2、UC(アンカバー)時代

 アマチュア無線の間ではよくアンカバー等と言っているが、実は殆どの人達が正確な意味を知らずに使っているふしがある。(OMの方には失礼)
Under Cover 蜜に何かをやる事と言う意味で厳密に言う不法にやる(Unlawful)と言う意味とは少し違う様である。
 今思えば、米軍は意外と整理上手だった様で、戦争が終わっても不用品である戦車、武器、弾薬、軍用トラック、通信機等全て選別し野積してあった。
 私が高校に上がった当時まで、現在の楚辺通信隊の地域にその残骸が放置されていた。
 通信教育の課程も修了し、学校で初めてラジオクラブを数人で作り予算もついた。
物理クラブにはガソリンエンジンがあり、オイルだらけになって分解したりして遊んでいたが、我クラブには何一つとして部品らしき物はなかった。
そこで、担任の先生の許可を得て、クラブ全員で米軍のスクラップヤード周りすることにした。
BC−342、BC−348等の受信機が無造作に積まれていて、中には新品同様な物まであった。ST管、GT管、カラー抵抗、コンデンサー等全員が山ほど持って帰った。
小学校の頃はカラー抵抗、コンデンサーは部品としてではなく胸につつけたり、襟につけたりして徽章、勲章のつもりで遊んでいた。
 クラブ室はたちまちスクラップの山と化していった。
ところがせっかく集めてきたBC−342、348は電源が400サイクルのDC−ACコンバーター(モーター式)でありそのままでは音が出ないのである。
 那覇市に土井ラジオ(原文では小渡ラジオとなっているーAG修正)という小さなラジオ屋があった。
無愛想なオッサンがいて、間口一間くらいの所にガラスケースがあり、スターやトリオのオールバンドのコイルパック、4インチ、6インチのスピーカー等が展示してあった。
高校生には大変な金額であったが、何とかして並4ラジオ用の電源トランスとスピーカーを手に入れ100VAC電源を作り、BC−342、348につなぎ音が出た時のあの感動は今もって忘れられない。
 その後のラジオクラブは一躍有名となった。
5球酸ーバー(ケースなし)を量産し、学校周辺に売り歩いてクラブ予算に当てた。
家にもBC−342は4〜5台置いてあったので、夜は例のヘッドフォンでBCLを楽しんでいた。
 当時はA1、A3のみで(SSBはまだ開発されていない)サンスポットは20世紀最高のところで3.5〜14Mhz(BC−342,348は18Mまで)のアマチュアバンドは6大陸がガンガン聞こえていた。
14MhzでJA6のラグチユを聞いて送信機のラインナップをメモしてあったので、米軍のスラップヤードから集めてきた部品の中から適当な物を揃え、ベニヤ板に釘を打ち(ラグ版の代わり)配線した。
結果は、辺り一面煙が立ち込み散々な結果であった。
これが私の第一号の送信機である。


※那覇に土井ラジオがあったが土井または土居どちらであったか記憶があいまい・・・たぶん土井であったと思う(JR6AG)