沖縄のハムを語る

1974年1月27日 RARC(琉球アマチュア無線クラブ)ミーティング で録音 那覇市民集会所

1980年8月25日 JR6AP(久場敏夫)さんがテープより採録したものです。


司会(JR6AG)
では、JR6AO、AP、AB、AY、AL5名の方前に出ていただき、BW我謝さんも含め6名でいろいろ話が出てくれば、こちらからも聞いたりしたいと思います。
では簡単にご紹介します。
  石橋さんJR6ABは沖縄で初めてというかKR8の第一声をだした、アンカバーも含め(爆笑)、正式に第一声を出した人です。1961年6月22日です。今日は持ってきていませんがSP600という機械、829Bの100ワットでアクティブにやってこられました。RARCが結成されると役員等もやってくれました。
  久場さんJR6APは1965年の会長で50MC、144MCを陳情した会長で現在50MCをワッチしているということです。
  内間さんJR6ALは1963年にRARCが結成された時の初代会長です。
  又吉さんJR6AOは当時那覇高校と沖縄工業高校の間で控えめにやっていた一番那覇高校が盛んだんった。AOは県連支部長を5期ほどやっていただいた。RARCもやっていただいた。
  仲地さんJR6AYは740KCでおなじみですが(当時RBCのアナウンサー)沖縄のハムの草分け。いろんな??をつくって運動してハムが許可になるため努力した。
  我謝さんJR6BWは2代目RARC会長で現在にいたっています。後ほどお話をだしてください。

ここからAYさんのリードで進めます

JR6AY(仲地)
  今の紹介にありましたようにここに並んでいる人たちは一人だけ会長の名前がつかない人がいますが会長であるとか、まあそういうひとたちですが。   
 皆さんアンカバーというのはご存知と思いますが、カバーにかくれコソコソやっている、いわゆる不法電波局ということになるのですが、私の担当がアンカバーということでした。
 一寸変ですが、1956年頃ですか、那覇高校の物理クラブでアンカバーの気運が出て、何Vの電圧をかけ、何Aの電流を流してという気のきいたものは何もないんで、ただトランスのジャンクを探してきて、500と書いてあれば500Vは出ているだろうという按配で何Wかは分かりませんが100Wをオーバーしていたことは確かです。 それを作りました、BC-610というコリンズのこんなデッカイ送信機のそれのタンクコイルというか、またこんなデッカイ・・・それを拾ってきて送信機を作って、アンテナもいいものを張ると見つかるので、ただ屋根に引っ掛けた線を引っ張ってきて長さもいくらあったか分かりません。ただそういうものをくっつけて電波を出していた。
 その頃私が日本のCQというものを見たのが1956年、これが一番最初ですが、このあたりを探す前から気運があった。やっている中になにかしらだんだん楽しみというのが増えパワーがポンポン上がってきた。 そして一度は那覇高校の物理クラブの前をパトロールカー、当時ジープのMPが回って来て、大騒ぎして慌てて機械を隠したということもありました。それが集まって、そこにいるAF東くん、BWが那覇高校の同期生ですが、BWはソロバンに熱中しあまりタッチしていませんが、AFと二人であまりにも気運が高まりすぎて”沖縄にもアマチュア無線が欲しい”ということで一度CQ誌に投書しましたら、それがうまく掲載されて、59年1月号に載っているのですが実はこれのきっかけというのが、今まで沖縄のハムのことが一切という程ではありませんがCQでは扱っていなかった。
 58年の10月号でWORLD MAPの付録がついたが沖縄に潜在主権があるということでJAにしようということで、沖縄に()付きですが初めてJAがついたのです。 それに感激して早速投書したら載ったという訳です。 だんだん聞いている中に、工業高校にもそういうものが盛んになっているということでした。 私は那覇高校を卒業して琉大の物理学科に進みましたが、後輩にもひとつそれを続けてくれるよう頼んだのですが、その中にCA、皆さんご存知の悪名高い程のアンカバーをやったのがいました。 大変なことで1KW,2KWを吹聴する、それをアンカバーのQSOで、私は那覇高校の生徒であります。只今1KW入れています!!等喋り始めてアンカバーを抑えきれなくなってきた。それで那覇高校に集めてクラブというものを結成しようじゃないか、琉大、那覇高校、工業高校と呼びかけをして、那覇高校の物理教室に集まって、試験がどんなものか分からないし、集まりがなければ免許も貰えないじゃないかということだった。 その頃の工業高校の動きはどんなものでしたか?AOさん(JR6AY)
JR6AO (又吉)
 そうですね、1957年というと私が2年生の頃ですか。学校で法規も教えるのでアンカバーが悪いことは知っていました。どんな罰があるかも知っていました。学校の裏には電波監視所もあった。アンカバーをやるには大変不具合であったが、いろいろ聞いてみると那覇高校物理クラブは10Wはおろか100Wもあるというので物理クラブを訪ねて、作ってはどうかということになりました。実際に作る端緒というのは高校生が中心だったのですよ。いざ集まるというときは、AYさんはたしか琉大の2年生だったと思いますが、会長になってもらって、57年の末頃だった、結成されたのが。琉球アマチュア無線研究会だった。これが沖縄で初めての組織ではなかったかと思います。グループで学校を休み郵政庁へ陳情に行った。電監に見学に行きましたらアンカバーをやっているのは君たちだろうと言われたりした。当時の電監はつかんでいたようです。(JR6AO)

