アマチュア無線の経過について

琉球アマチュア無線クラブ第一回総会結成大会(案)より

  戦後沖縄における各方面の発展開発は実にすばらしい成果をおさめているが、ここに我々アマチュア無線家も電波界においてようやアマチュア無線の電波公開を見るに至ったのが1960年5月27日電波法の一部改正となり同年6月24日付けで施行となり、着々とその発展の道を進みつつあります。
以来、現に開局しているアマチュア局及び今後開局する各々も日夜愛機の整備におさおさ怠りなく精進しているのであります。
  アマチュア無線については1955年立法第80号制定当時から一般愛好者によって強く要望されていたものでありましたが、降って1958年3月10日米国民政府・琉球政府関係間での協議会でアマチュア無線を免許する方針が決まり、改正立法勧告の準備を急ぐと共に電波管理行政の合理化を計るための関係規定の整備を行い、ここに先ほど申し上げました様に晴れてアマチュア無線が一般に公開される段階になったのであります。
  法令の変遷はこのように行われつつあった中に我々愛好者は、終戦後生活が安定になるに伴い米軍の放出されたラジオ通信機等の部品をかき集め、まがりなりにも短波の聞ける程のもので世界のアマチュアの声を聞き入り一人悦に入って、ただ高値の花とうらやんでいたのでありますが、1958年頃となるとそろそろ愛好者間にも友を集いつつある中に先んじて、琉大生、那覇高生、工高生等がグループを作りSWLとなってポケットマネーを寄せ集め受信機を組み立てたり、送信機原理を学んだりしてクラブ活動の前身を進めつつあったが当時は何と言っても根本たる電波法で電波の発射が許されず、ただ切歯扼腕し聴取のみして受信証の収集を楽しんでいたのであります。
  それから1960年7月13日安里在、沖縄無線技術専門学校に多数の同好の友が集い、電波法の改正に伴う資格試験を目の前に控えていたので、相提携しこれに望む心構えをもって「沖縄アマチュア無線連盟」と名乗り会長に平安名常功氏を中心としたグループを生み出したのであります。 このグループは当時学科理論の研修を無線学校の一教室を借りて行い、通信術を水産高校の教室を借り受け希望者が己の余暇を利用し訓練にいそしんでその成果は誠に上々となったのであります。
  そして第一回アマチュア無線技術資格試験に73名が応募して33名の合格を占め世界のアマチュアたらんと各自が懸命に機器の整備をおこなったのであります。
  その他連盟としては開局に必要な各種申請書用紙の配布等をしてクラブ活動をする傍、日本本土の社団法人JARLあて沖縄のアマチュア無線誕生、開局したことの挨拶・案内状を発送すると共にJAの局名簿にKR8局の紹介を行いまたWの局名簿にも同じく紹介されるといったことで世界のグループ入りがやって来たのであります。
  1961年を経て1962年4月1日、琉球政府創立十周年記念日に建設局電務課の記念行事の一端としてKR8局から参加し開南小学校展示会場において戦前・戦後沖縄で初めてアマチュア無線公開を行い一般住民にアマチュアとはこういうものだと広くPRすることが出来たのであります。
  以来、我々連盟もようやく活動が下火になった感がありましたが、一部グループは毎月一回はおろか親睦をはかると共に技術交換を行うため集まりを続けていましたが何と言っても活動を取り戻すには会の組織を固め軌道に乗せる事にありとの声が高まり1962年11月5日の集まりにおいて25名の同好者により準備員を選んで今回の大会を持つための準備に東奔西走され、本日アマチュア無線クラブの第一回総会を行うことができたのであります。


戻る