The Unbalanced Hunters
―戦士二人―

〜追憶を断ち斬る刃〜
著:ランドール
 開幕 〜優しい『あなた』の悲しい詩〜
 きっとそれは、ふとした拍子に。
 呆れるくらい、何気ないきっかけで。
 とりとめもなく、胸を焦がす黒い傷の痕。

 例えば、小鳥や風と話せるような。
 例えば、いつしか空まで手が届くような。
 例えば、目を開けたまま夢が見られるような。

 そんな、罪の無い時間が流れていた頃。

 理由の無い笑顔が咲き乱れていて。
 悪意の無い悪戯も飛び交っていて。
 仕方の無い仕置きをたまには受けて。

 ちゃんと謝って。
 ちゃんと許されて。
 ちゃんと笑いあって。

 そんな、優しい音で想いが満ちていた頃。

 小さな世界は全てが幸せ。
 全ての幸せが小さな世界。
 世界は幸せで幸せが世界。

 それは今日も。
 きっと明日も。
 ずっとずっとどこまででも。

 そんな、明日を明るい日と信じられた頃。

 そして。

 始まりは、突然で。
 終局は、呆気なく。
 儚く、消えた世界。

「――忘れたことなんか無い忘れられるわけが無い忘れていいはずが無い、のに。
 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……こんな、ことにな、る」

 腕に感じるのは、失われゆく熱。
 耳を打つのは、か細い吐息。

「何も出来なかった何も守れなかった何もわかっちゃいなかった何をしていたんだ、オレ、は。
 意味も意義も意思も意気も全部全部全部無駄で無為で無力で無意味で……無様に、過ぎる。
 何もかも同じだ何もかもが最悪だ何もかもが繰り返しだ何もかもが手遅れ、な、の、か?
 繰り返したく無いのに繰り返させたく無いのに繰り返すわけにいかないのに!」

 頭蓋を突き刺すのは、鉄錆びの匂い。
 胸郭を貫くのは、鮮やかな真紅の色。

「く――うぅぅぅ、落ち着け取り乱すな頭を冷やせ血液を氷点下まで引き下げろ。
 そうオレは冷静だ冷静だ冷静だいつだって今だってこれからだって。
 まだ同じじゃない最悪じゃない繰り返しじゃない手遅れなんかにしてたまるものか!
 失敗を重ねるな取り返しのつくうちに立ち直れ今するべきことを全力でやってみせろ!
 そう、手持ちの薬は全て飲ませた応急の処置として抜かりは無い、後は一刻も早くキャンプへ連れ帰って本格的な治療を行うだけだ。だから――大丈夫だ、絶対に助けてみせる!
 そうだ……もう少しだけ、我慢、出来るな? 
 ――――――――――え? なんで、こんなに、冷たく……」

 項を撫で下ろすのは、無音の空気。
 背を這い上がるのは、最悪の予感。

「な、んだ? なに、が、起こって、る? こんなにも、静か、じゃ、まるで……まるでまるでまるで。

 ソナ――――――――が――――もう――――死―――――――ような――――――?

 ……あ? あああああああああああ!? 何だ……オレは今、いったい何を考えた!?
 嫌、だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 命がモノに変わっていく音なんてもうたくさんだ!
 死ぬべきはオレだったのにオレが死ぬべきだったのにあの時死んでいればよかったオレが!
 なのに大事な人ばかり大事な大事な人ばかり大事な大事な大事な人ばかりが、どうして!」

 零れ落ちたのは、言の葉と透明な雫。
 崩れ落ちたのは、心の根と戦士の誇。

「あの悪魔よりもナニモノよりも――オレは、オレを殺してしまいたい」



 ――さて、皆様。死ぬ、とはどういうことなのでしょうか。

「息してなくて、心臓動いてなくて、脳みそ働いてないことだよ」
 と、どこかの誰か言いました。

「意味も無く、ただいたずらに時を浪費することではないでしょうか」
 と、別の誰かが言いました。

「誇りを失っちまうことさ。てめえで掲げた『これだけは譲れねえ』ってもんを譲っちまった時、
 そいつは例え生きていようと終わっちまっている。そりゃあもう、死んだとしか言えねえわな」
 と、他の誰かが言いました。

「私が私でなくなることです。例えばそう――憎しみを吹き上げる、黒い炎のような」
 と、どこかでソナタが言いました。

 ――そして白髪の戦士は今、『命を失う』以外のあらゆる意味において死に瀕しているのでした。

 これは最悪の底の底、蜘蛛の糸さえ這い入る余地の無い闇のような出来事です。
 けれど、微かな炎の揺らめきを頼りに、手探りで不器用に明日を探すような。
 そんな、生きるということのお話です。
 そこに、賢しいモノなど、露ほどだっておりません。勇ましいモノなど、欠片だっておりません。
 痛みに震え、悲しみに怯えながら、それでも顔を上げようとする、どこにでもいるモノたちの、どこにでもあるありふれたお話です。
 それでもよければ、さあさ、始めましょうか。
 刀と、悪魔と、傷痕と、足跡と……
 何よりも、そう――白髪の剣士が初めて心より微笑んだ、記念すべきお話を。
 第1幕 〜730歩のギャロップ〜
 ――絶望に色があるとしたら、それはいったいどんな色なのだろうか。
 『彼』は、とりとめも無く、そんなことを考えておりました。
 体は今も必死に砂を掻いて、一刻も早く一歩でも遠く、二匹のバケモノから離れようとしています。けれど、頭は、不思議なくらいに冷め果てているのでした。
 ともすれば、それが恐怖からの逃避であることを、心は知っているのかもしれません。そして、直面してしまえばもう、耐えられないであろうことも。
 だからこそ、あえて、『彼』はとめどない思索に耽るのでした。
 ――絶望の、色。
 命を厳かに奪ってゆく、戦慄と恐慌に染まった紅でしょうか。
 心を静かに蝕んでゆく、諦めと悔恨を綾なした蒼でしょうか。
 夢を清かに消してゆく、現実と妥協の混ざった白でしょうか。
 それとも。
 見慣れたこの砂漠の色が。
 大切な仲間の命をがぶがぶと丸飲みにしてなお、表情一つ変えないその色こそが。
 絶望、と言える色なのでしょうか。
 何一つ出来ず。
 誰一人守れず。
 それでも砂漠は、眉をひそめることさえしないのでした。
 ……ざわり、と。
 肌が粟立ったのは、一足先に逃げ去った太陽のせいだけではないのでしょう。
 ――でも、ここは、私の生まれ育った庭なんだ。
 それが、『彼』の最後の自負でした。
 砂の海は己のフィールドなのだと。
 どんなに圧倒的な力を持つバケモノであっても、ここで自分に追いつける存在はいないと。
 そう。
 生き延びるという本能レベルでの意地だけが、ひたひたと背を追ってくる絶望から、『彼』を、ギリギリのところで守っているのでした。
 ――負ける、ものか!
 砂塵を巻き上げ。
 全身の力を総動員し。
 駆けて、駆けて、駆け抜けて。
 そうしてようやく、休めそうな木陰まで辿りつき。
 それまで息をするのを忘れていたのかと思うくらい、ぶほぁ、と大きく胸を上下させます。
 ――大丈夫。これなら……もう、奴らは。
 安心とは、空気を随分と美味しくするスパイスなのだなあと感心しながら。
 もう一度、ぶほぁ、と深く呼吸をして。
 それから正しく、四秒後。

「――クロガネという名の老ハンターは、こんなふうに言ったそうです」

 全身の毛穴が、残らず声にならない悲鳴を上げたようでした。
 二匹のバケモノのうち、黒くてちっちゃい方。
 手を翳して爆発を起こし、仲間を砂から引きずり出した、悪夢のような相手。
 けれど。
 今あるのは、それとは別の意味合いを備えた恐怖でした。
 ――ここは……砂漠、のはず、なのに。前に……先に……どう、して!?
 決してここにいるはずの無い、存在。
 はるか後方に置き去りにしたはずの、敵。
 なのに。
 息を綿毛ほども弾ませることなく。
 砂が凍りつくほど澄んだ声で。
 凛然として立ち塞がる事実。
 それは。
 『彼の』最後の自負を。
 よりどころである誇りを。
 砂の城のように崩落としたのでした。

「『騎士とハンター、どちらがより強いかといえば、これはどちらとも言えない。
 ただし、どちらがより飛竜を屠り得るかといえば、それは確実にハンターであるだろう』と。
 習性を学び。思考を読み。行動を操ってみせる。それがハンターの強さ、ということです。
 例えばそう……逃走経路を予め一つだけ残しておいて、先回りしておく、とか」

 その言葉の意味は、『彼』には欠片だってわかりませんでしたけれど。
 ――すぐに逃げないと!
 そう想起させるには、充分な時間を与えてくれたのでした。
 砂の海へ飛び込めば、こちらのものです。
 疲れた体を必死で持ち上げ、跳び上がり……

「迂闊な」

 空中で一瞬、氷になった心地でした。
 二匹のバケモノのうち、白くておっきい方。
 長い刃物を振るい、砂から飛び出した仲間を片端から斬って捨てた、悪鬼のような相手。
 何故、それが、音も無く背後にいるのでしょう。
 ……音も、無く?
 ――しまった、黒い方の声は接近を隠すための!
「それを指して……隙と言う!」
 ひうん、と風を斬る音がして。
 脇腹の辺りが、したたかに斬り裂かれました。
 全身が痛みで痺れて、目の前が紫色になってきます。
 ――逃げ、なきゃ。
 二度三度と転がってから起き上がり、何とか、砂に飛び込もうと試みます。
「小戦士」
「はい、予測済みです」
 不幸なことに。
 彼には、その声の意味もわからなかったのでした。
 ただ、砂に飛び込むまでの一瞬の間に、視界の端で映ったのは。
 白いのが、長い刃物を腰溜めに構えていて。
 あろうことか、その刃物の腹の部分に、黒いのがひょいっと乗っかっている様子でした。
 一瞬、黒いのと視線が交錯します。
 ――あれは、笑顔?
「轟け、光陰の疾さまでっ!」
 全身全霊で振るわれる刃物。
 黒いのはボウガンの弾のように飛び出し。
 そして。
「こんにちは。初めましては飛ばして、さようなら」
 あっという間に宙を飛んで眼前に到達し。
 すかさず鍵爪じみた左手が振るわれ。
 ぐわし、と頭を捉えて離さず。
「グラウンド零」
 爆裂。
 視界が真っ赤に染まり。
 ぐらり、と体が揺れ。
 それでも、必死で、踏みとどまろうとしたところで。
「推参っ!」
 白いのが、とどめとばかりに、迫っていたのでした。
 ――ああ、そういうことか。
 頭にめがけ、刃物が一閃したのを他人事のように感じながら。
 『彼』は、妙にさばさばした気持ちで、納得していたのでした。
 ――これが、答えか。
 絶望の、色。
 そんなものは、前提からして間違っていたのでした。
 ――絶望とは、色さえ奪ってゆく、底無しに無明な闇だ。例えばそう、死、と呼ばれるような。
 そんな闇にずぶずぶと飲み込まれていく自分を感じながら。
 『彼』は。
 熱砂の遊撃手――砂竜ドスガレオスは。
 天を仰ぐように両のヒレを大きく広げ。
 染み入る夜気を全身に感じ。
 平たい顔をやんわりと歪め。
 最期に、笑って、果てたのでした。
 自分の庭で終わるのなら、悪くない、とでも言うように。
 しゃらしゃらとさざめく、砂の海に抱かれながら。
 そして。

「さて、依頼の敵は全て討伐……ですね。
 最低限の剥ぎ取りだけして、ベースキャンプに戻りましょうか」
 黒い方のバケモノが、にこりと笑って言いました。
「うむ、すでに日も沈んでいる以上、急がねばならんな。
 ……とはいえ、その、大丈夫か? 砂竜を追い込むのに、動き通しだったであろう」
 白い方のバケモノは、渋い表情のままで告げました。
「もちろん、と言いたいところですけれど……体中で笑顔の大合唱ですね、特に膝の辺りが。
 クーラードリンクを飲んでいても、やっぱり足を砂に取られる分、消耗はするみたいです」
「ゆるりと休むが良い。幸い、寝床はすでに準備が出来ていることだし、な」
「ですね。オプションで腕枕は付きますか?」
「……我は床で寝る」
「0点ですね。ここは『そうだな、砂漠の夜は冷えるから――』くらいのことを言って、
 さり気無く肩を抱いたりする場面ですよ。基本中の基本です」
「何の基本だ! ……いや、それ以前に、そんなことを吹き込んでいるのは何奴か!」
「知らないのですか? レディの魅力の半分は、秘密で出来ているのですよ」

 バケモノが二人。
 あるいは、戦士が二人。
 砂漠の片隅で、いつ終わるとも知れぬ、物騒かつ和やかな会話を繰り広げているのでした。 
 黒いバケモノの名をソナタ。
 白いバケモノの名をユウ。
 子供と大人。
 笑顔と仏頂面。
 のっぽとおチビさん。
 右も左もつぎはぎ模様。
 どこもかしこも歪だらけ。
 初歩から真逆の二人三脚。
 ギャロップで駆けた730の日々。
 そんなこんなのへんてこハンターズ。
 だから。
 『それ』が現れたのは、季節の巡りのような、柔らかな必然でした。
 『誰』が呼び始めたかはわかりません。
 『どこ』で始まったかも知られておりません。
 『どうして』と疑問を差し挟む余地は不在ですし。
 『何』が示されているのかなんて、『百見は一聞にしかず』といった有様です。
 『いつ』のまにやら、ごくごく自然に人々の口に上り始めた、その二つ名。
 曰く。
 鏡界矛盾――アンバランスド――と。
 けれど。
「――そろそろ、本当に冷えてきましたね」
「ん……剥ぎ取りも一段落だ。戻ろうか」
「手」
「うん?」
「だから――手、です」
「……ふむ。悪くはない」
 ぎゅ、と結ばれるのは手であり絆。
 ほぅ、と伝わりゆくのは熱であり心。
 二人は、知っています。
 本当はお互い、『優しい』名前を持った、似たもの同士なのだと。
 二人だけが、知っています。
 それで、充分でした。
 第2幕 〜優しい魔法の紡ぎ方〜
「二年……か。そうよね、あの時期で二年って……長いわよねぇー」
 カウンターに頬杖をついて、山のような書類の整理から一時逃れながら。
 ハンターギルドの受付け嬢、フリージアは一人ごちたのでした。

 ニ年前、雨上がりの空が眩しかったある日。

 長身白髪の剣士と、それに連れられてやってきた、黒髪の少女。
 その場にいた人間の第一印象は、
「……子連れハンター?」
 ほぼ満場一致で、これでした。
 子持ちのハンター自体はさして珍しくもないのですけれど、普通、ギルドまで連れて来たりはしないものです。それは、公私混同以前の問題でして。
(教育上、とってもよろしくないものねえ……)
 ハンターといえば基本的に腕自慢力自慢ですから、誰しもが紳士淑女というわけにはいかないのです。率直に言えば、そんなものを期待してはいけません、ということなのでした。
(でも可愛い子ね〜。お父さんにはあんまり似てないけれど、よく懐いてるみたい。
 いかついおにーさんおねーさんに囲まれてさぞ怖いでしょうに、にこにこしちゃってまあ。
 う〜ん……あーゆー子なら、一人二人育ててみてもいいんだけどなあ)
 嘆息より儚い最後の夢想を除けば、これまたほぼ満場一致の感想でしたし、それだけで少女は興味を失われる、という流れも同様でした。
 どんな世界であれ、新参者をある程度値踏みすることは、通過儀礼の一環と言えるでしょう。とりわけ、実力至上主義の中心をゲリョスの如く突き抜けるハンター業界に置きましては、いっそうその傾向は顕著なのです。
 命運を共にする仲間?
 依頼を奪い合う商売敵?
 意味も無く好ましい友人?
 ひたすら無関心を貫く他人?
 運命的な出会いを果す伴侶?
 不倶戴天な呪いの如き宿敵?
 十人十色の視線と嗜好と思想から、『自分にとってどんな意味合いを持つか』という唯一の関心事においてのみ、先達のハンターたちは、この子連れハンターを見据えるのでした。
(私も商売柄、他人事じゃあないのよね。ううん、実は私が、一番関係あるのかもしれない)
 ギルドの特色として、ハンターと受注する依頼にはそれぞれランクが設定されます。噛み砕いて言えば、高いランクの依頼を受けるには、相応の実績を積んでハンターとしてのランクを上げなければならない、というものです。信頼と実績と報酬量、非常に明快な相関関係なのでした。
 ただし。
 この一見シンプルで合理的に見えるシステムの裏には、常に一つの現実が見え隠れするのです。ギルドが依頼のランクを認定するおおまかな基準は、依頼者の身分、報酬量、緊急の程度、依頼難易度の4つです。極端な話、王家からの依頼であれば焼肉調達でも最高ランクの依頼に、貧村がなけなしのお金をかき集めた依頼であれば、飛竜との交戦が前提でも最低ランクに成り得るのでした。
(そして、実際に依頼をハンターたちに提示するのが――受付けの役目)
 これは、ギルドの公認ではなくあくまで黙認とされておりますけれど。
 事実上の受付け権限として、『ハンターに提示する依頼を勝手に選別できる』というものがあります。低いランクに潜んでいる高難度の依頼を、何食わぬ顔で新進気鋭のハンターに請け負わせるのも、当たり障りの無い依頼をヒヨっ子さんに割り振るのも、全ては受付けの胸三寸、ということなのです。
 実力に見合った依頼を斡旋できれば、ハンターもギルドも利益を上げられますし。
 実力にそぐわない依頼を斡旋してしまえば、ハンターもギルドも共倒れです。
 これは、組織と個人双方の命運を握っている、と言っても過言では無い責任を示します。
 本来的な意味で『ハンターと依頼にランク付け』をするのが、愛想笑いとともに課せられた、受付けの至上使命と言えるでしょう。
(今欲しいのは……とにかく、即戦力ね。今日からでも動ける即戦力。
 『銀月狼』はすでにギルドの顔役だしー、『破銃一笑』はある意味ギルドの天敵だしー。
 『裁判魔女』は単独でしか動かないしー、『貴腐人』は群体でしか動かないしー。
 ……うん、個々のハンターの実力だけ切り取れば、他の街と比べても全然遜色無いんだけれど、 一長一短があんまりに激しすぎるわよ、この街の面子は。だから依頼も偏るし。
 汎用に仕事を振れるヒトが増えると、ギルドとしては大繁盛の大助かりだわ。
 さてさて……この新人さんはどうなのかな。期待しちゃうぞぉ、子供可愛いし〜♪)
 眼鏡越しに、フリージアはそれとなく視線を走らせます。
 生肉剥ぎ成功を誇らしげに報告する新人から、天災級の飛竜を屠る歴戦の勇士までを見守ってきた眼力は、生半なものではありません。
(業物らしい刀……顔立ちもそれっぽいし、東国出身かしら。髪の色はまあ、若い人だし。
 防御より機動性を重視した防具、足音を立てない体運び……大剣で速度を重視した戦闘形態は、珍しいといえば珍しいけれど……年齢以上に練達された雰囲気、はったりじゃあないわね。
 中堅以上であるのは間違いないように見えるけれど……街に出てきたばかりの、新人さんなのかしら? まあ、地方で実績を積んでから正式に登録に来る人も珍しくはないから……)
 それでも、どこかしら奇妙な印象が拭えません。これは、いったい何から来ているのでしょう?
 ……と、頭の中ではそんな考察を着々と進めながらも、完璧な営業スマイルで二人を迎えます。
「こんにちは。ご用件は、何でしょうか?」
 すると案の定、白髪の剣士はハンター登録の書類を求めました。
 基本的に、ハンター登録には審査やそれに順ずるものは一切無く、書類への記入だけで完了してしまいます。朝に登録をすれば昼前にはもう身分証となるハンターIDが発行され、晴れてハンターですおめでとうございます、となってしまうお手軽さです。
 この異様なまでに広々と開け放たれた門戸に誘われて、夢を見たくなる若者は後を絶ちません。けれど、門をくぐった時の倍の速さで逃げ出すのがほぼ同じ数、というのが現実です。

 『止めはいたしませんが、その代わり何の保証も出来ません』

 登録書類の最後に、皮肉なほど慎ましやかに綴られているこの一行のフレーズに、ハンターギルドという組織の姿勢、全てが表れていると言ってよいでしょう。
「では、太枠で囲まれている箇所に、それぞれ必要事項を書き込んでください」
「――だ、そうだぞ」
 きょとん、と首を傾げるフリージアの目の前で、白髪の剣士は、少女をひょいっと抱え上げました。そうして、カウンターの上に置かれた書類の目の前に差し出したのです。
 合法的なセクハラですね、とか呟かれて目を白黒させている剣士の様子も見物でしたけれど、そんなことは問題ではありません。
(うんうん、背丈がそもそもカウンターにギリギリだから、抱き抱えでもしないと届かないのねー。
 ああそうねとっても合理的ね、疑問を差し挟む余地が微塵も皆無なくらいわかりやすいわねー。
 ええ、悪いのはお嬢ちゃんじゃないわよぅ、この親馬鹿全っ開な馬鹿親様ですよぉー!)
 そう、今ある最大の問題は――急上昇中のフリージアの血圧を除けばですが――少女が何食わぬ顔で、書類に記入を始めている、ということでして。
「あの、大変もうしわけありませんが、正式な書類にそういったことをなされては困るのですが」
 子供さんに代筆させてはいけませんよ、ということをやんわり嗜めたつもりだったのですけれど。
 どうやら目の前の二人は、別の意味でその言葉を捉えたようでした。
「――やっぱりセクハラにあたるみたいですよ、これ」
「むう……だが、ソナタの背では届かないのだから、仕方あるまい」
「では、椅子を一脚借りましょうか。踏み台にするなんて、お行儀良くはありませんけれど」
「次善策としては妥当だな」
 話が異次元に飛んでいってしまいそうでしたので、フリージアは慌てて言い足しました。
「いえ、そうではなくて、ですね。手続き上、ご本人が記入されないと無効となりまして……」
「うむ、当然だろうな」
「勝手に登録されたりしたら困りますものね」
 さもありなん、とばかりに頷きあう二人に、ちょっと絶望的な気分になりました。
(なんなの……この話の噛み合わなさ具合はー!?)
 何かの罰かな、それとも冷やかしかな、嫌がらせだったら泣いちゃうぞぉあははー、とか思いながらも、スマイルにしわ一つ寄ることが無いのは、さすがのプロ根性と言えるでしょう。
「出来ました。記入洩れは無いと思いますけれど、確認をお願いします」
「あ、はい。確認のため、少々お待ち下さい」
 職業的反射で受け取ってしまってから、心の中で盛大に舌打ちをするフリージアでした。
(……まあ、代筆なので受け取れませんってことになるんだけれど、ねー)
 思いながら、斜め読みで書類に目を通します。
 『名前:ソナタ 性別:女 年齢:6歳』
 …………………………
 ――とりあえず、先週新調したばかりの眼鏡の度に疑惑を向けてから。
 先の半分の速度と倍の注意深さで、もう一度、ようく、内容を確認した後。
 今度は心の中では無く、はうあ、と呻きました。
「何か不備がありましたか?」
 きょとん、と首を傾げている少女に向けたスマイルが引きつっていたのは、もう、仕方の無いことなのでしょう。
「不備も何も……この内容だと、あなたがハンターになってしまうのよ?」
「はい、そのつもりです」
「馬鹿なこと言わないで!?」
 強いて言うなら、毒怪鳥の咆哮に近い悲鳴でした。
 声の大きさに注目が集まることさえ気にせず、続けます。
「いい? ギルドに依頼があるということは、ちゃんと依頼者の人たちがいるっていうことなの。
 その人たちは、ひょっとしたら明日は飛竜に襲われるような状況かもしれない。
 藁どころか綿毛にすがるような気分で、依頼をしているのかもしれない。
 そんな人たちからすれば、ね。後ろにいるあなたのお父さんも、あなたも、同じように仕事をしてくれる人だって、当然そう思うのよ。『ハンターなんだから出来ないはず無い』って、ね。
 ギルドである程度、出来る仕事出来ない仕事は区別して斡旋するけれど、
 どんな仕事だって一度引き受けたら、幼いから、未熟だから、なんて通用しないわ。
 わかる? ひどいこと言うけれど、あなたが生きるか死ぬかはあなたの責任で済むこと。
 勝手にしてくれって思うし、勝手にしてくれればいいわ。少なくとも私は知ったことじゃないから。
 でもね、迂闊な気持ちは依頼者の人まで殺してしまうの。謝って済むことじゃあないの。
 ……子供の遊びなんかじゃ、無いのよ。怪我しないうちに、お家へ帰りなさい!」
 一気にまくしたてながら、ほとんど睨みつけるように少女を見据えます。
「――」
 驚いて声も出ないのでしょうか、はたまた、何を言われたのかまだ理解が及んでいないのでしょうか。ともかく、少女の黒曜の瞳は大きく見開かれたままで、フリージアを見上げているのでした。
(うあー……泣かせちゃったかなぁ、これは……)
 少なくとも、自分の四分の一しか人生を送っていない相手に対して、相応しい言葉だったとは言えないでしょう。伝えたい内容に嘘偽りはありませんが、それにしたところで、焼けつく感情を流し込んだ言葉は、子供にとってはナイフと変わらぬ鋭さです。大人気無いにもほどがあります。
(でも……草食恐竜がたまたまぶつかっただけだって、こんな小さな子じゃあ大怪我しちゃうもの。
 大人がついているから平気、なんて類の代物じゃないのよ、ハンターっていうのは……)
 今にも腸が微塵切りになりそうな思いで、少女をじっと見据えます。
 そうして、黒曜の瞳が揺れ、みるみる大粒の雫が溜まり、やがて溢れ出す光景を覚悟しました。
 けれど。
 ――くすり、と。
 唸り声を上げそうな空気を、一瞬で手なずけてしまうような不敵さと。
 触れれば崩れるほど無防備で、ともすれば危ういくらいの子供らしさと。
 そんな、ひどくアンバランスな要素が入り混じった微笑を、少女は浮かべたのでした。

「厳しさの意味を知っている優しさは――素敵ですね」

 一瞬、どころか十回は瞬きする時間があってもまだ足りないくらいで。
 フリージアの頭の中は閃光玉でも炸裂したかのように、星が回っておりました。
(私は何を言われたの? というか何か言われたっけ? 何かってなんだっけ?
 あれれれれ? うわあなんだろう全然わけがわからない私はここで誰はどこ?)
 といった具合で、いっそ見事と言って良いくらいの混乱模様でしたから、
「あの……ええっと、ありがとう?」
 と、何だかよくわからない答えを返してしまい、いっそう少女を微笑ませてしまったのでした。
「そんな素敵なあなたの素敵なお名前は?」
「あ……フリージア、と申しますですハイ」
「愛想のよさ、純潔、親愛の情、ですか。やっぱり素敵なお名前ですね。
 親御様の愛情と人格が窺えようというものです」
 はあ、と生返事を返せただけで上出来の部類でしょうか。自分でも知らないような名前の意味をすらすら並べられるなんて、それこそ夢にも思わないことです。
(この子――大人びているとかそんなんじゃ……ない?
 何か……何かが、違うわ。決定的に、ずれている……というより、アンバランスなの?)
 パチン、と。
 世界のどこかでスイッチが入ったような唐突さで。
 消化不良な物体を胃袋に詰め込んだような息の詰まりと共に。
 フリージアは、はたと、気づいたのでした。
(目を――そう、目を逸らさないんだ、この子は!)
 普通――大人の目線という意味において――は、話をするならば相手を見るのが当たり前です。そして相手の反応を受け止め、表情から快、不快といった情報を取り出し、よりよい話題や反応を模索する。これも、極めて基本的なことです。意識するしないは別として、通常、会話とはそのようにして成立しているものなのですから。
 では、子供の場合はどうでしょう?
 そもそもの前提において、『じっとしている』というだけで、子供としては相当特殊な部類に入ります。 特に『見知らぬ』『大人と』『一対一で話す』となると、恥ずかしさでもじもじと体を動かしたり視線を彷徨わせたり、無闇ににこにこと笑って見せたり逆に怯えてどうにもならなかったり、そういった反応の方が普通です。
 加えて。
 そこに『真正面から罵声を浴びた』となれば、どんなに我慢強い子でも、後ろの保護者を振り返るくらいのことはするでしょう、絶対に。普通はフリージアが懸念したように泣き出すでしょうし、その後の会話が続くはずが無いのです。
 なのに。
 終始無邪気な微笑を湛えたまま。
 瞳逸らさず真っ向から見据え。
 淀みなくすらりさらりと言葉を紡ぐ、この少女。
(少なくとも、自分の気持ちを言葉にするだけで精一杯のお子様じゃあないわけね。
 ていうか……相手を見透かして会話の主導権握るなんてどーゆー6歳児なの神様〜!?
 第一、これだけいろんな意味で将来楽しみな子が、何をどうしてハンターなのよぅ……)
 後半は愚痴に終始した思考をそのまま読み取ったように、
「――そうそう、ハンター登録のお話が途中でしたけれど」
 とか言われたものですから、思わずはぅ、と声を上げそうになってしまい、慌てて飲み込みます。
 このあたりでもう、スマイルだのなんだのはとっくに彼岸に吹き飛んでいるのですけれど、もちろん、そうと気づく余裕なぞ、フリージアにあるはずもないのでした。
「実は、断られるか止められるかすると、予想はしていたのですね。
 なので、一応のこと『説得』の方法も用意してまいりました」
「それはまた……随分と準備がいいのね」
 どうも、飛竜に突っつかれてからかわれるランポスのような気分でした。
 掌で遊ばれている……というより、何かとても危険で物騒な代物にじゃれつかれているような、居たたまれなさを感じるのです。
 獲たり――といった顔で微笑む少女を見ると、一層そんな色が濃くなっていくようでした。

「さあさ、お立ち会い」

 ポン、と一つ手を打って、少女は勢い良く喋りだしました。
「これから始まるのは、世にも不思議な『説得』の魔法さ。
 この魔法にかかってしまうとさあ大変。どうにもこうにもにっちもさっちも、前後不覚の五里霧中。
 真っ赤になっては真っ青になって、悲鳴を上げては声も出ない。
 それでも結局最後には、くすりと笑って納得してしまうような、そんな素敵な魔法なのさ」
 大げさな身振りと特徴的な語り口調は、路肩の販売か何かのようでした。
 しかしその口上はなかなか堂に入ったものでして、遠巻きに見守っていたハンターたちの中でも、興味を引かれた者たちがちらほらといたようです。
「もちろん人生みたいに逃げ場は無い。覚悟はいいかな、素敵な名前のフリージアさん?」
「あ……はい」
 思わず返事をしてしまったのは、痛恨でした。しかも間髪入れず、
「うん、十全。じゃあ始めようか」
 と、少女の凶悪すぎる笑顔が炸裂するのですからたまりません。
 ……これはもう、『魔法』とやらに付き合うものとして、認識されてしまったことでしょう。
 少女と、それを見守るハンターたち、全員に。
 ――あの口上は、周囲を巻き込むため?
 少女の微笑みは、その思いには答えず先を促すばかりでした。
「まずはゆっくりと深呼吸を一つ二つ、三つもすれば、充分存分十二分さ」
「すぅ〜は〜、すぅ〜は〜、すぅ〜〜はぁ」
「次にゆっくり目を瞑って」
「はい」
 何やら妙なことになったなあ、と思いながらも、どこか楽しんでいる自分がいるのでした。
 ――この子は、次はどんなふうに期待を裏切ってくれるのかしら?
「まず、あなたには木になってもらう」
「木? 二つ揃って林で三つ揃って森で一寸つけば村になる、木?」
「そう。足から水を吸って、その水が体を巡るのが木のイメージ。
 呼吸は深く。心清かに。ただ、鼓動だけに身を任せて」
 すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……
 ――足から水を吸い上げる。
 立ち仕事には慣れている足。そこにある流れ。心臓が胸に有る以上、足元から血は上ってくる。
 ――うん、確かに、水を吸い上げるイメージ。
「吸い上げられた水は体を巡る。足から腰、腰から胸、胸から首と腕に枝分かれして、また戻る。
 流れは淀まない。繰り返され、そのたび巡る。足、腰、胸、首、腕、どこもかしこも何度でも」
 とくん……とくん……とくん……
 ――聞こえる。感じる。鼓動と流れ。巡る心地が伝わってくる。
 当たり前の命の営み。当たり前の血の通い。ああ、どうして今まで気づかないでいたのか。
 ――私は、水の流れる音で出来ているのに。
「それが木のイメージ。その感覚を失わないまま、また想像して。
 あなたは――ハンター。広大な丘を走っている、ハンター」
「丘を……走る」
 大地を踏みしめる感覚――広がる、木の息吹の感覚。
 風を従えて颯爽と、しかし高揚を押さえ切れずに疾走する姿を思い浮かべます。
 ――とくん。
 鼓動が、想いと重なるように弾みだしました。
 いっそう強くなる水の流れる音――生きている、その実感。
「そう。アプトノスがのそのそ歩いているのに軽く挨拶をして、自分の仕事に向かうところ。
 今日は飛竜みたいな危ない相手じゃないから、足取りだって軽いのさ。
 丘を下って、次は上って、平地に出る。左手に森が少しずつ近付いてくるね。
 ――そろそろ敵の縄張りかな、なんて考えが頭をよぎり始める頃だ」
 同時に、つん、と鼻の奥を痛ませる動物の匂い。
 けれど耳を打つのは、自分の鼓動と呼吸、そして風の音だけでした。
「少し足取りを緩めて、辺りに注意しながら進まないとダメね」
 自分の声が気持ち低くなっていることに、フリージアは気づきません。
 目を瞑ったまま、瞼の裏に敵の姿を求めていることにも。
「そうしてあなたは獲物を探す。ようくその目を走らせて……見つけた!
 敵の姿は、こうだ。
 大の大人の倍はある、後ろ足で立つぎょろりとした目の蜥蜴。
 水とも空とも違う、冷たいだけの硬質な蒼色の鱗。
 頭から鮮血を浴びて染まったような赤いトサカと。もっと紅い爪。
 ……そら、聞こえてきた。地面から響いてくるような重低音の叫び声だ」
「ドスランポス、か」
 見上げないといけない大きさの肉食獣と向き合う自分。
 けれど湧いてくるのは恐怖ではなく、むしろ――
「油断は禁物だけれど、負けるものか。あなたは強いハンターなのだからね。
 もちろんすぐさま武器を取る。長年の相棒、ずっしりと来る頼もしい大剣さ。
 それを構えて真っ向から睨みつける。うん、絶対に負けないって気がしてこないかな?」
「ええ、もちろんよ」
 ――とくん。
 そう言い切れるだけの高揚と自信を、確かに胸の真ん中に感じるのです。
 ――しゃん、と音を立てる無骨な鉄の塊。
 油断すれば腕を持っていかれそうなじゃじゃ馬を、正眼に構え。
 そして。

「――では、目を開けてみて下さいな」

「……え?」
 あってはならないことですが、一瞬、その言葉の意味を捉え損ねてしまいました。
 はっ、と気づいた瞬間に、霧散していくイメージの断片。手に感じていた鉄の感触も、頬に風を受ける感覚も、あっさりと消え果てしまいました。
(あ〜あ、残念……って、ものの見事に乗せられてるじゃないのよ!)
それだけ話に引き込まれていたのだと気づくと、焦りを含みながらも安心が湧いてくるから不思議なものです。
(でもやっぱり、うん、ちょっと……楽しかったの、かな?)
 ふう、と息を一つ吐いてから目を見開いて。
 息のかかる距離で、ぴたり、と合う視線。
 …………………………………………
 ドスランポスが居ました。

「うわひゃらぅあああああ!?」

 通行人が何事かと思うほどの大音声が、ギルドの内外に響き渡りまして。
 後を追うように、どわっ、とハンターたちからの笑いと喝采が上がります。
 すると目の前でドスランポスの頭がひょいっと持ち上がり、ぺろっと舌を出した少女が顔を覗かせました。いつの間にやら椅子の上に立っております。
 では少女を抱えていた白髪の剣士どうしたかというと、周囲のハンターたちに向けて、

 『フリージア嬢が気づくまで、どうぞお静かに』

 と書かれた紙を、仏頂面で掲げていたのでした。

「え? ええ? ええええええ!?」

 後に『マヌケの儀式でマヌケの神を呼ぼうとするような素敵なマヌケぶりでした』と、このときの狼狽ぶりを振り返るフリージアでしたが、全ては後の祭りです。
(よりにもよって……あれだけの口上を使って、『これ』だっていうの!?)
 目を瞑って口上に聞き入っている間に着々と準備をして、目を開けてみるとあらびっくり。
 そんな典型的な――子供の悪戯。
 単純なだけに、そんなのにひっかかった、という衝撃は相当なものなのでしょう。
 赤くなった後に真っ青になり、やっぱりまた真っ赤になってしまいます。
 何かを訴えかけようと口をぱくぱくさせますが、とてもとても、言葉になんてなりません。
「まあ、まずは落ち着いてくださいな」
 ちょっぴり首を絞めたくなる言葉をさらりと紡ぐ少女は、やたらよくできたドスランポスの被り物をカウンターに置き、水の入ったコップと毒々しいほど赤いキノコ、黒っぽい粉末の入った小瓶を取り出したのでした。
 コップだけを目の前に置いて、ぽうん、と小瓶とキノコを真上に放ります。
「マックス流調合術」
 落ちてくる小瓶とキノコに合わせて、小さな両手が交叉するように舞いました。
 やや細かくなったキノコがまずコップの中に落ち、タッチの差で遅れながら黒っぽい粉末が降り注ぎます。小瓶はコップに落ちることは無く、いつの間にやら少女の手の中にありました。
 すると。
 風も無いのにコップの水がぐにゃりと波打って、そのまま小刻みにふるふると震え続けるという異常事態が生じました。やがて震えが収まるや否や、黒かった粉末がパァっと光ったかと思うと、次の瞬間には、西日に照らされたような金色の液体が出来上がっていたのでした。
「活力剤です。気つけにどうぞ」
 先ほどとは別の意味で、周囲のハンターたちから喝采が上がります。
 調合。
 それ自体はハンターに必須とされる基本技能の一つですけれど、今行われたのは、熟練のハンターでも確実に成功するとはいえない、そういう難度の調合です。
(まさか『それ専門の』教育を受けている……とでも言うの?
 こんなお人形さん遊びが似合う年頃の子に何やらせてるのよ、馬鹿親ぁ〜!)
 ぐびぐびと、やけくそ気味に活力剤をあおります。
「ちなみにこのドスランポス頭、良く出来ていると思いません?」
「そりゃあね……すっごい声だしちゃったわよぅ」
「でしょうね。私が狩った本物ですから」
 活力剤が噴水になりそうな一言でした。
「何かの役に立つかと思って持ってきましたけれど、そのとおりでした♪」
「え……ええ? あ、いやでも……例えそうだとしたって……」
「『あのお父さんに手伝ってもらったのでしょう』とあなたは聞きます」
「……!」
 思考を見透かされ、完全に言葉に詰まります。
「それは――二重の間違いですね」
 今度は、カウンターにおいてあったドスランポスの頭が高々と放り上げられて。
(あの左手……!?)
 いつの間にやら少女の左手は、禍々しいシルエットの、鍵爪じみた篭手を纏っているのでした。
 そうして、落ちてくる頭をぐわしと掴み。
「グラウンド零」
 爆砕。
 轟音と共に、ドスランポスの頭は欠片も残さずこの世から消え去ったのでした。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
 その場にいた屈強なハンターたちでさえ、軒並み言葉を失いました。
 酒瓶を傾けた格好で固まって、テーブルを酒浸しにしているハンマー使い。
 ステーキの代わりに自分の手をフォークでさしてしまったボウガン使い。
 驚いて椅子から転げ落ちて、頭にお皿を被ってしまったランス使い。
 呆然としながら、何故か自分の武器を研ぎ始めた大剣使い。
 思わずぱちぱちと拍手を送る、爆弾好きの小剣使い。
 そして。
 そんな周囲の反応に、少女はスカートの端をちょこんと持ち上げて、恭しく礼を返してから。
 何事も無かったかのように、フリージアへ向き直って。
「間違いの二つ目ですが――あれ、父親じゃありませんよ」
「へ?」
 あれ呼ばわりとはけしからん、とぼやく白髪の剣士に、たちまち注目が集まります。
「……お兄さん?」
「全然似てないでしょう」
「……お母さん?」
「発言には責任を持ってください」
「……お爺さん?」
「本人泣きますよ」
「……親戚の叔父さん?」
「そもそも血縁者ではありません」
「……人攫い?」
「近いですが微妙に違います」
 近いものか! という抗議の声を完全に黙殺しつつ、やれやれと肩を竦め。
 少女は、きっぱりと言ったものでした。

