1、黎明期

 第2次大戦直後、読谷村渡口海岸近くに大量の米軍戦車や上陸用舟艇等が山積されていた。(現嘉手納町水釜海岸、読谷村渡口海岸は米軍の沖縄で最初の上陸地点)
戦争が終結し不要になった戦車等はスクラップ化し野積されていた。
その近くに私の通う小中学校があった。
校舎は米軍の野戦用テントが用いられ、低学年は、運動場のど真ん中で青天井のもと黒板も本もない授業を午前中で終わり(今の様に給食はないので)、そのまま家に帰ると家事の手伝いが待っているので、決まって横道をして適当に時間稼ぎしていた。
その時の時間稼ぎの場所が野積された戦車等の中であった。
 今思えば学校や家より楽しい場所であった、なにしろ文句を言う人がいないし自分だけの世界であったわけだから、それに見たことも無い計器類が一杯詰まっているので、いろいろなつまみをガチャガチャ回して日が暮れるまで遊んでいた。
その中には、もちろん通信機がある訳で(後で分かった事だが)ヘッドフォンもあり、いつも耳にあてていた。
 時がたち、中学生になり世の中もだいぶ落ち着き、本土からいろいろな書籍が本屋さんの店頭に並ぶようになった。少年雑誌に無線通信士の通信教育の募集広告を見つけ、早速郵便局で20円(米軍統治時代はA軍票→B軍票→ドルと3種類の通貨を使用した)B円で為替送金した。
 当時、名護、嘉手納、コザ、普天間、那覇局に通信士がいて陸線で音響通信を行っていた。
為替をくんでもらって通信士がトンツーで送信するまでじっと見ていて、益々通信士への憧れが強くなった。
 学校の教科は不真面目で、テストの点数はいつもケツから2〜3番目、しかし、通信教育は面白くて国語の本の間に無線工学の本を挟んで読みふけっていて先生によく叱られたが、後で褒められる事もあった。
しかし、ある先生から”比嘉君お前の頭ではいっぺんい二つをやるのは無理だからどっちか一つにしなさい”と言われ、”ハイそうですね”と答えてそのまま通信教育の本を読んでいたらしたたか叱られた事もあった。
 その頃だったと思うが、小学生の頃、戦車から持ってきたヘッドフォンの事を思い出し、方鉛鉱を使った鉱石ラジオを作り、毎晩勉強をするふりをしてBCLにのめり込んでいった。

通信教育も中盤に入った頃テキストの中にアマチュア無線の項目があり、初めてアマチュア無線というものがどういうものかを知った。
しかし当時の沖縄には、電波法令集はあるがアマチュア無線のアの字も見当たらなかった。

沖縄に駐留する米軍人、軍属はKR6のプリフィックスで既にON AIRしていた。
我々沖縄県人が、KR8プリフィックを割り当てられるにはまだまだ先の話である。