上海と華中の旅 平成6年8月19日〜23日
   かなしい過去の戦争責任

◇出立までのひと苦労

 5年の暮れ、スナック「ナッカン」にて高校の同級生K、S、Y、私の4人で飲んだ。そのうちKがいいだしっぺで「一度この仲間で海外旅行を」に、Sが「工場は常州にあり、目をつぶっていても案内できる」に飛びつき中国旅行が決まったもの。もっとも幹事役は私にまわり、その後が大変だったが。というのも社長業のSが忙しい身の上なので、日程調整がうまくいかなくて結局、最後はSは参加を断念したし、「常州」を念頭においた計画なので制約だけが最後まで残る羽目となった。当初、最低6名は集まる予定が、四苦八苦した揚げ句に三男をいれてもやっと4名で、催行6名の所を特別な計らいで4名のために全線随行ガイドまでつけてもらうことにした。

 さて、最低人数はクリアーしたものの、幹事としてもうひとつ不安があった。つまりKは親父が入院中でいつ何があるか分からなかった。事実、すでに親族は数回呼び寄せられていた。一方、Yは長い夏風邪で、熱こそないものの8月9日の最終打ち合わせでは、注射を打って駆けつけたほど。私はといえば、例年なら20日頃が異動内示日で、あるとすれば候補のひとりでもあり、河豚を食ったような落ち着かない気分である。少ない人数にもかかわらず、これで果たして無事揃って出発できるのかと、間際まで不安はつきまとった。伊丹で落ちあい顔をあわせて初めて、ひとまず安堵した。出発に先立ってはいろいろあったが、結果的には小回りがきくし、四人衆は気楽で贅沢な5日間の旅のスタートをきった。  

◇車窓の光景は、郷愁誘ういつか来た道

 伊丹からほぼ2時間、JL-793便は定刻の12時28分(日本時間午後1時28分)に虹橋空港に到着。いまはサマータイムも廃止となり、日本との時差は1時間。気温は27度で思っていたほど暑くはない。出迎えてくれたのは、南京海外旅遊公司の若い女性ガイドの王さんである。空港からは渋滞が続き、時間のかかることが予想されるため、途中観光もせず上海站へ早めに直行し待合所で時間をつぶす。駅舎は一応VIPルームらしく、照明こそ落として薄暗いが清潔で人も少ない。時間待ちの間、三男と表へ出るとホームレス風がたむろしており、異臭が鼻をつく。ビデオカメラをまわしていると、道行く人のほとんどが物珍しそうに視線をくれる。

雑踏でごったがえす上海站前広場
雑踏でごったがえす上海站前広場

 上海站を4時30分に出発し、無錫へは急行で約2時間(128Km)かかる。初めての中国列車の旅である。車両は軟臥(A寝台)、硬臥(B寝台)、軟座(グリーン車)、硬座(普通座席車)の4種類あり、われらが乗った車両は二階建ての一階の「軟座」で、日本の特急クラスの一般座席にあたり、向かい合っての4人がけで小さなテーブルがある。冷房はよく効いており、車内も結構きれいだった。

 中国では都市の勤労者の3人に1人は女性で、「女性は天の半分を支える」といわれる。プラットホームの売り子、車掌もすべて女性で、活躍が目立つ。反面、駅舎からプラットホームまで短い間にも、大きな荷物をみると、「荷物を運ぼう」と次々にしつこく手を差し出してくるが、大抵は身なりのきたない男だ。覚えたての中国語で「不要(ブー・ヤオ)」と断わる。

 車窓に広がる風景、街の様子は―整備中の掘り返した道、足場が竹の建設現場、窓から人があふれる乗りあいバス、自転車の洪水、リヤカーにオート三輪車―まるで昭和30年代の日本。少なくとも30数年のタイム・ラグがある。われわれのいつか来た道だ。なつかしく郷愁を誘う。この中国、2000年のオリンピック招致をIOC総会の決選投票では僅差でシドニーにさらわれたが、いたるところでビル建設ラッシュが見られ、実質経済成長率は、いまや二ケタをゆうに超えめざましいものがある。この先、日本と同じ道をたどり、バブルがはじけるのを危惧する。