「夫です」

 建物が消し飛ばんばかりの絶叫が上がりました。
 もちろん、最大音量を放ったのは、他ならぬ白髪の剣士本人でしたけれど。
「……いきなり我の人生を終わらせかねない冗談をぬかすなぁぁぁぁ!」
「それはそうですね」
 今度はあっさりと抗議を受け入れて、訂正します、と前置きし。

「籍はまだ入れていませんから、情婦ですね」

 何かが砕け散る音がしました。
 真っ白な灰となった白髪の剣士は、そのまま風化して土に還ってしまうと思われましたけれど、
「あー……まーあれだ、若気の至りってのはあるもんだよな?」
 馴れ馴れしく肩を叩いてくる、苦笑。
「そ……そうですよね、不特定多数を毒牙に……もとい恋愛対象としないだけでも、紳士です!」
 わけのわからない熱弁を振るう、赤面。
「つーか普通に変態でしょ?」
 眠たそうな切れ長の目を向ける、無表情。
「いいや! 人生のドロップアウトをも辞さない心意気に、ワシは真実の愛を見た!」
 はた迷惑な賛同を叫ぶ、感涙。
「うふふ、わたくしあなたとはとっても気が合いそうですわ。よしなに」
 晴れやかに握手を求める、笑顔。
「……………………」
 それら全ての的となった、大往生一歩手前のむっつり顔。
 まるきり固まったかに見えた長身は、何やら、微かに震えているようでした。
 初めは小さく細かな漣程度、やがて小波から大波、大波から津波へ。
 ――まるで、噴火直前の火山みたい。
 フリージアの何気ない連想は、全くもって、正鵠を射ておりました。
 ぴたり、と震えが治まった瞬間。
 白髪の剣士は。
 爆発しました。
我は! まだ! ソナタに! 何も! していない! 神に! 悪魔に! 天に! 地に!   森羅万象っ! 全てに誓って! 憚るものなぞっ! 完全完璧完膚なきまでに絶無だぁぁぁっ!
 声というよりも音、音というよりも衝撃。
 鼓膜を直接殴りつける、もの凄まじい蛮声でした。
 目は一分の隙も無く鎮座しておりますし、体から立ち上る気配は猛獣のそれです。
 先の怒号と相まって、誰もが黙するしかない乾いた空気の中。
 ゆるり、と頬を凪ぐそよ風のような、微かな呟きが聞こえました。

「――まだ?」

 あまりにも致命傷な声がひどく幼い響きだったのは、はたして気のせいでしょうか。
 ともあれ。
「まだって言うことは……成長するまで待つってこと? いわゆる光源氏計画?」
「ある意味プラトニックな関係と言えませんか? 少なくともロマンはありますし」
「ふん、あの宣言は変態なりの仁義なのかもしれん。だとしたら奴め……なかなかの漢よ」
「違いますわ。あくまで少女は愛でるものであり劣情の対象ではありませんのよ。
 ええ、わかりますわ。わかりますとも。わたくしは全て理解しておりますわ」
 鎮火したかに思えた火種は、再び、倍の勢いで燃え上がり出したのでした。
 元来血の気の多さには定評があるハンターの皆様ですから、気分が否応無く高揚すれば、行き着く先は何となく見えてこようというものです。
「やっぱり変態……筋金入りで折り紙付きな純真純正混じりっ気無しの変態?」
「違うぞ! 彼は変態などではなく愛の勇者だ! って……うおお危ねぇ!?」
「変態の仲間は変態。変態は抹殺するモノ。以上、証明終了と同時に抹殺開始」
「上等だテメエ……。おめでとう、洩れなく全・殺・し! 決定だぁ!」
 舞うフォーク。撃ち落とすナイフ。
「……どうも、皆さん騒がしいですねえ。半永久的に静まりたい方、おいでなさい」
「つーか元凶絶ったら?」
「それも道理。ようがす。のべつまくなし、皆さんのどてっ腹にイイモノをぶちこみましょう」
「はーん……オーケイ、そっちがその気ならこっちもこの気っ! 死ぬまであたしと踊れろらぁ!」
 矛の椅子。盾のテーブル。
「まあ、皆さんお下品。こんなときは優雅に華麗に刺激的に……毒を嗜むものでしょうに」
「ど……毒煙玉を、室内で使う奴がある……くぁ……」
 微笑むモノ。崩落ちるモノ。
「くくく……変態であろうと、確かに貴様は漢よ。死なせるには惜しい! ワシが助太刀しようぞ!」
「何故に……何故に、さも決定事項のように、我を変態などと認定しているのだぁぁぁぁ!」
 意義の無い友情。意味の無い叫び。
 喧々囂々侃々諤々。
 一応、ハント用の武器を抜いているモノがいないのは救いといえば救いですけれど、生態系の頂点を脅かす方々による、あまりにも見応えのありすぎる乱闘騒ぎでした。
 ちなみにその禍を逃れているのは、フリージアとソナタ、たったの二名だけ。
 まあ、フリージアは受付け嬢ですし、ソナタはまだハンターでもない子供ですから、これは当然といえば当然です。とはいえ、ある意味元凶の二人が蚊帳の外なのも、不思議といえば不思議でした。
「あの……ソナタちゃん、念のため聞く臆病な私を許して欲しいけど……さっきの、冗談よねえ?」
「ええ、今のところ」
「じゃあ止めないと。ユウくん死んじゃうよ、なんていうか……ヒトとしての尊厳とかが」
「それも一興ですね」
 カウンターにふわりと腰を下ろした少女は、完全に高みの見物と決め込んだようでした。その行儀の悪さを嗜める気力さえ、今のフリージアにはありません。
 ――ちょっと待って? 確か当初の目的、説得じゃなかった?
 けれどその結果は、乱闘騒ぎという目も当てられない状況です。なのに、何故、この少女はこうも落ち着いているのでしょう。それは、肝が据わっているとかそういう問題では無いはずです。
 ならばこれは――予定調和?
「こうなるよう……企んだ、の? ソナタちゃん……」
 それは怒鳴られても仕方ないほど失礼で、突拍子も無い発想でしたけれど。
 むしろそれを愉快そうに、少女の皮を被ったナニモノかは、微笑むのでした。
「ユウって、無口で、無愛想で、そのくせ腕は立ちそうに見えるでしょう?
 もちろん、私は中身を知っていますから気になりませんけれど、初見の人は困りますよね」
「否定はできないわね。怖いっていうのとも違うけれど、確かに話しかけやすいタイプじゃないわ。
 特に……先達のハンターたちからすれば、目の上のタンコブにさえ映るかもね」
「そう。そして悪いことに、ユウ本人はよほどのことが無い限り、他人にどう見られようと気にしないのですね。というより、自分がどう見られているかなんて気づきもしない、幸せなヒトなのですよ」
 そこが可愛いのですけれどね、と言う口元が、悪戯っぽく歪みます。
「ならば逃れようの無い一言を刻めば良いでしょう。
 今後、どれだけ無口で無愛想であっても、ふと頭をよぎる、そんな見た目の印象を打ち砕く一言が。それは単純で、強力で、誰が聞いても容易にイメージの湧くモノが相応しいと言えます」
 聞こえてくるのは、口々に『変態』と叫ぶ声と、それを潰して回る怒声。
 仮に、今後どれほど仏頂面で通したとしても。『ああ、あの噂の変態か』なんて一言が用意されている限り、どこか砕けた親近感に取って代わられることでしょう。例え本人がいくら怒り否定したところで、周囲がいっそう囃し立てるための材料を提供しているようなものです。
 そしてそれは、確実に、ユウという存在を人々に浸透させる結果へと繋がるのでした。
 ――たった一つの欠点が、仏頂面さえ人間味に変えてしまうという、この魔法。
 覚えず、フリージアは唸りました。
「あなた……ユウくんが、誰からも壁を作られないように?」
 それは驚くべきことで、同時に感動するべきことでした。
 誰がどう見ても、徹底的に保護が必要に見える年頃の、無力な少女が。
 守るために。そう――たった一人の人間を守るために、力尽くし心砕くという、この事実。
「お節介はここまでです。後は、ユウ本人がどう受け止められるか。それだけのことですから」
 でもね、と言葉は続きます。
「私の未来の夫は――伊達ではありませんよ?」
「その根拠は?」
「決まっています。私を選んだというその一点です」
 吹き出しました。
 お腹を抱えてもまだ足りず。
 大爆笑でした。
 ――ああ、なあんだ、そういうことか。
 初めにユウを見たときに感じた、奇妙な感覚の正体。
 それが、ここにいたってようやくわかったのでした。
(『長身白髪の剣士に連れられた黒髪の少女』なんて、どこにも居なかった。
 『長身白髪の剣士を引き連れた黒髪の少女』が、当たり前のように居ただけだったんだ!)
 目の端に涙が浮かんでも、笑いの発作は止まりません。
「……それ、ちょっと、失礼です」
 なんて頬を膨らます少女を眺めつつ、思います。
 ――決めた。私は、この子を見守る。この子の信じるヒトを見守る。
 笑顔で見送り、誰よりも無事を祈る。
 笑顔で向かえ、誰よりも無事を喜ぶ。
 それが私の仕事。それが私の願い。
 私が見るのは背中で充分。私が見るのは足跡で存分。
 そうして出来た道こそが、何より大事な記憶になるから。
 このへんてこな二人が行き着く先を、私は心に刻み続ける。
 だから私は。今、私に出来る精一杯は。
「ねえ、ソナタちゃん」
「はい?」
 真正面から向き合って。
 フリージアは、微笑みました。
 営業用とは程遠い、ちょっと顔の作りが崩れるくらい、ほこほこに綻んだ顔で。
 誰もが受け取る、始まりの言葉を紡ぎだします。

「ようこそ、モンスターハンターの世界へ」

 真っ赤になっては真っ青になり。悲鳴を上げては声も出ない。
 けれど、最後にはくすりと笑って納得してしまうような――そんな、説得の、魔法。
 ――私は、どうもそれに、ころっとやられてしまったようなのでした。

「ようこそ、炎の子供の世界へ」

 そうやって、微笑み返された日。
 始まりの一歩目を、心に刻んだ近くて遠い日。
 炎の子供と風の剣士に出会った、二年前、雨上がりの空が眩しかったある日。


         ◇


「……つまり、私のお肌も二年分歳食っちゃってるのよねえ、残念ながら」
 とめどない思索から復帰すると、決して少なくはない時間が経過していたようでした。
「あらいけない。さてっと、お出迎えの準備準備〜♪」
 ギルドの裏の顔の一つとして、依頼の成否を迅速に伝えるネットワークが上げられます。これは主に依頼失敗時、すぐさま次のハンターを送って時間的ロスを防ぐことや、もっと切実に、死に瀕しているハンターの救援部隊編成などに活かされます。
 対して、依頼成功時にはさしたる恩恵はありませんが、それでも、おおまかな帰還時間くらいはわかるのでした。
 山積の書類との格闘をもうちょっとだけ先延ばしにして、まずは飲み物の準備です。
 帰ってきたハンターたちは大成功ならば祝杯ですし、大失敗ならばヤケ酒です。つまり基本的に人数分以上の飲み物(付随して食べ物)の注文があるわけで、実はこれが、ギルドの馬鹿にならない収入源の一つだったりします。
 ただ、今回用意するのは、お酒ではありませんでした。
 天然水にわずかにハチミツを落とし、ライムを搾って風味を付けただけのジュース。
 専用の器と道具を用いて、決まった手順で粉末を湯に溶き作成する、緑淡色のお茶。
 どちらもほとんど需要が無く、本来メニューに存在すらしない代物なのですけれど、フリージアは慣れた手つきでその両方を用意しました。
「キンキンに冷やした天然素材ジュースと、じんわり染み入る芸術作法のお茶と、か。
 ホント、飲むものまで正反対なのは、どうなのかしらね〜」
 そういえばいつだったか、ストローで一緒に飲む計画だけは目処が立ちませんよ、と嘆いていたでしょうか。もっともその直後、あ〜ん、で食べさせれば良いだけの話、と笑っておりましたけれど。
「まだまだよ。もっとずうっといっぱい、あなたたちは足跡を刻むんだわ。
 そうして、もっとずうっといっぱい、私も笑顔を返し続けるんだから、ね」
 背筋をしゃんと伸ばして、カウンターにそそと立ちます。
 はたして、近付いてくる影が、二つ。
「ただいま帰りました」
「うむ」
 いつも通りの顔。
 いつも通りの二人。
 いつも通りの喜び。
 さあ、今日の土産話は何だろう。
 仕事上砂漠での討伐の手際は気になるし、人生の先輩としてそれ以外の成果も気になるところ。レディの心得を色々教えてはあるけれど、さて今回は、手ぐらい繋いできたのだろうか。長い目で足跡を辿れば、確実にあの朴念仁の牙城は崩されつつある。後もう二年もしたら、本当にわからないかもしれない。……ああ、どうにも話の種は尽きそうにないけれど、大丈夫。飲み物の用意だって、万端なのだから。
 ――でも、まずは。
 この笑顔と言葉で迎えることから始めよう。
 あの日の想い、そのままに。

「お帰りなさい」

 そんないつも通りの光景の中――書類の山から落ちた一枚の依頼書に、気づくモノはおりませんでした。
 討伐依頼書『一本角の悪魔』
 かさり、とも音を立てず地に落ちたその紙切れが、どんな意味を持っているのか。
 気づくモノは、おりませんでした。
 第3幕 〜悪魔は啼き、そして嗤う〜
 オオン、オオン。
 傷が痛む。心が渇く。逃れよう亡く痛んで渇く。
 屍山を築いて幾千万。血河を乾して幾歳月。
 矢継ぐモノなら撃ち砕き。
 刃研ぐモノなら折り潰し。
 牙剥くモノならただ斬り貫いた。
 なのに。
 痛む。渇く。痛んで渇いて痛んで渇いて、痛みだけが渇かずに渇きだけが痛みだす。

 オオン、オオン。
 黒い傷痕が痛む。退いた心根が渇く。
 ああ、もっと屍山を。もっと血河を。
 獣の道に道理はいらぬ。
 獣の理に理性はいらぬ。
 我が傷痕を紅く塗り潰し。
 我が心根を熱く潤し満たす。
 悲鳴と絶望を綯い交ぜにした、屍山血河の真紅をよこせ。

 オオン、オオン。
 あの男は神楽と言ったか。あの刀は神楽と言ったか。
 矢継ぐモノならば撃ち砕き。
 刃研ぐモノならば折り潰し。
 牙剥くモノならばただ斬り貫いた。
 なのに。
 それでも我を退かせたモノを、神楽と言ったか。
 傷痛ませ心渇かせるモノを、神楽と言ったか。
 ならばこの傷この心、癒し得るのも神楽の真紅か。

 オオン、オオン。
 ああ、痛む。
 足りぬ、足りぬ、真紅が足りぬ。
 ああ、渇く。
 足りぬ、足りぬ、真紅が足りぬ。
 よこせ、よこせ、屍山をよこせ。
 立ち塞がるモノ、貴様の屍山で贖い果てろ。
 よこせ、よこせ、血河をよこせ。
 逃げ惑うモノ、貴様の血河で賄い朽ちろ。
 今一時、この痛みと渇きを忘れんがための贄として。
 神楽という名の真紅を我が身に纏う、その刹那まで。

 オオン、オオン。
 オオン、オオン。

 今宵の真紅は――不味くて敵わぬ。
 第4幕 〜休日の戦場〜
「…………」
 白髪の剣士は、ただ、瞑目しておりました。
 この場において自分に出来ることは唯の一つさえ無く、今は耐え忍んで来たるべき時を待つのみ、ということを、染み入るほど思い知っているのです。
「…………」
 それでも。
 瞬きの数ほど断続的に、けれど忙しなく聞こえる微かな格闘の音と、蚊の欠伸ほどのひどく小さな、けれど途切れることの無い呪文じみた声とを聞くと、どうにも、体の内側から責められているような居たたまれなさを感じるのです。
「…………」
 ですから。
 せめて少し声をかけるくらい良いかな、本当に出来ることは何にも無いのかな、ああでもちょっとくらい休憩を挟むよう提案してみようかな、なんて、魔が刺したりもするのでした。
「なあ、ソナタ。少し休憩をした方が良いぞ。朝から、かかりっきりだろうに」
「――ふうん? どの口が、そんなことを、言いますか?」
 くるぅり、と椅子を半回転させて振り向いたソナタの声色はひどく穏やかで、それだけに物騒でした。その様は、どこか蒼白い炎を思わせます。
「経済観念が零どころかマイナスで、収支表の一つも作れないのは、だあれ?」
「……我、だが」
「一緒に寝るのが恥ずかしいからって、わざわざ広い家を借りたのは、だあれ?」
「……我、だが」
「街の物価も知らなくて、危うく斬破刀を質に入れる寸前まで行ったのは、だあれ?」
「……我、だが」
「うんうんそうだね、全部ユウだったね。それで、何か、言いたいことがあったの、かな?」
「……否、何も」
「じゃあ黙ってて」
 頭から真っ二つに両断された心地でした。
(やれやれ……この先もずっと、同じことを言われ続けるのだろうか)
 やるせない気持ちを引きずりつつ、窓に近寄り外を見やります。
 ハンターギルドと商店街とで正三角形を作れるような位置にあるこの家は、借家ながら一戸建てでして、すし詰めの無料集合住宅を常とする新人ハンターにとっては、相当不釣り合いな代物と言えるでしょう。
 今二人がいるのは、屋根裏を改装した、物置兼雑務用の部屋なのでした。そこでソナタは今月の収支決算中で、所在無く見守っているのがユウ、という図式です。
 これは概ね、恒例となった月末の光景なのでした。
 ユウは旅の知恵は充分でも、一つの場所に根ざして生活することが異様に下手である、という事実が露呈したのは、街での生活を始めて間もなくのことです。これは、本人にとっても意外なことでした。しかし考えてみれば、今まではほとんどが野宿で、食料も携帯保存食さえ切らさなければ、後は野生の獣を適当に狩っていて済んだわけです。それを鑑みると、衣食住のうち食と住に一番お金がかかる、という一般概念が薄れているのは、ごくごく当たり前だったのかもしれません。
 ともあれ。
 実際、最初の一年などはその影響が大きく出てしまい、本当に斬破刀を手放すかもしれない場面も何度かあったのでした。
 そんなおり、これまた意外な生活力を見せたのは、ソナタでした。やりくり上手に節約上手、値引き上手に交渉上手、何やら主婦の鑑のようなスキルを遺憾なく発揮し、別な意味でのレディの怖さを存分に知らしめたのです。
 自然、家庭内での力関係がどのように決したかは、推して知るべし、といったところなのでした。
「今月は討伐が多かったから収入も多くて合計12000。
 問題は支出。居住費900を三ヶ月分まとめ払いで2500に節約、食費光熱費被服費、全部合わせて1500。砥石等仕事上の消耗品が1000。私の調合材料爆弾その他500。雑費350。
 ああ、別枠で装備のメンテナンスと強化の積立金2000は確保しておいて……と」
 そんな調子がしばらく続いた後。
 カリカリと書き込む音と、呪文の呟きが止みまして。
「うん、5050の黒字! ふふふ、軌道に乗ってきたじゃありませんか♪」
「む……それは凄い。報酬や剥ぎ取りで得た素材もあることだし、しばらくは安泰だな」
「ええ。ユウのお小遣い500、私のお小遣い50を差し引いても、4500の繰り越しです♪」
 ふむ、とユウは首を傾げます。
「どう考えても、その小遣いの差十倍というのは違和感があるのだが。
 片方が仕事をしていないで遊んでいるというならともかく、共働きでこれはおかしい」
「いいえ、私とユウでは、こなせる依頼の絶対数が違いますよ。こう言っては何ですが、私は恐らく世界で一番体力と体格で劣っているハンターですからね。
 だからいつも一緒に依頼、とはいかなくて、ユウ一人で出る場合がままあるじゃないですか」
 それにね、と嗜めるように指を振るソナタでした。
「子供にあんまりお金を持たせると、教育上良くないそうですよ?」
 これには、何とも言えない顔で苦笑するしかないユウでした。
 実際、どちらがどう教育されているのか、わかったものではありません。苦味が混じっているとはいえ、表情を崩すことにさほど抵抗を感じなくなったことが、その証拠の一つです。
(感謝……か。これも、ありえなかった感情だが……)
 さすがに直接そう伝えることには照れを覚えたので、別のことを口にしました。
「だが、ソナタの働きは、客観的に見ても同期のハンターとそう変わるまいよ。
 いつだったか、『所詮白いのがいないと何も出来ないんだろう』と言われて、
 すまして一人でクックを倒してきたことがあったではないか。
 それに見合った報酬を手にして、悪いことがどこにある?」
「そちらこそ、『そんなものは武器に頼った戦い方に過ぎん』と言われて、
 表情一つ変えず、雷の通らない鎧竜を屠ってきたではありませんか。
 十倍どころの差では無いのですよ、本来的には」
 一瞬、間が空き。
 顔を見合わせ。視線が交錯し。
 たちまち倍速で再開されました。
「六歳半で飛竜狩りなぞ前代未聞だろうが。歩く不条理が何を言うか!」
「そっちこそ刀で鎧竜を両断なんて離れ業。依頼完了を確認するギルド員が気の毒です!」
「岩竜で出来たのだから不思議なことは無い!」
「それは最初の段階から人類の規格外です! 反則です! むしろ変態です!」
「変態は違う! 断じて違う!」
「じゃあ一緒にお風呂とか入ってみます?」
「断る! 何故かわからんが一つでも既成事実が出来ると致命傷な気がするのだ!」
「ユウのくせに何で変なところばっかり鋭いのですか!」
「…………!」
「…………!」

 さて、その震源地周辺では。

「おやまあ、ユウさんとこで始まったみたいだねえ」
「となると、もう月終わりか。早いもんだ」
「今日はどっちが勝つか、賭けるかい?」
「なあに馬鹿言ってんだい。ソナタちゃんにあの甲斐性無しが勝てるもんか。
 何分で言い負かされるか、じゃないと賭けなんて成立しないよ」
「違いないさね、じゃあ15分で」
「ははん、10分持てば御の字じゃないかい?」

 そんなこんなで名物化していることなぞ、本人たちは露知らず。
 結局今回は、とても意外なことに。
 ユウが言い負かされるまで、5分も保ったそうです。


                         ◇


 ハンターの買い物、といえば、街中でも自慢の武器を背負って闊歩しているのが一般的なイメージです。けれど、実際問題、街中でそんな格好を目にする機会は多くありません。それはそうでしょう。依頼に向かう直前ならばともかく、日常的に鎧に身を固め武器を背負って、夕食の買出しに行く酔狂なモノはいないのです。加えて、元来消耗率の激しいハンターの装備は、定期的に修繕(あるいは買い替え)が必要ですので、案外、纏っている時間よりも武器屋さん防具屋さんのお世話になっている期間の方が、長かったりもするのでした。
 それは、ユウやソナタにしたところで例外ではありません。ですので、口喧嘩も一段落、さて買い物に行く前に修繕をお願いしてきましょうか、というのはひどく当たり前の流れなのでした。
 とんてんかん、きんこんかん、ふしゅー、と。
 いつでも熱と甲高い槌の音とで満たされている工房の中は、如何にも職人たちの領域、という張り詰めた空気を醸し出しております。
「今回は立て続けに討伐だったゆえ……長くかかるかもわからんな」
「そうですね。でもその分稼いだのですから、今回はのんびりと休みましょう」
「英気を養う、か。それも道理だ。久しぶりに釣りにでも出かけるかな」
 遠回しなデートの催促は通じなかったようで、溜息が一つ、工房の熱と音に紛れただけでした。
 さて、当面為すべきは修繕です。
 受付けに話を通し、そこで二人は分かれました。ユウの刀とソナタの篭手とでは、管轄が全然違うためです。基本的には、武器の材質が金属か骨類かそれ以外か、といった具合で大まかに分類されて、例えばユウの場合は金属担当の職人さんに頼むこととなります。しかしソナタの場合、そもそも一般に武器として認定されていない代物ですので、当初、工房側でも頭を悩ませました。結局、最初にその役を買って出た職人さんが、専属に近い形で以後も請け負う、ということで話がまとまり、現在に至ります。
「さてさて、今日はどちらにいらっしゃるのでしょうか」
 軽くハミングなどをしながら工房内を散策する少女の姿は、どこをどう取っても不釣合いなこと請け合いでした。けれど、小さな戦士の顔は職人さんたちにとっても馴染みのものでしたので、咎める声も世話を焼く声も上がらず、
「カポックなら奥だ、炎の」
「ありがとうございます」
 必要なことを、最低限の言葉で伝えられただけでした。とりもなおさず、それは、一人前のハンターとして認識されている、ということなのでしょう。
 淡白な言葉と態度にこそ滲む、信頼と敬意。ここは、そんな無骨な男たちの職場なのでした。
 さて。
 熱気の立ち込める工房内でもひときわ空気の濃い一角に、はたして、その職人さんはおりました。岩みたいなごつごつの顔の半分を赤髭で覆った巨漢は、腕の太さが大タルほどもあって、ソナタが4,5人はすっぽりと納まってしまいそうです。神話に出てくる世界を支えている巨神が、一休みしてどでんと鎮座している、といった風情でした。この両者を比べて『どちらがハンターでしょう』と問うたなら、百人が百人、何の迷いも無く誤答を選択することでしょう。
「カポックさん、今日もお願いしますね」
「……ん」
 呻きのような声と共に、差し出された篭手を、大きな指で摘み上げるように受け取りました。そうして、様々な角度から、今にも髭に飲み込まれてしまいそうなほど間近で睨めつけます。意外なことに、篭手への扱い自体はひどく慎重かつ丁寧です。
「……爪」
 ぎょろり、と三白眼が見開かれます。食い入るように、とはよく言ったもので、凶悪なシルエットの篭手でさえ、飛竜の前のケルピみたいに見えるから不思議です。
「……平……人差し……薬……」
 ときおり気になる箇所が見つかっているのか、そのたびにぎょろりぎょろりと三白眼が見開かれ、不明瞭な声が洩れております。控えめに言えばあまり目と心臓に優しい仕草ではなく、大げさに言えばすぐさま逃げ出したくなる凶相なのでした。
 やがて。
 一通り確認して気が済んだのか、篭手を顔から離し、ふしゅるゥ、と大きく息を吐きました。
「……凄いが、ソナタだ」
 重低音で真っ向から文法法則を無視されると、これまた際立って物騒に響いてくるのですが、少女は軽くおどけて肩を竦めただけでした。
「そうですか? 爪、掌、人差し指と薬指の関節、結構多くの箇所が壊れているのでしょう?」
「……無いが、ひどい場所で。……分散な、傷み方、だった」
「あらら、お見通しですか」
 苦笑を浮かべる少女の前で、赤髭の中に真一文字の線が引かれ、にぃ、と歯が剥かれました。
 …………………………
 何の誇張も無しに、臆病と評判のクックくらいならば、あっさり気絶させられそうな破壊力でした。
 これを笑顔と呼ぶのを躊躇わない人類が、いったいどれほど存在するのかはともかく、涼しげに対峙している少女がそのうちの一人である、という事実は揺らぎません。
 それどころか、どこか誇らしげに、身振り手振りを交えながら、
「ただ零距離で爆発させるだけでは、あまりにも芸がありませんからね。
 最低限の量で最大効果、というのが爆破の基本ですし、色々と工夫はしているのですよ。
 爆発を指向性にしたり、爆薬以外にも色々詰めてみたり、試行錯誤の繰り返しですけれど、ね」
 そんなふうに話している光景は、まるで気安い友人へ自慢話を聞かせているようでした。
「……ん。……大事の、扱い方だ。嬉しいが、オレ」
 ぐっぷゥあ、という豪快な呼気は、どうやっても笑いが洩れたようには聞こえませんけれど。
 少なくとも、この二人の間では、それで存分な意思疎通が出来ている模様でした。
「……有るが依頼、今一つ。この……大鎌な、終わるで、明日」
「なるほど、今取り掛かっている仕事がその大鎌で、明日には終わるのですね。
 それでは、明後日から私の方の修繕に入られるのでしょうか?」
「……ん。終わるがこれ、後の三日……」
「わかりました。三日経ったら取りに来ます」
「……ん。待つは、するのが楽しみ……」
「私もです。では、また」
 ぶおぅん、ぶおぅん、と豪快に手を振る音に笑顔を返しながら、ソナタはその場を後にしました。
「実質一日と掛からずに修繕可能とは、さすがカポックさん、ですねえ。
 それにしても、あれだけの腕があるのに、何故他に一件しか仕事が入っていないのでしょう?」
 はてな、と首を傾げてから、ほどなく、
「ああ、口下手で損をしているのですね、きっと」
 見知った無愛想を横に並べて想像してみると、この上なく納得、でした。
「でも、笑顔はちゃんと出来るみたいですし、誰かさんよりよほど将来は明るいですねえ」

 そんな、この上なく不名誉な評価を受けているとは露知らずの、元祖仏頂面はというと。

「…………」
 風や虫が知らせるまでもなく、360度どこを取っても隙無しの渋い顔でした。
「……一週間、か」
「当然ジャい。刀ってのァ、剣じゃあなくてどこまでも刀なんジャ!」
 とんがった声を出すのは、小柄を通りこして小人な爺様でした。
 こう見えても三名いる工房の主の一人で、こと金属鍛治に関しては、右に出るどころか影を踏める存在すら居らず、ハンターたちにとっては、決して頭の上がらない人物なのです。
 そうした背景から、畏怖を込めて『鉄の腕』、あるいは愛嬌を込めて『鉄ジジ』などと呼ばれるのが常なのでした。名前で呼ばれることは、まずありません。本名年齢経歴などが一切不明のため、本当に名前があるのかどうかさえ、誰にもわからないからです。
「刀術と剣術の違いナンぞ、オマエさんには説くまでも無いジャろが。
 刀の切断原理は『最小面積に最速斬撃を最短時間で』って、相場が決まっトる!」
「正に然り」
 乱暴に言えば、剣ならば『叩き切る』で、刀ならば『斬り裂く』という違いでしょうか。
 例えば大剣の威力が一般に小剣より高いのは、切れ味うんぬんの差では無く、単純な質量の大きさであり、ある意味鈍器としての『破壊力』の差と言えるでしょう。封筒では蚊も潰せませんが、百科事典ならば人だって昏倒させられる、という理屈です。
 ところが刀の場合、威力を分けるのは、ただただ切れ味の差に絞られます。如何にして、最高に研ぎ澄まされた刃先を、最速で目標に突き立て、最短で摩擦力を加えるか。砕く、という物理力の立ち入る隙はそこに無く、一心不乱の『切断』のみが、刀の破壊原理そのものなのでした。
「わかっトるなら、腰が伸びかけるような真似をするデないワ! スットコドッコイのとんちきがぁ!」
 超音波までもう一声、といった風情の、キンキンの金切り声でした。
 もちろんこれは、鉄ジジの曲がった腰が驚いてしゃんと伸びた、というようなことではありません。
 刀には『反り』というものがありまして、これが、およそ剣では真似の出来ない圧倒的な切れ味を醸し出す要因の一つなのです。ところが、そんな刀の命である『反り』は、あまりに硬いモノを斬ろうとした時や無理な力を掛けた時などに、衝撃で無くなってしまうことがあります。そうして『反り』が無くなりまっすぐになってしまったことを、『腰が伸びた』と言うのです。
 この場合、『とにもかくにも腕が未熟なせいだ』と、鉄ジジはたいそうご立腹なわけでして。
「ったく、一応訊いてやるワイ! 何ぃ斬ってこんなヘマやらかしたんジャ!」
「鎧竜を」
「フン、尻尾か? くか〜、欲を出すからそーゆーことにジャな……」
「否、頭から真っ二つに」
 …………………………
 工房内にあってはならない冷気が漂っているのは、どうしたことでしょう。
 甲高い金属音さえ、何かに怯えるように鳴りを潜めているようでした。
「……頭から、ジャと?」
「はい」
「……あの、飛竜の中でも堅牢で名高い、鎧竜グラビモスをカ?」
「はい」
「……で、真っ二つ? すぱーんと?」
「はい」
「……あ〜、その……うん、何というかアレで、そう、冗談じゃよ、ナ?」
「御先達、それはあまりにも心外というもの」
 その真面目くさった顔がどんな凶器になっているか、知らぬは本人ばかりなのでした。
 鉄ジジは、すっかり落っこちてしまった顎から、心臓が飛び出るのだけは何とか推し留めようと、
「……せめて、横じゃよナ? こう、頭だけポーン、みたいナ」
 現実とのギリギリの妥協点を提示したのですけれど。
「無論、縦に。尾で少し引っかかるような感触があったので、腰が伸びた原因はそれかと」
 うひゃあ、と。
 呻いて、鉄ジジはひっくり返りました。
 その声を聞きつけ、何事かと周囲の職人たちが一斉に振り返った、その刹那。

「ユ〜ウ、み〜つけた♪」

 小さな影が素早くユウに駆け寄り、勢いそのままに飛びつき、胸元に収まる姿が見えました。
「な……ソナタ!?」
 目を白黒させるユウと、してやったりの顔のソナタ。呆れるくらい微笑ましい光景です。
「……」
 職人さんたちは、やれやれと頭を振り、自分たちの仕事に視線を戻したのでした。まさか、抱きついた際にユウの首筋へ、赤いお茶っ葉みたいなものが振り掛けられたなんて気づきもしません。さらに間髪入れず、葉の上に赤みを帯びたペースト状の何かが落とされたなんて、夢にも思いません。よしんば見えていたとしても、それが、調合用に加工済みの火炎草とニトロダケだと、理解出来るモノはいなかったことでしょう。全ては、一瞬の早業だったのですから。
 その代わりに、万人が、これ以上無くわかりやすい形で認めたのは、

「グラウンド零・逢瀬」

 ユウの耳元で囁かれた物騒な呟きから半拍子遅れで。
 ぼへむ、と愉快な感じで煙に包まれた、ユウの姿だけでした。
 今度こそ、周囲の職人さんたちの視線が釘付けになりましたが、そのときにはもう、ユウ本人は地に崩落ちた後です。残ったのは腰を抜かした鉄ジジと、花も恥らう笑顔で佇む少女だけ。
 その二人の反応に、耳がクックになるのは当然と言えましたが、呆気に取られているのは鉄ジジとて同じです。
「な……ナナナぁ!?」
 ひっくり返ったままで腰を抜かすという、相当器用な芸当をやってのけた鉄ジジでしたけれど、別段得意げには見えませんでした。今度は目か髭を落っことしそうな有様です。
「ああ、鉄爺様。これは、ユウなりの冗談なのですよ」
 必要以上にようく通る声で、しれっと言うソナタでした。
「じょー……だん?」
「ええ。このヒトは真顔で冗談を言ったり、周囲が理解に苦しむようなことをしたりするのが大好きなのですよ。ひょっとしたら先にも、変な冗談を言ったりしていませんでしたか?」
「ン……ああ、確かに鎧竜を真っ二つにしたとか言っておったがナ……」
 まだ状況が掴めていないらしい鉄ジジに、さらに畳み掛けます。
「まさか本気と思ったわけではないでしょう? 普通に考えて、まず甲殻に刃が立つものですか。
 そんな豆腐みたいな鎧竜がいたら、ギルドはてんやわんやですよ」
「それも……そうジャな。いやいや、あんな顔で、如何にももっともらしく言われると、
 どうも本当みたいな気がしてしまったゾ。どうにかしとるナ、ワシも」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、鉄ジジはひょっこりと起き上がりました。
 すると今度は気恥ずかしさが燃え上がったようで、しきりにたむたむと地団駄を踏んだりぴこぴこと腕を振ったりしています。どうも、本人としては怒りを表現しているようでしたが、子供の目にも、非常にコミカルで笑顔を誘う仕草でした。けれど、ソナタはそんな感想はおくびにも出しません。
 気を利かせたのではなく、目的遂行の一環として、です。
「ユウの冗談にも、困ったものですねえ」
「オウさ! こりゃ、ちょっと起きんカ! 文句言っちゃるワ!」
「体を張った冗談ですから、なかなか起きませんよ、きっと」
「ええい、これでは腹の虫が収まらんワイ!」
「ふふふ、きっとユウはそんな反応を楽しんでいるのでしょうね」
「か〜っ、悪趣味な奴ジャ!」
「ええ、本当に」
 足元から、基本的人権の何たるかを訴える声が上がりかけましたが、ぎゅむ、ぐりぐり、という音にかき消されたのでした。
 怒り心頭な鉄ジジの、たむたむぴこぴこな仕草がしばらく続いたせいもあって、周囲の職人さんたちには新たなユウの一面、『変な冗談好き』が深々と刻まれた模様でした。この調子だと、いずれ、ハンターたちの間でも語り草になるのが目に浮かぶようです。
「本当に、そうですねえ」
 呟きには、重い卵を無事運び終えたような安堵の色がありました。