JR6AY(仲地)
あの頃は車もありませんし、つながりをもつとしたら工業高校ということになりました。今もって不思議に思うのは、どうして水産高校を思いつかなかったのかということでした。水産高校に頭がまわらなかったのです。従って最初に琉球アマチュア研究会を作ったのは琉大、那覇高校、工業高校であった。これと別の方面にもそういうものがあったかも知れないが。
 身の回りだけの集まりで全琉的な統括はなかった。研究会の仕事は何をしたか。無論免許の早期実現であったがが、先ずSWLで出発しようといることだった。ハムのSWLということで、初めて沖縄でSWLのナンバーが発行した。権威あるものとかいうものではなくて・・・・・。
 何回か会を重ねている中に電信電話管理局にいる平安名さん(JA1BJZ)のハムの写真が沖縄タイムスに載りました。この人が夏休みに帰省してAYを尋ねてきました。 一緒にやろうじゃないかといろいろ協力してくれることになった。 当時の工務交通局へ学生が揃って陳情に行きました。庁長は渡嘉敷さんか国吉さんか覚えていないが、学生が小遣いを出し合って電波関係の人を招待してご馳走を食べながらハムの実現を訴える。KR6があるのに我々が出来ないのは残念である。話を聞いて下さった人曰く「今、周波数が一杯でアマチュアに割り当てるものはないです」と。みんなガッカリした。当時はVFOもありませんし、無論周波数も一波でこれを全国のハムが使用していた状態だった。その言葉に益々奮起させ、反発心が出てきて本当の電波法等の資料を集め始めた。
 学生だったので文書による陳情でなく、ただ何回もお参りしてよろしくお願いしますと言う口頭で過ごしていた。
 二世のマツさんからOARC(OKINWA AMATEUR RADIO CLUB KR6のクラブ)の話を聞いていたので、平安名さんとAYが嘉手納のAIR BASEの傍にあったOARCの会合で陳情協力の挨拶の原稿を読んだものです。
1958年頃、琉球政府とUSCARの間で許可の気運が見えるというニュースが入ってきた。学生だけでは動きが取れないので全県的に同好の志を集め沖縄無線技術専門学校(安里)で、校長にお願いして貸していただいて新聞に記事を載せて、回覧がまわったりして集まりました。そして琉球アマチュア無線研究会を結成した。平安名さんに会長をしてもらった。 始めは沖縄アマチュア無線連盟という名前だった。あの当時のみんなの気持ちが表れていたと思う。
 沖縄は一種の独立国であった。何をしたかというと試験が近づいているのでモールスの練習、電波法の研究とか勉強会が週一回行われた。結成大会のときジョージ B コリンズというKR6の会長も挨拶をした。
 沖縄でバラバラの同好の志がここにひとつのまとまりを作った。学生の集まりから一般の人の集まりへと発展した。やっと法律を改正するところまでこぎつけた訳です。話せば短いのですがその間2〜3年くらいかかって政府に足げく通った。
 免許が下りるまで、ここが大事だからクラブ員はアンカバーを控えてくれというお互いの約束もした。アンカバーで実力行使していた立場が反対に慎重に行動するようになった。
 これは我々だけの力だけでなくOARCの働きも大きいと思う。正直いってKA局の働きによって試験が実施されるところまでこぎつけた訳です。(JR6AY)

