4、KR8プリフィックス決まる

 いつだったかは忘れたが、那覇の無線学校でアマチュア無線連盟結成があるとの事で行ったところ、70〜80名の人が暑い中集まっていた。

その中には電電公社の職員が数名いた(私の知っている範囲)が駆け出しの身である私には声をかける勇気はなかった。

 1960年後半にアマチュア無線技士の試験があり、プロの免許を持っている人達もあえて試験を受けたが、落ちると恥をかくところであった。
そして1961年6月、沖縄初のアマチュア無線局がローカルの新聞に大々的に載った。その人がKR8AB石橋氏であった。

 私がKR8ATを開局したのは沖縄本島中部の読谷村であった。
当時、読谷村にはアマチュア局は私一人だけで、高校時代の友人達はアマチュア無線には全く興味が無かったので、彼らが持っている部品を貰いうけたため、家の中はさしずめスラップヤードと化していた。
 
 無線局の免許申請は琉球政府行政主席宛て(担当部局は建設運輸局)で、事項書中の設置場所は勿論、送信空中線の位置(5万分の1以上の精度を有する地図によって求めること)と注釈がついていた。
一番こまったのは、その5万分の1以上の地図である。高校や役場に行っても無かった。
その事を姉に話したら、多分職場にはあると思うとの事(姉の職場は米軍キャンプ桑江)であった。
2〜3日して米軍許可が出たとのことで、陸軍工兵隊へいったら話は聞いている、お前の家は何処か探せと言って、空中写真と緯度経度の入った大きな地図をいとも簡単に持ってきた。
 東経127度45分25秒、北緯26度22分22秒、これがはじめて知った我が家の地図上の正確な位置である。
今はGPSの時代、歩きながら、車の中でも正確な位置が分かるのに、当時は本当に苦労したものだと思う。

 開局用に作った送信機は、高校時代の新聞配達の時に出会ったハム第一号の方から貰った7Mhzのクリスタルを元に、6197−2E24のラインで、変調は6AG7−12AX7−6L6、電源整流に5Y3、受信機は例のBC−342、アンテナは杉の丸太高さ7Mほはしごフィーダーダイポールであった。

当時あはA1/A3時代でまだSSBはなかった、A1/1Wでも6大陸とQSOが出来た。

 忘れかけていたが、高校時代までに集めた米軍ジャンクは部屋の奥に山ほどあった事を思い出し、休みの日には一日中送信機の製作に没頭していた。

その頃には、書店で色んな無線雑誌が手に入るようになったいたので、その記事を元にジャンクを総動員して、作っては壊し作っては壊しの毎日が続いていた。

その内にミニチュア管を使ったVFOも完成し、送信機もちゃんとしたケースに納まっていた。
送受信機の自作全盛期を迎えたのである。