 その後、(半強制的に)会話出来ないユウに代わってソナタが修繕の話を進め、
「では、仕上がりは十日後ですね?」
「ああ、やっぱり月末は忙しくてナ。すまんが待っていておくレ」
「はい、『これ』にも伝えておきます」
 話がまとまったところで、ずぅ〜り、ずぅ〜りと情けない音を立てながら、大の男が引きずられていきました。どう考えてもソナタの腕力で出来る芸当では無いのですが、
「家庭内ではまた別の腕力を発揮するのが、レディの嗜みです」
 という言葉に、妙に説得力を感じてしまうのですから不思議なものでした。
 そうして、ずぅ〜り、ずぅ〜りで工房の入り口間近まで来たところで、
「もう起きて良いですよ」
「……承知」
 煤と埃と少々の焦げに包まれながら、一層深みを増したむっつり仏頂面が立ち上がりました。
「……で、いったい何なのだあれは!?」
「零距離の調合『暴発』です。所詮爆薬の出来損ないですので、煙の割に全然痛くないでしょう?」
「うむ、確かに。……と、そういうことを言っているのではないわ!」
「わかっています。ただ、入り口で立ち話も迷惑ですから、少し歩きましょう」
「ん」
 もっともなお話でしたので、二人は商店街の方へ足を向け、歩き出しました。
 何か上手く気勢を削がれたのは気のせいではないだろうなあ、と思いながらも、こんがり焦がされた手前、追求しないわけにはいきません。
 工房はギルド界隈の隅っこですので、少し歩けばたちまち景色は様変わりします。そこかしこに露店が増え、連れて通行人も増え、徐々に商いと生活の匂いが濃くなってくるのでした。
 そんな雑踏に溶け込んだのを見計らって、ユウは話を切り出します。
「――何故だ?」
 簡潔で、そのくせ深く心に斬り込んでくる響きでした。
 そこに綾なされたのは怒りよりも悼み、非難よりも悲哀、そんな糸ばかりです。
 結局のところ、自分が受けた仕打ちに憤るよりも先に、相手の意を汲んでやれないことを悔いているのでしょう。そしてきっと、そんな気持ちは誰にも知られることは無く、むっつり顔で隠しきれている、とでも思っているのでしょう。
 ――すました顔の犬が、尻尾だけぱたぱたしているみたい。
 微笑ましさともどかしさに苛まれながら、それでも慎重に、ソナタは言葉を紡ぎます。
「正直、説明が難しい……というより、実感してもらうのが、難しいと思います。
 なので、いくらか質問に答えてもらえますか? それが、理解を促してくれるはずですから」
「承知」
 別段申し合わせたわけでもなく、二人は、当然のように路肩のベンチに腰を下ろしました。
 目の前を通り過ぎる人々を、見るでも眺めるでもなくただ視界に映しながら、では次はどの店に行きましょうか、とでもいうような調子で、ソナタは問いました。
「ユウ、もしも私がひどく危険な状況に陥ろうとしていたら、あなたはどうしますか?」
「無論、守る」
 即答でした。
「私がそれを望んでいなかったとしても?」
「なるべく怒らせないように、立ち回る」
 さらに即答でした。
「結果、ユウを嫌ってしまうかもしれなくても?」
「構わない。だが、死なせない」
 どこまでも即答でした。
 ソナタは口元を綻ばせ、ほんの少し、それとわからぬ程度に身を寄せながら、そっと呟きます。

「私も立場が逆なら、必ず、そうします。つまり――そういうこと、なのですよ」

 白髪が、残らず逆立ったようでした。
 ふつふつと、マグマの如く鳴動を上げる剣呑さが、半径30pの世界に充満していくのが見て取れます。
「――我は、そんな醜態を、晒していた、というのか」
「はい、私に引きずられていったのも充分醜態だとは思いますが」
 フォローだか追い討ちだかわからない言葉は、耳に届いてないようでした。

「つまり、工房内で我を謀殺せんとする動きがあったということだな?」

 みしり、と奥歯と握りこぶしを軋ませての言葉は、

「お馬鹿」

 あんまりにも報われず、空回りしたのでした。
「なんと……違うのか!?」
「そんな九死に一生な展開で、どうしてあなたを爆破することに繋がるのですか」
 ふむ、と首を傾げ、では、と結び。
「敵を欺くにはまず味方から、という奴ではないか?」
「合っているけれど間違っています」
 口ではしっかりと釘を刺しながらも、どこか眩しいモノを見るように、黒曜の瞳をやんわりと細めるソナタでした。
「つまり、あなたは、自覚無しにもの凄まじいことをやってのけているのですよ」
「自覚的にやっているソナタはさらに凄いと思うが……」
 茶化さないの、と一喝されて、長身がしゅんと萎れました。普段が普段なだけに、こういった何気ない仕草が妙に可愛らしいのですが、そんな内面はおくびも出さず、如何にも真剣な面持ちを作って、続けます。
「例えば、私が一人でクックを倒した、ということ。これは、自分で言って良いものかわかりませんが……異常です。きっぱりと。世間一般の常識では、ともかくそういうことになってしまいます」
 やや反応を躊躇いながらも、こくんと首肯するユウでした。
 自分が同じ歳の時期を考えると、寝小便の癖が直っていなかったことや、犬に追いかけられて怖かったことなどが次々と思い出され、非常に居たたまれない気分になってしまうほどです。
「ただし、ハンターの世界では、偉業ではあっても異常とは判断されません。
 確かに十二分に驚かれはしましたが、『爆弾や罠を存分に用いれば、難度はともかく討伐可能』という概念が存在するからです。つまり、かろうじて『常識』の範疇に収まるわけですね」
 それでもギリギリですけれど、と苦笑し、問題は、と人差し指を突きつけます。
「あなたの鎧竜両断は、そんなハンター世界の常識の範疇さえ越えてしまっているわけです。
 常識どころか物理法則と真っ向勝負で、しかも圧勝。学者がダース単位で泣きますとも」
「……そうなのか? だがあれは、タイミングと速度次第でどうとでも……」
「なりません。出来ません。ありえません。
 ……と、少なくとも、金属鍛治の権威は思ったのではありませんか?」
 鎧竜がくしゃみをしたのを目撃したくらい、呆気に取られた表情でした。
「そういえば……妙に、反応が大きいとは思ったのだが……」
「ある意味、職人さんたちはハンター以上に武器の限界、
 突き詰めれば人間の手による破壊の限界というものを、ようく知っています。
 もしもそれをあっさり、何の不思議もなさそうな顔をして、超越されたら……」
「職人たちが長年培ってきたものが根底から崩れる、か。なるほど、気の毒だ」
 喉に引っかかった小骨が取れた気分で、すっきりと得心でした。
「……ぼでぃ」
「はぅ?」
 やや呆れた調子で小突かれたところを見ると、不正解、のようでして。
「気の毒だ、じゃないでしょう! 人間、認めたくないモノを前に、素直に崩れてなんかくれません。
 コレは何かの間違いだ、さもなければアレは人間じゃない、とか、相手の方をまず否定しますよ。
 自分を守るために相手を倒す。そこに不思議の立ち入る余地は、無いでしょう?」
 笑顔が雲に隠れる刹那――朧に覗くのは、狂おしいほどにまっすぐな視線でした。

「だって、私たちは、生きていますから」

 これにはさすがに、神経鉄筋男とて、柳眉をひそめました。
「人間ではない……か。それは堪らないな。一つ違えれば村八分、といったところか」
「…………ええ、そうですね」
 反応にやや不自然な間が空きましたが、ユウは気づきませんでした。
「私は気にもなりませんが、かといって、世間に同意を求めたところで何も良いことはありません。
 ですので、ほんのちょっぴり、乱暴な手段で止めた、というわけでして」
 ふむ、と先刻の状況を反芻してみます。
 ユウとしては、非常に、甚だしく不本意ではありますが、例の『変態』の下地があったおかげで、今回のことも『ああ、あいつなら』程度であっさり受け入れられたことでしょう。
 決してベストではありませんが、ベターな選択であった、と認めざるを得ません。
「我が迂闊であった……すまない」
「ふうん。それが、私の欲しい言葉だと本気で思うのなら、怒りますよぅ?」
 ゆったりと余裕のある笑みは、何かを底意地悪く期待している顔でした。
 見ようによっては甘えているようにも見えますが、この場合、ゆるゆると追い詰めている、の方が適切なのでしょう。そして悪いことに、ユウ本人も何を期待されているのかわかっているようで、
「………………むぅ」
 今度は顔そのものが爆発するのでは、と危ぶまれるような色になっているのでした。
「ああ、怒るより泣いた方が効果的でしょうか。さてさて、道行く人は何事と思うでしょうね?
 人攫い、困ったお父さん、あるいは変態。うん、街の警備隊のレスポンスタイムは確か……」
「待て! せめて歳相応の涙の使い方を要求する!」
「待っているのは私。待たせているのがユウ。違いますか?」
「くっ……!」
 絶体絶命の四面楚歌、進退極まる五里霧中。
 素手で飛竜の巣窟に飛び込む方が、まだ気分としては楽なことでしょう。
 ――心の深奥、あるいは、まっさらな自分、とでも言うべき『ユウ』としての中心部分。
 『それ』は、普段は幾重も薄紙のような壁に包まれていて、他人の目に触れることはおろか、自分自身と向き合うことさえなく、ただ、深くて仄暗い場所に沈めてあるはずの代物でした。
 なのに、この、ソナタという存在は。
 いつも『それ』を見据え、ことあるごとに、薄紙を一枚一枚丁寧に取り除いていくのです。しかも、『それ』が怯えたり傷ついたりしないように、ことさらゆっくりと。けれど、決して『それ』が薄紙を纏い直すことのないように、鋭く想いを巡らせながら。
 自分さえ知らない核心へと、近付いてくる感覚。
 それはある種の、恐怖、と言えました。ただ困ったことに、歓喜、でもあるのでした。
 この、揺れ動き続けるアンバランスな感情の名前を、ユウは、まだ知りません。ただ、何かがどうにかなるような、漠然とした光明のように思えるのです。
 あたかも、闇夜の中で出会った温かな灯火のような。
 だから。
 その言葉を紡ぐのは、やっぱり、飛竜の口に手を突っ込むよりも勇気がいるのでしたけれど。
 優しい名前の剣士は、逃げ出しませんでした。

「……ありが、とう」

 囁きは、爆発寸前の顔色に反比例して、雑踏を揺らすことさえ出来ませんでした。
 それでも。
「どういたしまして。次は是非とも、私にお礼を言わせてくださいね?」
「……そんな気の利いた状況は、ちと想像し難いが」
「具体的には、お昼ご飯がちょっぴり豪勢になったりすると、実現可能です」
「わかりやすいな」
「でしょう?」
 弾ける笑顔に、手を引かれ。おそらく、心を弾ませて。
 ――今は苦笑を返すので精一杯だけれど、いつかは、同じ笑顔を返せるのかもしれない。
 そんな震えにも似た予感を、信じられる気がした、ユウなのでした。
 少なくとも、この時点では、まだ。


                            ◇


 食事も買い物も滞りなくすませ、空も名残惜しそうに燃え上がる帰路の半ばで。
 ハンターギルドの前にさしかかった二人の耳に飛び込んできたのは、酒盛りなどによる無闇な盛り上がりとはまるで別種の、ひどく切迫したざわめきなのでした。
 交わす視線は、一瞬のこと。
 生活用品の詰まった袋を抱えながらでも、すでに二人の顔つきはハンターのそれでした。
「ユウ!」
「応ッ!」
 ギルドの扉をくぐった瞬間――目の奥にまで突き刺さってくるのは、鉄錆びの匂い。
 『何故』『どこから』という疑問を一息で彼岸へと追いやる、怒声と悲鳴で構成された人垣。
「回復薬! オレのツケで構わねぇ! あるだけ持って来い!」
「包帯が足りないの! 止血出来れば何でもいいわ! 持ってきて!」
「輸血はまだか!? 血ィさえ足りてればどうとでもなるってのに、これじゃあまずいぜ!」
 ざわめきの正体は、医者の到着まで保たせるために忙しなく飛び交う指示だとわかりましたが、ここに至って、そんな当初の疑問の氷解は、砂一握の価値さえ無いのでした。
 ――戦場。
 そう。『生と死の境界』が誰の目にもわかりやすく線引きされる、という圧倒的な意味において、ここは既に戦場なのでした。勝ちなどはとうに廃れていて、ただ負け尽くさないためだけに、必死でつなぎ止めようと這い回る、そんな、負け戦の場。
「あ……ソナタちゃんに、ユウくん」
 体温を感じさせない声は、フリージアでした。それだけで、事態がより深刻なことがわかります。
「確認したい。何人中の、何人だ?」
 ハンターにとって、これ以上ないのではないか、というくらいの直球勝負でした。
 曰く。
 『何名で依頼に向かって、何名が生還したのか』と。
 生よりも死に近づくことが前提の、『狩るか狩られるか』の世界に生きるモノとしての言葉でした。
「……四名中、一名よ。そしてその一名も――」
 眼鏡の奥を滲ませて、人垣を見やります。
「――あの通り、重傷。正直、五分五分だと思うわ……」
 祈るように、言い聞かせるように、何とか言葉を紡ぐ様子は、悼みよりも痛みで満ち満ちておりました。

「私がもっとちゃんと依頼難度を見極められていたら、こうはならなかったのに」

 びく、と身を震わせて口を押さえますけれど、薄紅を纏った唇は、呻き一つ上げてはおりませんでした。慌てて黒髪の少女を見やりますが、こちらも、珍しいくらい呆気に取られた表情です。
 そんな二対の視線に射抜かれながらも、あくまでも渋いままの顔が、告げました。

「あなたがあなたを殺す必要など、どこにも有りはしない。
 しかし、ただ微笑んでいるだけでも、救われるモノは居る――それだけのこと」

 静かな言葉には、力と体温がありました。
 けれどフリージアに驚く暇さえ与えず、仏頂面はカウンターに買い物袋の山を乗せると、御免、とだけ残して踵を返すのでした。どこに向かうのかなんて、問いかけるまでもありません。
「時々格好良いでしょう? 私のおじいさんだかお母さんは」
 過去の失言を微笑みで抉りながら、少女も、身を翻しました。
 ――ああ、やっぱり、あの子が選んだヒトなんだ。
 いつもやり込められている光景ばかりが浮かびますけれど、人並みならぬ事情があるに違いない少女を、こうまでまっすぐに笑わせているのは、あの、虫も殺せる仏頂面なのでした。
(互いに補いあっての――アンバランスド、か)
 もちろん、どちらの方がより強く影響を与えているのかは、恐ろしくて考えませんでしたけれど。

「ぅおっし! 受付けの根性見せるときだわ!」

 ぱちん、と両の頬を張って、しょぼくれた顔を作り直してから。
 笑顔を引っさげ、取り出したのは、書類の山でした。
「依頼難度……星4つに改訂して分類を通常討伐から緊急救出に変更、
 内容は取り残されたハンター三人の安否確認及び救命、
 成功報酬は――ええい、減給覚悟でギルド予算から捻出してみせるわ!」
 それは、あまり前例の無い、救出依頼の手続きの数々でした。国の要人でもない一介のハンターたちのために、というのはさらに前例が少ないことですが、現場の判断という名の免罪符を振りかざして、これを押し通す腹づもりのようです。
(こっちはこっちでどうにかしてみせる。そっちはそっちで……お願いね!)
 言われるまでも無い、と、あまりにも迅速な行動で応える二人でした。

「薬が行きます。道を開けて下さい」

 決して大きな声ではありませんし、誰がどう聞いても子供の、それも少女の声です。
 けれど。
 モーセの十戒よろしく、人垣が真っ二つに割れて道ができました。恐らく、半分は炎の子供の声を知っていたのでしょうし、もう半分は、単純に、気圧されたのでしょう。
 ――どかぬなら、我が斬り開こう。
 眼光だけでそう告げる、白髪の剣士によって。
 そうして到達した人垣の向こう――僅か5m先は、別世界でした。
 横たわる一人に対して、着いている人間は三名。
 薬が足りない、と叫んでいた通りに相当切実なようで、今は三名が三名とも、自分の服の切れ端を持ち寄るなり、布袋に互い違いに切り込みを入れて包帯状にするなりして、どうにか止血を試みているのでした。芳しい結果が出ているようには、見えませんけれど。
 そして、怪我の具合以前の根本的な問題が、一つ。
「ユウ……私が見間違っているのでは、無いのですね?」
「肯定だ。あれは、ハンノキ殿に相違ない」
 真紅に染まり横たわっているのは、この街に来て間もない頃から見知っている、老ハンターでした。何故かユウのことをひどく気に入っており、ことあるごとに『変態であろうと貴様は漢よ!』と口にしていたのが、自然、思い出されます。弱々しく息を継ぐ様からは、夢でも見ていたかのように、遠い光景ですけれど。
「…………っ」
「ソナタ――やれるか?」
 おそらく大の大人でさえ、取り乱し、喚き、自失するであろう惨状を前に、悲鳴も上げず視線も逸らさず、真っ向から立ち向かわんとしている小戦士の答えを、ユウは、静かに待ちました。
 ――ハンターとはいえ、我は、あまりにも酷な選択を強いている。
 身近な人間が、ある日突然に死に瀕するという、現実。
 剣を突きつけるように、大上段から受け入れを強要する、悪夢。
 現実が悪夢となる、そんな、悪夢のような現実。
(ソナタは――最悪の形で、それを知ってしまっているというのに……)
 たったの、ニ年。
 ヒトが変わるにはあまりにも短すぎる歳月で、ソナタは、あの『炎の世界』での出来事をどう消化してきたのでしょうか。普段の生活を見守る限りにおいては、それらの影響が見られることはありません。ただ、それをもって、何もかもを解決している、と見るわけにはいかないのでしょう。
 そこで失った家族、村、そして、自分自身。
 どれもこれも、あまりにも取り返しのつかないモノばかりです。本来であれば、誰もが当然のように与えられる、家の土台に相当する部分。やがて守られるだけの世界から羽を伸ばし、試行錯誤しながら自分を形作ろうとした時に、しっかと支えてくれる根本。
 それらが、一切、無い、ということ。
 灯る明かりが突然に掻き消えて、嘲笑う闇に出迎えられれば、誰だって恐怖を感じることでしょう。けれど、正しく『そういうこと』なのです。自ら炎となって道を照らさなければ、そうして戦わなければ、一歩たりとも進めずにただ崩落ちるしかない、そんな、世界。

(時間は……何も、解決してはくれない。憎しみは淀み、深く重く沈み込むだけだ。
 例え傷痕を忘れていても、触れれば血は滲み、痛みは甦る……)

 脆弱の体は、今にも溶け消える淡雪のよう。
 創痍の心は、頼りなく揺れる花びらのよう。
 喪失の傷は、宵闇を刻む三日月のよう。
 無明の道は、か細い綱の上を渡るよう。

(……怖い。飛竜と戦うことなどより、よほど恐ろしいと感じてしまっている。
 ソナタが――戦士の魂が、たちどころにかき消されてしまいそうで)

 ユウ自身、とんと自覚していないことでしたけれど、それは予感ではなく、実感でした。
 苦境にあってなお、自分が自分であり続ける、ということ。
 ただそれだけが。
 かつて、風の子供には、出来なかったこと。
 けれど。

「――心配する相手が、違うのではありませんか?」

 振り絞った勇気の分だけ、炎の如く煌く笑顔が咲いておりました。
 翳した手には、緑色の液体を湛えた瓶が、もう三つも揃っています。何よりも明確な、戦う意思がそこにあるのでした。
「その意や、良しっ!」
 頷きあい、薬はまだか、と叫ぶ面々に瓶を差し出しながら、問いかけます。
「状況は、どうなっているか」
「あと、足りない分の薬を挙げて下さい。大抵のモノは調合出来ます」
 突然の参入者でしたが、治療に当たっていたのもハンター、やはり緊急の対応には手馴れているのでした。要点を押さえて、短く説明を始めます。
「――で、傷口がおかしいんだ。鋭利な刃物で斬り裂かれたみたいなんだよ。
 ほら、まるで――人間相手にドンパチやらかしたって感じだろ?」
 胸元を袈裟斬りに走っている傷は、確かに、爪や牙でやられたとは思えない鋭い斬り口でした。いいえ、対飛竜用の防具下まで綺麗に達する斬撃となると、並の剣では無理な相談です。
「これは、刀傷に近いが、技が一切感じられない。力任せの一振りに見える。
 それこそ、大剣ほどもある、巨大な刀でやられたとでも――」
 ドクン。
 真紅――――
 刀――折れて
 ――――悪魔――角―――
 箱が。固く閉ざされた箱が開きかけ、何かを吐き出そうとしているような。
 そんな不気味な鳴動が、体の内側から聞こえてくるのでした。
(これは……まさか『そう』なのか? ……いや、早合点はするまい。
 今は、ハンノキ殿を助けるのが先だ。例え、『アレ』が出たのだとしても――)
 ドクン。
 一瞬、世界が紅く染まり、耳の奥で甲高い泣き声が聞こえたのは、錯覚なのでしょう。
 錯覚――なのでしょうけれど、黒く淀んだ気配が、今にも胸の奥から、引き出されて――

「……こんな、でたらめな治療がありますか!」

 思考を断絶する勢いで爆発したのは、薬関係の相談を進めていたソナタでした。とにかく回復薬ばかりを欲しがる様子をいぶかしんで問い詰めてみたら、とんでもない事実が露呈したのです。
「ただ傷を塞げば良いと思って回復薬? ふざけるならば時と場合を選びなさい!
 出血で体が弱っている時に、輸液も無しに、全身全霊で負担を強いていたのですよ、それは。
 基礎体力のあるハンターでなければ、とうに消耗し尽くして死んでしまっています!」
 傷を塞ぐならば回復薬、それも強力であれば強力であるほど良い、と考えるのは、常日頃行っているハントの経験からも、当然のことと言えます。けれど、有り余るほどの体力が基盤にあってこそ、強力な薬で傷を塞げるのです。瀕死のモノに同じ処置をしては、返って身体の負担を倍増させてしまい、傷を塞ぐどころか、僅かに残った体力さえ、奪う結果になってしまうのでした。
 ハンターであるからこその、思考の落とし穴、と言えるでしょう。
「回復薬だけでは、逆効果です。患体の消耗を緩和しないと、傷は塞がってくれません。
 まず栄養剤1に対して回復薬3で投与、様子を見て、活力剤も、微量ずつ投与を。 
 止血帯が足りないなら、止血点を圧迫して出血量を減らしてください。止血点の場所は――」
 どこで仕入れたのか、と思うくらいの専門知識が、幼い声に乗せられて飛び交います。しかも知識の羅列に留まらず、これでもかと適切な役目を割り振るものですから、一瞬その様子に呆気に取られ、まるきり固まってしまったとしても、誰も当人たちを責められないでしょう。
 もちろん、炎の子供を除いて、ですけれど。

「さっさと動きなさい! 即刻っ!」

 はいィ! と。
 野次馬たちまでが、思わず背筋を伸ばして声を揃えました。
 この合唱が届いたのか、はたまた治療の変更が功を奏したのか、その辺りは定かではありませんけれど。ほどなくして、深い皺に埋もれ閉じられていたハンノキの瞼が、僅かに持ち上がったようでした。
「……おう、貴様か。かかか……どうも、ここの酒が恋しくて……のう。
 ワシだけ……先、に、帰って来て……しまった、わい」
 明らかに、止血を行っていた白髪の剣士を認めての声でした。
 周囲からは口々に『喋るな! 傷に障る!』との声が上がりますが、ユウは、そうはしませんでした。
 ――自分だけ、逃げ帰ってきてしまった。仲間を置き去りにしたままで、死ねるものか!
 軽口の中に、そんな意志の光を見て取ったからです。
 すぐさまハンノキの前に、屈み込んで問い質します。
「敵は?」
 簡潔な問いに、紅く濡れた老ハンターの口元が、僅かに緩んだようでした。
「モノブロス……の、はずだった。だが……あれは、違っ……ぅ!」
「……!」
 げほげほ、と咳き込む中には明らかに紅いモノが混じっておりましたが、それでもハンノキは、話すことを止めようとはしません。
 そんな光景に、誰もが目を奪われ。
 短い言葉を受けた白髪の剣士が、血を噴き出さんばかりに眼を見開いていたことになど、気づくモノはおりませんでした。
「ちょ……何やってんだよテメエ! 爺さん死なせる気か!」
 制止の声が――正確には同時に手も――飛びましたが、ユウは小動もしません。
「ハンノキ殿は、戦場に残してきた心を託そうとしているのだ」
「……!」
「耐えろ」
「…………短めで切り上げろよ!」
 食って掛かったハンターが、気まずそうに引き下がる光景を眺めて、
「……か、かか。やはり、貴様は……漢、よの……」
 苦しくて仕方ないはずなのに、やんわりと皺をほころばせる、老ハンターの姿がありました。
(違う、そうではない……我は……我は!)
 白髪の剣士は、いっそ、叫び出したい心地でした。
                ――刀傷――――
――モノブロス――――
                      ――――神楽――
 蠢くように、疼くように、溢れだす記憶の断片。
 うぞうぞと、背中を這い上がる予感の名前は、最悪。
(鼓動が早い。時間が遅い。吐息が近い。自分が遠い。喉と心、どちらも渇ききっている……)
 あるいは、この時点で、もう。
 白髪の剣士は、目の前の知人を助けることを、放棄していたのかもしれません。
 『まだ決まったわけではない』という焦燥と『だがひょっとすると』という歓喜は、互いに渦を巻いて螺旋となり、ただ、決するための一言のみを、貪欲に、ハンノキへと求めているようでした。
 復讐の刃を鞘走らせる、唯一無二の言の葉を。

「あれは……刀の如き、澄まされた真紅を持つ……一角の、悪魔よ……」

      ――――斬り裂く角――
                         ――真紅の悪魔―――――
あの日折られた――神楽の――――――刀

「奴は、人間との戦闘を知っている……手強い、ぞ……」

 ――――村の人々
     ――護り刀の一族――――
                       ――――誰より強い――親父様――

「奴の顔……左半分を覆うような、黒く爛れた、爆発の……傷、痕……あれはまるで――」

                       ――護るべきモノ――――
 ――――護ろうとしたヒト
                護れなかった――――――――大切な――――
「そう――大輪の菊を、咲かせたような……」

 ぱりん、と。
 記憶の断片は砕け散り、それをぱっくりと口を開いた真っ黒な傷痕がヴァリヴァリと平らげて、一塊の仄暗い感情へと転化していくのでした。
「――見つけた」
 菊の花。
 それはかつて、全てを奪っていった、真紅の刀角を持つ悪魔を示す刻印。
 それはかつて、刀折れ矢尽きるとも、護るべきモノを護った誇り高き神楽の証。
 そして今。
 全てを決する、逃れようの無い、言の葉。
「了解した、ハンノキ殿。それだけ敵の情報があれば、救出にも活かせよう」
 静かに吐き出す言葉の裏で。
 狂気と狂喜と凶器が、動き出しておりました。

「後は全て――オレに任せて休むがいい」

 やり遂げた安堵の中、糸が切れたように、ハンノキの帳が下りる直前。
 歪む世界の中で最も歪に映ったのは、白髪の剣士の、地獄から沸き上がるような笑みでした。

「やっと――おまえを殺せる。ガーベラ」

 呟きは、医者の到着を告げる嬌声を、微かに淀ませただけでした。
 ギルドに降り立った白衣の戦士の動きは迅速そのもので、
「可及的速やかに手術台の準備を」
 第一声を部下に発するや否や、表情一つ変えず脈を計り、意識確認は飛ばして酸素吸入及び輸液を行い、状況と経過を聞きつつハンノキを担架で救急馬車へ運び入れ、
「命に別状はありません。後は我々に任せて下さい」
 とだけ言い残して颯爽と去っていく様は、まさしく医者の鑑でした。
 嵐が去って、残るは静けさ。
 ……と、行かないのが、良くも悪くもハンターの皆さんでして。
「ようし、爺さんが助かった記念に一杯やるか!」
「っしゃああああ! タルだ! タルごともってこい!」
「血の匂いなんざどこにも残らねえくらい浴び倒すぞ!」
 その切り替えの早さに感心するべきか、節操の無さに呆れるべきか、なかなか境界線上ではありますけれど。周囲を巻き込みたがる、という性質だけを取ってみれば、迷惑、と断じてもどこからも文句は出ないことでしょう。
 とりわけ、一仕事終えた報酬に『うむ、よくやった』と頭を撫でてくれる仏頂面だけを求めて、右へ左へとてとて奔走している少女を、敢えて足止めするような野暮の極地に関しましては。
「いい仕事してたわねー、あなた。おねえさんとノンアルコールで乾杯っていうのはどう?」
「お誘いは嬉しいですけれど、人を待たせておりますので。またの機会にお呼ばれしますね」
 やんわりと、断りました。
「嬢ちゃん、そうら駆けつけ三杯だ。遠慮するなオレの奢りだぐっといけ!」
「五秒以内に飲酒法というモノを思い出してください。でなければ、爆破します」
 率直に、断りました。
「おやキミ可愛いねー歳はいくつーおじさんがお小遣いをあげぶべら!?」
「――残念、不燃ゴミでしたか」
 こんがり、焦がしました。
「……にしても、とことん子供向けの建物では無いですねえ」
 芋を洗う人込みにあっても、元来背の高い白髪の剣士を探すのは、大人ならば造作もないことだったのでしょう。しかし子供の視点からでは、これでもかと見上げてやっと目の前の大人の顔が見えるくらいです。加えて、先の事態とは関係無しにただ騒ぎたくて集まったモノも多数いるようで、混雑ぶりは一層加速し、現在の視界は2mがせいぜいでしょうか。捜索は、ちょっとした冒険へと変貌してしまっているようでした。
 けれど、そこで慌てず騒がず、
「受付けで、迷子扱いで呼び出してもらいましょうかね」
 成人男性に致命傷を与える算段を着々と進行させているのが、いかにもソナタでした。
 ところが、この計画は十秒と持たずに頓挫します。
 受付けに向かう途中で、捜し人が見つかってしまったのですから。
「あらら、タイミングが良いのか悪いのか、難しい状況ですねえ」
 なんて言いながらも、足取りの軽さは明らかでした。

「ユ〜ウ、み〜つけた♪」

 今度は工房の時とは違い、何の意図も裏も無く、踊る心そのままに抱きつくつもりでした。
 そうして、あと三歩で地面を蹴る、というまで接近したところで、白髪の剣士が振り向きます。
「…………え」
 それだけで。
 ただ一瞥を投げかけられたという、それだけで。
 炎の子供が、凍りつき、ました。
「――」
 高い位置から見下ろしてくる表情は、むしろ穏やかなくらいでした。
 なのに、冷えきった鋼鉄の瞳は何なのでしょう。射抜く意味しか持たない視線はどうしたことでしょう。そして、見知った顔でさえ雑踏の一部と同様にしか映さない、残酷なまでの、無関心は。
 ――まるで、モノを、見ているみたい。でも、それは、私で――
 そう感じた瞬間、もう、ユウの目を真正面から見据えることは、出来なくなっておりました。
 世界から、色が、音が、光が匂いが心が想いが言葉が温もりが……全てが、幸せな嘘であったかのように、失われてしまいそうで。
「あ……ユ、ぅ……」
 声帯を震わせて声が出るのなら、なるほど、すでに全身がこの上無く震えている以上、声の出しようが無いのも道理でした。
 支えであったヒトから初めて受ける――拒絶意思。
 その事実は、歪ながらも着実に積み重なっていた『ソナタ』という存在を、運命の如く唐突に、災厄の如く超然と、死の如く逃れよう無く、否定し破壊しつくす代物でした。
 僅か2mに満たないはずの隔絶は久遠。
 人込みの真っ只中にあって孤独に射抜かれる胸。
(聞こえない……ずっとユウから吹いていた、優しい風の音が……)
 唐突に――少女は、自分がひどく頼りない存在であることを痛感しました。そればかりか、自分は何か取り返しのつかないことを繰り返してここに至ったのではないか、何もかもが悪くて間違いでどうしようもなくて、だからこんなふうになっているのではないか、そんな考えが、核心を確信するかのように、恐ろしいまでの説得力を持って湧き上がるのです。
(世界が――表情を変えた? ……違う、私が、ソナタのはずの炎が、揺らいでいる……!)
 いつの間にか、歯の根が合わず、かちかちと耳障りな音を立てていました。足なんか、本当に床に上にあるのかわからないほどの頼りなさです。呼吸のたびに全身に震えが走って、胸の真ん中に風穴がぽっかり空いたみたいにすぅすぅします。涙が出ていないのが不思議なくらいです。
(ユウ……何でもいいから、本当に、頷き一つ構わないから、心を下さい……。
 今にも、もう、崩落ちてしまいそうで……私は、私が、わからなくなりそうで……!)
 あと、藁一束の重みが加わればたちどころに壊れてしまいそうな自分を、少女は必死で支えながら、よく見知ったヒトの全く知らない顔を見つめ続けました。
 そして。
 ただの一言で少女を救える唯一の人物は、
「――」
 一瞥を投げかけた時と同様の無関心さで、背を向けました。
「あ……」
 遠ざかっていく背中を追うことも、その場で泣き崩れてしまうことも出来ず。
 宙ぶらりんの危うさだけが残されたまま、少女は、ただただ立ち尽くす他無く。
「……嫌いになんかなれないって、知っているくせに……ユウ……そんなの、ずるい、よ」
 遠ざかる大きな背中に優しさを見出すことは、もう、出来そうにありませんでした。
 それから、ほどなく。
 浮かれ騒ぐ声を切り裂くような怒声が、受付け付近から上がったのでした。
「救出に人員を割くのが無駄って……どういう意味!?」
 フリージアが食って掛かる先で、白髪の剣士が無表情に無味乾燥な声で告げました。
「そのままの意味だ。生きていない者を救出など出来ん。増えるのは被害だけだ」
「何よそれ……どうして、他人の生き死にを、ここであなたが決められるのよ!
 生き延びていて、でも傷を負って動けなくて、今にも助けを待っているかもしれないじゃない!」
 バン、と平手を叩きつけられたカウンターが盛大に抗議の声を上げましたが、
「友釣りだ」
 不自然なくらい平静な声色で、答えが返ってきました。
「老人子供をわざと殺さず傷だけを負わせ、それを助けに入ったモノを殺して喰らう。
 アレは……あの悪魔は、平気でそういうことが出来る奴だと、わかれ。
 ハンノキは、運良く助かったのではない。次の餌を調達するために、生かされただけだ。
 ただ――四人の中で一番歳をとっていて、『喰っても上手くない』という理由で、な」
 すっかり重力に血液が引かれる形となったフリージアですが、それでも声を失うことはなく、
「あなた……そのモノブロスに、心当たりでもあるの?
 ギルドの諜報部だって、詳細は捉えられていないのに」
「――なに?」
 いったい、何がそれほど白髪の剣士の琴線に触れたのでしょう。
 くつくつと嗤いをこらえるように肩を震わせ、そのくせナイフを心臓に滑りこなせるような視線に、地の底から這い上がるような声を乗せてくるのです。
「心当たり? 心当たりか、それは最高の言葉だ。愉快すぎて笑おうにも笑えない。
 奴の――モノブロス・ガーベラの、何を知っているか、だと? ああ、知っているぞ。ようく、な」
「モノ、ガーベラ……菊一文字? それって、確か東国の名刀の名前じゃ……」
 言いかけて、ひぅ、と喉に餅を詰まらせたような声が洩れました。
 ――『コレ』は、殺すモノだ。
 直感ではなく直観。『そうとしか見えない』空気を、ギルド受付けという経験が映し出したのです。
(なんで……なんで、今までこんな歪な存在を前に、平気でいられたの……!?)
 邪魔か、否か。瞳はただ、それだけを見据え。
 殺すか、否か。心はただ、それだけを判じて。
 敵か、否か。刃は、ただ、それだけを断じる。
 それは、つまり――

「ガーベラは――オレの仇だ」

 瞳が語る。それは自分の獲物だと。
 心が伝う。それは自分が殺すのだと。
 刃が謳う。それは自分だけに許されるのだと。
 それらの全てが唸って叫ぶ。
 曰く。
 邪魔するならば――斬る、と。

「わかったら、救出など出さずに、事後処理に勤しめ。次の討伐依頼で、オレが奴を殺す」

 用件は以上だ、と言わんばかりに、答えすら待たずに身を翻す白髪の剣士でした。
 けれど、一言一句に力を込めた気丈な響きの声が、その足を止めました。
「……あなたの、私怨で、ギルドがほいほい方向転換するわけには、いかない、のよ」
 あくまでも、生きている可能性がある限り救出は出す、と。
 フリージアは、毅然と意思表明をしたのでした。
「そうか」
 誓って。
 白髪の戦士は、そう呟いただけでした。特別な動きをしたわけでも、怒りを漂わせたわけでも、声を荒げることさえもしなかったのです。
 なのに。
 白刃が鞘走り、陽光の照り返しを受けたように。
 喉元を塞ぎ心臓を掌握する、圧倒的な抹殺意思が、脈絡なくその姿を現したのでした。
 浮かれ騒いでいたハンターたちでさえ、氷塊を背中に流し込まれた顔をして、一斉に、振り向きます。それは、明らかな不幸でした。

「残念だ――が、仕方あるまいよ」

 振り向き、一歩を踏み出し、右手を大きく振りかぶる、淀み無い動き。
 突然の、けれど非常に理に適った一連の破壊動作を、誰もが、絶望的な気分で見つめておりました。その先にある否定しようの無い死の匂いに、あるモノは息を潜め、あるモノは耳を塞ぎ、あるモノは目に見えないナニモノかに祈り。
 そして。
 振り上げられた右手は、振り上げられた形のままで、固まりました。
 それは、降って湧いたような心変わりがあったとか、はたまた持病のシャクが痛んだとか、そういった不条理によるものではありません。その右手を、25kg相当の重りが拘束した、という、非常に理に適った理由によるのでした。

「何を焦っているのですか。それとも恐れているのですか、あなたは?」

 重りが、ころころと鈴を転がして猫でもあやすように、言いました。けれど瞳は、触れれば燃え上がるような熱を帯びています。まさに――炎の子供、でした。
「オレにあるのは、一刀両断の抹殺意思のみ。焦り? 恐れ? 断じて否っ!」
「なら、ひたすら座して待てば良いでしょう。見苦しいにもほどがあります。
 それとも刀が直るまでの十日間、抹殺意思とやらには長すぎますか?」
「…………」
 右腕が下ろされ、すとん、とソナタも着地しました。もっとも、未だ油断無く、腕にしがみついたままですけれど。
「救出依頼の件、忠告はした」
 吐き捨て、鬱陶しげに『重り』を振り払い、きりきり軋むほど冷えきった空気の中を、堂々と闊歩して行きます。道を塞ぐ形になっていたモノたちは尽く退き、そうでないモノも沈黙を守り、やがてその物騒な白刃が去った後でさえ、皆、しばらく息をするのを躊躇ったほどです。
 悪夢よりもよほど性質の悪い、現実でした。
「…………あ、ソナタちゃん、ありがとね……助かったわ、うん」
 先までとは別種の喧騒が広がる中、ほとんど放心状態だったフリージアは、かろうじて、そうと告げるだけの分別を発揮出来た自分を、誇らしく思いました。
 そして一瞬後、これ以上無く恥じました。
 力なく地面にへたり込んだまま自らの肩を抱き、小動物のようにかたかたと震えている少女の姿。それは普段の様子からは想像も出来ないほどに脆弱で、ゆえに、この状況で一番傷を負っているのは誰か、という当たり前の事実を、文字通り痛々しいまでに突きつけるのでした。
「あんなユウ……私は知らない…………知らないのに、あれはユウ……ユウじゃない、ユウ。
 優しくないユウがユウであるなら……私は誰? ソナタは……優しい名前は、どこ……?」
「ソナタちゃん!? ちょっと……ねえ、ソナタちゃん!」
 焦点の合わない目で何かを呟き続ける少女は、あらゆる意味で危険を感じさせるものでした。
(私のせいだ……誰よりも彼の変貌に戸惑っている人に、一番近くで突きつけてしまった。
 これ以上無い最悪の形で、この子に無理をさせて追い詰めた……!)
 不甲斐ない自分の頬に紅葉の気合を入れ、たちまちカウンターを飛び越えて、少女に肉薄するフリージア。自身も状況の変化に戸惑っているでしょうに、この切り替えの早さは、さすがでした。
「夢なら……夢でも、構わなかったのに…………嘘であるなら、嘘でも、救われたのに……。
 本当と本当…………揺れているのは、二つだなんて言わせない……なら、私は……」
「聞こえてる? ねえ! ソナタちゃん! しっかりして、お願いだから返事して!」
 肩を乱暴に揺すっても、蝋人形のような頬にも、硝子玉に成り下がった黒曜の瞳にも、炎は戻りませんでした。
「そう……とても難しくて易しいこと…………手段じゃない、傷つけるのは……覚悟だけ。
 壊してしまうかもしれない……罪深い心は、地獄の業火に届くかもしれない……それ、でも」
「くっ……ソナタちゃん、ごめん!」
 ほっぺたをニ、三発ひっぱたいてでも正気に戻そうと、腸がずたずたになりそうな決断を下します。
 祈るように翳す平手。
 けれど真っ青な頬を凪ぐはずのそれは、直前で、小さな手に受け止められたのでした。
「え」
 ――熱い!?
 湯呑みに突然手を触れた時のように、脊髄が悲鳴を上げました。
 少女の震えを自分が吸い取ってしまった、と錯覚してしまうほどに自身の肌は粟立ち、小さな手は、もう、漣一つ起こしてはいないのでした。
 直後。
 少女の俯き加減だった顔が持ち上がり、身を焦がすほどの畏怖を纏った声が、響きました。

