自分史の一齣
JR6AA(exKR8AA)平安常睦氏
日本のアマチュア無線史の中で、沖縄の歴史ほど政治に大きく左右された地域はないと思います。
戦後長い間、JAのコールサインが与えられず、KR8というコールでオンエアーしていました。もちろんDXCC上、別カントリーとしてカウントされ、日本の中の外国を強く印象付けた地域だったのです。その沖縄で一番最初のコールサインJR6AA(KR8AA)を取得した平安常睦さんのお宅を訪問させて頂きました。
1962年の開局(KR8AA)というのは、本土の戦後の開局が1952年ですので10年遅いということになるのです。「旧琉球政府や米軍に何回も書類を提出したり、陳情に行きましたがなかなか開局できませんでした」とのこと。戦前から無線通信に従事していた平安さんとしては、戦後すぐにでもアマチュア無線を楽しみたかったようようなのですが、旧琉球政府の意向だけではどうにもならなかったようです。戦前から船の通信士として活躍し、戦時中は戦況についても、軍用無線通信を受信していてよく分かっていたとのこと。「沖縄の悲劇についても分かっていました」と平安さんは悲しそうに話していました。戦後は中学校教員を経て、16年間沖縄水産高等学校無線通信科教員として、多くの無線従事者を世に送ってきました。また、最近まで講習会を通してこれまた多くの無線従事者を育ててきました。これにより表彰もされました。とても残念なことですが、平安さんは1994年1月に閉局してしまいます。肩を悪くしてキーがたたけなくなったことと、少々耳がご不自由になったためだそうです。戦前、戦後を通して沖縄の無線界リードしてきた方です。そして沖縄のシンボル的存在です。閉局することは本当に惜しいことだと思います。「ハムの役割は世界平和です」と何回もおっしゃっていました。この言葉は平安さんの口から出ると、ものすごい重みを感じさせる言葉となって私に伝わってきました。1994年1月までに多くの局がJR6AA局とQSOできることを望みます。
プロフィール 平安 常睦(ひらやす じょうぼく)
1911年沖縄生まれ、1962年 KR8AA 開局
1949〜1956年中学校教員、1956〜1972年沖縄水産高等学校教員
、日本電波協会支部長
エピソード 戦時中、商船の通信士として乗っていて、潜水艦に撃沈され一晩泳ぎ九死
に一生を得る。水練に秀でた海の男でもあった。
月刊誌
Let’s HAMming 1998年12月号
(No.36)より
JR6AAの掲載されたLit!s HAMing誌
開局当時使用していた9R59
2006年6月25日 沖縄アマチュア無線の日、アマチュア無線展において(浦添市社会福祉センター)
在りし日のJR6AA
1993年頃か?
リグはFT−747
開局当時はQRP−60を使用していた
昨年(05年)サイレントキーされた。ご冥福をお祈りします。
JR6AAのQSL
交信された方は少ないかもしれません。