◇新聞は夕刊、ニュースはテレビ

 王さんに新聞事情をいろいろ尋ねると「朝刊よりは、夕刊が主体」という。当方の不躾な「それじゃー、日々のニュース源はラジオ?」の質問に「ほとんどの家庭にはテレビがありますヨ」といわれ、不勉強に赤面のいたり。試しに無錫大飯店のロビーで新聞を探すと、2日遅れの人民日報(海外版)が置いてあった。体裁は8ページで、題字の赤を除いて単色で、紙質は粗末なもの。広告はほとんど見当たらない。漢字の羅列なのでよく見ると、大体の意味は通じる。 日本ではつい最近のこと、林原がゴビ砂漠で進めている恐竜化石などの発掘調査に、S新聞文化家庭部のS記者が同行取材でスクープし、8月5日付けのS新聞の1面トップを飾った。「モンゴル砂漠で草食恐竜の巣化石発見」の記事だが、人民日報には8月17日付けでその巣化石発掘が、ミニニュース的に取り上げてある。文中、S紙では七千数百万年前とあるが、人民日報では五千万から六千万年前とある。もう一紙、中國日報の英語版CHINA DAILYがあったが、こちらも1日遅れで、8ページ+増版4ページとなっている。

◇無錫、むかしは有錫

 「上海、蘇州と汽車に乗り、太湖の辺り無錫の街へ…」と無錫旅情のフレーズどおり、水都無錫は太湖を囲んで街がある。駅まで出迎えてくれた、現地ガイド徐さんによれば「無錫は紀元前1240年、周の太伯がこの地に都を置いたのがはじまりで、錫山から錫を産出し有錫と呼ばれたが、いずれ掘り尽くされいまの無錫の名になった」とのこと。

 無錫は古来より「魚米の郷」といわれ、水産物の豊かなところ。夕食は無錫料理で、太湖でとれる銀魚(白魚)の唐揚げ、スペアリブの煮込み(無錫排骨)、小籠包などで味はやや甘口だが、口にあう。われらの貸切でカラオケがかかり、BGMにはサービスのつもりか無錫旅情ほか、日本演歌オンパレード。第一夜の宿、無錫大飯店に旅装をとく。

 王、徐両ガイドの案内で夜の街へタクシーで出ることにする。タクシーの初乗り5Kmまでの15元は上海より高いそう。ほんとに片田舎といった感じで、2軒ほど店へ寄り買い物。街を少しブラッとしただけで引き返す。

◇目覚めは1時間の勘違い

 旅に出て困るのがトイレである。どうしても生活リズムがくずれる。日常は朝食後にトイレに行く習慣なのに、旅行中は朝食前となる。ために他人より早めの準備時間が必要となる。今朝は6時前から起床し準備を終えたが、6時30分になっても予定のモーニング・コールはなし。そのうちバッゲージ・ダウンの7時が迫ってきたので三男を起こす。眠気覚ましにTVのスイッチを入れた三男が「ん!?」というので、初めて1時間見当間違えしているのに気付く。私の腕時計は、日本と中国の時差は1時間だから頭で換算すればよいわ、と修正していなかったのが失敗の元。とすれば5時前から起きていたことになり、睡眠時間は5時間弱。心なしかいっぺんに欠伸が出る。三男も二度寝をする。7時過ぎにバイキング朝食をとり、8時には無錫大飯店を出発。ホテルから太湖遊覧船の乗り場までバスで30分足らずで着く。

◇これでも湖?

 太湖は面積が琵琶湖の3倍ある大きな湖で、1時間かけて遊覧する。水都のイメージに反して水は黄濁色である。いたるところに養殖の竿が立ててある。遊覧下船のあと、歩いてげん頭渚公園へ。太湖に突き出た半島で、形がスッポンの頭に似ていることからこの名がつく。岡山とも縁りのある郭沫若の筆による「太湖佳絶處」の看板をくぐると、園内には万方楼、澄瀾堂、光明亭などが建てられている。

太湖遊覧
太湖遊覧

 蠡園は太湖の一部をなす五里湖の湖畔に広がる江南地方の名園のひとつ。春秋時代に越国の功臣茫蠡が、美女西施とともに舟を浮かべたという故事から五里湖は別名、蠡湖ともいわれる。園内は太湖石を積んだ築山、池を囲んで東西南北に建てられた四季亭、そして湖畔沿いには長さ300mの回廊があり、3mおきにデザインの異なった89の窓があり「四歩長廊百花窓」と呼ばれる。