「――そんなものは、とうに、決まっていること。二年も前に、告げたこと」

 黒曜に凛然と灯が燈り。眼差しは、ただ、強く。

「地獄だって――構うものか。二度と置いて行かせなどしないと、私は言った」

 微笑に燦然と陽が登り。面影は、ただ、貴く。

「ガーベラだろうと何だろうと――誰にもやらない。あれは、ユウは、私の半分なのだから!」

 いまや少女は、剥き出しの炎でした。

 ちりちりと肌を焦がすような言葉、猛る熱を帯びた視線、微笑では隠しきれない鮮烈な意思。
 外見とまるでそぐわない雄々しいまでの気配は、疑う余地も無く、戦士のそれです。
 何と戦うべきかを見据え、何をするべきかを知っている、そんな――戦士の魂。
「フリージアさん」
「は……はい!」
 握られたままの手に緊張をもよおす自分を、何事かといぶかしむ余裕は、ありませんでした。
「頼ります。あなたの力が必要です」
 心臓を直接射抜いていく視線を受け、むしろ使われていたい、なんて感じながら。
 ――ああ、もう戦いは始まっているんだ。
 フリージアは、朧気に悟っておりました。
 飛竜と人間の戦いなど、まるで問題では無くなるような。
 炎の子供の、風の剣士を取り戻すための戦いが、すでに、幕を開けたのだ、と。
 そう――この、休日の戦場から。
 第5幕 〜風は悲しみさえ運べない〜
 風が走る。風と走る。子供は誰でも風になれると、親父様は言っていた。
 剣術の稽古の時は、師匠と呼べと怒鳴る親父様。
 家にいるときは、母様に頭の上がらない親父様。
 神楽の長たる、誇りと心を備える親父様。
 オレの目標の、親父様。
「あははは……あはははははは!」
 素足で走る。笑顔と走る。自然と湧く笑顔は幸せの欠片だと、母様は言っていた。
 料理洗濯掃除に縫い物、魔法みたいに何でもこなす母様。
 親父様さえ言い負かす、本当は世界で一番強い母様。
 どんなときも微笑んで、オレを見守ってくれる母様。
 オレの大切な、母様。
「はっははは! 十になった! オレは今日で十歳になったんだぞ!」
 想いが走る。鼓動と走る。キミは乙女心の何たるかを知らないねと、あいつは言っていた。
 いつでも子供扱いをする、気に食わないあいつ。
 口より先に手が出る、男勝りのあいつ。
 ときどき優しくなる、変なあいつ。
 オレの――あいつ。
「神楽の男だ! オレもやっと神楽の……とと、うわあ!?」
 雑草の僅かな自己主張らしき凹凸は、黒髪の少年を一瞬の無重力旅行へと誘ったようでした。
 大地が巡ってたちまち空になり。
 衝撃。
 原っぱに大の字になって、けほん、と一つむせてから、
「く……くはは、あっははははは!」
 目に染みるような空の蒼さ。
 優しくなれる気がする雲の白さ。
「ああちくしょう、いい天気だなあ! そんなに蒼くていいのかよ、全く。まあ、それでもお日様が傾けば律儀に赤くなるっていうんだから、可愛いもんだよ。誰かと違って……な!」
 後転を途中で止めたような格好から、体のバネを使ってすっくと起き上がり。
 そうしてまた、風になって駆け出します。もちろん、笑顔のままで。
「オレも神楽の男の仲間入りなんだ! 坊主扱いなんか出来ないんだぞー!」
 野を駆ける風は、丘越え川越え、谷はさすがに迂回して、やがて山間部の小さな村を認めました。 その村を山のてっぺんから望めば、まるでお盆の上にちょこんと茶菓子が乗っているように見えることでしょう。決して広いとは言えない盆地にすっぽりと収まるよう、畑や水路や家々が互いにとって良くあろうと尊重しあい、結果、空から見下ろして揃えたみたいに整然と佇んでいるのでした。
 村の名は、神楽。
 同時にそれは、村に住まう一族の名であり、一族の護り刀の名であり、護り刀に纏わる誇りそのものの名なのでした。
 神楽の、一族。
 その始祖は、ただ一振りの刀で以って、当時、東国の都を荒らしに荒らしていた、翼ある大蛇(今でいう飛竜)を退治したといわれます。時の帝はたいそう感服し、是非とも家来として向かい入れようとしたのですが、何故か、首を縦に振ってはくれなかったそうです。
 困り果てた帝に、始祖は、静かにこう告げたといわれます。
「私があなた様に仕えたとしても、やがて老い、存分な働きを出来なくなる時が来るでしょう。
 ですので、村を一つお与え下さい。そこで私は、この技と心を伝え続けましょう。
 そうすれば、いずれこの身が朽ちた後、季節が移ろいあなた様のご子孫の世になったとしても。
 禍あればこれを払い、乱起こればこれを沈め、治ある限り見守り続けることが出来ましょう。
 そうして私は、あなた様の護り刀として、時を越え世代を超え、あなた様に仕えるのです。
 例えばそう、空を渡る想いのように。いつでも、いつまでも、お側におりましょう。
 この神楽の太刀と……私の、心にかけて」
 帝は、それはもう感激して、一も二も無く始祖に村と『神楽』の姓を下賜したのでした。
「役目に見合った階級をやらぬのは、おんしの心意気に応えるためじゃ。
 身分ではなくその心で以って、わらわと、子孫らを守り続けておくれ。
 これは命令ではなく、そう――わらわからの願いじゃ。よしなに頼むぞ、神楽の君」
 帝のまっすぐな心尽くしに始祖も胸を打たれ、深々と頭を垂れたといわれます。
 神楽の、一族。
 東の地に禍あり乱起こる度に現れ、これを払う、護り刀の一族。
 その始祖は、類い稀な賢君として後世に謳われる女帝を、あらゆる災厄から守り抜き。
 自身は嫁の一人も娶ることなく、その名を歴史に残すことさえなく、ただ護り刀として、生涯を全うしたと伝えられます。
 そこにどんな想いがあったのか――神楽の太刀は、黙して語りません。
 ただ、時流れること三百と余年。
 今なお、その技と心は、確かに受け継がれているのでした。
 例えばこの――風の少年にさえも。

「守るさ……大事なモノを、この手で! それが、そのための、神楽だ!」

 神楽の子供にとって、十、という歳は特別な意味合いを持っているのでした。
 練習用の刀を、木刀から鉄刀に代えることを許されるのが、ちょうどこの歳なのです。ずっしりと腕を震えさせる重みと、鼻の奥を微かに痛ませる金属の匂いとは、酒に酩酊する感覚よりも何よりも、一人前、という自覚を存分に促す代物なのでした。
 つまるところ、一般の元服に当たる通過儀礼が、この鉄刀の授与、といえるでしょう。
 さて。
 真新しい鉄刀を携えた少年の名は、優。
 誰よりも刀術と縁遠いその名前だけが悩みの種でして、
「せめて『勇ましい』とか『雄雄しい』って字なら格好良かったのに」
 なんて、ぼやくこともしばしばなのでした。
 だから、周囲はいつも笑顔で見守ります。これほど本人の気質にあった名前は無いということを、いつ自分自身で気づくのかと、心待ちにしながら。
 実際、健やかな気性とどこか愛嬌のある性格を併せ持つ優少年は、その父親が一族の現頭領ということを差し引いても、皆から十分に慕われておりました。
 村に駆け入るや、道すがら声が掛かってくるのも、単純な好意、あるいは悪意の無いからかいの念から来ているのでしょう。
「おや、あのやんちゃ坊主がもう鉄刀持ちかい。早いもんだねえ」
「坊主じゃない! もう一人前さ!」
 田を耕しながらの声に、律儀に反応を返し。
「そんなに急がなくたって、だあれも逃げやしないだろうに」
「向こうからは来やしないんだから、行くしかないだろ。面倒くさいけど、さ!」
 畑の雑草を抜いている背中に、照れ隠しを浮かべ。
「一丁前を気取るなら、ちゃんと言うことは言ってあげるんだよ〜」
「な……言われなくっても、出来るさ! やれるさ! 頑張るさ!」
 昼食前の一服を楽しむ笑顔に、決意にも似た何かを示し。
 優は、なおも駆けました。
 息が弾んでいるのは、山から下りてくるまでの道程のせいだけではないのです。
「驚かせてやるさ。ぴっかぴかの刀を見せて、な」
 目指す先は、村の奥まった位置にある、赤みがかった藁葺き屋根の家です。
 その軒先では、天気の良さに気持ち良さそうに目を細めながら、手際よく洗濯物に光と風を吹き込ませている人影がありました。

「――ふふふ、やって来る来る、風が来る。山の匂いを纏ったままで駆けて来る。
 それは得意げで嬉しげで楽しげで――いつでも胸弾ませる音だけを、聞かせてくれる」

 視界の端に豆粒くらいの大きさで少年の姿を捉えながら、人影は謳うように嘯きました。
 けれどその手を休めることはなく、一瞬桜に染まった頬の色さえ、意識的に仕舞い込んだようでした。傍からは、いかにも洗濯に精を出していて、周囲のことには気が向いていない、と映ることでしょう。
 もちろん、優にだって、そう見えました。
 しめしめ、と内心ほくそえみながら、刀と、胸の奥の感触を確かめます。
「……大丈夫、神楽の男は逃げたりしない」
 ぎゅっと口を結び、ともすれば仏頂面とも映りかねない顔で、何かを確認したときには。
 互いの姿は、豆粒からマッチ棒くらいの大きさになっていて、さすがに人影も優の姿にも気がついたようでした。あれ、という形に口が動くのが見て取れます。
 血液が酸素を求めてごぅごぅ鳴るのを押さえ込みながら、

「鏡花ぁ! オレさ、今日から――」

 全身全霊で張り上げんとした声を、絶妙のタイミングで、

「おやおや、誰かと思えば優坊じゃない。
 またぞろ、剣術の稽古が辛くてべそかいて逃げて来たの、かな?」

 勇んだ足が地面を捉え損ねても仕方ない……と思われる言葉が、迎撃したのでした。
 今日二度目の無重力旅行に、巡る空と大地。
 けらけらと、容赦ない笑い声が全身に突き刺さるのをどうにか無視しながら、何事もなかったように立ち上がって土を払う優でした。
 けれど、さらに追撃が掛かったようでして。
「ふふふ、未熟だねえ、優坊。五年も前のことを持ち出されたくらいで、揺らぐ揺らぐ。
 精神の修練が全くちっとも全然足りていない証拠だよ、うん」
 笑顔に連れて、少女の黒髪がさらさらと音を立てておりました。
 少女の名は、鏡花。
 背中まですっぽりと覆う髪はようく梳られていて、内にある活力そのままの瑞々しい光沢は、新緑の黒髪、といった形容が嵌まって外れません。
 ただ、いわゆる『東方人形』のような、雅な雰囲気、というものとは良くも悪くもかけ離れておりました。表情には少女らしい悪戯っぽさが散りばめられていて、そそと微笑むよりは、ぺろっと舌を出している方が似合っている、といった風情です。
 かといって、つまるところ粗野なのかというとそんなこともなく、丁寧な造りの顔は、状況次第で手を変え品を変え、いくらでも化けられることを、優などはつくづく思い知らされているのでした。
(――どうして、こうまで、敵わないんだよ……!)
 この年頃の二歳差というのは非常に大きく、また男女差でも女子の方が成長は早く、しかも精神的にどちらが上位かは言うまでもなく、つまり、そういう力関係なのでした。
 さて。
 初手で詰み、というくらい会心の一手を打たれた側としては、
「……いつまでも、坊や扱いするなよな」
 せいぜいしかめっ面を作って、抵抗を試みるのが関の山でした。いの一番に見せるはずだった刀は、所在なさげに背中に隠されたままです
(今見せたら、格好悪すぎるもんなあ……)
 そんな少年の純情を知ってかしらずか、少女はくすくすと笑んだままで、
「優坊は優坊さ。ボクは、キミのおしめを換えてあげたことだってあるんだよ?」
「〜〜!」
 十歳男児にとっては、死に等しい宣告を下したのでした。
「何だよおまえ! 今日に限ってそんな、いつもは思い出しもしないことまで!」
 ――せっかく、認めてもらえると思ったのに。
 やり場のない無念が、沸騰寸前の血流に乗って、頭へ流れ込んでくるのでした。
「あらら、ひょっとしなくても怒ってるの、かな? 未熟未熟〜。
 そんな調子じゃあ、お父上どころかまだボクにだって勝てやしないよ、優坊?」
「ぐっ……」
 それはからかいでも侮辱でもなく、ただの事実から来る余裕でした。
 優は、鏡花に刀術で勝ったことが無いのです。
 女子はやや短い刀を用いる、という程度の差はあれど、基本的に神楽は誰でもある程度武器の扱いに習熟しているのでした。ただし、戦乱の時は過ぎ太平の世が長きに渡っているものですから、誰も彼もが護り刀としてのみ自己を研鑽している、という殺伐とした環境ではありません。
 とりわけ女子の刀は『護身』の色が強く、『舞』『華』『書』といった嗜みの一項目として、『刀』もちょこんと据えられている、といった感じなのでした。
「いつまでも、坊やのままであるものか……オレは!」
「ふうん、どこが?」
 からかいの色をふんだんに宿す瞳は、口元以上に愉快そうな笑みを湛えておりました。
 ――なんで、いつもいつもいつもいつもいつもっ!
 勇んで駆け込んだ分、この有様があんまりにも惨めで、情けなくて、もう、どうしようもありません。自分がこんなにも嬉しいのだから、無条件で相手も気持ちを分かち合ってくれる、と。そう信じて疑わなかった少年らしい純朴さは、込み上げるやるせなさに取って代わられたようでした。
「見せてやるさ、この――」
 いっそこのまま真剣で立ち会ってやろうか――なんて物騒な考えに逆らいがたい魅力を覚えながら、背中に隠していた刀を鞘走らせようとした、その刹那。

「――見せてよ。キミ自身がどう変わったのかを、ボクに」

 きん、と澄み切った冷水のような声でした。
 口元は笑みを湛えたままでしたけれど、目はすでに、苦笑一つ零してはおりません。
 じっと、何か大切なことを見極めようと、気を張り巡らせているのが嫌でも伝わってきます。
(何だよ……こんな、急に。何が変わったって、オレには刀が――)
 唐突に。
 優は、はたと気づきました。

(刀を貰って……それで、オレは? 変わったのは刀で……オレは、どこが、変われたんだ?)

 愕然としました。
 一人前になれたような気がして、浮かれて――でも、『それ自体』が、まだまだ坊やだという証拠に他ならないのでした。新しい玩具を見せびらかす幼児と、レベルは同等なのですから、
 ――神楽の意味だって、ちゃんと、わかっていたはずなのに。
 状況さえ許せば、自分の頭をぽかぽかと叩いてやりたい心地でした。
(……鏡花は、全部、見抜いてたんだなあ)
 けれどそれと教えることはなく、あくまでも自分の力で気づいて欲しいと、おどけてみせて。
 その上で、今、問いかけてくるのです。
 ――キミ自身は、どう変わったの?
 今もっとも必要なことを、考えなければならないことを、まっすぐに。
(……まだまだ敵わないって、ことなんだろうな)
 もちろん悔しさはありますが、それ以上に、とても清々しい気分でした。
 すぅ、と肩から力が抜けた途端、みしりと軋みます。こんなにも体を強張らせていたのか、と思うと、何やら笑いまで込み上げてきました。
「どうしちゃったの? 急に黙ったと思ったらにやにやしちゃって、さ」
「いや。鏡花に負けてなんかいられないって、本気で、思った」
 言って、きゅ、と口が真一文字に引き締められました。
 先までの浮ついた調子はどこにもなく、真摯な眼差しは突き刺さらんばかりです。
「うん、いい顔出来るじゃないの。でも、まだボクに勝つのは少し早いよ」
「――勝てなくて、いい」
「うん?」
 拍子抜け、というよりは、予想だにしない反応に呆気に取られる鏡花に向けて。
 ずいっ、と。鞘に納まったままの刀を、示しました。
「今日貰った、オレの刀だ。真っ先に、見せに来ようと思った」
「ふうん、そういえばもう、そんな歳だっけ。
 でもそれなら、なおさら勝負するには都合が良いんじゃないの、かな? お披露目代わりに、さ」
 言って、袂から鍔の無い小太刀を取り出しました。
 千鳥――確かそんな名の、鏡花の刀です。恐らくは、最初から真剣での勝負を、見越していたのでしょう。
「……正直に言うと、オレもそのつもりだった。ここに来るまで、鏡花と会うまで、ずっと。
 ぴっかぴかの刀を鞘から走らせてさ、どうだ! って、自慢してやるつもりだった」
「でも、そうしないんだね?」
「ああ」
 頷く様は、真剣さのあまり、ひどく渋い顔にも見えました。
「それをすると、今までと何にも変わってないって、思ったんだ。ただ木が鉄になっただけだ、って。
 ……オレ、刀貰っただけで一人前のつもりでいた。でもそんなんじゃダメなんだって、わかった。
 だから考えた。『オレ自身』はどこが変わるんだろうって。神楽になるって、どういうことかって」
「――そっか」
 ふ、と視線が綻び、優しげな眼差しが浮かびました。これが、この少女本来の顔なのでしょう。
 優の言葉に聞き入りながら、そっと、袂に千鳥を仕舞い込むのが見て取れます。
「で、凄く考えた。でも、ちっとも思いつかない。思いつくはずなんて、なかった。
 だってオレは、ずっとなるつもりでいたんだから。答えはもう、最初からあったんだ」
「一族の護り刀、だね」
 親父様のように、一族の護り刀になるんだ、と。
 それこそ、やっと口を利けるようになった頃から、優少年が口癖のように言っていたことです。
 その第一歩を踏み出そうとしている様を、内心手を叩きながら見つめる鏡花でしたが、
「違う」
「ほえ?」
 意外な答えに驚く暇も無く、ほんの一瞬だけ逡巡を見せた優は、それでも、強く言い放ちました。

「これは、おまえを、おまえだけを守るための刀だ」

 ぽかん、と。
 真っ白な思考を如実に反映して、少女の口がまんまるに開きました。
 それを見つめる少年も、小突けば噴火する色になっています。
「……」
「……」
 茶化すことも出来ずに呆気に取られる少女と、自身の言葉でこれ以上なく追い込まれた少年と。
 なんとも言えない空気が、二人の間に流れます。
 心臓は早鐘さえ眉をひそめるほどに弾み、喉から上がって耳元までせり上がってきたような音を響かせています。油断すると呼吸の仕方を忘れてしまいそうで、唾を飲み込むのに難儀するほど喉はからからです。胸の真ん中にある、むず痒いような、締め付けられるような感覚だけが、必死に何かを促しているようでした。
 健全な少年少女の、誰にでもどこにでもありふれている、初恋という名の修羅場模様。
 そんな中で、先に言葉を紡いだのは、少年の方でした。
「おまえに勝てなくてもいい。でも、おまえを取り巻く悲しみ全部に、オレは負けてやらない。
 泣けないくらい苦しいこと、笑えないくらい辛いこと、全部、オレがやっつけてみせる。
 今は無理でも、必ずそう出来るようになる。絶対に、なる。だから……だか、ら……」
 だから、の後が続きません。
 気持ちがあんまりにも大きすぎて、言葉にするとぐちゃぐちゃになってしまいそうで、心臓の音ばかりがどんどん高くなっていくのでした。いっそ破裂してくれ、と叫びたいくらいです。
(神楽の男は――逃げたりしないっ!)
 優は、鏡花の姿を見つけたときと同じように、刀と、胸の奥の感触を確かめます。
 そして、胸の奥に仕舞ってあった『それ』を取り出し、鏡花の眼前に突きつけました。

「…………………………お花?」

 白い花弁がふるふると揺れる、綺麗な花でした。
 鏡花がどんな顔をしてそれを見ているのかは、わかりません。情けないことに、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、顔をまともに見るどころか下を向いているのでさえ精一杯なのです。
(やっぱり……慣れない真似なんてするもんじゃないっ!)
 一瞬が、こんなに長く感じられることなんて、生涯初の経験です。仮に、一分も沈黙が続けば、優の心臓は老衰で動かなくなってしまったことでしょう。
 けれど、一瞬はやっぱり一瞬でした。
 花を掲げた手に、やんわりと、鏡花の両手が添えられます。

「――ありがとう、優」

 優。優坊やではなく、優。
 ささいな違いですが、少年にとっては、果てしなく大きな一歩でした。
「〜〜〜っしゃあ!!」
 もう、堰を切って体中から喜びが溢れ出していく心地です。
 今ならば空だって飛んでみせるでしょうし、気持ちの上では雲を眼下に置いていることでしょう。
 ただ、新たな問題も、一つ。
「あの……鏡花?」
「うん?」
「花……受け取ってくれたんだよ、な?」
「ありがとうって言ったよ?」
「じゃあ……手は、離してくれてもいいんじゃ?」
「ダメ」
 添えられていたはずの手は、今やがっちりと、有無を言わせぬ力で優の手を拘束しています。
 大ピンチでした。
「――ちなみに優、この白い花なんだけど、名前とか知ってる?」
「いや……山で綺麗に咲いてたから、いいかなって」
「ふうん。やっぱりと言えばやっぱりだけど、ね。じゃあ当然、花言葉なんかは?」
「一つも知らないぞ、そんなの」
「だろうねえ」
 くすくす、という声が近くなった――と思ったときには思いっきり手を引っ張られ、前につんのめる格好になっておりました。そして、そのままの形で、抱きとめられてしまいます。
「ちょ……鏡花、何か非常に物騒な柔らかさが!」
「大丈夫。明らかにキミの過失だから♪」
 耳元で響く声は、怖いくらい上機嫌でした。
「この花の、花言葉はね――」
 それは二人にだけ聞こえるくらいに、そっと、耳元で囁かれ。
 完全に、優少年は、石化しました。
「…………」
 過失――その言葉の意味が、ゆるゆると心の臓を通り抜けて行きます。
 仮に、赤い薔薇を送っていたところで、こうまでのっぴきならない状況は生まれないことでしょう。
 何というか、そう、あまりにも、的確過ぎたのでした。
 ころころと――本当に心の底から愉快そうに――笑んでいる、鏡花。普段は年上の余裕で以って優をあしらうこの少女は、胸の内を優に悟らせることなど、微塵もなかったに違いありません。
 だからこそ。
 白い花が持つ意味は、この時この場面において、最高の凶器となってしまったわけでして。
「そう、そういうこと。だから、ボクには手を握る権利も抱きつく権利も、
 ひょっとしたらそれ以上を試みても許される権利があるわけ。オーケイ?」
 小さな悪魔は、尻尾の代わりに舌をぺろっと出したのでした。
(どうしてだろう……今まで以上に敵わない気がしてきた……)
 何故だか、神楽の長である親父様が母様に勝てない理由が、しみじみとわかったような心地でした。
(親父様も……色々と、苦労しているんだなあ)
 尊敬の念を新たにする、ちょっぴり成長した十歳児です。
 と、そんなことを考えている間に、やっと鏡花も気が済んだらしく、解放されました。ただ、それはそれで、自然と間近で視線が合うこととなってしまって、とても気分が落ち着かないこと請け合いなのですけれど。
「ねえ――優」
「な……なんデスカ!?」
 やっぱりまだ、こう呼び捨てられるのには馴れません。何やらくすぐったい気さえします。
「ご飯食べてく? 山から走ってきたなら当然、まだだと思うんだけど」
 急に生活感溢れる話になって、面食らう優でしたが、
「そういえば……そうだな」
 思い出した途端、きゅるる〜、とお腹が先に返事をしてしまいました。
「あ」
 と呻いたところで、出してしまったモノは引っ込みません。
「決まりだねえ。体は正直だよ、うん」
 くすくすと笑いを噛み殺しながら言われると、トマトになった顔がたちまち完熟してしまいます。
 このままおめおめと餌付けされてしまっては、あんまりにも決まりが悪いというものです。
「いや、せっかくだけど……」
「ちなみに、炊き込みご飯だよ?」
「是非お呼ばれします」
「……キミって、ホント、可愛いね」
 呆れられようとどうしようと、誰だって好物には弱いものです。
 それに、鏡花の母様は世界で二番目に料理が上手い人だと、優などは思っています。
 もちろん、一番は自分の母様だと信じて疑わないことは、言うまでもありませんけれど
「ただ、残りの洗濯物干してそれからだから、ちょっぴり時間がかかるの。
 その間に白湯を呼んできてくれないかな? まだ帰ってきてないんだよ」
 ぴくり、と優の表情が険しさを増しました。
「……舞の稽古は、とっくに終わっている時間だよな」
「ん」
 白湯。
 鏡花の四歳下の妹で、姉とは対象的にたいそう大人しい子なのですが、どういった神様の悪戯か、その容姿は非常に特徴的なのです。黒髪黒瞳がほとんどの神楽の村にあって、色素の薄い栗色の髪と、火竜のような紅蓮の瞳は、明らかに異彩を放っておりました。
 そのため、子供特有の容赦の無い疎外に合うこともしばしばで、紅い目を泣き腫らしている様子を優も見かけたことがあります。もちろん、そのたびに悪ガキどもを追っ払ってもいましたので、最近は平穏なはずだったのですけれど。
「子供同士の喧嘩なら懲りないだろうけど、神楽の男の言葉なら、効くんじゃないかと思って」
「なるほど」
 もっともなお話でした。
「ようし、任せろ」
 頼られている――そう思うと、気合もひとしおです。
「鏡花の妹なら、オレにとっても他人じゃない。守るさ、絶対に」
 そう無意識に呟いたのを、耳敏く鏡花は聞きつけたようでして。
「そんなに嬉しいことを言わないで欲しいな――また、白状したくなるじゃない」
「うん?」
「今日のご飯は、ボクが作った。何ヶ月も前から練習してたから、もちろん味は保証するよ?」
「何ヶ月もって……ちょっと待て! さっきは、今日がオレの誕生日ってことさえ忘れてるふうで!」
「……キミはやっぱり、もう少し乙女心の何たるかを学ぶ必要があるねえ」
 ぺろっと舌を出してから、耳元に唇を寄せてきます。

「キミはボクを二年分知らないけれど、ボクはキミの十年を全部知っている。
 年上っていうのはつまるところ、そういうことなんじゃないの、かな?」

 離れ際――小鳥が笑ったような軽い音が、優のほっぺたからしました。

「………………は?」
 場違いなほど、気の抜けた声。
 自分に何が起こったのか、まるでわからない様子の優でした。
 どこかふわふわするような感覚に浮かされたまま、何の気なしにほっぺたをさすってみたり、おぼろげな感触を思い起こしたりしています。
(えーと、鏡花がいて、顔が近付いて、へんな感じがして……)
 そして。まばらな思考の紆余曲折を経て。
 どうやら『その可能性』に少年が思い至ったと思しき瞬間、
「いってらっしゃい♪」
 自失する暇さえ与えない満面の笑顔が、これ以上無いタイミングで突き刺さりました。
 優はかろうじて、いってきます、と返事をしようとしましたが、あろうことか口の動かし方がわかりません。ひとしきり慌てふためいた後、何故だか見送る側のようにひらひらと手を振り、ギクシャクと背を向けるや否や、爆ぜたような加速で走り去っていく少年の姿がありました。
「まさしく風の子、元気だねえ。あるいは……若いねえ」
 呟く少女の顔も、ほんのりと桜を纏っているようでした。
 花も恥らう笑顔で、ふるふると震える白い花に視線を落とします。そうして、無意識に唇をぺろりと舐めている自分に気づいてしまうと、どうにも胸の真ん中がぽかぽかしていけません。

「あー、くそぅ……好きだなあ、もう!」

 呟いた少女は、いの一番に片付けるはずの洗濯物をほっぽり出し、花瓶を求めて家に入っていったようでした。
 一方。
 オーバースピードのせいではなく心臓が右往左往している優少年は、それでも世界一幸せな顔をして、村道を駆け抜けておりました。
 出来ることならば声の限り叫んで、思いのままに跳ね回りたい気分です。けれど、それは今自分のするべきことではないと、必死に自制しているのでした。
「白湯は寄り道なんかする子じゃない。きっと辛い目にあっている……なら!」
 ――そう。気のままに浮かれる子供は終わりにすると、決めたのだから。
「神楽の男なら……見逃すものかよ!」
 ――そう。鏡花にだって、誓ったのだから。
「あいつを取り巻く悲しみ全部に……オレは、負けてなんかやらないんだ!」
 ――そう。それが、神楽としてのユウなのだから。
 ばん、と力いっぱい自分の頬を張り、必要以上に渋い、ともすれば仏頂面にも見える顔を作ります。気分としては、正に初陣に挑む剣士のそれでした。
「……いた!」
 遠めにも目立つ色の髪の少女が、同年代と思しき三人の少年から、必死に何かを取り返そうとしているようでした。どうやら舞に用いる小物を持ち運ぶ巾着袋をひったくられたようで、少女が袋を持つ一人に近付けば別の一人に袋をパスされ、また近付けばパスされ……を、延々繰り返している模様です。稚拙な、けれどやられているモノには底無し沼の如く絶望的な嫌がらせでした。
 紅い瞳に溜まりに溜まった大粒の雫は、今にも零れ落ちてしまいそうです。
「まだ間に合う……させるものかよ!」
 大きく胸いっぱいに息を吸い込んで、お腹の底から声を張り上げます。

「こら、そこぉぉぉ! おまえたちぃぃぃぃぃぃ!」

 悪ガキどもは、ビクッと身を竦ませ。
 白湯は、ぱあっと紅蓮の瞳を輝かせたのでした。

「オレの妹を泣かせるような真似をしてみろぉぉぉ!
 その魂魄滅するまでぇぇぇ、幾百幾千幾万と斬り刻んでくれるわぁぁぁぁ!」


 その後皆で食べた炊き込みご飯は、ちょっぴりお焦げが多めな気もしましたけれど。
 今日はこの味が、世界で一番なのでした。


                             ◇


 夢見るように日々は過ぎました。
 木漏れ陽に目を細めた春も。
 風が誇らしげに薫った夏も。
 山の色に心弾ませた秋も。
 胸温かな冬も。
 廻る季節は変わりなく、それでも想いを積み重ねて行き。
 十四を数え、剣術では親父様以外の誰にも負けなくなった優。
 十六を数え、ボクの方は結婚できる歳なんだけどね、と嘯く鏡花。

 繋いだ手からも溢れ出るような、心と心。

 小さな世界は全てが幸せ。
 全ての幸せが小さな世界。
 世界は幸せで幸せが世界。

 それは今日も。
 きっと明日も。
 ずっとずっとどこまででも。

 そんな、明日を明るい日と信じられた頃。

 そして。

 始まりは、突然で。
 終局は、呆気なく。
 儚く、消えた世界。


「地面の底から……刀が走る!?」
 宵闇の中、最初に『それ』と遭遇した初老の男は、そう叫びました。
 緩やかな弧を描き、天を突くシルエット。一階建ての家屋ならば貫いて余りあるであろう『それ』は、音に聞こえた龍刀さえ霞むような、鮮やかな真紅を纏っております。そうして、今まさに、砂塵を巻き上げ自分へと向かってきているのでした。
 明らかな異様。そして危機。
 けれど、男はそうと分かりながらも、叫ぶことも逃げることも誰かに知らせることも出来ず、ただ、案山子のように立ち尽くし、『それ』に見入っておりました。
「うあ……ああああ……」
 触れること即ち切断を意味する、研ぎ澄まされた刀の切っ先の如く。単なる凶器としての『破壊』以上の何か、例えば――死、そのものを体現させたような、戦慄と表裏一体の、美。
 危険ゆえの蠱惑、恐怖ゆえの魅惑、そんなモノに、心を鷲掴みにされてしまったのです。
 結局のところ。
 それが、神楽そのものにとっての、致命となったのでした。
「あ――」
 風を切る音を聞いた……と思った瞬間には、終わって、おりました。
 ほどなく視界が左右に分かれていくのを感じながら、男は、他人事のように思うのです。
 ――これぞまさしく、名刀の切れ味だ、と。
 こうして最初の犠牲者は、刹那のうちに両断され、事切れたのでした。
 仮に。
 ここで男が悲鳴の一つも上げて、『それ』の存在を皆に知らせていれば、この後に起こった悲劇のいくつかは減らせたのかもしれません。あるいはせめて昼間であれば、真紅の『それ』に気づくモノは他にもいたのかもしれません。
 けれど――そんな心優しい偶然を、世界は用意してはくれませんでした。

「グオオオオオォォォォォォン!」

 村の中心部まで突き進んだ『それ』は、月さえ朧に身を隠すほどの咆哮を上げ。
 何事か、とさざめきあって顔を出す村人に、己の姿を見せつけたのでした。
 天然の大槌を備えた尻尾。無骨な岩肌を思わせる甲殻。絶望的な意味を持つ翼。そして――逃れようの無い破壊を匂わせて余りある、真紅の、角。
 ――あれは、飛竜。角竜の亜種たる一角の竜、モノブロス。
 誰もがまずそう思い浮かべ、そして、否定しました。
「闇の中でもそうとわかるほど……全身が返り血で染まったように、赤く……!?」
 本来モノブロスは、主な生息地域の砂漠に適応した結果、砂色をしているはずなのでした。ところが、『それ』は赤銅のように、不気味な赤い光沢を宿しているのです。
 そして、決定的な材料が、もう一つ。
「あの角、ひどく細くて……いや、長すぎるのか? 何にせよ、あれは――」
 ひどく歪――アンバランスだ、と。そう映りました。
 全長の三分の一に迫るほどの角は、心が風邪をひきそうなほどの迫力を備えてはおりますが、現実問題、お世辞にも衝撃に強い造りには見えません。突き崩す、刺し貫く、という意味しか持たない角にとって、強度の欠落は致命的なように思われました。
 また、『それ』は姿を現したものの、辺りをただ睥睨するばかりで、まるで動く気配を見せないのです。自然、腕に覚えのある神楽の男たちは、徐々に侮りの空気を濃くしていったのでした。
「あれ……見掛け倒しじゃないのか?」
 誰かが言いました。
「そうだな、頭領の到着を待つまでも無い」
 答える誰かは、鉄刀を抜き放ちました。
 他の誰かも次々と倣い、やがて、20人ほどが『それ』を取り囲みました。
「かかれーっ!」
 勇んで向かった先で、『それ』は、もうもうと土煙を上げ、頭から地面に潜り込みました。
 その巨体が嘘のように、あっという間に尻尾まで大地に飲みこまれます。
 これは角竜の特徴である、『地面の中を飛ぶ』という行動です。土竜、という蔑称が存在するのはそのためと言えるでしょう。
「くそ、逃げやがった!」
「どこだ!? どこにいった!」
 逃げの一手にますます気を大きくした男たちは、直後に、思い知りました。
 正確には、思い知らされました。
 その命を、代償として。
「地面の底から……刀が走る!?」
 皮肉にも、『それ』を最初に発見した男と同じ台詞を口々に吐きながら。
 まず、七人が両断されました。
 さぁ……と血の気の引く暇のあるものは、未だ命ある分、幸運といえました。
 ただ、恐怖を感じる余裕が出来たと考えると、不幸ともいえました。
 どちらにしても、彼らの命運はすでに決してしまったのでしょう。
「う……あああああ!?」
 仲間の返り血に戸惑う間に、八人。
 闇に紛れることなく、風切りの音とともに迫り来る真紅。大地から天突くように伸びた角。
 あまりに長く鋭いそれは、決して、獲物を突くためのモノなどではなかったのです。
 極限まで研ぎ澄まし、その破壊原理を『切断』一点のみに求めたモノ。
 神楽にとってあまりにも慣れ親しんだ性質を秘めるそれは、つまり――
「獣が刀を備えるというのか!? 真紅の刀角……ふざけるな!」
 ――そう、そんな言葉が欲しかった。
 地面の底からくつくつと嘲嗤うように、『それ』は縦横無尽に走ります。
 迎撃は、困難を極めました。
 大地に守られた本体へと刀を届かせられる理屈は無く、ならばと刀角へ攻撃を加えれば、逆に刀そのものを斬られる始末です。
 攻防一体、かつ、一刀両断。
 絶望が空気を漂い伝播するまで、さほど時間を要しませんでした。
「だ……だめだ、早く頭領を――」
 言葉の最後は、風切り音にかき消されました。
 最後に残った五人は死ぬこと無く、四肢のうちきっちり二つずつを奪われ、
「ひぎィィィィィいいいいい!?」
 この世のものとは思えぬ絶叫を、上げたのです。
 粘り気を帯びた夜気を存分に震わせる悲痛の叫びは、状況の分からぬモノを呼び寄せ、すでに逃げたモノの後ろ髪を鷲掴みにする代物でした。
「どうした、今の悲鳴はいったい何が――」
 走り来るモノは、真一文字に真紅を咲かせ。
「あんたぁ! 死ぬんじゃないよ、今いくからね――」
 駆け寄るモノは、半身を奪われ絶叫を上げ。
「痛え痛え痛えよぉ……ちくしょう、殺せ……オレをさっさと殺してくれえええええ!」
 地に伏すモノは、ひたすらに痛苦に染まりました。
 狡猾な方法、といえるでしょう。
 死んだ人間で目の前が埋め尽くされれば、たとえ納得など出来ないにせよ、『次は自分が殺される』という恐怖の前に、ヒトは逃亡を選ぶものです。けれど、手当てをすればまだ助かるかもしれないモノが、悲痛な声を上げていたらどうでしょう? しかもそれが、家族、友人、恋人――そんな、ナニモノにも代え難い存在だとしたら?
 答えは、そう――増え続ける真紅の花が、散り続ける命が、雄弁に語っていると言えるでしょう。
 殺戮劇の、開幕でした。


                            ◇


 心地よい音は途絶えることなく、大地は赤々とぬかるんで乾く暇も無い。
 時折、無為な抵抗を試みるモノを半分だけ死なせて放るのも、刺激的だ。
 今宵の真紅は、悪くない。
 たまたま見つけた餌場に過ぎぬが、これは存外、当たりやもしれぬ。
 興が乗ったので、もう少しだけ音を増やそうか。もう少しだけ大地を染めようか。
 手始めに――そう。
 逃げ惑う一団の中にいる、小さな餌の音が欲しい。
 まずはあの鮮やかな紅蓮色の瞳を、もっと紅く染め上げて――


                            ◇


 ――この現実は、何だろう。
 繋いだ手の先に、まだ仄かに体温が残っていて。
 視線の先では、白湯がひどくアンバランスな表情をしている。
 泣きながら笑おうとしているのかもしれない。
 笑いながら泣きそうになっているのかもしれない。
 それを見極めようとしても、ボクの体は遠ざかっていく。
 逃れようも無く、慣性に支配されてしまっている。
 あんな細腕のどこにこんな力が――といぶかしむ間さえ、今は疎ましい。
 眼前の少女に迫る砂塵。
 より色濃く染まっている真紅の刀角。
 そこにある、不可避の死の匂い。
 そう――今ある現実は、唯の一つだ。

