下の文章は 7月 石田先生の 結婚ー召集ー出征 のあとで追加したものです。

石 田 佐 久 馬 先 生 への質問
 ご出征から疎開学園に復帰されるまで


6月と7月の間に、4年男子担任の石田先生が 結婚 召集 出征 と
1ヶ月の間にめまぐるしい身辺の変化で、疎開学園をお離れになった
様子を絵日記から抜粋して、ひとつのシリーズとしました。
後日 戦後の10月18日には無事に疎開学園に復帰されたことを書
き加えましたが、出征されたとは言っても敗戦まで1ヶ月足らず、更に
復帰されるまでの2ヶ月の間、どこでどのように過されたのか、伺いた
くなり質問をさせて頂いて、以下のようなお返事を頂きました。

1 戦時下で結婚をされた時、もし応召されたら ということはお考え
  に なりましたか?

答 田舎の風習として 男は徴兵検査(満20才)前後に結婚すること
  が当たり前であった。私は26才 村で一番遅かった。もし応召・・
  など考えるゆとりがなかった。

2 結婚後お住まいは福光近辺でいらしたのでしょうか
答 立野原寄り、高宮橋近くの安田先生(福光小の先生)のお宅の2階。

3 召集令状という現実に直面されたときのお気持ちをお話し下さい。

答 赤紙の召集令状を手にしたのは、昭和19年5月に続いて2度目。
  別に動揺はしなかったが、再疎開の生活をはじめたばかりの子ど
  も達を残して出征をするのは後ろ髪を引かれる思いだった。
  
4 入隊後から終戦までの生活や訓練など、また どこにいらしたので
  しょうか。そして敗戦はどのようにお知りになりましたか?

答 第1回目の召集は19年5月23日。上京して1ヶ月後のことだった
  ので驚いた。女子高等師範学校で教職員全体の壮行式があったの
  が印象的。式後 尾上柴舟先生(有名な歌人・書家・女高師の先生)
  が私のために歌を下さった。堀主事先生が「柴舟先生が歌をつくって
  くださるとは・・・」と感嘆されたほどだ。
  6月13日、中部第36部隊に入隊。3ヶ月間、1人前の兵士になる
  ための基礎訓練で心身共に緊張の連続だった。
  その間、戦地派遣の兵士を見送ること数度。中でもインド、ミャン
  マー(ビルマ)国境のインパール作戦に参加する兵士の出征は悲壮
  だった。もちろん深夜のこと。自分もそんな日が近い予感がした。
  訓練で苦しかったのは 夜間の6キロ行軍だった。眠りながら歩いた。
  また 練兵場の山の斜面を、下から匍匐(ほふく)前進するのはつら
  かった。夏の草いきれと滝の汗、後から追い立てる罵声とムチ、前
  から弾丸が飛んでこないのが救いであった。

  第2回目の召集は福光で受けた。20年7月19日八幡神社で壮行
  祈願が行われた。宮司さんの祝詞(のりと)の言葉と疎開児童のまな
  ざしが力にになった。
  入隊は福井県敦賀だったが、間もなく 8月15日。 暑い日だった。
  特別軍装に身を整えて営庭に集合、重大放送があるという。やがて
  スピーカーから流れる陛下の玉音は、電波事情か聞きづらく「ポツ
  ダム宣言」とか「ジュダク」など、断片的な言葉しかとらえられなかった。
  「敗戦」はあとになってからわかったくらい。
  その夜半島出身の兵隊との別れがあった。私の隣にいた若い兵士
  は誠実ないい男だった。その後音信もなく、今頃どうしているだろうか。
  翌日 新設の憲兵隊に入る命令を受けた。他の同僚は復員帰京と
  なった。憲兵はいずれ殺されると言うデマが飛び交った。
  憲兵といっても敗軍の憲兵である。その主な任務は戦後の社会不安
  を取り除き、暴動や内乱を未然に防ぐことにあったようだ。
  ○米軍捕虜との連絡調整
  ○大衆の誘導・管理(人ごみの多い地点)
  ○慰安婦(米軍捕虜の)誘導・世話。
  ○復員兵の安全確保
  ○思想調査                          などであった。
  駅前など一般大衆が集る所は暴動がおきやすいので警察官も多く配
  置されたが「憲兵」と記した赤字の腕章のおかげで、大衆は指図に従
  ってくれた。
  敗戦で米軍捕虜は立場が一変、大手を振って町を歩いた。そこで婦
  女子の夜間外出は禁止された。
  憲兵はアメリカ兵に会うと、こちらから敬礼し「アメリカン ジェントルマン」
  と呼びかけるよう指示された。

5 軍隊の中での動揺や反発などはなかったのでしょうか?
答 敗戦を境として、軍隊での動揺や反発はなかったようだ。あきらめ
  のムードが漂っていた。何よりも陛下のお言葉が身に沁みたからだ。
  軍隊では「敗戦の原因は何か」を論議した。「日本魂だけでは勝てな
  い」とか、「物量と科学の差だ」など、割り切った意見も出た。また「軍
  隊に於ける極端な人権無視と悪平等」などをなじる者もあった。

6 終戦から疎開学園復帰まで、どのようなお気持ちで どのようにお過
  しになりましたか?
7 終戦後の疎開学園で、子どもたちに日本の未来をどう考え指導したら
  良いかをお考えになったことと思います。お聞かせ下さい。
8 その他先生が伝えたいと思われることがありましたらお願い致します。
答 6〜8 戦争は終わった。上から下りて来る「命令」に従って教育を行
  う事はなくなった。が、これまでやって来たことを全部否定し、バラ色に
  ぬりかえることは難しかった。
  「国敗れて山河あり、城春にして草木深し」 杜甫ー春望
  「夏草や つはものどもが 夢のあと」 芭蕉ー奥の細道  
  の歌意の心情が身に沁みた。
  祖国が荒廃しても、母国語が健在すれば必ず立ち直れる と信じ、国
  語教育に没頭。
  優劣競争でなく、人と人が愛で合う楽しみの場が教育でありたい、悠久
  なる日本の理想を全世界に広げることを理想としたい。

                  
                             (2004年 11月取材)

      トップページへ