6、中部の三羽烏
通勤事情(バス通勤)で私はコザの姉(長女)の家に間借りすることとした。
ベッドと机、腰掛がやっと入るくらいの三畳間である。
朝食は姉の所で済ませ、昼食、夕食は職場近くの食堂で給料払いで食べていた。
現在の沖縄市中ノ町辺りはまだ舗装されてなく、コーラルを敷き詰めた真っ白い砂煙が立ち込める道路で、走っている車はみな左ハンドルの外車ばかり、勿論我が電報電話局もコザ警察署の車も全てアメリカ製のGMCが主流だった。
(今思い出したことだが、私がアマチュア局の検査を受けた時も、黒塗りの高級外車(運転手付き)で検査官が来ていた)
コザ局にはKR8AM、KR8AOがいた。入社は誰が先か後かははっきりしないが、二人とも機械屋でいつも2階の機械室にこもっていたので、あまり話しする機会はなかった。
通信室は一階にあり、電報受付の窓口も同時担当であった、20時以降は一人で、22時に窓口は閉めるがその後は那覇中央局との交信で、具志川、石川郵便局へも電話で中継していた(宿直要員がいた)。
那覇中電には、現在のJR6BS、BY、BW等ほかのトンツーのベテランが大勢いた。
コザ市にはKR8AE、AR、AO、AX、AS、AU等多数の局が夜な夜な7Mhzでラグチュウーを楽しんでいた。
和文のCWが出来たのは私とAO、AXぐらいで、毎晩CWでラグチユーに花を咲かせていたが、何時も最後はどこそこの飲み屋で待っているからと言う事でファイナルとなった。
その頃から大通りは舗装され飲み屋がたくさん出来ていたし、飲み代も安かった。
そういう事が続いたある日、誰が言い出したかは覚えていないが、何時まで経ってもアマチュアが増えないので何とかしようじゃないかとの事で話がまとまり、3名で講習会をやろうということになった。
具体的なことは後日とし、とりあえず場所探しをしようということで別れた。
コザ市安慶田に那覇の無線学校の分校があり、土曜、日曜日なら空いているとのことで使えることが分かり、講師の役割分担となった。
無線工学 → KR8AO、電波法規 → KR8AX、通信術(トンツー) → KR8ATと決まった。
かくして中部でアマチュア無線の無料講習会が始まるのである。
口コミで集まった受講生は60名位だったが、机、腰掛の数だけ先着順とした。
たしか、教科書は学校のものを使わせてもらった様な気がるが、今となっては記憶がはっきりしない。
期間は3ヶ月、その間30名になり、最後まで残ってのは15名程度だった。
中部のCコール、Dコールはその時の人達である。(一部そうでない人もいた)
これらが沖縄におけるアマチュア無線の講習会の始まりでもあり、最後の無料講習会でもあった。
当時のこの三羽烏は、アマチュア無線にかける情熱は相当なものであったと今も自負している。