「なんで……ボクを庇ったりする!」

 本当は、問いかけるまでも無いことなのだろう。
 あの子は賢い子だ。そして、悲しいくらいに優しい子だ。
 自分が狙われていることを悟り、巻き込むまいとしたのだろう。
 だから、静かに手を離し。ボクを、力の限り突き飛ばしてみせた。
 ……判断としては、間違っていない。あのままでは、遠からず二人ともに真紅の餌食になることは想像に難くない。そういった意味では合理的とさえ言えるだろう。
 でも、間違いだ。
 命は足し算引き算できるようなモノじゃない。
 こんなモノは――圧倒的に、間違いだ。

「白湯は、誰よりも幸せにならなきゃ嘘だろう!」

 もしも、なんていう言葉は大嫌いだけれど。
 あの子が黒い髪と瞳を持って生まれたら、流す涙はいったいどれだけ減ったのだろう、と。
 そんなふうに思えてならないことがある。
 もちろん、姉としての保護欲と、そういった風貌を備えているゆえの、優越交じりの同情に違いないのだろうけれど、それでも、せめて。
 流した涙と同じ分だけ、笑って生きて欲しいと、願った。
 自分よりも他人の痛みにこそ心を痛め。
 傷つけられても傷つけない。
 悲しんでも恨まない。
 そんな優しすぎるあの子は、降り積もるほどの幸せを一身に受けて良いはずなのだ。

「    ……       。             !」

 何かを叫んだ。はずなのけれど、自分の言葉さえ、あまりにも、遠い。
 このまま目を閉じて、消えてしまいたいとさえ思った。
 白湯は、一つだけ勘違いをしている。
 目の前で妹を死なせてそのまま逃げられるほど、ボクは、強くも弱くもなれはしないというのに。
 ああ。所詮この世は――弱肉強食の、冷たい四文字が全てだと言うのだろうか。
 だとしたら、それは。
 あまりにも――

「貴様ぁ……オレの大切なヒトを、二人も泣かせやがったなあああああぁぁぁぁ!」

 風が吹いた。
 見知った風は、攫うように白湯を抱きとめ、迫る刀角を、抜き放った鉄刀で捌く。
 ぶつかり合うのではなく、力に逆らわず受け流す。そういう刀術の技だった。方向を逸らされた真紅は、ボクたちの一団から、少し外れて進んでいった。村の皆は、これを好機とばかりに、散り散りに逃げていく。
 ただ、ボクは、動けなかった。動かなかった。動く必要なんか、なくなった。

「遅くなってすまない――でも、間に合ったよな?」

 風が笑う。ボクも、雫が零れながらでも笑い返す。白湯は、夢を見ているような顔をしていた。
 ――これもまた、現実。
 笑ってしまうほど颯爽と、疑ってしまうほどのタイミングで、窮地を救って行くような。
 そんなことだって、在りえさせる。やってみせてしまう。
 ヒトの想いは――弱肉強食なんて、たった四文字で語れるほど、冷めてはいない。

「うん、大丈夫。遅刻はしてないよ――優」

 交わす視線は、一瞬のこと。
 返す刀で――そんな表現が浮かぶような勢いでもって、真紅は再び迫ってきた。
「鏡花、白湯を!」
「もちろんだよ」
 ひょいっと投げるようによこされた白湯を、抱きとめる。必要以上の力で、ぎゅっと。
 抗議の声は、もちろん無視だ。

「真紅……おまえの相手は、オレだ!」

 交錯。
 キン、という短い刃鳴りの音がした。誰もが刀ごと斬り裂かれるしかなかった真紅の刀角と、まともに打ち合えた証拠だった。
「村の中心……一番目立つ、どうしようもなく存在感を鼓舞できる位置で、おまえは敢えて身を晒し、力を見せ付けることで恐慌状態を作り出した。それは自信の顕れでも侮り含みの軽挙でもなく、ただ単にそうする必要があったから、だな?」
 再び交錯。再び刃鳴りの音。
「地面の底からじゃあ、いくら斬れる角でも動きが直線的になりすぎる。つまり」
 三度目の交錯は、ズ、という妙に重たい音がした。
 それも道理で、見れば、刀角をいなした優の鉄刀は、大地にするりと滑り込んでいるのだった。
「冷静になれば至極読みやすい――大地の底の本体の位置さえ、見据えられるほどに!」
 鉄刀の切っ先から、僅かながら血飛沫が舞う。
 それはきっと、真紅に取っては、穏やかならざる材料のはずだった。

「さあ、何度でも来い。おまえの太刀筋、すでに見切った!」

 四回、五回、六回目の交錯。
 ズン、という音は、皮を斬るに留まらず肉へと通ったためだろう。
 そんな優を手強し、と見たのだろうか。真紅の刀角は、地面の中に、すぅ、と沈み込んでいった。
 辺りに、噴火を心待ちにする火山のような、不気味な静寂が満ち満ちていく。
「これだけのことをしておいて……おめおめと逃げるか!」
 優が激昂するのも無理は無い。
 ――が、本当に、そんな簡単に引いてみせるものだろうか?
 憤懣やるせない優は、周囲に忙しなく目をやっている。目印である真紅の刀角がすっかり見えなくなってしまったのだから、その潜伏先を探しているのだろう。
 ……目印? 潜伏?
 しまった――奴の狙いは!
「優、ダメだ! そこから離れて!
 刀角を隠したまま間合いを詰めての、零距離攻撃が、来る!」
 先までの縦横無尽な撫で斬りは、言ってみれば多人数用の攻撃なのだ。片端から斬り捨てるために刀角を出したままだったから、軌道も見取りやすく付け入る隙があった。
 だが、たった一人をピンポイントで殺傷するだけならば、そんな必要ありはしない。刀角を隠しつつ忍び寄って、足元から一気に、斬り貫くだけでいい。気づいてからでは回避もままならない、受けたところで刀が保たない、文字通り一刀両断の攻撃が完成する。
 打つ手無し、だ。

「違うぞ、鏡花。だからこそオレはここにいなけりゃいけない」

 真一文字に口を結んだ優は、十も年嵩を増したような、渋い表情をしていた。ともすればそれは、仏頂面にさえ映るくらいほどに。
 そして、刀を大きく振りかぶった姿勢で静止――弧を張った。明らかな迎撃のための構えであり、全力を込めた一撃に賭けるための体勢だ。
 その意図を察して、背筋どころか、脊髄まで凍りつく。
 ――あの馬鹿。渾身の一撃勝負で、飛竜に、真っ向から挑む気だなんて!
 単純な一撃の重さなら、生物としての圧倒的な体重差がモノを言う。肉を斬らせて――どころの話ではない。骨を斬らせて髄を断つ、そんな玉砕覚悟の危うい賭けだ。
(威力で劣るなら問題は速度……でも、こんな後の先を取るしかない状況で、やれるというの?)
 声を上げなかっただけで、上出来の部類だろう。そんな邪魔をするわけにはいかないのだから。
「……」
 優は静かに目を閉じた。真紅が完全に地に潜った以上、どう目を凝らしても見えないものは見えない。だから、頼るならば、別のものだ。
 そう――アレだけの巨体が、如何に神妙に動こうと、ピンと張り詰めた夜の空気を震わせもせずに、大地の底を這いまわれるはずはない。
 研ぎ澄ませた聴覚こそが、頼みの綱。
 それは同時に、細く脆い綱渡りの綱。
 渡りきれねば、対価は優の命となるだろう。
「…………」
 一瞬が長い。刹那が遠い。
 それでも時は、永遠でも悠久でもなかったから。
 果ての無い六秒と三十七刹那の後。
 大地が、動き。
 優も、動いた。

「そこかあああああああああああ!」
「グオオオオオオオオオオオオオ!」

 裂帛の気合を追って、血飛沫が舞う。

「ウガアアアア!?」

 絶叫を上げたのは真紅であり。
 刀身の半ばから折れ飛んだのは鉄刀であり。
 声も無く宙に跳ね上げられたのは優だった。
 運良く納屋と思しき建物の萱葺きの屋根に落ちたようだが、どうあっても無傷で済んでいるはずは無い。それどころか、最悪の場合……。
「優ーっ!」
 逃げろと、きっと言うのだろう。けれど、そんなこと、出来てたまるものか。
 ――ボクは、どこまでも、人間だから。
 白湯と共に駆け寄る。ひゅう、ひゅう、という隙間風のような呼吸音に、胸が締め付けられる思いがした。生きている。まずは、それだけでも充分だ。
「へ……へっへへ、手応え有り、だ」
 口元の血を拭いながら立ち上がる優は、痛みに耐えながらも、確かに、笑んでいた。
 脇腹の辺りから決して軽くない出血が見られるものの、命に別状は無いらしい。安堵のあまり腰が抜けそうだったが、呆けている暇などありはしない。努めて冷静に、声を飛ばす。
「刀が折れるほどに斬りつければそうだろうさ。
 でもキミ、我侭はそこまでだ。それじゃあもう、戦えない。引きずってでも逃げるよ」
 肩を貸すように、左側に付く。白湯は逆に回ったが、そちらは怪我をしている脇腹の方だったから、たちまち、痛ましさに顔をくしゃくしゃにしているようだった。
「オレさ……随分強くなった気がしてたんだけど、まだまだみたいだな」
「喋らないで。走るよ」
 傷を負った真紅が、再びこちらを向いて追って来たら逃げ切れない。怯んでいる今のうちに、距離を稼ぐ必要がある。
「でも……白湯を寸前で助けられて、今、あいつの片耳を潰せた。上出来だ」
「耳?」
 思わず、オウムに聞き返してしまった。
 噂に聞く大怪鳥ならばともかく、通常、飛竜の耳なんて探すこと自体難しいはずだが……。
「ああ……地面の中進むんなら、あいつだって目は頼れない。音で、探ってるんだ。
 つまり片耳を潰された今のあいつは……もう地面の中を動いての攻撃は出来ない」
 にぃ、と。
 虚勢では無い、会心の笑みが浮かぶ。

「はは、本当に上出来だ。大地の上での真剣勝負なら……神楽の刀は絶対に負けない」

 確信的な言葉の先で。すらりと長い人影が、押し殺した怒声を上げた。

「――我の村に立ち入ったばかりかこの狼藉。贖う術はその命のみと知れ、蒙昧!」

 神楽の、一族。
 東の地に禍あり乱起こる度に現れ、これを払う、護り刀の一族。
 その頭領が、今静かに、神楽の太刀を抜き払ったのだった。


                              ◇


 最小面積に最速斬撃を最短時間で。
 この切断原理を支える三つの要素のうち、刀自身が担えるのは、研ぎ澄まされた刃の『最小面積』のみに留まります。その刀を振るい『最速斬撃』を加えるのも、そこから『最短時間』で斬り抜くのも、剣士自身の腕が担うより他は、無いのです。
 ――武器の優劣が、必ずしも刀を振るうモノの強弱ではない。
 その戒めは、真紅の刀角と神楽の太刀においてでさえ、決して例外を生みはしませんでした。
「グ……オオオオオオオオオ!」
 獰猛な唸りを上げ、大地を踏み抜く勢いで突進する真紅を、頭領は、静かに正眼の構えで待ちました。
「あわよくば体ごとぶつからん……か。刀角が泣いておるぞ、無様!」
 踏み込む拍子に合わせて振り翳される太刀。
 淀みの無い動作は、いっそ緩慢と言ってよいほどゆるりと映りましたが、それは無駄という無駄を極限まで削ぎ落とした、洗練された動きであるがゆえなのでした。
「避けるは逃げるに有らず」
 突進から退くのではなく、むしろ足元へと、最短距離で飛び込み、
「だが撃つは護るに然り」
 甲殻の薄い腹を、したたかに斬り裂き、
「攻防は一対にして一体と、その身を以って知るが良いっ!」
 鮮血が花弁のように舞いました。
 ゆらり、と再び刀を構える頭領は息一つ乱してはおりませんでしたが、一方の真紅は、すでに赤銅色の甲殻が塗りつぶされるほど朱に染まっています。それはもう、村人たちを斬って捨てたためではなく、己の内から滲み出る色に他なりませんでした。
「グ……ぅぅぅぅウ」
 口から噴き出す黒煙は、モノブロス・ハートと呼ばれる猛々しい心の臓が全力で稼動し始めたサインでしたが、それは怒りというよりも、恐れの意味の方が大きいようにも思われました。
 真紅にしてみれば、まるで亡霊を相手にしているような心地なのでしょう。
 刀角で捉える寸前に消える標的。そして、同時に斬り裂かれている自分の体。それを悪夢に例えるならば、これで、今晩十六度目の悪夢にうなされた計算となるのです。
「神楽一刀流・迅雷上月……あの刹那を踏み越える拍子は真似すら出来そうにない、か。
 さすが親父様……もとい、お師匠様、だな」
 戦いの邪魔にならない位置まで避難した優が、誇らしげに言いました。反面、やや苦いモノも混じっているのは、まだまだ高い師匠の壁を見せ付けられたせいでもあるのでしょう。
「このままで決まりだ。刀の勝負なら、百回やっても百回とも同じ結果になる」
「だろうね」
 隣で鏡花も同意を示しますが、何故でしょう、その表情は険しいままでした。
(最初に村の中心に現れて、周囲を焦らしてから一気に奇襲に転じ、総崩れにさせた。
 あの鮮やかとも言える手並み、ただの偶然で片付けられるもの……かな)
 例えば、攻撃ならばあの大槌の如き尾を振るっても良いでしょうし、耳をやられて正確な攻撃が封じられていたとしても、地面に潜って体勢を整えることくらいは可能なはずなのです。
 なのに、十六回も、同じような突進をして同じような結果を招いているという、事実。
 それが獣の蛮勇によるモノならば、こちらの優勢は小動もしないことでしょう。けれどもしも、攻撃を受けながら、何らかの算段を虎視眈々と立てているのだとしたら……。
 ――杞憂ならば良いけれど。
 内面のざわめきを押し隠すように、未だ不安げな白湯に、大丈夫、と声を飛ばす鏡花でした。
 視線の先で、真紅が十七度目の突進を試みます。
「己が真紅を纏いて……地の底よりなお仄暗い場所で果てるが良い!」
 完全に見切った拍子。先の軌跡なぞるように繰り返される交錯。
 誰がどう見ても、同じように同じ結果が現れるものと、そう思われました。
 けれど。
 唯一つ、先の交錯と異なったのは。
 ヒトの身では決してわからない、真紅の、獰猛な笑み。
「グウウウウウウルオオオオオオ!」
 両者が交錯する、ほんの三瞬ほど手前で。猛々しい咆哮と共に、真紅は刀角を全身全霊で振り上げました。突進の勢いを余すところ無く伝えたその一撃は、まともに受ければ刀ごと真っ二つに両断されることは必至といえるでしょう。
「だが――不意を打たれるほどでも、無い」
 刀の長さ――つまるところ攻撃の間合いを第一に把握しておくのは、剣士としての本能に近い感性といえます。ですから、頭領は刀角の間合いを正確に見切り、ほんの僅かに身を引くことで、この攻撃を無効化したのでした。同時に、空振りの隙を突いて返す刀で止めを刺す、という算段なのです。
 頭領の動き、判断、全てが刀術の上では非の打ち所が無い、完璧なモノでした。
 そして、結局のところ。
 その完璧さゆえに、致命を招いたのでした。

「……!? 刀角が伸びるだと……!」

 それは、間近で接した故の錯覚でありましたが、袈裟斬に胴を薙がれた頭領には、その正体は分からなかったことでしょう。ただし、遠巻きに見ていた優たちにとっては、別でした。
「何だ今の……飛ぶ刀、だとでもいうのか!?」
「ううん、血を飛ばしたんだ……まるで、水竜が水を高圧で噴き出して獲物を撃つみたいに……」
 全身に纏った血液を、恐るべき速度で振り上げた刀角によって飛ばし、斬りつけた、と。
 その信じ難い攻撃方法に優は愕然としましたが、隣で鏡花は、別の意味合いでもって、色を失っておりました。
(あの真紅……狙っていた。最初から最後まで、徹頭徹尾、この瞬間だけを狙っていた!)
 必要な量の血液を――それも、乾ききらない新鮮な血液を得るために、甘んじて攻撃を受け続け。さらには、単調な攻撃を繰り返すことで刀角の速度と範囲を正確に測らせ、その間合いさえ殺せば簡単に避けられる、と思い込ませたのでした。
 結果。
 その間合いの外からの攻撃を、完全に想定外の、必殺の一撃へと仕立て上げたのです。
「う……ぐぉ」
 頭領は血塊をごぼりと吐き出し、地に膝をつきました。刀を突き立てて、倒れこまないようにしているのがやっと、という風情です。
 それを真紅が見逃す道理は、どこにも、ありませんでした。
「グオオオオオ!」
 今度こそ、どうしようもなく振り上げられる刀角。
 それを避けることも、防ぐことも、出来ずに。
 神楽の誇りを宿した刀は圧し折られ。
 その担い手もまた、鮮やかな真紅の尾を引いて、天高く斬り飛ばされました。
 
「お……親父様ぁぁぁぁぁ!」

 どんな悲痛な叫びにも、重力は優しく残酷に、平等でした。
 左肩からぐしゃりと潰れるような、歪な着地。……否、そこには着地と呼べる意図が火の粉一つ分とて働いた様子は無く、打ち捨てられた人形を思わせる、怖気が走るほどに無機質な落下でした。そこにはもう、生命の匂いは、どこにも感じられず……
「あ……あ…………」
 神楽の一族。
 東の地に禍あり乱起こる度に現れ、これを払う、護り刀の一族。
 その矜持が。一族の刀が。
 真っ二つに――折られた、瞬間でした。
 そして。
 儚く折れゆくモノが、もう一つ。

「神楽が……護り刀が、負け、る……? 何も……誰も……守れないまま、に……」

 優少年の心もまた、受け入れがたい現実と逃れがたい事実の前に、引き裂かれんばかりの痛手を負っておりました。傍らの鏡花が飛ばす声も、もはやその耳には届いていないようです。あるいはこのまま放って置けば、夜明けを待たずして、未成熟な精神は崩落ちてしまったのかもしれません。
 しかし皮肉なことに、彼をかろうじて現実へと繋ぎとめたのは、全身に今なお鮮血を滴らせたまま、再び大地へ潜っていく真紅の姿でした。
「逃げる……? 親父様の太刀は、あいつにも、相応のダメージを与えていたのか……?」
 思い――剣士の本能が、即座に否定しました。
 あれは、血と殺戮をひたすらに求める獣です。剣士ならば眼前の強敵――つまりは親父様――を倒すことに全身全霊を込め、捨て身で勝負を打って出てもおかしくはありません。ですが、あの真紅にとっては、むしろその後に控える、第二第三の殺戮劇の方が、よほどの重大事だったはずなのです。
 ならば、余力を根こそぎ無くしてしまうような戦い方を、はたして選ぶものなのでしょうか?
 そして、よしんば逃走のためでないとしたら、再び地面に潜ったのは何故なのでしょう?
 そこまで考えたところで。
 突然。
 背筋に雷光が走ったかのように。
 ――かちりと――――――
             ―――――――思考が――――
         ――――定まって――――― 「鏡花、白湯、逃げろぉ!」
 その一瞬の閃きは、僥倖、とさえ言えたのでしょう。
 脊髄反射で二人を突き飛ばした、まさしく正しくその直後。
 大地からぬっと突き出された真紅の刀角が、左の大腿を深くなぞりながら、全身を跳ね上げていきました。
「ぐうううううう!」
 ――やはり、逃走ではなく、攻撃。
 潰したはずの耳が、こうまで速く回復しつつあるという、この事実。
 あれだけの出血を以ってなお、底を見せないその体力。
 今さらながらに思い知らされる――その異形。
「それでも……オレを仕留め損なったな? まだ完全に目標が定まらないのなら!」
 ごろごろと地を転がりながら、それでもなお手離さなかった鉄刀を構えます。しかしその刀身は、先の攻防によって、半ばからすっかり折れ飛んでおりました。
 それでも。
「この足じゃあ、じたばたしても始まらない、よな?」
 優は決して浅くない傷の痛みに眉をひそめることさえなく、荒い呼吸を落ち着けながら、正眼に構えを取りました。
 その姿に何ら脅威無しと見たのか、もっと露骨に嘲笑って見せたのか、どちらにせよ、真紅はゆるりと優を睥睨しながら、足で地面を、ずざあ、と掻いたりしているのでした。鏡花と白湯はたちまちに駆け寄ってきそうな様子でしたが、優は鋭く視線を飛ばし、これを制します。
「……神楽の太刀は折れ。親父様は、負けた……」
 みしり、と奥歯を軋ませながら、創痍の体を引きずりながら、それでも優は、凛然と言いました。

「だが、それが、どうした」

 鏡花も、白湯も――ひょっとしたら真紅さえも、耳を疑ったようでした。
 それでも優は頓着せず、まるで世界に誇るように、雄々しく謳います。
「ああ、聞こえているなら聞くがいい。聞こえてなくても聞くがいい。
 命を奪えば終わるとでも思ったか? 刀を折れば押し黙るとでも思ったか?
 違うね……負けても譲れない、折れても屈せない。約束したんだ……守るってな!」
 それは、白い花が伝えた想い。
 少年が戦士の心を垣間見せた、懐かしい日。
 大切なヒトとの、大切な、記憶の欠片。
「――来いよ。瀕死のガキ一人くらい、どうという事もないんだろう?
 今まで何十何百何千とやってきた、息をするよりもまだ簡単なことなんだろうさ。
 ……だが、退かない。退いてなんか、やらない。オレはおまえの敵。おまえがオレの敵。
 ただ逃げ惑って狩られるだけの、獲物になんかなってやるものかよ。
 折れた刀で充分だ。死に損ないの体で存分だ。例え強がりでもオレは――笑っているぞ」
 にやり、と。
 若さゆえの無謀でもなく、絶望ゆえの虚勢でもなく。
 我に憚るもの何一つ無し、とでもいうような。
 心の芯から真っ直ぐに伸びてくる、そんな笑みでした。
 そんな優を未だ油断ならぬ敵と判断したのか、それとも理解しがたい生物と断じたのか。
 どちらにしても何にしても、真紅は、一切合切手抜かりなく、全力の全速を込めた突進で以って、狙いをつけたのでした。
 折れた刀では受けるも流すも叶わない、文字通り、必殺の一撃。
「決まっている……撃たせて討つのみ!」
 防御を考えない、真っ向からの打ち合い。勝算という言葉が彼岸へ消えるほどの、捨て身と言えるかどうかさえも怪しい、そんな決断です。ただ、動かぬ足で取れる戦法が他に無いこともまた、事実なのでした。
「砕いてみろよ……そうして、それでも砕けない何かを、思い知るが良いよ。
 おまえにはわからないさ。ただ壊すだけで守るべきモノの無い、おまえには!」
 ――真紅の刀角が正にその身を両断せんとする瞬間は、妙に長く感じられました。
 ひょっとしたら、弱気の虫が顔を出しそうなくらいに。
「神楽の心は……護り刀の想いは、まだ死んじゃあいないんだよ、馬鹿野郎っ!」
 迷いを振り払い、精一杯の力を込めて、叫んだ刹那。
 真紅は、優まで到達することなく、ぴたりと動きを止めました。
「……は?」
 ぽかん、と呆気に取られる暇も無く、真紅と優の間に割って入った人物が、ずんと腹に響くような重低音で、言い放ちました。

「神楽の魂を宿した若き剣士よ――その意や、良しっ!」

 声の主は、優と同じく刀身が半ばから折れた刀で、真紅の突進を受け止め。
 一文字に裂かれた胸から、栓を抜いたようなおびただしい血を流しながら。
 それでもなお、威厳と風格を兼ね備えた佇まいを備えているのです。
 神楽の頭領でした。
「親父様……よくぞご無事で!」
「刀を握った時は師匠と呼べと言っている」
 そのいつも通りの口振りに、安堵の息を漏らしかけたのも束の間。
 優は、たちまち異変に気づきました。
 親父様から流れる血は、地面に触れるや、しゅうしゅう、と音を立てて、むっとするような焼け焦げる匂いを放っているのです。
 まるきり常軌を逸した現象でしたが、優は、これに心当たりがありました。
「ざ……散華の法!?」
 それは、あまりに率直な意味合いで以って、『命を燃やす』という代物でした。
 神楽に伝わる特殊な丸薬を服用することで、全身のエネルギーを燃やしつくし、一瞬の閃光のような力を得るのです。例えばそう、真紅の突進を、真っ向から受け止めてみせるほどの。
 しかし血液さえ沸騰させるほどに、身体を内部から酷使するそれは、所謂外法、禁じ手の類です。用いれば死を招くに留まらず、『ただ死ぬ』ことさえ出来なくなるという――
「案ずるな、優。我は、先の攻撃を受けた時、もう、死したも同然であった。
 しかし……そなたの声が、聞こえた。神楽の心が、聞こえてきたのだ」
 ずだん、と重い音がしました。
 真紅が僅かに一歩、けれど確かに一歩、押し返された証でした。
「崩落ちる体が震えた。朽ちた想いが甦った。だから今、我はここに立っている。
 散華の法なぞは衒いに過ぎん。我を今再び立ち上がらせた、その意気! その心!
 それこそが、そのカタチ無き強さこそが、我を突き動かす『神楽』なのだ!」
 さらに満身の力でもって押し返すと、真紅はたまらず二歩、三歩と鑪を踏みました。けれど間髪入れずに自ら身を引くや、次の突進を見舞ってきます。もう、頭領が長くは持つまいと見越してのことでしょうし、事実、その通りなのでした。すでに死の顎は、その全身を余すところ無く捉えていたのです。
 けれど。
 先に、真紅が当たり前の判断を逆手に取り、頭領の裏をかいたかの如く。
 頭領は、あろうことか自分の命を餌にして、罠を張っていたのでした。

「優よ……忘れるな。神楽の太刀は刃にあらず。その折れぬ心だということをっ!」

 あろうことか、からん、と刀を投げ捨てて。
 最後に振り向いてみせた表情は――笑顔、に見えました。
 何もかもを任せられる後継を見出し、想い残すことただの一片とて無し、と無言のうちに語る。
 悲しくも潔い、男の、笑顔でした。
(オレは、見届けなければ、いけない!)
 叫びだしたい衝動を抑え。溢れそうな想いを涙ごと塞き止め。
 例え虚勢でも、歪であっても、全身全霊で、にぃ、と頬を持ち上げて。
「親父様、お達者で!」
「そなたも、な」
 今生の別れを彩るのは、簡潔な言葉と、雄弁な笑顔。
 遮るように、飛び込み来る真紅。
 頭領は、身じろぎ一つせず、これを見据え。
 ――ずちゃ。
 妙に水っぽい音は、刀角が、これ以上なく的確に、左胸を貫いた証。
 鏡花の悲鳴と白湯の声にならない慟哭が共鳴する中、真紅は、心地良さげに口元を歪めたのでした。
 けれど。
「それで……何を斬った気でいるか、迂闊!」
「……!?」
 真紅は、その目その耳その現実、全てを等しく疑いました。
 焼け焦げる血の匂いを飛散させ。
 壊れ行く命の音を響かせて。
 けれど崩落ちることなく。
 壮絶に微笑む男が、一人。

「――我は神楽。禍あればこれを払い、乱起こればこれを沈める、護り刀の一族なり!」

 前に。
 前に、出ました。
「うおおおおおおお!」
 心臓を貫かれたままで。
「おおおおおおおおおおおお!」
 すでに停止しつつある生命の中で。
「おおおおおおおおおおおおおおお!」
 一瞬の閃光のような輝きで。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 刃ではない確かな強さを込めて。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 刀角の根本までに進み出でたところで。
 しっかと、驚きに見開かれた真紅の目を見据えながら。

「――焼き付けろ。これが、神楽の生き様ぞ!」

 神楽の頭領は。
 優の父親にして刀術の師匠は。
 あたかも散り急ぐ華のように。
 爆発しました。
「グオオオオオン!?」
 弾けた四肢から降り注ぐ灼熱の鮮血が、真紅の顔の左半分を、赤黒く焦がしていきます。転げまわるように身を揺すったところで、粘度のある血液は、一度掴んだ顔面を放してはくれませんでした。あたかも、そこにヒトの強い意志が宿っているかのように。
 それが、散華の法を用いたモノの、逃れようの無い最期なのだということを、真紅は知る由もありません。ただ、大輪の菊を咲かせたように爛れてゆく顔の痛みと乾きに、やり場の無い怨念を募らせるのみなのでした。
 その身その心に、神楽、の二文字を、深く焼き付けられながら――


                              ◇


 ――熱い。熱いというよりも渇く。渇くよりもなお痛む。逃れよう亡く痛んで渇く。
 何だこれは。何なのだこれは。何だというのだ、これは!
 死んだはずのモノが立ち上がり、再び牙を剥く。
 折れたはずの刃で以って、再び立ち向かってくる。
 ――カ・グ・ラ。
 奴らはそう言ったのか。
 獲物が獲物ではなくなる、そんな不可解な概念を、そう呼んだのか。
 ――神楽。
 断じて認められぬ、決して許すことは出来ぬ。
 真紅はただ、心地よい音で我が心根を満たせばそれで良い。
 逃げ惑え。叫べ。儚め。狂え。這いつくばれ。それが獲物というものだ。
 ああ……痛む。乾く。痛みが乾いて渇きが痛み、この身と心を苛んでいく。
 ――だがあれは、あれだけは、今この時この場所で、摘み取らねばならぬ。
 あの傷ついた黒い餌さえ屠れば、神楽、とやらは潰えるはずなのだから―― 


                              ◇


「貴様ぁぁぁぁ!」
 怒号が上がりました。
 その声の主――優は、もうほとんど言うことを聞かなくなっている左足を、無理やりに引きずりながら、必死で駆け出します。
 瀕死と思われた真紅は、逃げることを選ばなかったのです。
 けれど。
 真っ直ぐに、優へ向かうことも、しなかったのでした。
「この期に及んで、白湯を狙うかよ……!」
 罠、ということはわかりました。
 戦えない白湯を狙い、そこを庇う隙を突こうとしているのだ、ということは。
(だけど……どうしようもないだろうが!)
 選択肢など、最初から用意されてはいないのでした。
 何があろうと守るという決意を逆手に取った、神楽ゆえに不可避となってしまう、そんな、罠。
 ここに至ってもなお、真紅の悪魔じみた謀略は、とどまることを知らないようでした。
「動け……動け動け動きやがれぇぇぇ!」
 だん、と傷口に拳を打ちつけると、脚ごと千切れてしまいそうな痛みが走ります。それでも、反射的に筋肉がぎゅっと締まり、踏ん張る力を増してくれたようでした。
 目の前では、逃げ惑う白湯が、優に向かって小さく首を振るのが見えます。
 ――きちゃ、ダメ。
 小さな唇が綴るのもようく見えましたが、優は、真っ向から無視しました。
「オレはあいつの大事を守るって……決めたんだ!」
 ほとんど掻っ攫うように、白湯を抱えて飛びました。
 間三髪、といったところでしょうか。
 背後を掠めるように真紅の突進が抜けていきましたが、それは予想通りの展開だったのでしょう。地面に倒れこむ形になった優たちに、再び向かってくるのでした。
 すでに限界をニ周りは越えている足。
 身を起こすだけで精一杯の体勢。
 救出の際手放してしまった鉄刀。
 全て真紅の思惑通りでした。そのままいけば、少なくとも優は、刀角の餌食となったことでしょう。
 けれど。

「やああああああ!」

 そこに飛び込む、予想外の影が、一つ。
「鏡花!?」
 その手には、鍔の無い短刀、千鳥。
 刃の先は、黒く爛れた傷の中心――すなわち左目を、しっかと捉えておりました。

「ボクの大事に……何をするかっ!」

 ずん、と千鳥が引き抜かれると、栓を抜いたワインのように飛沫が舞いました。真紅は声にならない絶叫を上げ、もんどりうって転げます。

「ねえ――優?」

 振り返り笑む、その背後で。
 残った目に憎悪の限りを燃やした真紅が立ち上がる姿が、ありました。

「鏡花、逃げ――」

 その瞬間。
 世界は、コマ送りで歩を進めました。
 怒りに任せて荒々しく振り上げられる、刀角。
 その切っ先に、引っ掛けられるようにして打ち上げられ。
 紙風船のように呆気なく宙を舞い。
 ほどなく重力に引かれ。
 放り捨てられた人形みたいに、『卍』に似た不自然な格好で、地を打ちました。
 キン、と水晶を打ち鳴らしたような音は、命の砕ける音でしょうか。
 思い出したかのように、生温い血の雨が、頬を伝っていくのを感じました。

「…………………………………………え?」

 ――ふふふ、未熟だねえ。
 いつでも響いていた、柔らかな声が。

「きょ……うか?」

 ――見せてよ。キミ自身がどう変わったのかを、ボクに。
 いつでも見つめてくれた、優しくて厳しい目が。

「ちょ…………待てよ、何だよ、これ……」

 ――お花?
 いつでも信じていた、あの日の約束が。

「そ…………嘘、だ……ろ?

 ――ありがとう、優。
 いつでも側にいてくれた、大好きなヒトが。

「嘘だって……笑えよ、からかってくれよ、いつもみたいに……なあ、鏡花?」

 返ってくるのは、沈黙。
 もうダメなんだという、現実。

「……………………………………………………………………………………あ」

 がくん、と。
 ぜんまいの切れたブリキ細工のように、力無く、優は膝を落としました。
 胸の真ん中がすぅすぅします。目の奥が痛みます。
 喉がからからで、ぞっとするほど冷たい汗が全身を覆っていて。
 吐き出したいほど想いが淀むのに、千々に乱れて言葉になりません。
 轟々と血の流れる音がするのに、心臓は、ゴム鞠ほどにも弾みません。
 それは、生まれて初めて、優が味わう。
 心の底からの、絶望でした。
「きょ……う、か……」
 ずるずると、体を起こすという行為さえ忘れてしまったように這いずりながら、優は鏡花の元に向かいました。何か意図や算段があってのことではありません。ただ、何かに必死ですがりつかなければ、これまで自分を支えてきたモノ全てが、根本から崩落ちてしまう気がしたのです。
 あるいは。
 自分の与り知らぬところで、幾重にも重なった偶然によって鏡花が無事に済んでいるのではないか。敵を欺くのにまず味方から騙しているのではないか。実は全てが悪い夢で自分は布団の中にいるのではないか。優は、そんな思いつく限りの奇跡を、無理にでも信じ込もうとしたのかもしれません。

 でも、やっぱり、ダメなのでした。

 喜劇のように、何事もなく笑顔で起き上がることもなく。
 悲劇のように、最期に愛の言葉を紡いで残すこともなく。
 現実のように、心残りばかりで瞳を潤ませ悔いることもなく。
 物語のように、降り積もる安い奇跡の介在する空白はどこにもなく。
 『卍』に似た不自然な形で横たわる彼女は、どうしようもないほど、死に尽くしておりました。
 まるでそう――悪夢のように。
「あ……くぁ、……か、は……」
 ありえないことですが、空気を吸い込もうとする意識と、空気を吐こうとする意識が、ちょうど胸の真ん中でぶつかった心地でした。そればかりか、叫びたいのに顎は言うことを聞かず、泣きたいのに笑いを堪えるように全身が震え、手を伸ばしたいのに後退る自分がいるのです。
 心と体。あるいは、優とユウ。
 同じところに収まっていたはずの二つが、今まで別々だなんて意識もしなかったはずのモノが、今、悲鳴のような軋みを響かせて、アンバランスに揺れているのでした。ただ、自分である、ということさえ、ままならないほどに。
 ゆえに。
 身が千切れそうな悲鳴を上げながら、鏡花の亡骸にすがりつく白湯も。そこを狙い、突進を開始する真紅も。等しく、他人事のようにしか映りませんでした。
 ただ、壊れたように、一つの考えだけが浮かぶのです。
 『これでは鏡花が巻き込まれる』と。
 もう永遠に失われてしまったはずの、約束だけが。
「ダメだ、まも、らなきゃ……約束したんだ、だから、ちゃんと、オレ、は……」
 すでに目の前の光景さえ映っていないかもしれない、虚ろな目。
 ともすればもう、神楽としての優は、どこにもいないのかもしれませんでした。
 そのときです。
「――」
「え?」
 叫びを、聞いたような気がしました。
 それは、とても近くて遠い、誰かの声に似ていました。
 優は半ば反射的に、周囲を見渡します。すると、自分と真紅の間に震えながら立ちふさがる、小さな人影に気づきました。
「…………白湯?」
 何を考えているのか、両手をいっぱいに広げ、優を背中に庇うようにしているのでした。
 そんなもの、紙の盾で火竜の炎弾を防ごうとしているようなモノです。無茶とかそういう次元ではなく、ただの無駄、といえます。
「……さっさと、逃げ、ろ」
 ぶるぶると、首が取れそうな勢いで左右に振り回してきました。
「いいんだよ……オレは、もう……いい、から……」
 再び、ぶるぶる。
 見れば、涙を堪えるだけで精一杯のようで、足の震えも歯の根が奏でる不協和音も、まるで隠しきれてはいないようでした。
 それでも、白湯は、広げた両手で、真紅の行く手を遮らんと、立ちはだかり続けているのです。
 ――戦っている、のか?
 必死に震えと戦いながら。
 それでも一歩とて退かずに。
 けれど、誰の、何の、ために?
 わかりません。わかりませんけれど。
 胸の真ん中が、ざわりとさざめきました。
「う……うううううう……」
 このままでは、白湯もまた、ここで果てることでしょう。
 そう――鏡花と、同じように。
 ……同じ、よう、に?
(鏡花は……何で、あんな真似をしたんだ……?
 親父様みたいに、最期まで笑って……どうして、そんなこと、を……)
 それは、亡骸に問いかける必要さえ無いことでした。
 他ならぬ優自身が、常に想い描いていたことと同じに違いないからです。
 ――何があろうと、大切な人を必ず守る、と。
 あの時あの瞬間、鏡花もまた、神楽だったのでした。
(ちょっと待て。オレは……今、何をしている? 鏡花はもういない……いないけど、でも……)
 今燻っている自身の命は。
 ここで、無駄で無為で無意味に終わらせようとしている命は。

「鏡花が、くれた、命……なの、か?」

 そして、今、眼前で。
 風の前の花弁のように、散り急ぐのは。

「鏡花が、守りたいと願った、命……なん、だ」

 ドクン。
 胸を打つ鼓動は、ただ、痛みだけを強いているようでした。
 想いはズタズタで、体はボロボロで、信念さえも圧し折られて。
 全てを諦めてしまっても、誰も、何も、言えないであろうこの状況で。
 それでも、少年は。
 誰よりも優しい名前が似合う少年は。
 自身にとって、あまりにも過酷な道を、選んだのでした。
 守るべきモノを守れなかったその身で。
 大地に打ち捨てられた、一本の折れた刀を――神楽の護り刀を手に取り、今一度、立ち上がったのです。

「今守るために……今まで守りたかった人を捨て置く、か。
 ちくしょう……どちくしょう、ヒトは……神楽ってのはよぉ!
 こんなにも痛くて辛くて苦しくて情けなくて切なくて悲しくて怒って叫んで恨んで悼んで凍えて焦がれて震えて怯えて竦んで足掻いてもがいて打ちのめされて、もうどうしてようもなくなって!
 それでも……顔上げて、前向いて、やるべきことをやれってのかよおおおおお!」

