疎開学園ー忘れ得ぬことども
肥後光子(福光5年 上原栄子の姉)
1988年9月発行 【疎開随想】より
| 妹の疎開地の大きな造り酒屋の敷居をまたぎ、ひんやりとした薄暗い 土間に足を踏み入れても何の音も動きもない静かさに、ここに何十人 もの子ども達がいるとは思えず、ここではなかったのかな、それとも留 守なのかな と半信半疑で歩をすすめる。 しかし その次に目に入ったのは、その土間に続くあがりがまちの板の 間の壁に、無気力に寄りかかって足を投げ出している何人かの子ども 達,うつろな目で入っていった私達を見ているだけで表情も変えず声も 出さないその子ども達。 これが元気盛りの小学生かと、その光景は私の生涯忘れられない衝 撃の一つとして、今でもはっきり思い出すことが出来ます。 父が終戦直後札幌に赴任することになり、出発前に これが最後にな るかもしれないとの思いで福光を訪れた母が感じたことと同じだったの でしょう。終戦となった途端、これから先世の中がどうなるか分らないよ うなあの時期、何はともあれ是が非でも栄子を疎開先から引き取って 札幌に連れて来てくれと言ってきた母の気持ちが、その時やっとのみこ めた思いでした。 先生に事情を話し札幌の両親の元へ連れて行くことの了解を求めると 学校側は「今 退校すれば復校出来ないことを承知することにより」と いう条件付きで とのことでしたが、栄子の荷物をまとめ疎開学園を去 り、その夜はとにかく福光の旅館に一泊することにしました。 旅館では白いご飯は出せないと言われ、主人は栄子に何とか食べさせ たい一心で雨の中、街はずれに点在する農家を走りまわり、事情を話 して物乞いのように頼みましたが、断られ続けること十余軒。夕暮れも 迫り、やがてあきらめて帰りかけたとき、ふと小さな家の入り口に立つ 婦人に、これが最後と話をすると黙って奥に入り やがて袋に入れた 2〜3合の米を差し出して「主人が帰って来ると叱られるから さあ早く 持って行きなさい」と言われたときには、思わず手を合わせたくなるよう な思いだったと申しておりました。その婦人は「気持ちだけでも」と差し 出すお金も どうしても受け取られなかったそうです。おかげで栄子は 白いご飯をうれしそうに食べ、話をはじめ 笑顔が出て来たときには 私達も本当にほっとしました。 幼い子どもだけは何とかして安全なところにと願った”疎開”という手段 ではあったのでしたが、帰りたい心も 空腹も つらい気持ちも がまん しなくてはと、自分の心と戦い 耐えて来た子ども達の小さな胸に戦争 の空しさは しっかりと刻まれたことでしょう。 妹たちが母となり 子育てを終えて、いま その体験を伝えるべく記録 作りの作業にとりかかっていることは、誠に意義深い事と思います。 |
解説
5年女子の絵日記に上の文章にあるような
風景の様子が描かれています。
絵日記には元気に行軍したり食糧運搬を
したりと書いてあるものの、実は栄養失調
で気力がなくなっている子ども達を いかに
元気をとりもどして活気を出させるか、先生
も大変努力された と、後になって思います。
時間があると、この絵のように壁に寄りか
かって日なたぼっこをしていたものです。
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