5、電電公社時代

 1959年4月名古屋高等無線学校(現在の名古屋工学院)へ高校の先輩と一緒に入る。
 学校の寮へ入る予定のはずが定員オーバーとの事で、やむなく先輩と二人でアパート住まいとなる。
当時、学生向けのアパートは大体が四畳半か六畳一間で、真ん中に廊下があり両サイドに5〜6部屋の木造二階建てが普通だった。
トイレ、洗面所は各階に一ヶ所共同使用であるので朝は順番待ちである。

 学費は姉が送ってくれていた、少ない送金では夏休みになっても沖縄へ帰れる訳もなし、二人して近郊へ出かけて時を過ごしてた。

 ある日、家から手紙が届いた(家には電話はなかった)。母親がバスに乗っていて米軍車輌との事故に合い入院しているとのことだった。
幸いにして母親の怪我は軽かったので、那覇でアルバイトをしながら安里にあった沖縄高等無線学校へ入学した(随時入学が出来た)
校長はたしか新城さんという方だったと記憶している。

 トンツーの先生は琉球政府工務交通局電務課の真喜屋さんだった。
多分現役のままアルバイトで教えに来ていたのではなかったかと思う。
しばらく経ったころ、明日印鑑を持って来るように言われ、学校の何かに必要だろうぐらいにしか思っていなかった。

授業が終わ帰り際に呼び止められ、近いうちに通信士の試験があるので受けろと言われびっくりした。
”お前なら絶対大丈夫だ、必ず受けるように、申請は私がやっておくから”、これには目の前が真っ暗になりただ呆然としていたことを今も忘れない。

そして目出度く晴れてプロの通信士の肩書きを頂く事となった。

1960年6月琉球電信電話公社コザ電報電話局に通信士として入社した。

 当時は公社が郵政部門から分離独立して間もない頃で、琉球政府の役人より給料が良かった。
ユニホームは警察官と間違われるくらい似ていたので、バス通勤の時、ご苦労様と言われバス賃をただにしてもらったことがよくあった。

 当時の事務屋は別として、機械屋、線路屋とか技術屋は酒飲みが多かった。
勤務が終わるか終わらぬうちから飲み屋に電話をいれ、今から何名行くから準備しておく様にとの連絡係までいた。

給料日でもないので金がある筈はないが、ユニホームのまま飲み屋に直行、駆け出しの私は何時でも割り勘要員にされた。

コザ局には通信士が5名いた、古参は江田島海軍兵学校出身で、私が入ったら事務屋に配置替えになったが、この人も大の酒好きで知らぬ者は居なかった。

半年経って交代制勤務についた。3交代で夜勤は9時45分に通信業務を終え、10時から朝まで電話交換手として働いた。