 それは言葉ではなく、涙でした。どうしようもなく溢れ出る、想いそのものでした。
 ちらりと、すでに死に尽くしている鏡花に目をやります。やはり、胸は射抜かれるように痛みました。きっとこの痛みは、ずっとずうっと消えないのだとも、思いました。
 それでも少年は、刀を構えます。
 白湯が驚きに振り返るのと、迫り来る真紅の表情に浮かぶ僅かな陰りとを、同時に視界の端で見据えながら。

「神楽の血に連なる幾多の英霊たちよ……今一度の、力を!
 手遅れと笑われてもいい……無様だと罵られてもいい……。
 それでも、まだ、守りたいモノが、ある!
 親父様に託された意志を、貫き通す力を。
 鏡花がくれた命を、無駄にしない力を。
 もう……誰も目の前で死なせないだけの、力を――!」

 ゆらり。
 優の体が微かに揺れた、と。
 思った時にはもう、その姿は、どこにもありせんでした。
 ただ、音だけがぽつんと取り残されたかのように、裂帛の気合が耳を打つのです。

「――神楽一刀流・迅雷上月っ!」

 折れた刀と創痍の体から繰り出されたとは、到底信じられないような。
 刹那さえ踏み越える、拍子の速さでした。
 その瞬間。
 上がった音は、三つ。
 一つは真紅の、再び左の目を深々と斬られたことによる悲鳴。
 一つは白湯の、その体を抱きとめて攫ったものに向けた安堵。
 そして。
 真紅の突進によって、鏡花の亡骸が無惨に踏み砕かれた音、でした。
「……見るな」
 言って、白湯の瞼を手で覆う本人は、微塵も目を逸らしませんでした。
 紅い雫が滔々と頬を伝っていくのが、その証拠といえるでしょう。

 いつかの約束を守る事も出来ず。
 大切なヒトと共に終わる事も望めず。
 それでも託された想いを継いで。
 自分自身の業を受け入れて。
 ただ痛みだけを道連れに。
 ともすれば呪いの如く。
 その全てを、背負う道。

「だったらオレは……いいや、我は、貴様を地獄の底まで殺して殺して殺して殺す!
 笑顔などいらぬ。優しさなどいらぬ。我はユウ……ただのユウで、充分だ!」

 びくり、と。
 真紅の巨体が震えました。
 それは、もう瀕死と侮っていた相手から、手痛い反撃を受けたためなどではありません。
 純然たる、恐怖、でした。

「全ての無念を晴らすまで、その菊の刻印を横顔に焼き付けた貴様の……
 モノブロス・ガーベラの前に、我は何度でも立ち塞がろうぞ!
 我が最も尊敬するヒトから継いだ意志と、我が最も愛するヒトから譲られた命を以って!」

 その言葉を、どう受け止めたのでしょう。
 白湯はユウの腕を振り払い、辺りに油断無く目をやり、やがて何かを見つけ、拾い上げました。
 鍔の無い小太刃――千鳥でした。
 それを逆手に持ち構えると、何を言うでもなく、ぴたりとユウの隣に付いたのです。
 ――私も、戦う。
 全身でそう語る少女は、もう、震えなどとは無縁の、凛然とした気配を纏っておりました。
 これで、戦士が二人、です。

「この折れぬ心こそ、神楽の強さと知れ――ガーベラ!」

 ずん、と歩み寄る小さな二つの影に気圧されるように。
 じりじりと、真紅の巨体は後退りました。
 そしてさらに、信じられない光景を、目の当たりにしたのです。


                              ◇


 何だというのだ、何が起こったというのだ。
 何故、崩落ちた黒い餌が、再び立ち上がってくる?
 始めから逃げ惑うだけの紅蓮の餌が、何故刃を構えてくる?
 ――いいや、そればかりではない。
 奴らの背後から、とっくに逃げたとばかり思っていた餌の集団が。
 そう、いずれ狩られるのを待っているだけの餌どもが。
 めいめいに刃を構え、向かってきているではないか!
 一つや二つではない。十や二十でもきかぬ。
 各々が一心に我を睨みつけ、猛々しい唸りの声を上げている。
 あの、黒い餌の、叫びのせいか?
 奴は、自ら再び立ち上がったのみならず。
 心の折れた餌たちまでも、奮い立たせてみせたというのか?
 ――これが、神楽。
 目の前のモノは殺せる。殺せるが……それで、どうなる?
 殺しても次が来る。次を殺しても次の次が延々と続く。
 悲鳴など上げずに、刃を呑んで立ち向かってくる。
 その想い、最期の一滴まで滅し尽くさぬ限り。
 幾度でも幾百度でも幾万度でも這い上がってくる。
 ――それが、神楽。
 餌が餌でなくなる、そんな概念。
 死なせても終わらない、そんな連鎖。
 ああ……おぞましい、おぞましい。
 力に屈せぬ存在など、死で断ち切れない鎖など、あってはならない歪みではないか。
 肌が粟立つ。地面を支える足の感触が、ひどく不明瞭だ。動悸が激しく息も苦しい。
 今まで味わったことのない不快なこの感覚――これが、神楽。
 冗談ではない。
 こんなモノに、付き合ってなどいられるものか。
 餌はどこにでもいる。だから、こだわる必要など、何一つ無いのだ。
 そうと決まれば、一刻も早く、ここから――
 

                             ◇


「逃げ、た……?」
 村人の一人が、未だ刀の柄を固く握り締めたままで、呟きました。
 大地を走る砂塵は、あっという間に視界の果てまで駆け抜けていって、後にはもう、何もかもが冗談であったかのような、不気味な静けさだけが残ったのでした。
 それでも皆、武器の構えを解くことはありませんでした。最初に、侮りのために被った甚大な被害が、否が応にも思い出されるからです。けれど十分、二十分、小一時間に差しかかろうかという頃になると、じわじわと、実感らしきものが湧き上がって来ました。やがて、誰からとも無く、呟きます。
「…………勝った、のか?」
 別の誰かも、呟きました。
「追い払った……?」
 怪訝そうな顔は、最後の部分で確信が持てないためなのでしょう。その証拠に、いつの間にやら村人たちの視線は、一人の少年に向けられていました。
 真紅の悪魔と戦いぬいた、神楽を継ぐ――その少年に。
 少年は、ともすれば仏頂面に映りかねない険しい表情のまま、折れた刀を、雄々しく掲げ、

「我ら――神楽の、勝ちだ」

 勝利を宣告したのでした。
 悲鳴のような喝采が、村中に響き渡ります。
 実際、半分は悲鳴、なのでしょう。この一夜で、事実上、神楽の村は半壊したのですから。
 死亡者57名。負傷者224名。破壊家屋31棟。倒壊家屋12棟。農作物被害、甚大。
 加えて、生き残った人間の実に半分が四肢の内いずれかを失い、また、自身は傷を負わなくとも、家族を目の前で斬殺されたため、心の安定を失うモノが多数生まれることとなったのでした。
 それでも、当面の恐怖を逃れた人々は、歓喜の声を上げました。これから津波のように訪れる悲しみを、少しでも押しのけられる力になればと、祈るような気持ちで声高く叫びました。
 けれど。
 その人々の輪の中に、勝利を宣告した少年の姿は、ありませんでした。


「お墓……作ってあげたいんだけどな……」
 まだ未明と言える薄暗さの中、少年と少女と思しき二つの影は、危なっかしい足取りで、山道を進んでおりました。どうやら少年は片足が上手く利かないようで、少女が肩を貸しているのでした。ただ、身長差があるせいか、難儀しているようですけれど。
 そんな、ただでさえ歩きにくい風情ですのに、何故でしょうか、少年の手には折れた刀が、少女の手には鍔の無い短刀が、それぞれ大切そうに握られているのでした。
「でも、親父様は散華の法で……鏡花も、ああなってしまって……。
 けれどせめて、花の一つくらい、供えてあげないと、な……」
 少年の言葉に、少女は時に頷き、時に首を振って、応えました。元々口数が少ないのか、それとも話せる状態で無いのかは、紅蓮色に染まった両の目からは窺い知れませんでした。
 そうして、二人が神楽の村を一望できる、山の頂上付近にまで進んだ頃。
 その手には、刀の他に、花がありました。
 白い花弁がふるふると揺れる、可愛らしい花でした。

「いつか……鏡花が教えてくれたっけ、これの花言葉……。
 もしも、『その通り』にするのが正しいんだとしたら……オレは……」

 ばっ、と白い花は宙を舞いました。
 目の前で散っていった命のような、儚さでした。

「もしも鏡花が、親父様が、死んだ皆が戻るならば!
 オレは……神楽の誇りなどいらない! 護り刀なんか、くそくらえだ!
 人を殺せというなら殺すし、死ねというなら死んでやる!
 だから……返せよ。オレの大事なモノ、守りたかったモノ、全部、返せよ!
 ぅ、く……ぅオオオオオオオオオオオオオオオ!」
 少年は叫びました。
 獣のような咆哮でした。
「オオオオオオオオオオオオオオオ!」
 言葉にならない想いをぶちまけるように、声の限り、涙の限り、少年は叫びました。
 傍らで、着物の袖を少女がぎゅっと握っておりましたが、気にも留めませんでした。
「オオオオオオオオオオオオオオオ!」
 叫んで、叫んで、叫び続けて。
 いつしか東の空から、太陽の頭が覗いてきた頃。
 少年の髪は、真っ白になっておりました。
 あたかも、大切な何かが、その身からごっそりと失われてしまったかのように。
「……我はおまえを追い続ける! この神楽の護り刀と共に、地の果てまででも!」
 朝の訪れを運ぶ風が、白くなった髪を、さらさらと凪ぎました。
 皮肉なことに、その光景は。
 白くて小さな花が風に揺れている姿を思わせました。
 いつか約束を交わした、あの日のように。
 そして約束が途切れた、この日のように。



 やがて、時は流れ。
 優しい名前を捨て、折れた刀を甦らせ、炎と出会い。
 それでも笑うことを忘れたままの、白髪の剣士。
 休日の戦場の中、彼は一人、呟きます。

「やっと――おまえを殺せる。ガーベラ」

 たちまち周囲の喧騒に解け消えた言葉の、真の意味を知るモノは。
 天より他に、あろうはずも無かったのでした。
 第6幕 〜最悪以下の結末〜
 長い十日間でした。
「独りにしてくれ」
 そう短く告げ、ユウは屋根裏の雑務室に篭り、そこから一歩も出てはきませんでした。
 そっとドアに耳を押し当てても、物音どころか呼吸の是非さえも窺えません。ただただ、体の内面から吹き上がる情念を凝縮するように、じっと、瞑目しているようでした。
「あの……お昼ごはん、出来ましたよ」
「無用」
 会話は、これが最初で最後でした。予め水と携帯食料を持ち込んでいた模様で、『食事を介せば最低でも一日三回はコミュニケーションの機会が持てる』という淡い期待は、完全に絶たれる形となったのです。
 それでも初めは、ソナタもドア越しに熱心に語りかけておりました。
「今日はパスタに挑戦しましてね、アンコーンとオイルレーズンが意外に合って――」
「ハンノキさん、峠は越えたそうですよ。そのうち、お見舞いに行きましょうか――」
「新しい爆弾が出来たんですよ、モンロー効果で突き刺さるような爆発が――」
 嘆息一つ返ってくることは無く、三日続けて諦めました。
 四日目と五日目は、ユウの身を案じながら家に留まり、調合などをしておりましたが。
 六日目から、だんだんと家を空けるようになり。七日目は朝帰りで。八日目と九日目は、ついに家には帰ってきませんでした。
 そして、十日目の朝。

「――いくか」

 やっと部屋から出た白髪の剣士を迎えたのは、冷たく澄んだ朝の空気だけでした。
「いないならば、いないだけのこと」
 眉一つ動かさず工房へと足を向ける姿は、言下にそう断じておりました。


                             ◇


「……」
「……」
 修繕した斬破刀の受け渡しに出てきたのは、どういうわけか、鉄ジジではありませんでした。
 非常に珍しいことに、白髪の剣士が見上げなければ視線が合わないという、ほとんど人類の規格外な巨漢です。険しい顔から、ふしゅるゥ、と息が吐き出される様はそれだけで十分な威圧感があり、何となく、神話に出てくる、世界を支えている巨神を彷彿とさせました。
「……」
「……」
 挨拶も仕上がりの報告も無いまま、ずい、と鞘に納まった刀が差し出され、同じく無言で、それを受け取ります。
「……」
「……」
 実際に鞘から抜いてみて仕上がりを確かめるのも、その挙動を見守るのも、徹頭徹尾言葉はありません。朝から晩まで代わり映えしない甲高い槌の音と熱の中にあって、この一角だけが真空状態の如く、底冷えのする沈黙に包まれているのです。それも、必要以上に人目を引く二人が。
 際立って不気味な光景でした。
「……」
「……」
 修繕は新品と見まごう素晴らしい出来栄えでしたが、その腕を讃え労う声、誇らしげに応える様、そんな人間らしいやりとりは何一つありません。ただ不倶戴天の敵を前にしたような重圧と、必要以上の斥力を伴った視線とが、交錯しているだけでした。
「……」
「……」
 キン、と澄んだ音をさせて刀を鞘に収めると、もう何一つ用は無い、とばかりに白髪の剣士は踵を返しました。実際、後は料金の支払いを済ませるだけだったのですけれど、そこにどういう理屈が働いたのでしょうか。巨漢は、その体格をまるで裏切らない力で以って、白髪の剣士の肩をむんずと掴んだのでした。それこそ、そのまま握りつぶしてしまっても止む無し、とでもいうように。
「……何用だ」
 剣呑な気配を放ちながら肩越しに睨めつけると、まさしく鬼のような形相の巨漢から、ふしゅるゥ、と大きな息と共に言葉が吐き出されたのでした。

「……もし、ソナタ泣かせるが、おまえ、なら……許さないが、オレ、だ……!」

 文法法則を真っ向から無視しながらも、その意図するところは過不足なく伝わりました。
 ――ソナタを泣かせたら、オレが許さない。
 その体格と表情以上の気迫を込めて、そう言ってくるのです。
 けれど、
「貴様の知ったことか」
 眉の一つも動かさず応えると、腕を振り払って、今度こそ白髪の剣士は去っていきました。
 何故この巨漢がそうまであの少女を気にかけているのか、といった疑問も当然感じてはいるのでしょうけれど、その一切合切を『どうでもいい』と断じているような、そんな酷薄な態度でした。
 その背中が見えなくなるまで、これでもかと射貫く視線を送り続けた巨漢は、ふしゅるゥ、と大きく息つくと、呻くように、呟きました。

「負ける、な……ソナタ……」

 万感の思いが篭ったその言葉は、今日も変わらぬ工房甲高い槌の音に紛れ、やがて熱気の中に解け消えていったのでした。


                             ◇


「おはようございます。遅かったですね?」
「……」
 ハンターギルドの建物に立ち入るや、カウンター席にちょこんと座っていた小さな影から、聞き慣れた声が飛びました。場にそぐわないその幼い姿に、人類の規格外な巨人すらほとんど黙殺してみせた白髪の剣士でさえ、わずかに心を揺らされたように思われます。
 炎の子供。
 僅か二年余りで、屈強なハンターたちにそうと呼ばれるまでに至った存在は、何もかもを呑んだような深い黒曜の瞳をゆるりとたわめ、微笑んでおりました。
「挨拶を返すことくらいは人としての常識ですよ? それでは、お里が知れるというものです」
 ぴくり、と白髪の剣士の表情に漣が走りました。お里、という言葉が、何かの琴線に触れたのかもしれません。少なくとも、無表情に黙殺できる範囲をやや超えているようでした。
 ただ、そもそもにおいて、これは子供が用いる言い回しとして適切なのか、という素朴な問題も無いわけではないのですが、まあ考えても栓の無いことなのでしょう。
「ふう……言葉の乱れよりも、心の荒みの方が問題視されるべきなのですかねえ。
 家庭での躾はどうなっているのでしょう。親御さんの顔を拝見したいところです」
 親御さん、という言葉に、今度は目に見えて表情が変わりました。けれど、少女の方はそ知らぬ顔で、ジュースの入ったコップを傾けたりしています。
 どうやら、長引けば長引くほど精神衛生上よろしくない、ということのようでして。
「………………………………………………………………………………おはよう」
 米粒一つの爽やかさも無い挨拶を、白髪の剣士は、ひどくおざなりに返したのでした。
 そして、及第点ただし補習の必要有りですね、といった声が背中に突き刺さるのを、素晴らしい意志の力で黙殺すると、
「奴の討伐依頼を」
 短く、受付けのフリージアに告げたのでした。
 すると、以前のように声を荒げて異議を唱えるようなことはまるでなく、それどころかまさしくお手本のような人好きする笑顔で、
「申し訳ございませんが、その依頼はすでに他の方が受けられています」
 ハラワタを沸騰させるような言葉を紡ぎだしたのでした。
「……何の冗談だ?」
「はい、お客様との間に認識の食い違いがあってはいけませんので説明させていただきます。
 お客様の言う依頼、これは『真紅の刀角竜討伐』で間違いありませんね?
 目標はモノブロス・ガーベラと仮称されておりますので、併せてご確認下さい」
 不審を覚えるほどに手際良く小気味良く、言葉が縷々と流れます。
 とりあえずは重々しくも頷いた白髪の剣士でしたが、前回の感情を剥き出しにして食って掛ってきたフリージアの態度と比べると、どうにも、腑に落ちない感は否めません。
(……この揺ぎ無さは、まるで)
 ジュースを啜る少女を視線が追いかけた刹那、
「ではやはり、その依頼はもう、残念ながら他の方が受注してしまった後ですね」
 営業用の『申し訳ありません』の態度と声で、フリージアが告げます。
 けれど、はいそうですか残念ですね、で済ませることが出来るはずもありません。
「そんなはずは無い! 本日付けで提示されるはずの依頼が、
 朝靄も晴れぬこの時間において、受注されているものか!」
「申し訳ありませんが、事実、受注されているのです。時間に直して、13分と43秒ほど前に」
 それはギルドの窓口が開く時刻を、きっちり正確に示しておりました。
 基本的にハンターとは自由業ですから、秒単位でお金に切羽詰っているか、あるいは相当の遠出を想定していない限りは、そんな時間に窓口に飛び込むものはまずいないのでした。
「……今日に限って、入り口に並んでいるような、酔狂な者が居たとでもいうのか」
「はい、泊り込むくらいの酔狂さでよろしければ、いらっしゃいましたね」
 にべもありません。
「馬鹿な! だいたい、オレ以外にハンターの姿など、ギルドのどこにも――」
 いました。
 しかも、半径2m以内の世界に。
「……おまえの仕業かっ!」
「はい。そんなに大きい声を出さなくても、聞こえていますよ?」
 氷を鳴らしもせずに楚々とジュースを飲み干しながら、確信犯が、大胆不敵に笑みました。
 その姿に、声を荒げることが無駄だと悟ったのでしょうか、

「――いったい、どういう、つもりだ?」

 地の底から這い出るような、静謐ゆえに重々しい響きが上がりました。なまじ怒鳴りたてるよりも、よほど効果的な脅し文句であることは、疑いようがありません。
 けれど、それを受けた当人は、と申しますと、
「登録内容を確認していただければ、一目瞭然ですとも」
 そう告げて、まるで取り合いません。さらに間髪入れず背後から、
「内容確認でしたらこちらになりますが、どうなさいますか?」
 フリージアが書類をひらひらと振って手招きします。
 絶妙の呼吸でした。
「…………」
 明らかに誘導されているこの状況は、非常に、心から、余すところ無く不本意ではありましたが、無意味に突っかかったところで、それは、思うツボというモノに違いありません。
 せめてもの抵抗として、ひったくるように書類を受け取って、目を通します。すると、以外な記載が目に飛び込んできました。
「クエスト参加人数が……二人?」
「はい。『あなた』と『私』でちょうど二人、何ら問題は無いでしょう?」
「……おまえを連れて行くつもりなど、無い」
「何を勘違いしているのですか?」
 さも楽しげに、ソナタは言いました。
「『私』」が『あなた』を、仕方ないから連れて行ってあげようかと、そう言っているのですよ?
 設定人数を超えて行くのは違反ですが、それ以下で行く分には、何ら問題ないのですからね」
「屁理屈を!」
 すると、ソナタは人差し指で両の目元をびっと吊り上げ、口元をへの字に結び、いかにもな仏頂面を作ってから、心持ち低い声でこう告げました。

「正式な手続きでギルドに受け付けられた以上、文句を挟む余地なぞ無い!」

 誰の真似かなぞは考えるまでもありませんし、まさに絶句した白髪の剣士の表情からも、それは明らかでした。
「これはあなたが、私を置いていく口実に用意していた台詞ではありませんか?
 『参加人数一人で受付を済ませた以上、連れては行けない。ハンターならば聞き分けろ』とね。 なるほど、屁理屈で私を言い包められる気でいた、と。そればかりは、なかなかに案外でした」
「……」
 よいしょ、と席を立って、真っ向から視線を交錯させながら。
 まるで容赦の無い笑顔のまま、止めを刺しにかかりました。
「――さて、私はこの依頼をこなすつもりでいますが、あなたに止むに止まれぬ理由があって、どうしても同行したいというならば、特別に許可をしても良いかもしれないと、そう思っています」
「……………………」
「あらあら、なんていう顔をしているのですか。気迫をぶつける相手が違うでしょう?
 まあ別に、無理にでも連れて行こうとは思いませんからね。選ぶのは、あなたですよ?」
「…………………………………………」
「さあ、『はい』か『YES』か、お好きな方をどうぞ」
「………………………………………………………………」
 もし。
 もしも、この状況に立たされているのが、『優しいユウ』と呼ばれた、いつもの白髪の剣士ならば。 元より渋い顔をいっそうくしゃくしゃにして悩みに悩み、誇りや自尊心、プライドその他諸々と折り合いをつけながら、どうにかこうにか、『是』の一言を絞りだしたのでしょうけれど。
 目の前の存在は、あらゆる意味で、別物でした。
「――よろしくお願いする」
 それは、あってはならないほどの、即答。
「オレは何人の邪魔も介入も許さず、一対一でガーベラを抹殺せしめることを望んでいた。
 だが、最善が叶わぬなら次善を選ぼう。次善が潰えたならばまたその次を探ろう。
 そう――この機を逃すという最悪以外であるならば、何であろうと構うものか。
 礼が足りぬと言うのならば、膝を屈し両の手を突き、地に額をこすりつけてでも懇願しよう。
 卑屈と罵られようと、不様と哂われようと、恥知らずと貶められようと、その首を縦に振らせよう。
 全てを乗り越える覚悟ならばもう――とうの昔に、済ませたのだから」
 深々と――それこそ慇懃無礼と映るほどに深々と、頭を垂れ。
 静々と――それこそ他人行儀としか映らないほど静々と、言葉を紡ぎます。
 もしこのまま放っておけば、宣告の通りに、膝を屈することさえ厭わないのでしょう。
「――ふうん」
 肯定とも否定とも、はたまた単に興味を失ったともとれる、ひどく曖昧な相槌。
 少なくとも、この言葉を受けた白髪の剣士は、そう判断しました。
 まさかその背後で、歴戦のハンターたちを見守ってきた名うての受付け嬢が、肌を粟立たせ、顔面を蒼白にし、唇を血が滲むほど噛み締めて、やっとの思いで悲鳴を抑えていたなどということは、まるっきり、想像を超えていたのでした。
 その事実に、彼が気づけなかったことが幸運だったのか不幸だったのかは。
 この時点では、まだ、誰にもわからないことでした。
 そして。
 少女はただ、
「ならば決まりですね」
 とだけ簡素に言って、未だに頭を垂れている白髪の剣士の横をすり抜けていきます。すれ違う刹那、どちらの視線も、相手を微塵も追うことはありませんでした。
 ならばもうあとは出立に備えるのみと、白髪の剣士が上体を起こしたところ、ああそういえば、と背中越しに声がかかりました。

「あなたが覚悟と呼んだ『それ』は――本当に、そうと呼べるモノですか?」

 それは非常に珍しいことに、どうでもいいや、という雰囲気の濃い、投げやりな口調でした。
 恐らく、ちらと振り返ることさえせずに、完全に背を向け合っての言葉なのもその一因なのでしょうけれど、まるで+と−を間違えたせいで計算が合わないのを気づかない子供に、どうして気づけないかな、と、肩を竦め眉を顰めして呆れているような、諦めの色が強く感じとれるのです。
「――」
 訝しく、というよりは、背中から急に撃たれたような純粋な驚きで以って、白髪の剣士の足が止まりました。それはどういう意味だ、と問いかけるべきか否か、その逡巡はほんの瞬き三つに過ぎなかったのでしょうけれど。
 答えを待つことなく――そんな必要はとうに廃れてしまったとばかりに――少女が遠ざかっていく足音が、伝わってきました。反論することも問いただすことも、黙殺することでさえも、機会を逃してしまった、ということのようです。
「……」
 何となく釈然としない、胃袋に爪楊枝が引っかかったような気持ちを抱えながら、白髪の剣士もその場を離れました。けれど、依頼を受諾中に勝手に建物を出て別行動を取るわけにもいかず、仕方なく、出来るだけ奥まった位置にあるテーブルについて待機という、どうにも収まりが悪くてしっくりこない状況に甘んじることとなってしまったのでした。
 一方、フリージアにそそと歩み寄った少女は、
「そういうわけで、こういうことになりました」
 と、率直なのか曖昧なのか、当事者間でしかよくわからないことを言いました。
 もっとも、フリージアが卵の運搬中に飛竜に捕捉されたような、秒読みの死を待つ時の絶望的な表情をしているところを見ると、只事ではないのでしょう。
「ソナタちゃん……!」
「言いましたよ。ならば決まりですね、、、、、、、、、、と」
 ちりちりと。
 肌が焼き、産毛を散らしていくような、鮮烈な笑顔でした。

「例え状況が最悪でも、私は――いいえ、私たち、、、は。
 まさに、その最悪への手段こそを講じてきたのですから、ね」

 静かに清かに、確かな灯火を心に宿す、その姿。
 それは、かつて炎に包まれた村で、リオレウスに立ち向かった時の。
 それは、かつて白く煙る戦場で、ドスランポスに零を穿った時の。
 炎の子供――そのものでした。

「――あのね、これは、本当に馬鹿みたいに単純な疑問なんだけれど」
「はい?」
「あなたはどうして、自分で正しいと思うことを、そうもまっすぐに出来るのかな?」
 まっすぐな問いには即答が相応しいとばかりに、少女は間髪入れず言いました。
「本当に馬鹿だからです」
 え゛、という奇妙な音がフリージアの口から洩れました。
 少女はなおも、続けます。
「辛いことは嫌いです。苦しいこと痛いこと、好きじゃありません。怒るのも面倒です。
 でも、私が譲りたくないと思うことは、他の全てを差し置いて、譲りたくありません。
 辛いこと、苦しいこと、痛いこと、腹立たしいこと――全部無視して、走り出します。
 ……それは多分、馬鹿なことです。何をやっているのだろうと、浮かんでくることもしばしばです。けれどもしも、ここで何もせずに、自分は幼いからとか力が無いからとか言い訳を並べて、その上で、誰も責めやしないだろうとタカをくくって、目を閉じ耳を塞ぐのを利口と呼ぶのなら。

 ――だったら、私は、馬鹿でいい。
 
 何でも出来るようになる『いつか』なんていう日を、座して待ってなどいられません。
 けれど、ただ力を尽くせば結果が伴わずとも満足という、そんな聞き分けの良さも要りません。
 だから、この未熟な体を弾ませて、この稚拙な思考を廻らせて、この幼気な全身全霊で以って、 ともすれば、最悪以下の結果を招きかねない賭けに出ることを選びます。
 ここにある『今』を――『いつか』にまで、届かせるために」

 ね、本当に馬鹿でしょう? と嘯く少女を見つめる瞳は、何とも言えない感情に満ちておりました。年下の――それも、徹底的に保護が必要だと思われる子供に対するモノでは決してなく、何か、覆しようの無い覚悟を胸に、絶望的な戦地へ赴く想い人に向けられるような代物でした。

「でも……でもね、ソナタちゃん。あなたの想いは、今のあの人には、届かないのよ」
「知っています」

 静かに、けれど確かに、少女は断じました。

「――そうと言える強さのことを、ヒトは時に、愛と呼ぶそうです」

 何も言わず――正確には何も言えず、フリージアは、少女の悲しいまでの決意に満ちた表情を、見守っておりました。ぐっと目を細める様は、とても眩しいものを見ているようでも、溢れそうな感情を堪えるようでもありましたが、やはり彼女は何も言わず、ただ、少女の頭を抱き寄せるのでした。

「………………無事、で」

 やっと、絞り出せた一言に、

「その約束だけは出来ません。
 精一杯傷ついて、傷つけて――戦うつもりです。ちゃんと『二人』で、帰ってくるために」

 どこまでもまっすぐに、答えが返ってくるのでした。
 ぎゅっと、抱きしめた腕の中には。
 愛しいまでに脆い感触と、残酷なまでの温かさが、あるだけでした。
 そして。
 この微かな灯火を本来守るはずの存在は、その光景を、視界に収めてさえいないのでした。


                             ◇


 通常、依頼に出るハンターの荷物といえば、戦闘用の装備一式、回復薬等のアイテム類、そして最低限の水と携帯食料くらいのものです。旅支度としてはあまりにも物々しく、遠方へ出向くにはまるで向かない、戦闘特化のハンティングスタイル。これを可能としているのは、ギルドの支援のおかげ、と断じても、どこからも文句は上がらないことでしょう。
 移動手段及び現地での必要物品の支給、討伐目標の位置の把握、ベースキャンプの設置、依頼完了の確認、事後処理等々。『戦闘に直接参加する』以外のあらゆる面において、ギルドはハンターを陰に日向にバックアップしているのでした。
「本来ならば遠方への依頼にはネコタクが支給されるのですが、
 今回は極めて危険度が高い依頼のため、目立つ移動手段では、とても近づけません。
 申し訳ありませんが、往路のみ徒歩でお願いいたします」
「了解です」
 薬品や調合材料、そして何故か防具の胸当てを念入りに確認しながら、ソナタが答えます。
 禍々しいなシルエットの篭手は、出番が来るまで小さな背に負われていく模様でした。
「なお、ベースキャンプはすでに諜報部が三箇所に設置済みですので、
 討伐目標の現在地との兼ね合いから、適当なものを選択するのが良いでしょう」
「――把握しきれていないのか?」
 鋭い一瞥を投げかける白髪の剣士に、
「接近し過ぎればどうなるかは、あなたの方がよくご存知でしょう。
 ギルドとしても、最大限の努力をした結果と、ご理解下さい」
 と、限りなく事務的な口調で返すフリージアでした。
「実にならぬ努力なぞ徒労と同義だろうに、な」
「そうならないことを、心より祈っております」
 端から聞く分には壮絶な皮肉の応酬ですが、氷の営業スマイルと岩の仏頂面とのぶつかりあいからは、何一つ感情は窺えませんでした。そもそも、お互い、相手のことなど眼中に無いのかもしれません。
 白髪の剣士は、脳裏に巣食う真紅の悪魔だけを。
 受け付けは、目の前で佇む炎の子供だけを。
 それぞれ見つめ、想いを馳せているようでした。
 もっともその意味合いは、綺麗さっぱり、真逆ですけれど。
「説明事項が以上ならば、さっさと出立させてもらおう」
 告げる瞳には、追って追って追い続けた怨敵の姿しか映っていないのでしょう。反応を待つ時間さえ惜しいとばかりに、ずんずんさくさくと、歩を進め始めたのでした。
「いってらっしゃいませ」
 ギイ、と戸の音だけが応じ、それっきり。
 何とも喉をざらつかせる空気だけが残ります。
「……仕方の無い人」
「そうね。でも、程度の差はあっても、世の中の男たちは全部、どこかしら仕方の無いものよ」
「では、そこをどう教育するかが、レディの腕の見せ所なのですね?」
「そのとおりよ」
 教育上、甚だよろしくない会話でした。
 けれど。
 いざ戦いに赴かんとする心に相応しい、どこまでも不敵なやりとりでした。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 ギイ、と戸を鳴らし出て行く小さな背中を、フリージアは見送りました。
 その背中が見えなくなっても、煙草を一本吸えるくらいの間、ずっとそのままでいました。
 やがて、何かが決したように、ふうぅ、と大きく息を吐いてから、きゅ、と表情を結び、
「――さあて、お仕事お仕事」
 カウンターに舞い戻り、書類を一枚、取り出したのでした。


                             ◇


「放って置いたら、本当に一人で行ってしまいそうですね」
「無論」
 この場合は、『無論そんなことは無い』ではなく、『無論そうする』の意味で、間違いありません。
 可愛さ余らず憎さだけ百倍な発言でした。
 そしてなお悪いことに、行動も、この言葉を、額面どおりぴったりと反映してしまっていたのです。
 普通、大人と子供では当然、体格――すなわち歩幅に差がありますから、連れ立って歩く際は、どうしたって大人側が手加減しない限り、子供が一定速度でついていくのは苦しくなります。この白髪の剣士ほどの長身であれば、なおさらのことです。なのに、むしろ早足加減でずんずんさくさくと歩を進めるものですから、すっかり少女は駆け足になってしまっているのでした。
 こんな、装備や道具といった重石を纏いながらの強行軍で現地についたところで、へとへとになってとてもハントなど出来ないことは、誰にだって簡単に想像出来ることです。けれど――歩調を緩める気配は、今日の空模様に雨の兆しを見つけるくらいに、皆無でした。
 あるいは、そうして疲弊させることで、少女を戦いに参加させまいとしているのかもしれません。が、どうしたところで、ガーベラ以外眼中に無いと無言で宣告する事実に、変わりは無いのでした。
 しかし。
 ここにいるのは、ただ歯を食いしばって涙を堪えて追いすがる、ただの少女などではなかったのです。

「どうでも良いですが、ちょっとペースが遅くはありませんか、、、、、、、、、、、、、、、、、?」

 虚勢と断ずるにはあまりにも不敵過ぎる響きに、前を行く大きな背中が、僅かに振り返りさえしたようでした。
「このペースでは、どう頑張っても、現地入りは夕暮れに差し掛かるでしょう。日が落ちてからハントは出来ません。地に潜って逃げる相手では、追いかけようがありませんからね」
 それは、白髪の剣士も身に染みて分かっていることでした。
 かつてガーベラにあれほど容易に逃走を許したのは、片足がほとんど利かなくなっていたせいもありましたけれど、何より、真夜中という制約があまりにも大きかったのです。
 この少女がそのことを知っているはずは無いのですが、偶然にしてはなんとも的確に、白髪の剣士が無視できない部分を突いてきた、ということになります。
「あなたが、それこそ今私がしているくらいの労力で走り抜けたなら――そうですね。
 たとえ三箇所のベースキャンプうち、いずれを目指したとしても、おやつの時間までには辿り着くことが出来るはずです。それとも、何かそうとしない理由が、あるのですか?」
 じわりと、言葉を染み込ませるように区切りながら、笑顔さえ浮かべて言うのです。
 不敵を通り越して、不審を覚えるくらいに落ち着き払った様子でした。
「……オレに付いて来られる気でいるとでも?」
「――私から逃げられる気でいるとでも?」
 何だか必要以上に恐ろしいことを言われた気がしました。
 仮にここで『どういう意味だ?』とでも問おうものなら、それこそ逃げ場が完全に絶たれそうなことを告げられかねない予感がしましたので、それとなく、別のことを問いました。
「いったい、どんな奇策を用いるつもりだ?」
 すると、僅かに額に汗を滲ませ始めた少女は、嬉しそうにいったものでした。
「とりあえず、プリンセス・ホールドなどを」
「……?」
 耳慣れない言葉に、思わず問い返しかけたところ。
 目の前に、予告も無く、小さなビンのようなものが投じられました。
 反射的に受け取り見やると、それはハンターたちが用いる標準的な携帯薬ビンのようでした。中には、少し濁った黄色い液体が揺らめいています。
 白髪の剣士は、意外そうに、表情を曇らせました。
「強走薬か?」
「ええ、しかも特別製です」
 強走薬。
 それは戦闘という極限状況で、最高のパフォーマンスを発揮するために用いられる薬品です。短い時間ながら全力で運動し続けられるとあって、この薬を常備するハンターも珍しくありません。ですが、実は以外なほどに、この薬の原理そのものについては知られていないのでした。
 簡単に言えば、この薬は、もの凄まじく吸収の良い栄養食品なのです。
 イメージ的には、使い捨ての電池燃料、というのがわかりやすいでしょうか。体内に入った強走薬は、自らその栄養分の分解、吸収、運搬を行い、半ば強制的に体にエネルギーを供給し出すのです。そのため、薬がそもそも備えていた分のエネルギー(主に素材となった肉類の栄養)が消費されるまでは、極端な話、呼吸さえほぼ不要で動き続けられるという、何だか操り糸を探したくなるような状態になるわけなのでした。
 ただ、この便利な薬にも、やはり欠点は存在します。
 薬自体が勝手にエネルギーを運び続けるため、その余剰分さえ蓄積されず、勝手に(主に熱として)消費されてしまうのです。結果、運動量如何に関わらず、ほぼ一定時間――それもごく短時間しか、薬効を持続出来ないのでした。つまり、短距離走では無敵ですけれど、フルマラソンではせいぜいスタートダッシュにしかならない、ということになります。
 白髪の剣士が良い顔をしなかったのも、そうした理由からでした。明らかに、長い距離を駆け抜けるには、向かない薬品なのです。特別製――恐らく毒怪鳥の素材を用いた、効果時間が比較的長いもの――といったところで、この根本的な欠点に変わりはありません。
 そして、こと調合に関する知識において、白髪の剣士に決して引けを取らないであろう少女が、それを踏まえていないはずが無いのです。不審を覚えない方が、むしろ不自然でしょう。
 いったいどういうことだ、と目線だけで問いかけます。
 ですが、少女は、促すように頷くだけでした。
(……まさか目的地まで保つだけの量、強走薬を用意しているとでも?)
 それこそまさか、でした。
 そんな量の薬代、生活費に直せばゆうに一年分にはなります。二人分なのでさらに倍、とてもありえそうもないお話です。
(……かといって、別段、貰って困るものでもない、か)
 全力疾走でいけるのならば、それこそ少女を置き去りにするには絶好の機会です。お互いスタミナが無制限になったところで、根本的な速力の違いは歴然としているのですから。
 何だか、記憶よりも少々どろりと粘り気のある液体に違和感を覚えはしましたが、調合する者によって、多少は性質に違いが出るのが普通です。さして気にも留めず、栓を抜いて、一気に口へと流し込みます。
 そのときでした。

「まあ、ぶっつけ本番ですが、きっと、何とか、なるでしょう」

 不吉極まりないセリフが、所々息を継ぎながら、のんびりと告げられたのです。
「なん……!」
 だと、と続けるはずでしたが、そうして喉に力を入れたのが仇になったらしく、ごっきゅん、という非常にお行儀良い音が、傍らの少女にも聞こえるほどに響いたのでした。
「ぐ……!」
 乱暴に薬ビンを投げ捨て、体の変化をじっと探っているようでした。すっかり足は止まっておりますが、さすがにもう、『目的地へ急ぐ』うんぬんという場合はありません。
 『特別製』という名の『未知の薬品』を飲んでしまった――そんな恐怖よりも、もっと直接的に『毒を盛られたのではないか』という懸念が、どうしようもなく膨れ上がってきます。そうして昏倒している隙に、少女は自分でガーベラを倒すという算段を立てているのではないか……というような想像が、妙な説得力を伴って浮かんでくるのでした。少なくとも筋は通っていますし、この少女ならば――出来る出来ないは別として――そのくらいのことを思いつき、そして平然と実行してみせるのではないでしょうか。否定する材料の方が、むしろありません。
 薬のせいではなく、眩暈がしました。
 白髪の剣士は我が身の迂闊さを呪いながらも、冷静に、指を口に入れて薬を吐き出そうと思いついたようですが、
「多分、食道に触れた時点で、手遅れです」
 無慈悲な言葉に撃ち落されてしまいました。
 『手遅れ』とはどうにも確信犯のセリフに思えて仕方がありませんが――まあ、実際その通りなのでしょうけれど――それでも当の犯人ほんにんは、どこ吹く風のようでした。ゆっくりとした歩行に切り替えながら辺りをうろうろし、すぅ……はぁ〜、と呼吸を整えているくらいの落ち着きぶりです。
 それどころで無いのは、もちろん、被害者の方でした。
 胃から心臓が生えたみたいに、力が送り出される感覚――これは普通の強走薬を服用したときと、ごくごく同じ身体反応でした。けれど、次いで来るはずの全身が燃え上がるような熱感は無く、代わりに、鼓動のように一定のリズムで、すぅ、すぅ、と血液が沸き立つような、奇妙な心地がするのでした。確かに力は湧いてきているのに、その具合が地味というか、何だかとても頼りないのです。
 あらゆる可能性を覚悟し始めていた白髪の剣士は、色々な意味で、首を捻ることしきりでした。
「何だ……? 効果がひどく中途半端な……というより、出し惜しみされている?」
 特別製、と銘打たれた割には情けない限りですが、それでも、毒に類するものを盛られたのではないとわかって、とりあえず一安心ではありました。
 ――否。
 一安心しかけた、その刹那でした。

「全力で駆けるには不足ですけれど、長距離走には、それくらいが相応でしょう?」

 獲たり、とばかりに笑む少女が。
 それこそ、『当然の権利です』とでも主張するように、真正面から堂々と。
 白髪の剣士の首にその手を絡め、全身を預けるように抱きついたのでした。
 そして当然上がるであろう抗議の声に先んじて、こう告げたのです。
「別にこんなところで甘えるつもりはありませんので、ご心配なく。
 ただ、これで私の分の薬はいりませんから、経費は単純に半分に抑えられます。
 何より、どう考えてもこうしてあなたが走るのが、一番速い移動法でしょう?」
 その意味が、白髪の剣士の理解に到達するまで、たっぷり8秒、かかりました。

「……………………………………………………まさか、この格好のまま、運べと?」
「ですよ。予め、そう言いましたし」

 そんな覚えは無い、と言いかけて、はたと気づきました。
 先に少女が呟いた謎の言葉、プリンセス・ホールド。
 それを直訳すると。

(…………お姫様抱っこ?)