JR6AL(内間)
 もう、十年一昔、記憶もそうとう薄れました。私の住まいは久茂地ですがすぐお隣にAFの東さんが居た。アマチュアになって初めて知り合いになった。長らく住んでいるのに。
 アマチュアの事を初めて知ったのは昭和12年頃でした。皆さんが生まれる前の話ですが。ハイ! 小学6年の時、私設無線局というものを知った。とても興味があった。日本電気研究所に葉書を出したりしました。盲へび怖じずで、水晶とは何かと聞いたものです。当時の水晶は大変高価なもので軍機に関するものでした。
 幸が不幸か生き残りましたが、47年(1947)に復員しましたがアメリカの中古機でワッチするようになりました。当時は与儀に住んでいましてハリクラフターのレシーバで聞いていました。
 昭和26年頃からJAがスポットで出てJA6AKのSIGを聞いて、SWLでカードをいただいた。そのころ高校生の皆さんの動きを少し知っていました。
 58年(1958)の新聞にアマチュア無線のための電波法改正、国際親善に一役かうという記事が載り昭和35年7月5日の沖縄タイムスに平安名さん(JA1BJZ)の写真が載った。
 60年(1960)10月14日に初めて免許の事が出て、60年7月11日付けで近づくハムの誕生という、沖縄アマチュア無線連盟の結成を伝える記事がある。
 10月になると100人も応募するという記事がある。ここに当時の問題集がありますが1,2,3級というものでした。タワーをどうしようかといろいろ空想もしました。今もって立っていない。ハイ!(笑い) 中学生ハムの紹介もあった。今皆さんに回覧してありますが、それは琉米文化会館でのRARC結成の写真です。
 1月に結成、2月にJARLへ挨拶状を出す。差出人は沖縄HAMクラブ、平安名常功、3月には50MCの陳情書を出し、63年3月には144MCの陳情書も提出した。当時の陳情書には必ず英文も添付したものです。
 公開実験が6月12日、KR8ACが山形屋の屋上で、その前年の4月1日には開南小学校で琉球政府創立記念日の公開実験をした。8月には無線学校で総会をする。12月にはOARCのKR6LJの送別会を料亭「左馬」にて行う。64年に入り機関紙を発行する。3月にはBWに会長を引き継ぐ。(中城公園) 私書函の設置やユニオンサプライにAGさんのお世話でQSLカード箱を置く。(JR6AL)

