥にそっとあたたかいものを残さ

れたのではないでしょうか。


HPでの学校資料の公開については、現お茶の水小の許可を頂いて居ります。 編集者より


  トップページへ