 その言葉を脳裏に描くだけで、今にも自分の足元が崩れ落ちそうな気がしました。
 子供特有のぽかぽかした体温が伝ってくるのが、それに拍車をかけてくるようです。
「あなた、筋力的には戦闘鎚だって扱えるのですから、軽いものでしょう?」
(問題が違う、激しく違う!)
 心の中で絶叫が上がりました。
 なのに、移動手段として有効というのも、強走薬の消費を抑えられるというのも、全て理に適っているのです。そして困ったことに、心情的にも、ガーベラに一刻も早く接敵せんとする、白髪の剣士の希望に沿っているのでした。
 唯一、この非常に落ち着かない状態を維持しなければならない、という埒外な問題以外は。
「……せめて、背に負うわけにはいかないのか」
「あなた、自分が何を背負っているのか忘れていませんか?」
 言わずと知れた斬破刀でした。
 一緒に人間を背負うには、相当以上の無理がある刃物です。
 最後の抵抗も虚しいままに終わり、何だか戦闘前だというのに、気勢を目一杯削がれた感があります。それでも、やれやれ、といったため息一つでそれを黙殺する辺り、やはり、いつもの白髪の剣士とは一線を画しているようでした。
「……乗り心地は、保障しない」
 そうして駆け出すや否や、その台詞が謙遜でも憎まれ口でも無く、単なる事実そのものだとわかりました。走る姿勢がよほど安定しているのか、振動はそれほど無いのですけれど、驚いたことに、目を細めなければ痛いほどに強く風が当たるのです。それも、決して向かい風というわけでも無しに。
 子供にとっては、大人の高さから風景を見やるというだけでも随分と新鮮なものですけれど、この場合はそれ以上に衝撃的でした。
 ありていにいって、馬車と比べて遜色ない速度なのです。
 間違っても、武器防具を纏った二つ足のイキモノが辿り着いて良い領域では無いように思われました。
「どう贔屓目に見ても全力疾走に思えるのですが、大丈夫なのですか?」
「お荷物は黙っていろ」
 にべもありません。
 まあ、自前の体力を消耗する分を差し引いても、薬が効いている間は、駆け足程度の疲労で済むことでしょう。それならば、放っておいてもさして問題ありません。
 そう結論付け、少女はそのまま大人しくしているつもりだったのですが、意外なことに、ほどなくして白髪の剣士の方から声が掛かりました。
「……結局、この薬、いったい何なのだ?」
「改良した強走薬ですが……詳細、気になります?」
「ああ。自分の口に入ったものだからな。副作用などがあっては堪らん」
 当然の言い分でした。
 そして要するに、『ガーベラとの戦闘に差し支える可能性はあるのか』ということなのでしょう。
 少女は、どこから説明したものでしょうか、と少し思案した後、話し出しました。
「拮抗作用、というものがありましてね」
「ほう?」
「ゲリョスの毒とイーオスの毒を同時に注入すると、互いの毒の効果が拮抗しあって、各々を用いるよりも毒の効果が現れるのが遅くなるわけです。つまりその原理を利用して――」
「……もういい。何となくわかった」
 つまるところ、最後に『でも安全ですよ』と添えられても、決して信用出来なさそうなことがわかった、ということです。体が痺れる程度は覚悟しておこうと、白髪の剣士は何かを達観したのでした。

 その後はさしたる問題も会話も無く、夢が吹き飛びそうな速度の『お姫様抱っこ疾走』が続けられました。

 通常3分から5分ほどで効果が切れるはずの強走薬は、何と3時間ほどもその効果を持続したのでした。移動距離に直すと、何と通常の行程の3倍近くも進んだ計算になるわけでして、まさしく正しく驚異的、というより他に無いでしょう。
 こうなってはさすがに白髪の剣士も、その有用性を認めざるをえなかったようで、
「……残りの道程を走破する分も、あるのか?」
 と、薬が切れるや自ら問いかけたくらいでした。
「もちろんです。ただ、休憩は挟みましょう」
「無用だ。この程度で響くような鍛え方はしていない」
「体力的にはそうでも、走った分の発汗は? 水分と塩分、しっかり補給しませんと血液の流れが滞ってしまいます。そこで続けてハントなんかしたら、脱水で心臓の方が止まってしまいますよ」
「…………」
 無言でどっかりと腰を下ろし、水筒と塩の錠剤を取り出したところを見ると、それが正しい意見であると渋々認めた、ということなのでしょう。
 少女は苦笑しながら、続けました。
「それに、私もあんまり黙って抱えられていると、足腰が萎えてしまいますからね。
 その間軽く運動をしておくくらいで、ちょうど良いでしょう」
 そうしてえっちらおっちらと体操を始めた少女を、白髪の剣士は、努めて視界に収めない様にしているようでした。しかし、それはほどなく、全くの勘違いなのだということがわかったのです。
 彼は、どこを向いていようと関係無しに、何一つとして、その瞳に映してなどいないのでした。
 己の内にある、他の誰とも共有できないであろう激情だけを真っ向から見据えて、全身を駆け巡るどす黒い力へと換えていっているのでしょう。休憩の最中であるにも関わらず、その佇まいから静けさに類する要素はまるで感じられません。むしろ、みしりみしりと音がしそうなほどに、狂おしい気配ばかりが伝わってきます。
 多分、殺しているのでしょう。
 その心の中で。何度も何度でも刃を突き立てて。飽きることも無しに。
 そして、殺されているのでしょう。
 その想い出の中で。何度も何度でも守り切れずに。忘れることも出来ずに。
 きっと。
 きっと、自分が本当は何を殺し続けているのかなんて、気づきもしないままに。
「――あの程度の戯れ合いでは、やっぱり焼け石に水でしたか」
 少女は誰にも聞こえないくらいに嘯くと、白髪の剣士の様子を真っ向から無視しながら、明るい掛け声などを交えて体操を続けました。ただ、その軽やかな挙動と良く通る声音とは裏腹に、黒目勝ちな瞳だけが、今にも爆ぜそうなほど、鋭い光を放っているのです。
 それは、何とも、歪な光景でした。
 休憩をしているはずなのに、どこまでも剣呑な雰囲気を醸し出す白髪の剣士。
 元気良く快活に運動しているようで、何か思索を巡らせている少女。
 互いに思うところがありながら目を合わせることもなく、それでいて結局のところ同行せざるを得ない、この両者。
 こうした『不揃い』という意味においてのアンバランスさは、むしろ日常とさえ言えます。
 なのに。
 その、心根が。
 互いが互いを支えあっているという、当たり前の想いが。
 完全に『すれ違っている』という意味でのアンバランスさは、これまでの彼と彼女との間には、決して無かったことでした。いいえ、在り得なかった、と言っても良いでしょう。
 なのに、それが起こっているという、現実。
 それが指し示す暗澹とした予感とは裏腹に、頭のてっぺんに差し掛かった太陽は、どこまでも陽気に謳っているようでした。
 そんな、奇妙な15分間。
 それが長かったのか短かったのかはともかく、小休止としてはある程度相応しい時間であった、と言えるでしょう。これまですでに二つの峠を走破してきた白髪の剣士は、その影響など微塵も見せず、引き続き呆れんばかりの健脚を披露したのでした。
 その凄まじさを評して、少女はこう呟いたものです。
「剣客と健脚って、やっぱり共通するものがあるのでしょうかねえ」
「……………………」
 答える気が無かったのか答えようが無かったのか、何とも微妙な意味合いの沈黙でした。
 そうしてさらに駆けること約4時間。
 途中、昼食とその食休みを入れたことを除けばほとんど走りっぱなしという、何だか一歩引いてしまうレベルのタフネスぶりを遺憾なく発揮した剣客の健脚によって、当初少女が提示した『おやつの時間までに』よりも丸々1時間も早く、二人は最初の目的地である、ベースキャンプにたどり着いたのでした。
「とはいえ、薬は結局三回分かかりましたね。
 試作品なので持続時間にムラが出るのは仕方ないにしても、結構な出費です」
「……」
 家庭的な残酷さの垣間見える感想でした。
 さておき。
 そこは三つあったベースキャンプのうち、もっとも街道に近いものなのでした。
 そのせいか、周囲に決して少なくない木々が茂っているにも関わらず、キャンプの立っている場所周辺だけは見事なまでに均されているのです。これは、街道近くという機材運搬にとってのプラス材料に加え、周辺の安全がそれなりに確保されていて余裕があった、という証拠とも言えるでしょう。こうした縁の下の努力によるありがたさは疑いようがありませんが、少女は、何故か意外の念で首を傾げておりました。
 というのも、白髪の剣士が『安全な』位置のベースキャンプを、つまりガーベラから遠くなるであろう場所を目指す算段は、あまり高く無いだろうと予想していたためです。極端な話、ベースキャンプを経由せず、そのままガーベラを探して突っ込んでいくのでは、とさえ疑っておりました。
 けれど、もちろんそんな失礼な予想をしていたことなどはおくびにも出さず、
「どうしてここなのですか?」
 とだけ少女が尋ねると、
「森と奴は相性が悪い」
 と、なんだか必要以上に不機嫌そうに返ってきたのです。
 これもまた、少女にとっては意外でした。不機嫌さが、では無く、非常に理に適った冷静な判断だったからです。
 通常、砂漠を生息地としている角竜は、森林での行動を嫌います。それは、獲物を狩るにも縄張りを争うにも『突進』で、より極端に言うならその存在意義たる『角』で決着をつけるという、角竜独特の生態に関わってきているのです。
 即ち木々は純粋な障害物、突進の邪魔者に他ならない、ゆえに単純に嫌う、というわけでした。人の感覚に直すと、草がまとわりついて歩きにくい、というような種類の不快感なのかもしれません。これは『地中を飛ぶ』という、突進に並ぶ角竜の生態事情にとっても同様で、複雑に木々が根を張った地中はひたすらに飛びにくいそうです。
 いくら規格外の刀角を備えているガーベラにしても、この点は無視出来ないと考えるのが妥当でしょう。
 つまり、そうした事情を踏まえてこのベースキャンプを選んだ、ということ。それは同時に、ハントを行うときはまず安全の確保されたベースキャンプを拠点とし、それから徐々に探索範囲を広げていくという、教科書じみた基本事項をきっちり守っていることをも意味するわけです。これで少なくとも、怒りに任せて無謀な突撃をかけようとしているのではない、ということが証明されたようでした。
 少女の顔に微かながら安堵の色が灯ったのも、そうした背景を瞬時に飲み込んでのことと言えるでしょう。
 とはいえ、白髪の剣士の調子は相変わらずでした。
 ベースキャンプに備えられた支給品の確認を済ますや、休憩も取らずにガーベラの探索に乗り出していったのです。もちろん、少女へ『行くぞ』の一言を向けることさえ無しに。
 まだ先の強走剤がいくらか効いているはずですから、体力的な余裕があるのは確かなのでしょうけれど、それにしたってあんまりな態度でした。
 ここに至って、やはり、と認識を深めざるを得ないのでしょう。
 彼には、すでに、ガーベラ以外のナニモノも見えてはいないということを。

「恋に恋する麗しの君……か。どう考えても配役が逆でしょうに」

 その呟きは、当然、先に出ていた白髪の剣士の耳には届きませんでした。
 ゆえに、少女が果たそうとしている役割がいったい何なのかなんて、この時点では気づくはずもなかったのです。
 さて。
 当たり前のように少女が後を追ってきても、白髪の剣士は特に何も言いませんでした。言っても無駄だと思っているのかもしれませんし、問題にさえしていないのかもしれませんし、探索活動は人数に比例して効率が上がることを踏まえているのかもしれませんし、そのどれでも無いのかもしれません。少女の目に映るのはただ、標的の姿を求めて草木を掻き分けていく、大きな背中だけでした。
「ここら辺に痕跡がある可能性は低いでしょうけれど……それにしたって、素通りですか?」
「零は零でしかない。そして無駄を重ねる趣味も無い」
「根拠は?」
「あいつは『捕食』では無く『殺し』を行う。獣として見ても、充分狂っているのさ。
 ――当然、痕跡は『残る』のではなく『見せつける』の類だ。
 その場を通ったものが、絶対に見逃しようの無い形で、奴は見せつけるだろう。少なくとも、ハンノキを生きて帰らせた以上、次に来る獲物を見越していないはずがないのだから。
 ならば、見落としの可能性がある場所は、あえて外してくるだろう。つまりここが視界の悪い森林である時点で、あいつは居ないし痕跡も無い。だから進む。以上だ」
「…………」
 淡々と、暗澹と、白髪の剣士は告げました。
 けれどどこか雄弁なふうに見えるのは、ガーベラに関する事柄だったからという、それだけの理由なのでしょう。
 少女の口から重たい吐息が漏れる中、それでも一行はずんずんさくさくと、森林地帯を踏み抜くような勢いで歩み進んだのでした。
 そうして、草木に遮られての歩きにくさから、まばらな石による歩きにくさに変わった頃、ようやく本格的な痕跡の探索が始まったのでした。
 一口に痕跡、といっても、その種類は多岐に渡ります。大まかに分けても、三つです。
 曰く。
 捕食の跡、移動の跡、排泄の跡。
 飛竜がいかに生態系の最上位に君臨しようと、イキモノとしての基本的な性質――つまるところは生理的な諸問題――に、変わりはありません。お腹が空けば食べますし、食べればもよおしますし、やがて疲れれば眠るのです。
 つまり。
 飛竜が主に行き来するのは巣と狩場(あるいは水場)であり、その二点を結ぶ道筋において、獲物を倒し食した痕跡、あるいはその結果当然起こる排泄の痕跡が残っている、ということを指します。あまり飛ぶことをしない飛竜の場合は、足跡などを辿ることも出来るでしょう。
 もちろん実際は、飛竜ごとの習性や個体ごと地形ごとの事情によって、いくらでも痕跡の探し方は様変わりします。ガーベラの場合、先に白髪の剣士が述べた『殺しの痕跡』などが、まさにこれに当たるでしょう。こうした諸々の情報をすりあわせて統合した結果、『その場に存在する算段の高い痕跡』を絞りこんでいき、基本的な指針を固めていくのでした。
 とはいえ。
 飛竜の行動範囲は、当然ながら、人間のそれを大きく上回ります。大空の王リオレウスのように積極的に飛び回る相手でない分マシと言えますが、今回はギルドからの情報が少ない分、まるで慰めにはならないようでした。
「……ユウ」
「何かわかったか?」
「……ええ、あちらには、何も無いということがわかりました」
「こっちもだ」
 心温まる会話でした。
 そうして、神経と体力を根こそぎ奪っていく地味な作業が、何とも地道に続けられ。
 どうにか結果に結びついたのは、1時間と少々が経過してからのことでした。
 その頃、岩陰の窪地でケルピ種の骨を見つけた少女は、そこに残された歯形から捕食したモノの特定を試みておりました。けれど残念ながら、歯型は小さく、こそぎ取るような細かい傷を残している点からも、とても飛竜のものとは思えません。どうやらランポス種によるモノのようです。
「……また外れ、ですか」
 ケルピの死骸に軽く手を合わせてからその場を去ろうとして。
 キキェー、と甲高い悲鳴のような声が、その耳を打ちました。
「どうやら……この死骸の生産者、ですかね」
 背に負った禍々しいシルエットの篭手に伸びかけた腕を下げて、少女はゆるりと歩き始めました。今の声は文字通りの悲鳴――つまり、誰がどうした結果なのかは、考えるまでも無いことなのです。
「ゲネポスあたりですかー? ユーウー?」
 やっほー、と山に向かって叫ぶときのような格好で、少女は声を飛ばしました。
 それを聞きつけて、というわけでは無いのでしょうけれど、離れた岩場から這い出てくる姿が見て取れました。図抜けた長身は、こうしたときの目印としては便利です。
 でも、目印本体が、少女とは真逆の方向にたったかたったかと進み出したとあっては、話が別でしょう。慌てるほどではありませんが、徒歩で楽に追いつけるわけでもありませんから、仕方なく駆け足でとことこと後を追いました。
「一人であまり遠くに行かないで下さい。迷子センターは無いのですからね?」
「…………」
 大きな背中はむしろ加速して進んでいきます。
 ぶっちぎりで無視されたようでした。
 冗談自体がまずかったのかしら、とベクトルの違う反省をしつつ、追いつきざまにその服の袖を掴もうとして。
 その手が、びく、と止まりました。
 まるで戦場に似つかわしくない、何だか甘い匂いが、白髪の剣士から漂って来たせいです。
 すわ浮気か、なんて思えるほどの気の緩みを、少女は己に許してはおりませんでした。甘さに混じった胃袋を転覆させるような腐臭を、ハンターとしての経験は敏感に嗅ぎ取っていたのです。
「……何が、あったのですか」
「ガーベラの痕跡だ。これ以上無く、確実な」
 その声色が、まるで遠く離れた恋人との再会の場所へ向かうかのように、殊更喜びを押し隠しているように聞こえたのは、気のせいでしょうか。
「四肢のうち二つが無かった。あれはガーベラの手口だ。
 恐らく装備からして、ハンノキと共に戦ったものでは無いな。最大限努力したとかいう、ギルドの諜報員の一人だろう。どうやら這ってでもガーベラの情報を伝えようとしたらしい。未だ風化しきらない血の跡が、いくらか残っていたよ。だからこうしておおよその方角を追える――ありがたいことだ」
「……他には?」
「ああ。腐敗が始まってから一週間というところだった。生きたまま腐っていたのか死んでから腐ったのかはわからん。ただ、ゲネポスどもが群がる程度には、新鮮だったらしいから――」
「他に抱くべき感想は無いのかと聞いているのです!」
「手向けはガーベラを殺すことだ。違うか?」
「…………」
 少女は無言で、背に負った凶悪な篭手に手を伸ばしかけて――すんでのところで踏みとどまります。大人の対応でした。
 無論少女にも、わかっては、いるのです。
 ハントの途中で、見知らぬ人の亡骸を手厚く葬ってやるような余裕は、無いということくらい。
 ただ、以前、見知らぬ人の通りすがりの死に花を手向けたときのこの白髪の剣士の姿を知っているだけに、その埋めがたいギャップを敏感に感じ取っているようでした。はたして、問題にされているのは自分自身のことなのだと、この朴念仁は気づいているのでしょうか?
「違わないのなら、さっさと行くぞ」
 …………。
 補修決定、といったところでしょうか。
 何だか必要以上に憎らしかったので、
「てい」
「あた」
 思いっきり向こう脛を蹴ってやりました。
 子供らしく微笑ましい対応のはずですが、何故か物凄い目で睨まれます。でも今度は、こちらがさらりと無視してやる番なのでした。
 そうして仲睦まじく進んでいくうちに、足元から石ころの割合が減り、代わりに明らかに栄養の足りなさそうな、土色さえしていない土が増えてきました。昔はここも森だったのかしら、とか考えると少し物悲しい気分になりますけれど、歩きやすさの面で言えば、これは明らかにプラス材料です。なので一行は快調に歩を進めて行きました。
 視界が開けたのは、ほどなくしてのこと。
 辺りは良く言えば見晴らしがよく、悪く言えば雑風景、となるのでしょう。砂色に痩せ乾いた大地はところどころ亀裂が走っているような有様で、今にも根っこごと飛ばされそうな草が寒々しく点在しています。他にはせいぜい石か岩が名残惜しげに右往左往しているくらいですから、自然、生命の匂いは薄いのでした。
 つまるところ、砂漠の一歩手前、といったところでしょうか。
「……大型生物の生存に適しているとも思えませんが」
「そもそも砂漠をねぐらにするようなイキモノだよ、あいつは。
 それに近くに水場があれば別だ。そこに草食動物が集まり、さらにそれを狙う肉食動物が集まり、その全てを狙う飛竜が現れる。それを重点的に探していけば――」
 言葉の最後を打ち消して。
 がぼふぁ、と。
 いきなり目の前で。
 小麦粉の袋をひっくり返したのを百倍強くしたような音がして。

 そこに――出ました。

 春の霧雨よりも唐突に。
 夏の夕立よりも気まぐれに。
 秋の時雨程度の遠慮さえなく。
 冬の稲妻じみた存在感だけを携えて。
 まるっきり、脈絡という言葉に恨みでもあるかのような。
 こんなにも中途半端で、ゆえに、誰しもが予想もしなかったようなタイミングで。
 来たのです。
 それはあたかも。
 探索に勤しみ費やした時間と労力を、真っ向から嘲笑うように。
 この邂逅までに歩んできた道程、その全てをせせら哂うかのように。
 その赤銅を湛えた体を晒し。
 その絶望を従えた翼を広げ。
 その破壊を謳った尾を振り翳し。
 その過去を綴った傷跡を見せつけ。
 その悪夢を具現した真紅の刀角を抜き払い。


「グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 神楽の怨敵たる真紅の悪魔が。
 菊一文字モノブロス・ガーベラと呼ばれし怪物が。  待ち伏せるでも不意を突くでもなく。
 威風堂々と大地を裂いて。
 真正面から、現れたのでした。
 突然の襲来であっても、あたふたと動揺している暇などありません。目を離さず……けれど油断なく周囲の様子を探る少女は、正しく戦慄しました。
 そこに何か、謀略の痕跡を見つけたから――ではなく、むしろ、その逆なのです。

「地形的にも、せいぜい邪魔なものが少ないっていう程度で……この場所でなければならない要素なんて、一つも見当たらない。他の獣の気配が無いのも、そもそもガーベラを見れば並の獣なんてこぞって逃げ出すはずなのだから、どこだって同じはず。
 ならば、何故? 何故、自分の有利な場所に誘導しようとはしなかったの?
 これだけ完全に獲物の到来を予測して。これだけ完璧に気取られず接近を果たして。にも関わらず、そこから得るものが何も無いように、こんなにもあっさり、その姿を見せるなんて。
 …………ま、さか。
 ありえない……なのに、なのにまさか! それ自体が目的だというの、、、、、、、、、、、、!?
 おまえたちの予想を超えその上で手加減してやったぞ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、とでも、見せ付けるために。
 たったそれだけの意味で……たかがそれだけの理由で。
 そんな、ニンゲンだから味わう敗北感を、獣ではありえない無駄なことを……!」

 なるほど、と。
 少女は背中を流れる冷たい汗と共に、りました。
 亜種の中の亜種。
 異形の中の異形。
 あの怪物を、そう言わしめる由縁は、その真紅の刀角などではなく。
 獣から逸脱せんばかりの、その狂った脳髄だ、ということを。
「噂に違わぬ、ということですね。ユウ」
「…………」
「ユウ?」
 ガーベラから目を離すわけにはいかない以上、自然、隣の白髪の剣士を視界の中心に納めることなど出来ません。なので、相手から返事が無いことを訝しく思えば、自分で首を横に向けるしかないという当たり前すぎるくらい当たり前の事情があるのでした。
 ただ。
 見知ったはずの横顔に少女が戦慄を覚えるなんていう事情は、まるで当たり前では――当たり前であるはずが、なかったのです。

「がぁ……べらぁ……」

 言葉を覚えたての幼児が保護者を呼ぶような、ひどく拙い発音。
 口をだらしなく開けたままのぽかんとした表情も、発音に相応のものでした。
 そんなまるっきり呆けた調子のままで、ゆらゆらよたよたと、あろうことかガーベラへ向かって無防備に進み始めたものですから、少女は気が気ではありません。
「ちょっと、ユ――」
 しゃぅ、と口笛の鳴り損ないみたいな音が走って。
「――ウ?」
 少女の前髪が十と三本、重力に引かれるまま風に吹かれるまま、舞いました。
「次、邪魔に来たら、殺すぞ」
 まるで振り返りもせずに、疎ましげに告げる男の手には、いつの間にか抜き身の刀がありました。ことの成り行きに、理解はともかく感情が追いついていない少女に向かって、
「ふむ、片目で済んで良かったな――と告げるつもりが、良かったのは、運の方だったか」
 やはり振り返りもせずに呟かれた言葉には、枯葉一つの重みさえなく、それゆえに『どうなったところで知ったことか』という、突き放した殺意を感じさせるものでした。
 この調子のまま、『ああ、殺してしまったか』と呟かれる光景を想像して――そこにあまりにも違和感が無いという意味での『圧倒的な違和感』に、少女は吐き気さえ覚えました。
 それでも込み上げるさまざまなものを必死に押し止め、何とか白髪の剣士の背中に、せめて一言、届けようとしたのですけれど。
「――――っ」
 ダメ、でした。
 その背中は、『優しいユウ』という、その名さえも拒絶しているように見えたからです。
 だから彼は、ただ、進み。
 ガーベラも、それを待っていたようでした。
 ――否、待ち望んでいたに、間違いありません。
 やがて、適当な距離だけを残して、足は止まり。
 一つ目と二つ目の視線が、それでも真っ向から絡み合い。

 あの悪夢の出来事から、六年越しの再会が、今ここに、為されたのでした。

 そして、そのまま。
 そのままが、そのままに、続いていき。
 たっぷり、3分も、経った頃でしょうか。
 その間、両者の心が何を歌っていたのかは、知る由もありませんけれど。
 ともかく、決して均衡ではないであろう静寂を破ったのは、白髪の剣士の言葉でした。

「やっと、見つけた。遭えたんだな……嘘でも幻でもなく、おまえに。
 待っていた、待っていたんだよ。夢見ていたさ、この瞬間を。現実のように、呪いながら」

 皮肉なことにそれは、まるで遠く離れた恋人と再会したかのような、表情と言葉でした。
 かつてそれを奪った――否、それ以上にたくさんのものを奪った、怨敵との、再会。
 
 ――あの日白い花に誓った想いが、痛みを伴って再生されるのも、一瞬のこと。

 その顔に大輪の菊を咲かせた真紅の獣に。
 その心に復讐の刃を鞘走らせた白髪の剣士が。
 吼えました。

「そして呪うように祈っていたさ。間違っても、オレ以外の誰かにおまえが殺されないようにと。
 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと。
 ――この太刀でおまえを斬り捨てるその日だけを、ずっと、待っていた!
 ガーベラ……ガーベラ、ガーベラ、ガーベラぁ!
 オレは! 今! 血が凍るほどに嬉しいぞ! ガァァァァベラァァァアアアアっ!
 おまえの姿が見える! 悪夢と嫌悪で塗り固められた忌々しい刀角が!
 聞こえるぞその息づかい! 一厘たりとも存在を許したくない雑音が! 仄暗い鼓動が!
 ああ――ガーベラ、ガーベラっ! 是非ともおまえに願いたい!
 簡単に死ぬな単純に死ぬな純粋に死ぬな!
 おまえが奪った命と釣り合うだけの苦しみと絶望をその魂魄に刻むまで!
 そして! オレが! 死んでも良いと言うまでは! 勝手に死ぬんじゃないぞぉ!」

 狂気と狂喜と凶器とを携えて。
 白髪の剣士は八双に構え、駆け出しました。
 あらゆる意味で少女を置き去りにした、そのままで。


                             ◇


 この渦を巻くような傷の痛み――忘れようも無い。
 この夜を裂くような心の渇き――違えようも無い。

 ――神楽。

 その真紅に漂う殺気が伝う。
 その真紅を湛えた狂気が匂う。
 その真紅に宿る鼓動が聞こえる。
 その真紅を納めた肉塊が見える。
 その真紅に流れる辛苦の味がする。

 まさに――神楽。
 
 この傷痕、癒し得るはその屍山のみ
 この心根、潤し得るはその血河のみ。
 幾百幾千幾万幾億、屠れど滅せど満つべくもなかったその全てを。
 湛えよ称えよ讃えよたたえよタタエよ、汝、神楽の真紅を以て!

 ――獣の拍動に黒煙が走る。猛々しい欲が翼を広げて蠢き出す。

 さあて、どうしたものか。
 刀角で突く――当然だ。
 尾で薙ぎ払う――悪くない。
 真っ二つに裂く――基本である。
 体当たりで潰す――必然の帰却か。
 謀り無念に沈ませる――そうでなくては嘘だろう。

 素晴らしい。
 思うだけで廻らせるだけでさえ、甘美たることこの上無い。
 よいだろう。
 では、その全てだ。

 この頭蓋に浮かぶ全てで以て、神楽の真紅を殺しあじわい尽くす。

 それが獣の――サガであろうよ!


                             ◇


 最初の交錯を制したのは、白髪の剣士でした。
 すれ違い様の一撃は、浅いながら確実にガーベラの胴を払い、火の粉のような鮮血をまばらに散らせたのです。
 決して痛手と呼べるモノでは無いにせよ、ガーベラにとって己の突進をあっさりいなされたことは無視できない事実だったのでしょう。次の動きが、僅かに遅れたようでした。
 そしてそれを見逃す道理など、白髪の剣士にあるはずも無いのです。
「くくくくくくくく……あーっははははははっはぁ!」
 笑みと呼ぶにはあまりにも歪みすぎた表情を貼り付けたままで。
 まだ突進後の方向転換さえ終わっていないガーベラに迫る、その姿。
(速い……!)
 いつも彼を見てきた少女にさえ、そうと感じさせる圧倒的な速度でした。
 勢いそのままに踏み込んで一閃。
 さらに返す刃でもう一閃。
 半瞬後。
 二筋の傷からは、同時に真紅が噴き上がりました。
「グゥ……オ!」
 二、三歩とガーベラが退いたところで、白髪の剣士はさらに追撃を試みました。
 けれどそれは、ガーベラの誘いだったのです。
 交差法気味にガーベラが振るったのは、無論その真紅の刀角。
 接近せんとする勢いがついている分、白髪の剣士の回避が僅かに遅れました。
「ユウ……!」
 少女が叫んだその先で。
 最初の交錯と、真逆の光景が展開されておりました。
 けれど。
 己の脇腹をやんわりと染め上げる真紅を手に掬い取りながら。
 白髪の剣士は、微かに、けれど確かに。
 哂って、おりました。
「こうでなくては……こうでなければ、嘘というものだな! ガーベラ!
 貴様が取るに足らん存在であれば……殺してでさえもこの気は晴れんさ。
 くくくくくくく……はーっはっはっはっは! いいぞ、いいぞいいぞいいぞいいぞ!
 それでこそ――オレに殺されるべきおまえであるというものだっ!」
 血濡れの手で斬破刀を握り直し。
 ヒトの形をした獣が、再び、駆けていきました。
 それを迎え撃つのもまた、真紅の獣。
 獣が、二匹。
 たちまち、不毛の大地でさえ首を竦めるような、乱戦となりました。
 それはすでに、ハント、というよりは果し合いの趣なのかもしれません。
 どちらも間合いを計ることも息を入れる間を取ることも無く、ひたすら相手の急所と隙との重なる場所だけを求め、時に踏み込み時にいなし、けれど退くことだけは決してせず、その刀を振るい続けているのです。
 響きあう剣戟と、巻き起こる土煙と、轟き響く唸り声。
 これ以上なく殺伐とした三重奏に華を添えるように、時折、真紅が宙に咲いては散っていきます。 そのほとんどは、ガーベラから流れ出したものでした。
「ああ、無様無様無様無様無様無様無様無様無様無様っ!」
 刀角の一撃を受け流し、返した刀がまた一輪真紅を咲かせました。
「グォアアアア!」
 痛みではなく怒りを誇示した叫びと共に、刀角が翻されました。けれど狙いをつけたその空間には、もう、白髪の剣士はおりません。
 彼は、翳すために振りかぶられた刀角の、その目の前まで踏み込んでいたのでした。
「弱いぞ!」
 いかな強力な武器であっても、何の予備動作も無しに威力を発揮するわけではありません。充分な勢い――速度が伴ってこそ、そこに破壊力が生まれるのです。
 ゆえに。
 振り下ろされる直前の刀角に、疾風の速度で打ち込まれた斬破刀の一撃を止められる理由は、ありませんでした。あろうことか、ガーベラの巨体が僅かに仰け反りさえしたのです。
「脆いぞ!」
 一瞬で、三閃。
 荒々しく書いた『4』のような形の傷がガーベラの頚部に刻まれ、相応の真紅と呪いの唸りが、ガーベラから噴き出しました。そして、たまらず、といった風情で、二、三歩と退いたのです。
「格好悪いぞっ!」
 すでにその髪の端々をまだらに紅く染め始めた剣士は、斬破刀についた血糊を払うことさえせず、さらなる追撃を開始したのでした。


「……」
 そうした二匹の戦闘を、そろそろ帰り支度を済ませつつある太陽を見送るような風情で、少女は見つめておりました。当たり前のことが当たり前に起こっているのだからしかたないと、けれどやはり、名残惜しさのような感傷を抱かずにはいられないと、憂いを含んだ表情は物語っているようです。
 その意味するところは。
 禍々しいシルエットの鉤爪じみた篭手を左手に纏う仕草から、容易に知れました。

「――負ける。『優しいユウ』が戻ってこない限りは」

 砂のさざめく音にかき消されるほどの、小さな小さな呟きの先で。
 赤銅色の体を己の真紅でいっそう染め上げているガーベラが、そんな影響を微塵も感じさせない様子で、畳み掛け始めておりました。
 一方の白髪の剣士は、その攻撃を上手く避けながら、決して少なくない頻度での反撃を行っているのですが、どうもその効果は芳しくないようでした。何しろ、ガーベラは多少の傷で怯まないどころか、相撃ちさえ辞さない勢いで刀角を振るってくるのです。
 体格の差が歴然としている以上、相撃ちならばどちらに被害が大きいのかもまた、明白と言えるでしょうし、以前に戦ったときの記憶もその危険性を裏付けています。
 自然、そうした隙を生まないように細心の注意を払う白髪の剣士でしたが、どうしたことでしょう、勢いに押されているのか、だんだんとその動きから精彩が失われてきているようでした。
 気づけば、防戦一方の時間が、じりじりと増えてきています。
「くそ……どうした斬破刀! 力負けしているぞ!」
 その言葉の半分は正解で、もう半分外れておりました。
 確かにこの戦闘における斬破刀は、何故かその切れ味も、刀身に帯びた雷の力も、いつもよりも大きく劣っているのです。これは、全身に決して少なくない傷を負ったガーベラが、まるで平気なふうで活動していることからもわかります。傷が、どれもこれも浅いのです。
 けれどこの戦闘に挑む直前の時点で、斬破刀の刀身は完璧以上に磨き上げられていたはずなのです。そう易々と切れ味が鈍るとは、考えにくいお話でした。
 ――では、いったい、その原因はどこにあるのか。
 そう考えを巡らせる間もなく、ガーベラの攻撃はさらに熾烈を極めてくるのでした。
「袈裟斬りの刀角……これを流して、前へ!」
 焦りを感じながらも、やはり、剣士としての嗅覚は健在でした。刀角の動きに逆らわない形で受け流し、そこに一瞬の隙を見出そうとしたのです。
 けれど。
「な……こ、この重さは!?」
 グァキン、と甲高い音がして、刀ごと体が吹き飛ばされました。
 それ自体は別段、ダメージを被るようなことではありませんでしたけれど、完全に流しきったはずの一撃に大きく弾かれた、という事実は、大きな棘となって心に突き刺さったようでした。
「奴の力が増している……?」
 ドクン。
 一瞬心に芽生えた感情に呼応するように、今の攻防で受けた腕の痺れが、ことさら明瞭に感じられてきます。
 ――いいえ、そればかりではありません。
 足も胴体もその他体のどこもかしこも、鉛を押し込められたような感触と共に、切実に酸素の供給を訴えてきているのでした。
「……いや、鈍っているのはオレの方だと? そんな、馬鹿な……!」
 首を左右に大きく振り、ガーベラを睨み据えます。が、その表情を読み取るよりも速く、ガーベラの頭部が――すなわちその先にある真紅の刀角が、大きく振り下ろされました。
(受け切れんか……!)
 そう判断し、横跳びに避わした刹那。
 ガーベラの胴体が、眼前の光景全てを覆いました。
「な……!?」
 とっさに刀で防御を試みるも、何しろ人と飛竜、体格差は歴然です。
 体当たりを受けた直後に、二つ。
 勢いそのままに地面に叩きつけられて、もう一つ。
 白髪の剣士の脇腹から、鈍い音が響きました。
「最初に傷を与えた部位をあえてぶつけてくる……倍返しを気取ったとでも言うのか!」
 こぽ、と口から漏れた小さな血塊を押し戻すように、回復薬を流し込みます。これで肋骨がきゅきゅっとくっつくわけではありませんが、かといって、そのまま放っておいて戦えるような傷でもありません。早い話が気休めですが、幾らかはマシと割り切るしか無いのです。
 こんな怪我など問題にならないほど、事態は切迫してきているのですから。
「それに……くそ、体当たりだと? これまで、刀角以外の攻撃など……」
 そこで、ふと。
 胸を突かれたような息苦しさと共に。
 忘れようのない悪夢と、目の前の敵との、決定的な差異が浮かび上がってきたのでした。