JR6BW(我謝)
 ALさんは戦前のハムで、私は戦後ということになります。中央郵便局に電報電話局があって仕事をしていたが電務課参りをするAYさんと廊下でパッタリ合い、アマチュアクラブ入りを薦められ、ハムのことを知った。当番のとき、ナショナルのレシーバで聞く努力をしたがだめだった。ハリクラフターのS38というトランスレス五球スーパーでNSBを聞いていたが、7MCで「CQ CQ 本日は晴天なり」とか「アンシシムガヤー」という工業の生徒の声をきいた。 アハー、これがハムかと思ったが仕事柄、ハムは指導しなければと思った。それがハムに入ったきっかけでした。
 テレビをQSYさせてBC−779を買った。私は法ができてからアンカバーをやったものでした。免許の下りる2月ぐらいでしたが電波監視所の人もやってくれた時代でした。AX、AJ、AWあたりか。ハイ!
 電務課に顔がきくとか、OARCに下手な英語で話せるとかの理由で推され2代目会長になった。役員の中にOM連中が入ってくれて安心だったし引き受けた。始めの引継ぎの仕事は6m、2mの件だった。又一般の人々にハムを理解してもらうもらうことが大きな仕事だったし、クラブ機関紙の充実を計るのも大きな仕事であった。AG、ANさんが担当してくれた。KR6LJのあとKR6FYマイクさんに協力をお願いして6mの件をOARCがプッシュしてくれた。3.5MCの電信、7MCのSSBの件も行政側へさぐりを入れると、ハムは緒についたばかりだから周波数はこれぐらいで良いだろうぐらいに考えていた。行政担当者がハムを知らなかった。積極的にアマチュアを理解してのUSCARへの周波数の申請ではなくてテーブルの上でアマチュアを理解していた程度だった。それで50MCを再申請した。
 当時は殆ど学生だったので同じ顔ぶれのOM連中が役職を変えて役員をしていた。当時は1,2,3級が14Mが使用できた。3.5MCはA1のみ、14.2〜14.35はKR6が使用するということで使用禁止だった。5月15日は陸、海、空、マリンの四軍記念日であった。この時、那覇軍港の倉庫でKR6始めての日本語の6mが運用された。OARCのKR6ZZだったと覚えている。そして初めてコリンズのSラインを見た。6mはハリクラフターのAMだった。クワッドとGPを倉庫の屋上に張ったが、当時は6mのコンディションの良い時期で恐らくJAは大騒ぎではなかったか。10Wで良く飛ぶのに驚いたものだ。
 当時は移動局はなかった。移動するときは固定局が電務課へ移動して検査を受けたものです。検査と同時に合格で2〜3日の期間で免許が下りました。だいたいにおいて2m、6mにしろOARCの感触を得て申請したような時代で、OARCにおんぶされているような深い繋がりがあった。
 送信機、受信機は輸入禁止だった。ALさんが税関におられたので大きな力になった。AYさんのデリカの送信機は外国向け輸出ということで大きな箱に詰められていた。本人が驚いたくらいだ。
 当時、送信機式は輸入禁止で軍の布告144号2,2,27の1項の罰金、体罰があるという時代だった。電務課に申請する時、送信機はあるのかと聞かれ、しまったと思ったくらいの時代です。どうして手に入れたかと聞かれ返答に窮したものです。それで寄せ集めで作りましたら、今度は、それでテストに合格するのかと云われました。それ程きびしい時代でもあった。トリオのTX−88Aをガキヤラジオを通して入手したが、メーカー品というのは私のものとAYさんのものぐらいでしたか。いまでは使い物にならないでしょうがね。(JR6BW)

JR6AP(久場)
 1961年にKR8AD保良さんが7MCで10WのA3で南米とQSOをして大騒ぎをしたのが印象に残っています。先程、ALさんからありました結成大会には電務課の新城氏、電波係長の真喜屋氏、沖縄無線技術専門学校校長新城氏が出席され祝辞を頂いた。
 63年6月12日に第一回公開実験があった。今はアメリカ人となったアンカバーのOM、KR8CAを中心にクラブ事務所を建てようという話が出た。鉄筋コンクリート建物で中には無線機は勿論のこと測定器を完備して、会員は自由に使用できるという、当時はみんなが真剣に考えていた。場所は嘉数方面がいいということで土地さがしもしたようである。ALさんの援助でトラック一杯の材木を運びAPの家に準備したりもした。もう一歩、本気になれば土地も安い頃だったので実現していたかも知れない。
 私たちは第一回の試験を受けたのであるが、肌寒い初冬の頃だったように思う。場所は今の久米郵便局の2階にあった郵政庁職員研修室であったと記憶している。どんな問題だったか殆ど忘れてしまったが「四極真空管のダイナトロン特性について述べよ」という1題だけは不思議に覚えている。電信術のテストは今の大道会館の裏にあった沖縄無線技術専門学校の一室だった。当時は1,2,3級すべて電信術が課されていた。試験官は黒メガネをかけた体の大きな人だったが見かけより優しく、電鍵をパカパカと打いて「速さはこのくらいかな。どうだとれるかな」「もうちょっと遅いかな」等と言いながらの受信テストだった。受験生と試験官が相対して座っている机をみんながとりかこみ、ワイワイガヤガヤ、押し合いの中でのテストだった。受験生はのぼせ上がって何を打ったか分からなかったのではなかろうか。4,5番目くらいだった私は試験官にお願いしてみんなを別室に退場してもらい、ようやく静かな雰囲気でテストを受けることが出来た。(JR6AP)