 続いて訪れた錫恵公園は、市の西方2Km、錫山と恵山の2つの山にまたがる広大な公園。美しい名泉として名高く、唐代の茶の品評家陸羽が定めた天下第二泉や龍眼泉など10カ所以上の名泉が点在する。園内の東麓には明代に造られた名園、寄暢園がある。庭園の向こうには錫山や恵山が眺められ、伝統的な借景を取り入れたものである。

南京への車中は日米中親善

◇陽気なアメリカおばさん

 無錫を3時30分の汽車に乗り、ここからさらに西へ2時間かけて南京へ向かう。上海から来たのと同じ汽車である。車中ではワシントンD.C.から訪中の陽気なCara J. Barrおばさんが差し入れてくれた豆菓子がきっかけで、彼女の会話翻訳機を片手にしばし一行と歓談することになった。果ては健康、愛、家庭、正義、学歴、お金の6項目の中から、日・米・中の、しかもOldとYoungの価値観に基づいて、それぞれが大切な順番をつけあうなど、にわか日米中交歓の場となる。おかげで一同退屈することもなく南京に到着

南京への車中は日米中親善
南京への車中は日米中親善

◇「三四郎」愛読する王さん

 王さんは南京に住まいしており、現地ガイドは自らする。王さんのプロフィールは現在25歳で、上海の大学を卒業し、この業界(日本部営業担当)3年目である。もちろん国家公務員である。クセのない日本語を、誠にうまく話すのに感心する。日本文学にも親しみ、最近読んだもので印象に残っているのは漱石の「三四郎」だという。日本人以上に日本語らしい表現をすることがあるが道理で。中国標準語は北京語で、南京もこれに近いという。しかし、所変われば言葉も全く違い、王さんをしても無錫の方言は早口でほとんど分からないそうだ。狭い日本でさえ東北、九州の訛は理解できない点が多い。ましてや広大な中国のこととてさもありなん。両親は蘇州の出身でともに学校の先生。妹は大学を卒業し目下就職活動をしているが、就職難はいずこも同じだとの由。ついでに王さんの月給は、約650元+ボーナス(日本の歩合給)程度だという。ちなみに平均月給は600元(1元=12円で7、200円)。余談ながら、王さんへの5日間のチップであるが、事前の弟の情報では「よくしてくれたらでいいから、別れるときに4人で5千円〜1万円で十分」とは聞いていた。せっかくならということで初日の別れ際に1万円渡し、更によく期待にこたえてくれたので最後の日に追加で3千円、都合1万3千円(1083元)したが、月給の1.5カ月分に相当し、破格の気持ちを表したことになる。夕食は状元楼酒店で食べ切れず、勿体ないとおもいつつも残す。ロビーに流れるBGMは、ここもカーペンターズのヒットナンバーで、どこか他でも同様のものを聞いたが、有線放送かな。

◇マッサージは医学

 ホテルに帰り明日からに備え、K、Y、私ともにマッサージを頼む。30分間で料金は121元(1,450円)と、日本に比べて短いが値段も安い。内容はいきなり萬金油風のものを体に塗り込んで、バスタオルで擦り上げる。しかる上でマッサージに入るものだが、あまりこたえない。最後に気功のポーズをとって終わる。一応、漢方医らしく、最後にそれぞれに対し所見を述べ、おまけに証明書代わりに名刺をみせながらアッピールまでする。Yは内臓疾患、Kは頭?私には呼吸器系統を指摘され、「気」を送ってあるから明日には体外へ排出される旨をジェスチャーで示される。宿舎の南京古南都飯店は名鉄との合弁会社で立派なもの。

 ホテルの衛星放送は、明日22日に満90歳の誕生日を迎える、中国の最高責任者・とう小平の姿を伝える。

◇緑の丘に眠る孫文

 南京の朝は早く、6時30分に起床。ホテル界隈の路上は、すでに出勤を急ぐ自転車が多く、街には活気があふれる。朝の情景をビデオカメラに収めようにも、エアコンの効いたホテルと外気温度の差で露結を起こして具合が悪い。朝食前にしばし付近を散策する。

孫文が眠る陵墓への石段
孫文が眠る陵墓への石段

 ホテルを9時に出発。南京が中国一といわれる、ブラタナスのトンネルを抜けて紫金山の中腹にある中山陵へ。「民族・民生・民権」の三民主義を唱えた孫文が眠る陵墓がある。正門から392段の石段を上がると、白壁に瑠璃色に輝く祭堂があり、壁には民主主義を表わす3つの門と、孫文の遺著である「建国大綱」が刻まれている。その奥には墓室があり、中央の墓穴には大理石の棺が安置され、地下5mに遺体が眠る。

