3、UC(アンカバー)時代2

 高校1年生の頃からモーニングスター(明けの明星)という英字新聞を近くの米軍住宅地域に配達していた。
当時はまだB軍票で学校の授業料は月20円であった。
最初は配達だけの約束が2〜3ヶ月後には集金までまかせられ、2週間ごとに夕方集金してまわった。
たまにはチップとして50セントあるいは1ドル銀貨をくれる人もいたが、残念ながら我々には未だドルは使えなかったので、毎回インスタントコーヒーの大きなビンに入れ床下に隠した置いた。
 新しい配達地域に、クモの巣の様な大きなアンテナが上がっている家へ配達に行った時、ユーティリティールームでピーピーガーガー音がするので、廻って見るとハリクラフターSX−117受信機(と後で分かった事だが)と送信機らしい機械の前で一生懸命しゃべっている人がいた。
私が出会ったハム第1号である。
それからは、配達や集金の日には必ずその家の裏からQSOの様子を眺めていた(聞いても意味が分からなかった)
 ある日、いつものように眺めていたら気になったのか声をかけられた、ハムが好きかと聞かれとっさに”ヤー”(イエスではない)と答えた。
机の中から何やらゴソゴソと取り出したきたのが7Mhzのクリスタルであった。
君たちにもいつかハムが出来るときが来るはずだから、それまで大切にとっておきなさいとのことであった(ハウスメードの通訳)。
 それまで試行錯誤を繰り返し送信機の製作は進んでいた。
6V6→6L6(メタル管)のラインで7Mhzクリスタルを直にハンダ付けし、テスト電波OK!、適当なチョークコイル(何ヘンリーか分からない)と6V6→6L6でハイシング変調をかけ、軍用電話機の送話器を取り外しマイクロフォンにして第1声を出してみたら、負荷の豆電球が勢いよく輝いたので飛び跳ねて喜んだ。
 学校から帰ると毎夜JA6のプリフィックスを使いJAと交信した(正確なコールサインは忘れた)。
1ヶ月も経っただろうか、学校から帰ったら母親が腰を抜かし寝込んでいた。
私が学校へ行っている間にアメリカ兵が土足で上がりこみ、裏の勉強室に置いてあった機械とアンテナを全て持って行ったとの事である。
 母親には悪いと思ってしばらくはやめていたが(さほど違法性は感じていなかった)、半年も過ぎたころ、同じような送信機を作って再びアンダーカバーをしたので、今度は1週間で例のアメリカ兵に撤去された。
翌日学校へ行ったら校長室に呼ばれ、ソベ通信隊から通訳官を従えたアメリカ兵2〜3名と先生方が待ち受けているではないか、予想はしていたのでさほどあわてる事ももなかったが、叱られ諭され、今後絶対にやりませんと言う誓約書を書かされ、事なきをえたのである。
当時、読谷村ではアンダーカバーで米軍のブラックリストに載ったのは、私が最初だと思う。