JR6AO(又吉)
 私は4代目会長でしたがAPさんの終わりのころからスランプに入ってアクティビティーが低下していた。6mが許可されたのに申請者がいない。「大騒ぎして6mを許可させて、誰も申請しないとは何事か」と真喜屋課長に叱られた。当時は入力を規定していたので、本土に比べて不利であった。 出力で免許をくれるように掛け合ったが復帰するまでだめだった。
 1.9MCはAGさん等の強力な希望があって復帰前に許可された。AG、CFさんがアクティブだった。FTDX400、AS−33等も熊本へ行って受領した。これも税関でストップされた。大きな仕事は復帰に際してコールサインをどうするかということだった。これについては不満が残っているが・・・・
 当時琉大の電気科教室にJA6AX(浦上氏)を迎えいろいろ検討した結果JR6が可能であるということだった。真栄田岬での総会でJR6にしようと決定した。この件は一度東京に行きまして、ウイスキーを担いで応のお礼は致しました。JR6のコール決定については事務的なのではという批判もあるが、そうではなく、それ相当の苦労をして実現に至っているのです。
 私の次は71年9月12日にALさんに会長をしていただき、次はIVさんの代で解散と言うことになった。今日はAGさんがお世話していますが。
 私の方はその後、支部長をさせられています。その5年間にはいろいろありましたが。(JR6AO)

JR6AL(内間)
 RARCの解散説が出て残念でしたが、AOから引き継ぐ時から不安がありました。RARAが成長して各自の主体性がもて、一匹狼になってきたか、数名のグループでもやっていけるようになり、これをまとめるのは大変だという不安があった。第13回総会には市民会館が予定されていたが流れました。
 ゆうな壮の総会では辞退の演説をしたのですが、ABさんと共に投票され1票差で当選、EAさんが副会長になった。そして頑張ったが結局だめでした。そしてIVさんに押し付けた格好になりました。BWさんが副会長でした。
 61年〜62年頃のQSOのやり方にも面白いものがありましたね。アクティブにローカラグチューしていたのはスクラップ情報でした。7MCでそんな話をしていると、それを聞いた人が先に走って行き横取りするということもありました。QSOはしないで、ワッチ専門でスクラップ屋走りだけの人も居たようです。その面ではATさんがジャンク通でしたね。(JR6AL)

JR6AB(石橋)
 最初、4,5人の局が申請したようですが、ADさんが一番に申請したのではないかと思われますが年齢の順にコールサインが下りたようです。それでADさんがヘソを曲げたという話もある。AEは仮免が下りたようですが電信でトツー・トンでは面白くないとの理由で返上した様です。
 当時、私は電務課にいました。それで上司の電波係長にハムの説明してハッパをかけたものです。KR6の皆さんの突き上げがあったので、初めて話が出た。それまでは見向きもされない。第一ハムというものを知らないのだから大変でした。弁務官の下にUSCAR、その下に最小限の自治を与えられた琉球政府があった時代で、法改正も大変だった。権限のないみじめなものでした。
 島内通信は離島も含めて、電波法が出来る前から行政府がやっていた。1950年に電波法ができた。本土法を真似たもので関係のないものはものは削られていた。勿論ハムも。当時を思うと下からの盛り上がりだけでは絶対に許可されなかったと思う。そういう意味ではKR6の働きは大きかったと思う。ダットサンというUSCARの通信部長に橋渡ししてくれた吉田という人がいたが。機関紙の発行も当時は違法だった。グループ機関紙を出すのは大変だった。これについては大変神経を使いましたよ。何も言えない時代でした。
 申請用紙は勿論、様式も全く知らないのでみんな、紙の質、大きさ、様式もバラバラだったようだ。(JR6AB)

JR6AY(仲地)
 ABさんの初めのアンテナはAWXでしたね。後にクワッドになったようですが。最初に八木を作ったのはAMさんでした。軒下アンテナでSSBをとばしたのがAFさんでした。SSBのはしりはAFさんでした。AQ、CAさんがそれぞれ続いたようです。混雑しない時代でしたからOVER SEAは良く飛んでくれました。我々の頃は自作時代、終段は807、2E26、6V6、6L6等だった。自作を主張する連中はもう年寄りになった。(JR6AY)

終わり

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