◇地下宮殿は謎のまま

 明孝陵は明の初代皇帝、朱元璋の陵墓。30数年の年月を費やして建てたものといわれ、参道、陵園、地下宮殿からなっている。800mの参道には、山麓に沿って石獣12対、石人4対が並ぶ。北京にある明の十三陵と似ており、そちらは宮殿の一部が公開されているが、ここの宮殿はいまだ謎のまま。完成直後に携わった人々が秘密を保持する名目でひとり残らず抹殺されたため。われわれがバイキング昼食をとっていると、遅れて昨日のアメリカグループがやってくる。

参道に並ぶ石獣
参道に並ぶ石獣

 昼食後、続いて訪れたのはかつて南京城の正門だった中華門。南京に13ある城門のうち最も威風堂々とした門である。城門は4重になっており、敵を完全に閉じ込めるための千斤閘の扉や、最大3000人の兵が隠れるための蔵兵洞などがある。

大虐殺、日本人の蛮行に言葉なし

◇不幸な過去

 予定にはなかったのだが、せっかく南京を訪れたことだし、日本人として自身の目で確かめ心に銘記したいという希望を申し出て、南京虐殺記念館を案内して貰う。抗日戦勝利40周年を記念し、1985年8月15日に建てられた記念館である。入り口にはこの戦争で日本人によって殺害された人民の数字を「遭難者300,000人」と大書明記されているのが目にささる。裏手の広場には虐殺を象徴するレリーフがあり、被害者に見立てた無数の白い石が敷き詰められている。一角には子供や肉親を探して手をかざす「嘆きの母親の像」が目を引く。記念館の地下には発掘された多くの遺骨が納められており、中には弾の貫通痕の残るのもある。生体実験やら化学兵器の様子、百人斬り超新記録と称して殺りくを繰り返し、それでも日本刀を手に平然とポーズをとり得意満面の上級軍人2名など、思わず顔を背けたくなるパネル写真が並べてある。言葉もなく暗澹たる気持ちでいると、出口に「…日本への恨みを深めるためでなく…歴史の一事実として、世界の恒久平和を願って建てられた」と結んだ設立の趣意書があり、少し救われた気持ちになり記念館を後にした。

長江大橋は自立更生のシンボル

◇母なる大河

 長江は、黄河と並んで中国を代表する母なる大河である。この長江にかかる橋としては武漢に次いで、文化大革命のさなかの1968年9月に完成したのが長江大橋である。上は自動車、下を鉄道が走る併用橋で、全長6.8Kmあり瀬戸大橋(9.4Km)に比べるとやや劣る。1960年、ソ連技術者の指導のもとに着工し、工事途中より中国独自に建設した橋で「文革期の自立更生」の象徴ともいえる誇りの大橋である。道路の両側には歩道があり歩いて対岸まで渡れるが、特別に車で対岸へ渡りUターンしてもらう。舗装のよくないガタガタ道で、その様子は三男のまわすビデオに写っている。が、何より魅力は、瀬戸大橋の通行料が往復割引で1万円もするところ、長江大橋の方は無料である。展望台に立つと眼下の長江は泥水で濁っている。豪雨あがりの川の流れのようで、まるで絵の具を溶かしこんだぐあいである。とにかくスケールの大きなもので、これで川かと思うほどである。展望台では三たびくだんのアメリカグループに会う。同じようなコースを前後して回っていることになる。

母なる大河長江にかかる長江大橋
母なる大河長江にかかる長江大橋

 玄武湖では中州に渡り、ゆっくりと散策する。北側の対岸には左から南京站、続いて右方には遊園地がある。南京と姉妹縁組みを結んでいる名古屋市から贈られた観覧車が見える。台風の影響か湖面には波がたち、湖畔の柳も風に激しく流される。明日の飛行機を心配すると、王さんが「日航は大丈夫、遅れることはない」と平気な顔をして軽くいなされる。ここで時間調整をした上、それでも早めに夕食場所、南京留園美食中心へ到着。

