戦後の卒業式 

              

        
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 昭 和 20 年 度 修 了 生 総 代

  

    第三部第六学年
  
         壽 田  妙 観

                    昭和21年3月24日

 春の陽ざしのあまねく平和にふりそそぐ今、私達は懐かしの母校を巣立とうとして居ります。

顧みれば、私達が過した学校生活は、我が国にとって ほんとうに多事多難な時でありました。

私達の中、六年生は、支那事変の最中 昭和15年4月、母に手をひかれて校門をくぐりました。

そして、その年の秋 先生方をはじめ お友達と、輝かしい皇紀二千六百年を迎え、歓喜に満ちた

お祝いを致しました。続いて12月3日には、畏くも皇后陛下の行啓を仰ぐなど、感激の渦巻きの中

に1年生を送りました。

 2年生の初冬、っ昭和16年12月8日には、私達にとっては 生涯忘れる事の出来ない 大東亜戦

争が始まりました。私達は少国民ながらも、必ずこの戦争を勝ち抜かねばならぬと、堅い決心をし

ました。それ以来、出征兵士を心から送り、防空訓練にも従事し、学校の農園に食糧増産の為汗

を流し、また 科学日本の後継者として、いろいろの観察に研究に、力の限り励みました。

 ところが、どうした事でしょう。私達の中、高等科の入学した昭和19年に這入りますと、戦況は

段々と我が国に不利になり、遂に 私達国民学校児童は、疎開するの止むなきに至りました。

懐かしい父母の膝下を離れて母校をあとに、集団疎開に 縁故疎開に と東京を立ち退きました。

米軍の空襲も次第にはげしくなりました。そして私達の疎開地まで爆音が聞える様になりました。

昭和20年の7.8月 頃までには、東京は焼野ヶ原となり、死傷した人々も少なくないという報せを

聞くにつけ、懐かしい母校や 我が家の安否を気づかいました。

 久米川から福光へと集団疎開地を移動し、その間いろいろの苦しみとたたかいつゝ、私達のた

めに、何くれとなく心を砕かれた先生方のご苦労はどんなであったでしょう。

 先生方と私達は、只々戦勝を目ざして進みました。あゝ然るに何たる思いがけないことでしょう。

昭和20年8月15日正午 私達は疎開地に於いて、ラジオを通じて、終戦の玉音を拝しました。

驚きと、悲しさと、忝さに、ただただ声をあげて泣きました。未だ嘗て一度も経験したことのない

敗戦、今後の私達は一体どうすればよいのか、何もかもが真っ暗になった様な心でした。その後、

敗戦の原因に就いて先生からお諭しがありましたので、私達は漸く落ち着きを取り戻しました。私

達はご聖旨を畏み、新しい日本の建設に立ち上がらねばならないのだと、固く決心致しました。

 終戦後 本年の3月迄に、私達は夫々の疎開地より東京に帰りました。一歩足を東京に踏み入

れた私達は、只驚きの目を見張るばかりでした。懐かしい東京は、文字通り焼野ヶ原でした。

それでも母校は無事であり、父母も健在でしたから、懐かしさと喜びとに胸が一杯でした。私達は

また そうして思い出多い教室で、共に勉強する日が参りました。年月の流れは早く、二年或いは

六年を経過し、今茲に目出度く修了式は挙げられまして修了証書をいただき、また只今校長先生

より、私達今後の為に懇ろなるお諭の言葉を賜りました。

 私達は今進学の希望を胸に、平素 諸先生より賜りました ご教訓と、只今校長先生よりのお諭し

を深く肝に銘じ、金木犀かおる母校の名誉を衿持して 清く正しく進み、雄々しく勇ましく新日本の

建設に、第一歩を踏み出さんとすることを、固くお誓い申し上げます。

 何とぞ 校長先生はじめ諸先生方には、今後とも私達の前途を、末長く見送っていただきとうご 

ざいます。

 最後に、母校の益々お栄えになることと、校長先生はじめ諸先生方の一層のご健勝を、切にお

祈り申上げます。簡単ながら これを以て、答辞と致します。        昭和21年3月24日


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