 南京は武漢、重慶と並んで「中国三大かまど」と称され、かなりの猛暑は覚悟していた。ところが、日本が7月以来記録的な炎暑続きのため、こちらの暑さもさほど苦にならない。

◇秦淮は下町のにぎわい

 夕食の後は、中華門の近く秦淮河地区へ出かける。かつて南京最大の歓楽地帯で、科挙試験が行われた貢院があり、妓楼が繁盛したところで下町的な雰囲気が漂う。一帯の中心に夫子廟があり、今は市民がショッピングや映画などを楽しみ、屋台には人が立ち並びあふれる。ここでもすぐ物請いがつきまとう。南京駅に降り立って早々に子供が手に1角紙幣を握りしめ、汚れた手をすり合せて迫る。後ろで糸を引く親の姿もあり心が痛む。ひとたび恵むと連鎖反応でまぶれつく恐れもある。働く者食うべからずはないが、体力はありながら労働意欲がなく、安易に他人の情けにすがろうとする者に刹那の慈悲は無用であり禁物だ。心を鬼にして立ち去ろうとしても袖をつかみ、腕までとろうとする輩がいるのには閉口する。必ず後ろ姿に「けちんぼ」の罵声を浴びせられながら。

悠久の歴史の中にも新しい都市開発の波

浦東開発区とチャイナタウン・豫園

 朝の曇天から、次第に風雨をともなう天候に変わる。南京駅を8時29分に出発。帰りの席は二階の中央部分で、冷房の効きも随分と悪い。列車は4時間かけて、12時30分に上海到着。19日に虹橋空港へ出迎えてくれたと同じ、魁三太郎に似たガイド氏は、「台風16号は、昨日中国へ上陸したが大した影響もなかった」と告げる。

◇上海は二つの顔

 上海は人口1,340万を擁し、中国最大の都市である。かつては日本を始め列強の租界によって分断され、幾多の歴史の荒波にもまれ続けただけに、いまなお二つの顔が残る。ヨーロッパあるいはニューヨークを思わせるアールデコ建築の立ち並ぶ外灘地区と、租界時代も中国人の居住が許されていたという最も中国らしい雰囲気の漂う豫園界隈である。

 遅い昼食を済ませ、上海の浅草、下町情緒あふれる専門店がひしめく豫園商場を通って、豫園を訪れる。黄浦江のほとり、市街の東南にあり、明代の高官、潘允瑞が両親のために造ったといわれる。三太郎ガイドの対応は悪く説明はほとんどなし。バスの中ではほとんど居眠りをこき、全くヤル気もなし。王さんが気を遣いながら、どうにかカバーしてくれる。

チャイナタウン 豫園
チャイナタウン 豫園

◇車窓観光と逖街(ブラブラ歩き)

 上海の街を車窓観光する。右手に黄浦公園を見ながら、更に黄浦江をはさんで向こう岸には、国際都市としての新都市建設の進む浦東開発区が眺められる。上海旧市街は人口も多く、もう発展の余地もない。そこで1990年の4月、10年来の懸案だった浦東地区総合開発に乗り出した。世界の工業、金融、貿易、科学技術、文化、情報の中心地にしようとする遠大な構想である。その中に、今は建設中だが、完成すればアジア一のテレビ塔となる上海タワーの威容もある。しばらく走ると外白渡橋(旧ガーデンブリッジ)にさしかかる。これから先はかつて日本租界のあった虹口地区で、いまなおノスタルジックな雰囲気が漂う。折り返して外灘に沿って延びる中山東路を南下、和平飯店の角で西へ折れ、上海一のメインストリートである南京路に入る。 ここで下車しコーヒーブレイクのあと、上海銀座を歩くことにする。先ず、名の通り中国最大の規模を誇る、上海第一百貨商店の中をウィンド・ショッピングする。かなりの人ごみで、ここは外国人専用の友誼商店と違い、中国の生活がうかがい知れて面白い。続いてひとしきり繁華街を逖街(ブラブラ歩き)する。高級なブティックもあれば、さきほどのデパートのように庶民の集まる店もある。電気店には最新のVTR、ビデオカメラも並んでいるが、こちらではもちろん高根の花である。ついでに一軒、レコード店をのぞいてみたが、ディスプレーも商品そのものも日本と何ら変わらない。

 暑いのと歩き疲れ、しかも夕食までなお時間があるので人民公園へ足を運ぶ。イギリス租界時代は競馬場だったが、1951年上海市軍事委員会によって競技場の半分が人民広場、もう半分が人民公園となったもの。

上海の商魂に興ざめ、最後の晩餐

 食事中にも売り込み

 最後の晩餐は、南京路をはさんで人民公園の北向かいにある○○飯店で、どうも見覚えのある建物と思いきや、6年前に訪れた時には華僑飯店といっていた。食事の間中、自称大学生という女の子が傍らについて、たどたどしい日本語で三男に「ハンサムだ」と愛想をいったり、料理の説明まで加え、せっせとみんなにビールをついでサービスをする。日本では当り前かも知れぬが、上海も変わったものだなと感心していると、やおら周囲の壁にかけてある掛軸を買わないかと勧める。関心がないからと答えると、真珠のネックレスや指輪を出す。それも不要だと告げると、今度はテーブルクロスからハンカチーフの様なものまで、まるで手品師のように次々に取り出し執拗に勧める。一同、何かと理由をつけて断わろうとすると、品数をまとめ値段をどんどん下げてくる。思い余ってわたしが「値段の多寡ではない。いくらまけてくれても要らぬものは要らない」と、とどめをさすとやっと引き下がる。しっかりと「テーブルにビール1本はサービスだか、2本目からは15元いただきます」。どうせ経営者から尻をたたかれている可愛そうなアルバイト労働者なのだろうが、少なくとも6年前のこのレストランではこんなシーンには遭遇しなかった。金満家日本人とみての経済制裁のつもりか知れぬが、いっぺんに興ざめし、とんだ最後の晩餐会とあいなった。そういえば昼間のレストランも女が傍について、この店が一流のレストラン(確か名前にはそれらしきがついていた)であることを殊更強調する。その割には室内のインテリアはみすぼらしいし、先客が喧嘩腰で議論するなど、とても客筋もよくは見えない。第一、時間帯がずれたせいか中央が空席にもかかわらず、われら4人を隅の2人掛けに案内しておいて、愛想だけで席を替わるかと尋ねながら、すでに次々に皿を重ねるようにテーブルに並べるものだから、いかにも品数が並んだ感じは受ける。おまけに掛軸を勧めたり、ビール2本目からは有料というのも同じパターンだ。無錫、南京ではともに食事の度ごと、各地のいろんな銘柄の卑酒(ビール)で乾杯し、飲み放題だったのと対照的だった。おいしい料理に適量の酒は欠かせない。味が一段と増幅し、酔うほどに会話もはずむものだ。

夕食の口直しに雑技を堪能

◇ハイライトは雑技

 夕食場所から歩いても5分くらいの南京西路に上海雑技場がある。普通のツアーコースにはなくて特別サービスらしいが、これこそハイライトである。小犬や像の見事な芸は6年前と一緒だが、呼び物のパンダが世を去り見えなかったのが残念であった。その分メニューを入れ替えてあり、瞬間着せ変え芸の鮮やかな手さばきには感心し、かけあい皿回し、声帯模写あるいは目隠しした客にナイフ投げをコント風にやるなどは会場の笑いを誘う。女子チーム4人の統制のとれた皿まわし、関節をはずして小さな筒を出入りするタコ人間にはびっくり。踏切台をつかって人間大砲、空中ブランコも迫力満点で圧巻だ。7時15分の開演で途中15分の休憩をはさんで、2時間はあっと言う間だったが、世界的にもレベルの高い上海エンターテインメント集団の妙技を十分に堪能した。雑技は連日興行ではなくて、シーズンにもよるが多くて週に2日、1回限りで要予約にもかかわらず、うまく日程があったもの。そうとは知らず、欲張って私が前の経験から、和平飯店のオールドジャズの生演奏を薦め、一同楽しみにしていたが、雑技とショータイムがダブりこちらは断念する。中国最後の夜を惜しんで、私の部屋で話し込み、大阪免税店で仕入れたナポレオンがちょうど空く。気がつけば午前2時40分。

 最後の朝はゆっくりし、10時にホテルを出る。本日の予定は玉仏寺の拝観のみ。玉仏寺は市の西北部にある禅寺である。同寺は1882年に建立され、1918年に今の場所に移された。ミャンマーから贈られた白玉製の釈迦仏は、座像と横臥仏の2体ある。神々しい笑みをたたえる座像の方はなかなかいい。一方、横臥仏は中国でも珍しく、仏教美術史上貴重な資料とされているそうだが、日本人の私からすれば、その媚びた口元がいまひとつピンとこない。私には奈良・法隆寺の一角にある、中宮寺の如意輪観音(弥勒菩薩)にまさるものはないと思う。丸みを帯びた肩、優しく伏せた目、軽く頬に添えるしなやかな手などすべてが慈悲深さを示し、言葉ではいつくせぬ表情だ。私の書斎のデスクに飾って毎日拝んでいる。和辻哲郎が「古寺巡礼」の中で「愛の表現として世界にも比類ない像」と絶賛している。

◇神経質なドライバー

 玉仏寺の拝観を終え、空港に向けてバスに乗り込む前、したたる汗しのぎに王さんが好意のアイスクリームを差し入れてくれた。口に運ぼうとすると、いきなりドライバーから床を汚さぬように釘をさされ、これでイエローカードその3。さっきは三男が白いシートカバーを汚したと注意を受けたばかり。昨夜は、雑技の帰りに児島が煙草に火をつけた途端に、車内喫煙をとがめられあわててもみ消した。ドライバー氏は日本語が分からないという前提のもと、一同ぼそぼそと「メーターが3まわりはしたと思われるポンコツ車だが、恐らくドライバーの持ち込み車なので愛着もあり、加えてよほどきれい好きなのでは」という結論に達した。空港近くの、エスカレーターに見覚えのある龍柏飯店で昼食。王さんのサービスで水ギョーザがつく。2時過ぎには空港に到着し、ロビー入り口で5日間お世話になった王さんに別れを告げる

「最新東洋事情」を目のあたりに見聞

◇三分の二はニセ警官

 文春7月号で深田祐介が「最新東洋事情」の中で『中国全土に大量のニセ警官が出没、華南のある省で、警官の制服を着ている人間をかたっぱしから尋問して調査したら、やっと三分の一が真物の警官だった。…警官の制服を着ていれば、金を稼ぐのに困らない。駐車違反だなどと理由をつけて通行人から罰金をまきあげる。しかも困ったことに法律がだれにも判らない。…加えて真物の警官も同じ様な小遣い稼ぎをしているから、いよいよ混乱する』と紹介している。実際、空港待合所で見かけた光景だが、腕章をはめた警備員に、喫煙を叱責された通行人が、逆に「事務所に行こう」と絡み合う様にしてすごんでいるのにでくわした。これなども案外、本に紹介されていたニセ警官の例で、その場で罰金を払わず真偽を確かめようとしていたのかも。

上海の観光ずれは、日本人自らまいた種

◇観光ずれした上海人

 今度の中国旅行で得た意義も、また大きかった。初めて訪れた無錫、南京しかり。最後に、6年ぶりに訪れた上海での雑感のひとつをもって旅行記の締めくくりとしたい。

 率直に上海では、ガイドぶりやらたくましい商魂を見て、ずいぶん観光ずれしてしまったなと失望した。しかし、ひるがえって冷静に考えてみると、その責任にはこちらにも多分にあるのではと思い直した。われら四人衆は、炎暑渇水にあえぐ日本を脱出し、全線ガイドつきで大名旅行をした。日本でもそうそう泊れぬ豪華なホテルにとまり、3度3度食べきれないほどの中華料理を、必ず酒つきで堪能した。かたや中国の人が質素な服に身を包み、屋台や汚い食堂、あるいは道端で粗末なうどんやおかゆのようなものをすすっているのを見てあまりにもギャップがあり過ぎる。こちらは、はなから旅行客とはいえ心中複雑なものがある。よかれと思ってふるまったチップだか、彼等の普段の収入に比べて法外な額をどう受け止めたか。お礼をいいつつも、あるいは内心不快に感じたかも。いたるところで強い日本円(6年間で3倍)の札びらをきって買い物をあさる姿は、それこそ金満家そのもので、傲慢にさえうつったかも知れない。

 文化大革命以後体制は激しく揺れ動き、1989年には北京を中心に民主化要求運動が高まったが、それも収束。いま中国は経済解放政策をとりながら独自の社会主義の道を模索している。国益にもつながることだから、商売熱心に走るのも止むを得ないか。結局は大挙しておしかける日本人観光客が、自らふりまいた種なのかも知れないと反省、自戒したのも収穫のひとつだった。                            

                                      平成6年9月1日記