「違う……まるで違う! 奴は、刀角さえ満足に使ってはいない、、、、、、、、、、、、、、!」

 そう。
 記憶の中のガーベラは、ただ刀角を振り翳したり突進に用いたりするだけの、単調な攻撃ばかり仕掛けてきたわけではなかったはずです。
 少なくとも、他に三つ。
 地中から角だけを出して撫で斬りにする。
 全身を地中に隠した後、強襲攻撃を試みる。
 自らの真紅を刀角によって飛ばし、遠距離から斬る。
 これらを、状況によって使い分けていたはずなのです。
 なのに、それさえ用いず、ここまで戦っていたという事実。
 そこに、偶然や無意味が入り込む余地があるとは、到底思えません。
 相手は、その刀角以上に凶悪な謀略で以って、神楽の村を半壊させた。
 あの、真紅の悪魔、なのです。
「なんだ……いったい奴に、何を謀られた!?」
 傷つき疲弊した体と、迷いが生じ揺れる心と。
 その両方にとどめを刺すかのように。
 体当たりで吹き飛ばした間合いを、存分に活かした。
 悪夢そのもののような真紅の突進が、放たれたのでした。
「く……っそおお!」
 必死で直撃を避け。
 無様に転げまわるのが、精一杯でした。
 そして。
 次の攻撃が来る――そう思い、砂にまみれたまま立ち上がったところで。
 地面を前肢で掻きながら、こちらの体勢が整うのを待つガーベラを目の当たりにし。
 そこで、全てを、悟りました。

「一気に殺す気じゃない……だと? 遊んで……遊ばれて、いる?
 この状況を、奴が意図的に作ったとしたなら……どういうことだ?
 まさかオレの攻撃を……わざと、受けていた、の、か?」

 思うと同時に、今あるあらゆる事態の説明が、一点に集約されていくのがわかりました。
 この得体の知れない疲労感も、当たり前のことだったのです。いつもよりも遥かに素早く動いていたということ――それは当然、いつも以上の負担をも意味するのですから。優勢だと調子にのり、間髪入れず攻め立てたのも、疲労に拍車をかけたに違いありません。
 これは、『果し合い』としては正しい姿勢と言えるでしょう。人同士が刀と刀で立ち会うのであれば、実際は初太刀でほとんど決着がつきます。ゆえに、最初から全力全開、それ以外の選択肢はありえないのです。
 けれど、ハントは、言うなれば長距離走なのでした。
 どれほど屈強なハンターであっても、まともに飛竜の一撃を受けて生きていられる保障はありません。だから、足が止まる、ということはほとんど死亡かリタイヤと同義と言えるでしょう。だから体力の配分、というものには細心の注意が払われますし、当然携帯食料や強走薬といった形の備えも為されます。これは戦闘を終えても同じことです。剥ぎ取りを行って街へ帰るまで、その安全を保障してくれるモノは、己と仲間の実力以外何一つ無いのですから。
 現実問題、ハントからの帰り際に他のモンスターに襲われることだって珍しく無いことですので、『常に万事に備える』ことが、ハンターという職業の常識とさえ言えるでしょう。
 そんな、基本中の基本を忘れ――ハントそのものから、逸脱していた、ということ。
 あまりにも、それは致命的な過ちでしたけれど。
 残念なことに。
 あるいは残酷なことに。
 彼の間違いは、それだけでは、なかったのでした。

「そうか……斬破刀も、まるで鈍ってなどいなかったのだ。
ただ、刀術の基本さえ――切断のあるべき姿さえ忘れるほど、オレは……!」

 そう、刀が剣と違うのは、その破壊の様が、切断一点に絞られるということです。
 つまり、使い手にも相応の使い方が求められる、ということになります。
 自然。
 怒りや憎しみでただ暴力的に刀を振るってしまったならば。
 その威力は、本来の半分も発揮されないことでしょう。
 彼にとっては、それこそが何よりの悪夢でした。
 神楽の弔い合戦であったのに。
 誰よりも、神楽を蔑ろにしてしまった、ということ。
 その結果もたらされた現状は、内から外から、彼を完全に打ちのめすものでした。
 あるいは。
 ガーベラという名の真紅の悪魔は。
 そこまで計算して謀った、とでも、言うのでしょうか。

「恐らく、最初の交錯か……わざと斬らせ、威力を探った。
 そして、『こんなものはいくら受けても物の数ではない』と、そう、判じた……!
 ……つまり、おまえだったと、いうのか。
 調子に乗って自滅の道を疾走する獲物を目の当たりにし!
 心の中で嘲笑っていたのは……おまえの方だったというのか、ガーベラぁぁぁ!」

 ――ああ、そんな顔が見たかったのだよ、神楽。
 血濡れの体を震わせてのひときわ大きな咆哮は、そんなふうにも聞こえました。
「貴様は……貴様だけはァァァァ!」
 疲労が影響を及ぼすのは、何も身体能力だけではありません。思考もまた同様に、本人がそれと気づかないうちに、鈍ってしまうものです。彼が激情に任せて取った行動――無策で無謀で不用意な突撃も、そのためと言えました。
 掌で踊らされるモノと、躍らせているモノ。
 結果は火を見る必要さえないほど、明らかでした。
 鎧袖一触。
 打ち合うどころか、まるで問題にもならず弾き飛ばされた白髪の剣士の見たものは、悠然と大地へ潜り込む巨体と、後に残された、天を突くように伸びる刀角でした。
「あれは、神楽の村が襲われたときの……」
 浮かび上がるのは、ただ痛みでしかない記憶。
 そして。
 あのときと何一つ変わらない。
 ひたすらに無力な――自分自身。

「ちくしょう……動け、動け、動けぇ! 奴を斬るんだ、殺すんだよォ!
 オレにはそれしかないんだ、皆の仇取って、無念を晴らしてやるしか出来ないんだ!
 誰も、何も、守れやしなかった……だからせめて、せめて奴を、この手で……!」

 どれだけ心が命じようと、体はどこまでも己に正直であり、また忠実でした。とりわけ、先の体当たりで受けた傷は、薬での応急程度ではどうにもならない痛手だったのです。
 砂塵を巻き上げてやってくる刀角の撫で斬りから、どうにか身を避けるのさえ、すでに難しくなっておりました。こんな状態で、大地に守られたガーベラ本体に刀を届かせることなど、それこそ、相撃ち覚悟で打ち込みでもしない限り、到底望めない状況です。
 それでも何とか致命傷を避けられているのは、白髪の剣士の力量というよりは、攻撃の性質上動きが直線的なので予測しやすいという、ただそれだけのことなのでした。
「このままさらに消耗を待って……なぶり殺しにするつもりか!?」
 すでに決着をつけられる状況なのに、それをしない、ということ。
 ガーベラが、いったいどういうつもりでそんなことをしているのかはわかりません。ただ、神楽の村での戦闘からもわかるように、『生き物を殺す』というそれ自体に――ひいてはそこからもたらされる真紅に――並々ならぬ執着を抱いていることは、明らかです。
 もしも、ガーベラが『神楽の真紅』というモノに一層のこだわりを持っているのだとしたら。
 白髪の剣士の執着が利用され、窮地に追い込まれたように。
 ガーベラに、一杯食わせてやれるかもしれない、ということになります。
(そこに、勝機があるかもしれない……!)
 白髪の剣士が瞬時に組み上げたのは、次のような算段でした。
 今しばらくは避けることのみに集中し、呼吸を整え体力を蓄え。
 やがてガーベラが焦れてとどめを狙ってきたところで、温存した力を注ぎ込んだ一撃に全てを賭け、これを迎撃する、と。
 作戦としては非常に大雑把ですし、少なからず消耗した体での一撃でガーベラを屠れるかどうかなど、それこそ賭け以外のナニモノでもありません。それでも、現状考えうる数少ない手段の中で、ほとんど唯一、実現可能なものとも言えました。
「よく見ろ。神経を研ぎ澄ませ。刀角から目を離さず、最小限の動きで――」
 迫り来るは、砂の海を裂いて走る、真紅の刀角。
 触れれば次の瞬間には両断されてしまうその凶器が、ごゥ、という砂煙と共に、白髪の剣士の居た場所を駆け抜け――
「――よし!」
 砂煙の向こうで、声と共に、僅かに紅く染まった白髪が、数本舞い落ちました。
 紙一重ならぬ、髪一重の見切り。
 それだけでは、決して、この圧倒的な劣勢は覆されないにせよ。
 一つ、道が、開けたようでした。
「いける……まだ、終わっちゃいない」
 ふぅ〜、と長く息を吐き、集中を高め、
「……来いっ!」
 しっかと目標を見定めたその姿からは、迷いらしきものは、失せておりました。
 それはかつて、同じように満身創痍で、同じように絶望的状況でありながら、それでもガーベラを退けてみせた、『あの日の神楽』にも似ていました。
 いいえ――残念なことに似てしまった、、、、、、、、、、、、と、そういうべきでしょうか。
 白髪の剣士が未だ思い至らない、最大の誤算が、それでした。
 ガーベラがとどめを刺しに行かず待ち望んだのは、白髪の剣士の疲労でも獲物をいたぶる行為でも無く、ただその身に疼くほどに刻まれた、『神楽』そのものだったのです。

 ―――カ、グ、ラ。

 何度打ちのめされようと、そのたびに立ち上がり。
 傷を負いながらも、一歩たりとて退くことなく。
 静かに清かに、刃を呑んで向かってくる。
 それは獲物が獲物で無くなるという。
 恐るべきもおぞましき概念。
 そう。
 あの日あの時あの場所で。
 その在り様だけで圧倒してみせた。
 忌まわしい神楽きずあと

 ――ぶち壊し、その真紅で以て、拭い消す。

 真紅の獣が抱く、たった一つの、シンプルな欲求。
 それを満たすための舞台は。
 ここにおいて、完全に整ってしまったのでした。
 つまり。
 ガーベラが、その獰猛を謀略という枷で圧し止める必要もまた。
 完全に、無くなってしまったのでした。
「――ヴァオオオオオオオオオオオ!」
「な……!?」
 飛竜が、飛ぶ。
 そこに疑問を差し挟む余地は、本来無いはずですけれど。
 大地に潜ったまま、一直線に獲物に向かっていた一角竜が。
 突如、砂の壁を突き破って中空に舞い上がったとしたら、どうでしょうか。
「それは砂竜――ドスガレオスの戦法のはず……!」
 厳密には、その指摘は少々的を外しておりました。
 砂竜は獲物に向かって、砂の上を滑空するように――即ち地面とほぼ平行に飛び出して奇襲を加えるのですけれど、ガーベラのそれは、明らかに上方向への跳躍だったのです。
 跳躍。
 その先に運命付けられる――落下。
 これは突進の力に、さらに跳躍した分の落下エネルギーが加わる、ということ。
 真紅の刀角に、より絶無の破壊を及ぼすための速度が与えられる、という事実。
 そこには必殺以外の意図など、不在。
 さながら菊の一輪挿しガーベラ・ヴェイスとでも形容すべき――戦慄の一撃でした。
「うぁ……!」
 突然の上下の動きに加え、想像すらしていなかったその速度。
 見切りどころのお話ではありません。
 とっさに左に体を捌き、何とか刀角からその身を避けます。
 すると。
 目の前に、凄まじい勢いで尾が迫ってきたのでした。
 鉄槌じみたそれは、あらかじめ逃げる方向を予測していたとしか思えない動きで、すれ違いざまに絡みつくように、迫ってくるのです。
 悲鳴を上げる間さえ許されず。
 衝撃。
 大質量による落下攻撃は、さながら砂の海への爆撃でした。水面が爆ぜたようにもうもうと砂塵が巻き上がる中、尾と大地に挟みこまれる格好で叩きつけられた白髪の剣士は、そのダメージを逃がすということをまるで許されず、骨という骨全てに絶叫の大合唱を強いられたのです。
 さらには意識の放棄までもを当然とばかりに迫られたのですけれど、白髪の剣士はこれを、真っ向から跳ね除けました。ここでガーベラから一瞬でも目を離し、次の攻撃をまともに受けるようなことがあれば何もかも終わりなのだと、本能的に察知しているのでしょう。
「はっ…………はっ……ぅあ、はぁ……が!」
 体の中から逆流してくるモノと、体が欲する酸素とがぶつかり合って、呻きのような音が漏れます。けれどそんなことには委細構わず、文字通り血を吐く努力で以て顔を上げ、真紅の獣の姿だけを求めました。
 けれど、巻き上がった砂塵の向こうへいくら目を凝らしても、その影さえ捉えられません。
 あの巨体が一瞬で消える――それは到底、ありえそうもないことでした。
 焦げつく気持ちのままに左右を見やりますが、何もおりません。背後を振り向いても同様でした。
 ほんの数秒、何とも言えず据わりの悪い空気が流れ。
「しまっ……!」
 その可能性、、、、、に気づいたときは、もう、完全に手遅れでした。
 足元から、ぬぅっ、と現れた真紅の刀角は、正確に白髪の剣士の左大腿部を捉え、その体ごと高々と跳ね上げたのです。
 そう。
 落下の勢いは、何も、攻撃だけに活かされたわけではなかったのでした。
 むしろ再び砂の中へ一瞬で潜るためにこそ――角竜の致命的な隙である『地面に潜る予備動作』を消し去るためにこそ、利用されていたのです。
 そうして今度は、跳ね上げられた白髪の剣士が『落下』を味わうこととなり。
 その身に翼は無いことをまざまざと思い知らされるような、無様な墜落を果たしたのでした。
 それは、まるで。
 誰かさんの、最期の光景のようでした。
「ぅ……ぁぐうぅぅぅ!」
 とめどなく真紅が溢れ出す左足の傷を押さえながら、なおも立ち上がろうとした白髪の剣士でしたが――その願いは叶いませんでした。すでに、左足の膝から下は感覚さえ残っていないのです。応急うんぬんの次元ではありません。先の一撃によって、足としての機能が、完全に奪われてしまっていたのでした。

 そこは以前、同じようにガーベラから傷を受けた場所。
 あの日あの時、刻み込まれた傷。
 とても動けるような状態ではなくて、それでも戦おうとして。

 ――大切な人を目の前で死なせてしまった、忘れえぬ、悪夢。

 どうしようもなく痛くて、憎くて、だから悼むことさえ出来なかった、傷。
 忘れようとして、忘れられないと知って、だからただ無視してきた、傷痕。
 なのに、何故でしょう。今このときになって。
 この左足の傷だけが、その痛みだけが、ひどく鮮明なのでした。
(……責めて、いるのだろうか。無様なこの姿を。
 わからない、わからない。誰にもわかりはしない、決して。
 けれど。それでも。
 責められたいと……そうあるべきだと、思ってしまっている。
 今また同じように傷を負って。
 でも、守るべき大切な人もいなくて。
 そのことを寂しく思いながらも、誰も巻き込まなくて済む、などと考えているオレは……)
 ああ、そうか、と白髪の剣士は思いました。

「オレは…………………………………………………………また、負けるの、か?」

 口に出した瞬間、どこかギリギリのところで自分を支えていたか細い力が、ぷつりと、途切れるのを感じました。次いで、ぐしゃぐしゃでめちゃくちゃな、収拾のつきようも無い黒ずくめの感情が吹き荒れ出したのです。けれどそれはほんの一瞬のことで、あとには、ぽっかりと胸に風穴が開いたような、ありとあらゆる間違いを選択した結果ここに至ってしまったような、けれど今さらそれに抗うだけの意思も意味も見出せないような、何とも半端で宙ぶらりんな感覚だけが、気だるく全身を覆っているのでした。
「ちっくしょう……!」
 それでも、抗うように、駆り立てるように。
「この……どちくしょうがっ!」
 あるいは、崩れ落ちてしまわないように。
 小さな、けれど精一杯の声で、白髪の剣士は吼えました。刀を杖代わりにして、立ち上がりさえしました。
 無論、だからどうということでもありません。
 片足が動かなければ、踏み込むことも避けることも出来ないのですから。
 相手の突進に合わせて相撃ちでも狙えば、一応のこと攻撃は届くのでしょうけれど、それは以前にも試みた戦法に過ぎないのです。たった今、見たことも無い連続攻撃を繰り出してみせたガーベラが、その対応策を持っていないとは、とても考えられません。
 つまりそれはまるで無意味。
 つまりそれは全くの無様。
 僅かな勝機を見出さんとするでもなく。
 ただ負け尽くさないために足掻くだけ。
 すでにそれは、復讐を果たさんとする姿ではなく。
 復讐にすがりつこうとしている姿なのだと。
 きっと、本人は、気づいてはいないのでしょう。
 そして。
 気づかされたのは、まるで別のことなのでした。

「…………な、んだと? そんなことが……あるのか? あってたまるのか!?
 答えろ……答えろォ! 貴様ァ…………何をやっているのかと聞いているんだ、、、、、、、、、、、、、、、、、!」


 視界に映るガーベラは、白髪の剣士が跳ね上げられ、吹き飛ばされたことによる間合いをそのまま保っておりました。ようするに、攻撃を加えた場からまるで動いていないのです。
 今度はいったい何を企んでいるのか――そう考えるのが妥当です。そしてもしそのとおりであるのならば、白髪の剣士は警戒こそすれ、あんな絶望的な声を発することも無かったのでしょう。

 けれど。
 ただ、無かった、のです。
 すでに、ガーベラは。
 白髪の剣士を、その一つ目に映してさえ無かった、、、、、、、、、、、、、、、のです。

 ガーベラは高々と真紅の刀角を天高く突き上げ、その視線もまた、刀角に――その先に滴る、神楽の真紅にのみ、向けられているのでした。
 じわりじわりと刀角を伝って口元に落ちてくるその真紅を、ガーベラは、陶酔するように味わい、うっとりと咀嚼し、夢を見るように反芻しているのです。

 ここに至って、決定的なすれ違いを、まざまざと見せつける光景でした。

 白髪の剣士にとって、ガーベラは、復讐の対象――神楽の仇そのものです。
 けれどガーベラにとっては、白髪の剣士自体は、別段執着を持つような代物ではなかったのでした。仮に、あの場で親父様や鏡花が生き延びていれば、白湯が直接戦闘に参加していれば、ガーベラはそちらを狙ったのかもしれません。
 誰でも、良かったのです。
 たまたま、生き残った白髪の剣士がこの場に至った、というだけのことで。
 必要とされたのは、ただ神楽の身に流れる真紅だけだったのですから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 そう。
 殺したいほど憎んだ相手から。
 自分は、所詮『入れ物』程度としてしか見られていなかった、ということ。

 それは、白髪の剣士の復讐劇を、静かにあっさり、けれど完全に否定するものでした。
 何故ならば。
 例えば誰かが、鬱陶しい蚊トンボを叩き落したとして。
 その蚊トンボの血に連なる別の蚊トンボが、その誰かを恨んだとして。
 はたしてそれを、恨みを向けられた誰かは、気に病んだりするでしょうか?
 するはずがありません。
 いかに蚊トンボが誰かを恨んだところで。
 それは、絶対に、届くはずの無い感情です。
 そもそもヒトには蚊トンボを理解しようなどという発想自体、ありはしないのですから。
 あるのは、ただただシンプルな行動と欲求。
 蚊トンボだから、潰す。
 鬱陶しさを消し、安楽を得るため。
 それが当たり前のこと。
 蚊トンボの五分の魂を慮ることなど、決してしないのです。
 つまり、これは、そういうこと。


 復讐なんていうものがそもそもガーベラに届くはずがなかったということ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


 それは滑稽以前の酷刑。
 人生をかけた空回りの終着点。
 スタート地点にさえ戻り切れない迷走。
 まるで。
 全てが悪い夢であったかのような――ただの、現実。

「ひ……ひは、ひははは……は、はは…………」

 何となく、お腹の底が抜けるほどに、笑い出したい気持ちになりました。
 どうしてかはわかりません。ただ、他に、その事実を受け入れる方法を知らなかったのでしょう。
 けれど、出来ませんでした。
 それは、折れた肋骨の辺りが、盛大に不平不満を訴えているせいではありません。
 思い出しただけのことです。
 心からの笑顔なんて、とうの昔に忘れてしまっていたということを。
 今さらながらに、思い出しただけのことなのです。
(ガーベラさえ……その戦い方を成長させてきたっていうのに……オレは、あの日のまま、か)
 静かに瞼を閉じ行くその寸前で。
 ガーベラが、再び大地へ潜っていくのが見えました。
 念には念を、ということなのでしょう。
 片足を封じられた程度では反撃してみせた前科がありますから、それを警戒し、その上でさらなる真紅を搾り取ろうという算段に違いありません。
 そう、ガーベラでさえ。
 こんな中途半端なところで、彼が敗北を受け入れているなどとは。
 露ほども思っていない、ということなのでしょう。
(……いいや、あの日にさえ、届いていない…………か)
 ぼんやりと浮かぶのは、いつかの誰かの、大切だったはずの言葉。
 忘れるな、と言われたはずなのに、どこかへ霞んでいるその言葉。
 それは確か、折れない心を謳ったモノ――今の自分に一番相応しくない、矜持。
(…………オレは、どこへ向かって、どうやって、生きてきたんだろう。
 あんなに大切だと思ってきたこと全て、何もかもを、置き去りにしたままで…………)
 瞼の裏を、たくさんの面影が、その想い出ごと、滑っていきました。


 ――神楽の頭領――
                         ――――守れなかった少女――――
           ――――守ろうとしてくれた少女――
   ――亡き者にされた村人たち
       生き続ける村人たち――
                        ――――――白く揺れる花の記憶――
 旅先で出会った好々爺――その誇り高き従騎
                ――気兼ねしない仲間――
                            ――気を許し始めた仲間――
 ――迷惑ばかりかけた受付け嬢――――

            モンスターハンターという――――――世界

 ――鉄の腕の老人――
             ――工房の巨人――
                     ――威勢の良い商店街の人々――
――人の良い住宅街の皆々――
                                当たり前の日常――
――在るはずが無かった平穏――――

――――そして――――
―――――炎の世界で出会い――――
――――今度こそ守り抜くと心に決めた――――



 と。
 そこまで虚ろな思考が巡ったところで。
 ぐらり、と白髪の剣士の体が大きく傾ぎました。
 一瞬、ああ、とどめを刺されたのだな、と思い。
 次の瞬間、それが間違いだとわかりました。
 衝撃として彼の体を撃ったのは、他ならぬ、ガーベラの絶叫だったのです。
 すわ何事かと、その目が見開かれ。
 そこに、映ったのは。
「あ………………ぁ」
 映ったのは、音爆弾でも投げられたらしく、地中で方向感覚を失ってもがいてるガーベラ――などではありませんでした。もちろんそれは、視界の隅で今確かに起こっている光景だったのですけれど、そんなものは、まるっきり気にもなりません。
 そう、視界いっぱいに、映ったのは。
 黒髪の一本一本にまで怒りを漲らせ。
 不釣合いなほどに凶悪な篭手を左手に纏い。
 あまりに雄弁な黒目がちの瞳で敵を見据える。
 けれど口元に微笑らしきモノの欠片だけを残した。
 炎の如き小さな戦士の、凛然とした姿でした。
「ぐ……ぬぅ」
 何故でしょう。その小さな背が、かつてもっとも尊敬した人のそれと、重なります。
 誰よりも強く。
 誰よりも気高く。
 そうなりたいと、近づきたいと、風の子供が心より願った――護り刀の背中。
 なのに。
「ううううううう……!」
 願ったモノは、血を吐き地を這い心も体も圧し折られ。
 凛然と在るのは、鉄刀に浮かれた子供より今なお幼い少女。

               な     ぜ          だ  ――――。

 妬心――というにはあまりにもまっすぐなその感情は、ある意味、ガーベラへの執着さえも上回りかねない代物でした。だから、自分の命が助かった安堵とか、ガーベラと対峙した少女がどうなるかを想像するとかそうしたことは一切無く、代わりに、
「邪魔をすれば、殺すと、言っただろう――」
 と罵声だけが口を突き、その結果、
「――が!?」
 飛竜にさえ痛手を負わせる爆発物の仕込まれた篭手で、その首根っこを、真正面から掴まれることとなったのでした。
 目を白黒させる暇さえ与えず、少女は告げます。

「私はもう充分に我慢しました。だからここから先は――爆ぜるだけです」

 とことん据わった目つきは、物騒な篭手が霞むほどの危険物でした。
 心身ともに進退窮まる。
 生きた心地がしないとは、まさにこのことでしょう。
 そのため一瞬、傷の痛みどころか呼吸さえ忘れそうになった白髪の剣士でしたが、まさにその瞬間を狙った――とでも言わんばかりのタイミングで、少女は、空いた右手にいつの間にか忍ばせていた薬ビンを、未だだくだくと左足から血を流している重傷人の口元へ運んだのでした。
 当の重傷人は反射的に逃げ出そうとしたものの、首根っこを抑えられていては、どうにもなりません。流れ出た真紅よりもなお紅い液体が、これ以上無い力技で流し込まれていくのを、ただ受け入れるしかありませんでした。
 そうして、きちんと薬が飲み干されたことを確認するや、少女は拍子抜けするほどあっさり白髪の剣士を解放し、悪戯っぽく意地悪っぽく、こう呟いたのです。

「愛に時間を」

 それがどんな曰くを持つ薬の符号か。
 白髪の剣士が思い出す間にもう、その絶大な効果は発揮されていたのでした。
「はぅあ!?」
 ド――っクン。
 体の内側から焼きごてを当てられたらこんな感じなのでしょうか。煙さえ上がりそうな熱が左足を包み、ぐいぐいと引っ張られるようなずくずくと突き上げられるような、不気味な肉の胎動が、そこに加わりました。そればかりか――じじじじぢゅぢゅぢゅぢゅぢゅ、という、形容出来ない上にしたくもない、何かが練り合わさってくっついていくおぞましい音まで鳴り出したのです。
 あまりのことに、当人でさえ、その体に何が起こっているのかという認識が追いつきません。いつのまにか左足の出血が完全に止まったことや、体のそれ以外の傷――例えばべきべきと折れていた肋骨に同様に現象が起こっていることなんて、まるで気づけませんでした。
 けれど少女は、むしろほっとしたような表情を浮かべ。
 そして一瞬で、きゅ、と引き締め。
 迷い無く白髪の剣士へ背を向け、ガーベラへと向き直りました。
「さすがに……立て直しの早いこと」
 忌々しげにその舌が鳴ります。
 地でもがいていたはずのガーベラは、その失態を一薙ぎで払拭するかのように、大きく翼をはばたかせて舞い上がり、中空から剣呑に、突然の邪魔者を見据えているのでした。
 その口元からは、猛々しく黒煙が噴き上がっています。
「モノブロス・ハートに灯が入った……つまり、本気、ということですか。
 自分の、自分だけの陰気な楽しみを邪魔されただけで、こうもムキになる。
 ――レディに嫌われる資質は、充分なようですね」
 少女は投擲用の小爆弾を素早く取り出しながら、背後をちらっと振り返りました。
 滞空し、油断無くその高度を下げているガーベラが、着地と同時に仕掛けてくることは想像に難くありません。そして、そのときまでに白髪の剣士が動けるようにならなければ――――それもまた、想像に難くない未来なのでした。

(左足の神経が繋がるまでで、約1分。
 落下攻撃で受けた余計な傷に薬の効果が分散されているから、さらに1分。
 戦闘しても平気なくらいに左足の傷が塞がるまでなら、そこからもう1分っ!)

 所要時間は計3分。
 少女が二年のハンター歴の間に見た、幾百幾万の傷、その全てを思い出し参照した上での結論でした。
 この場面における、3分間、という時。
 それは、永遠、という響きにも似ておりました。
 だというのに。
 視線をガーベラに戻した少女は、背中越しに、あまりにも当たり前に告げるのです。
「あなたの傷が塞がるまで、私が時間を稼ぎます」
「……何を、馬鹿な! もう満足だろう! 邪魔だ! あとはオレがやる、下がれっ!」
「ふうん。そうまで口が回るのであれば、稼ぐ時間も少なくて済みそうですね?」
「おまえは……どうしてそうやっていつもいつもいつもいつもいつもっ!」
 押し問答になりかけたその会話を、終結させたのは。
 ず……ん、という重々しい着地の音と。
「ヴァオオオオオオオオオオオオン!」
 不機嫌さと獰猛さを隠そうともしない、その咆哮でした。
 油断すると吹き飛ばされてしまいそうなほどの、音という波の暴力。
 そして。
 より強く肌を波立たせる、危険という名の予感。
 それが具現化したのは、あまりにも単純な形。
 真紅の刀角による、何の衒いも無い、突進でした。
「――させない。そして、許さない!」
 立ちはだかった少女の矜持はあまりにも短く、あまりにも鮮やかで。
 あまりにも、儚すぎて。
 だからこそ、似ていて。

「あ……あああああ!? ダメだ、こんなのはダメだ! 繰り返すな! 見せるな!
 やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろ! やめろよォ!」

 何故自分が叫んでいるのかさえ、白髪の剣士にはわかりませんでした。
 今日――いいえ、この十日間に渡って、まるきりその存在を無視し続け、助けられたときでさえ負の感情しか覚えなかった少女を気にかける理由など、本来的にありません。皆無と言っても良いでしょう。
 ただ、知っている、気がしたのです。
 無力な自分。それを庇わんとする人。
 それがどんな結果を招くのか、ということを。

「頼むから、やめてくれっ! 二度と……二度までもオレの前で死なないでくれぇ、、、、、、、、、、、、、、、、、、!」

 力の限りの叫び。
 そこで世界から音は消え。
 あとは全てがコマ送りのように進みました。

 少女は手持ちの小爆弾をぶちまけるように投じました。
 あらん限りの速度で。
 できる限りの精度で。
 命中。
 炸裂。
 上がる爆煙。
 上がらない悲鳴。
 もうもうと立ち込めるその爆煙を引き裂いて。
 よりどす黒い煙を噴き出す真紅の悪魔の姿。
 それでも少女は退きません。
 真紅の刀角が地に刺さるほどに押し下げられても。
 真紅の刀角が天を斬り裂くほどに振り上げられても。
 一歩たりとも退きません。
 その身に刀角が届く刹那まで。
 その身ごと爆煙に呑まれる瞬間まで。
 一瞬たりとも退きません。
 そして。
 まるで少女自身が爆弾であったかのように。
 刀角ごと。
 爆煙ごと。
 真紅ごと。
 天高く打ち上げられたそのトキまで。
 最後が最期に変わるイマまで。
 少女は。
 決して退かなかったのです。
 まるでその身が。
 守るべきものを護り抜くための。
 一振りの刀で出来ていたかのように。


「う……うわああああああああああああああああああああああああああ!」


 あの小さな体のどこに詰まっていたのか――と思うほどの真紅の雨が、ガーベラの全身をべちゃべちゃと濡らしていく中、白髪の剣士の絶叫だけが、ただただ響いておりました。
 それは、かつての神楽の村の悪夢と同じ光景。
 自分を守ろうとした、大切な人が。
 刀角によって打ち上げられ、やがて重力に捉まり――墜落する未来。
 そして。
「あ、あああ、あああああああああ……」
 何も出来ず、動けず、ただそれを見ているだけの、自分。
 否応無く、そのときの記憶と目の前の光景とが重なるのです。
 それは驚くべきことに、ガーベラにも言えることなのでした。
 かつて自分の片目を奪った相手と同じ死に様を与え、その真紅を味わえる、ということ。思えばあのときの鏡花自身は紛れも無く『神楽』でしたから、そこに少なからず意味を見出しているようです。
 片や、悪夢再び。
 片や、愉悦再び。
 両者は全く対極のベクトルながら、今なお高々と打ち上げられている少女の光景を、同様にその記憶と重ねているようでした。
 ゆえに。
 違和感に気づいたのも、両者はほとんど同時だったのです。

「同、じ……? 待て、そんなはずはない。鏡花でもあんなことにはなっていなかった、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 他はあの時と全て同じ……だというならば、あの血の量はいったいどういうことだ、、、、、、、、、、、、、、、、、!?」

 当時、神楽の少女――鏡花は十六歳。その半分しか生きていない少女が、その何倍にも及ぶような――それこそガーベラの全身を濡らすような真紅を撒き散らしている、という事実。
 その疑問を言葉にしてみせたのが白髪の剣士なら、身を以って感じ取ったのは、ガーベラでした。全身を滴り落ちるいつもの真紅であったはずのそれは、乾いて固まってきたのだ、とは到底思えないほど急速に変質し、液体というよりはペースト状の、ひどく粘つき纏わりつく、どろりとした代物になっているのです。それは、明らかに血液とは異質なものでした。
 何もかもがあのときと同じなのに。
 たった一つだけが決定的に異なっているという、この現象。
 それがいったい、何をどう示しているのか、ということに。
 到達したのは、両者のうち――――どちらでもない、第三者でした。
 すなわち。

「――――――グラウンド零・逢瀬」

 それは今まさに重力に捉えられ、落下を始めた、少女自身の言葉でした。
 記憶になぞらえるうち、『もう少女は助からない』と半ば確定的に捉えていた両者にとって、これは、あまりにも予想外のことでした。
 そして。
 それを見越していた少女にとっては、あまりにも予想通りのことでした。
 だから、もしもこのとき、かっと目を見開き宙で体勢を整えつつあった少女に、もう幾ばくかの余裕があったとしたならば。
 まず間違いなく、胸を焦がすような笑顔を添えて、こう告げたことでしょう。
 それを指して隙と言う、と。

「続けて……グラウンド零・逆撫ぇ!」

 少女は落下しながら、何を思ったのかその左手を――そこに纏ったマックス・ビューティーと名づけられた篭手を――ガーベラとは、まるで逆の方へと向けたのでした。
 その意図は、篭手から響き渡った爆音と共に知れました。
 つまり、ボウガンの原理です。
 弾丸に仕込まれた火薬に点火、これを打ち出す、という機構。この火薬を篭手に、弾丸を少女に見立てると、さて、どうなるでしょう。
 答えは、一目瞭然。
 刹那のうちに空気の壁を突き破り、ガーベラに肉薄してみせた少女の姿が全てと言えました。
 ゆえに。
 その見据える先にあるガーベラの、驚きの表情でさえ、遅いのです。
「こんにちは。よろしくは飛ばして――さようなら」
「……!」
 ガーベラがとっさの悲鳴を搾り出すのさえ。
 少女が次の一撃を装填するよりも、まだ遅いのです。
「グラウンド零――」
 ぴたり、と。
 大輪の菊を咲かせたような、ガーベラの黒くただれた左半面の傷跡に。
 その中心にある、かつて左目のあった位置に刻まれた、刀傷に。
 ゆるりと、狙いを、定め。

「――破局っ!」

 ぞり、と。
 ガーベラの顔を抉ったのは、火柱のような、突き刺さる爆発でした。
 それは、通常外向きに均等に拡散していく爆発を、すり鉢状に火薬を配置することによって、指向性に――しかも一点に集中するようにしたものだったのです。
 さながらそれは、真紅の炎が刃を為したような。
 鍔の無い小太刀が、確かに突き立てられたような。
 そんな錯覚さえ覚えるほどの、凄まじい一撃でした。
 その痛みゆえか痛みを伴った記憶ゆえか、どちらにせよもんどりうって悶えるガーベラには、自分の身に何が起こったのかも、そもそもこの少女が何者なのかさえも、知る由はありませんでした。
 片目の不自由な視界でかろうじてガーベラが捉えることが出来たのは。
 爆発の威力とイコールの反動で、凶悪な篭手が弾けるように砕け散った姿であり、それでもなおやむことの無い衝撃の余波に煽られ、綿毛のように飛ばされた少女自身の姿であり。
 その直後。
 ずばばばば、と。
 盛大な炎と爆発に包まれた、自分自身の姿でした。
 それはガーベラの全身にこびり付いていた、少女の真紅と思われていた赤い不可思議な物体が、先の一撃を起点として爆ぜ、燃え広がっているのです。
「…………!」
 全身がほぼ満遍なく炎に包まれては、呼吸さえままならないことでしょう。
 激しくのたうつその様こそが、無音のままに絶叫を体現しておりました。
「……逢、瀬。そうか、あのときの……」
 呆然と。
 自失していないのがいっそ不思議なくらい呆然と呟く白髪の剣士には、それでも、あの赤い謎の物体の正体がわかったのでした。以前工房で一悶着あった際、対象に直接調合材料をまぶして反応を起こさせる、『零距離調合』というのを体験させられたことがありました。自分が焦がされたのは『爆薬の出来損ない』だったそうですが、どうやら今見たものが、実戦用爆薬の完成形、ということのようです。
 そうなると、ガーベラの一撃だって、まともに食らっていたわけではないのでしょう。そればかりか、最後の一撃の反動で吹き飛ばれたのだって、燃え上がるガーベラの巻き添えにならないようにという、計算ずくでのことだったのかもしれません。
「全て……結局は全て、何もかもおまえが、謀りきったというのか……!」
 自分を、掌で躍らせた、あのガーベラを。
 こんな少女が、手玉にとって見せた、ということ。
 ……みしりと、奥歯が、得たいの知れない感情に突き動かされ、鳴りました。

 ――オレにはできないことを、おまえはやってのける。
    オレには望んで届かないものを、おまえは手に入れてみせる。
    どうして、おまえだけが、そんなにも恵まれる?
    どうして、オレだけが、こんなにも上手くいかない?
    同じように失い。
    同じように歩んでさえ。
    何故、オレとおまえは、こうまで違う……!

 その負の感情は、いまや、呪いの域にまで達しておりました。
 白髪の剣士とて、決して安穏と日々を送ってきたわけではありません。むしろそれは、苛烈と言ってもまだ足りないほどの茨の道でした。彼は少女と出会うはるか以前より、幾度と無く繰り返された困難と辛苦を乗り越えた結果、ここに至っているのです。
 そこには、世の中の不条理がありました。人の醜い一面を垣間見ることがありました。救われるような出会いも、それを自ら手放さねばならない別れもありました。諦めがよぎった数だけ打ち消してきました。悔恨の数だけ己を責めてきました。自分が生きていることさえ申しわけなくて、独りで声も無く震え泣いたこともありました。心の痛みだけはいつも消えませんでした。
 そうして、誰よりも不器用な彼は。
 自分自身をすり減らし続けながらも、ただ、懸命に歩んできたのです。
 けれど。
 この結果だけを見るならば、それを評価する言葉は、ただの一つでした。
 曰く。

 全ては――無駄な努力であった、と。

 そして。
 結果的に、彼にそうと突きつけるに至った少女は、肩から背中と順に地面につけて転がるという、受身の基本で手本といえる形で、二転三転、すぐさま立ち上がり。
 七転八倒を繰り広げるガーベラへ、残心の構えを取る代わりに、鋭く視線を飛ばし。
 一片たりとも情けを感じさせない声で、言い放ちました。

「私の大事に――なにをするか!」

 その姿は、お世辞にも、優勢にあるモノのそれではありません。
 胸当ての防具は、爆ぜたようにずたぼろで。
 砂にまみれた全身は、ぜいぜいと大きく息を継ぎ。
 篭手の残骸が絡みつく左手からは、ぶすぶすと煙が上がり。
 たった一度の交錯で、もう、戦う力を全て奪われたような有様です。
 なのに。
 今なお苦しむガーベラも、少女を憎悪さえし始めている白髪の剣士も。
 その小さな体から感じる得体の知れない迫力に、圧倒されました。
 それは、きっと。
 彼らの良く知る『その概念』を、この少女が、体現していたからなのでしょう。

「ガ……グゥ……ヴァア…………!」

 未だ炎の残滓から逃れ切れないガーベラが洩らしたその叫びは。
 悲鳴のようでもあり、少女を評した何かの言葉のようでもありました。
 どちらにせよ。
 ガーベラはたまらず、といった風情で地の底へと逃げ場を求めたのです。
 砂塵がもうもうと巻き上がり――やがて、砂塵そのものが、一直線に遠ざかっていきました。
 撤退。
 あの日あの時、神楽の心根によって退かされた怪物は。
 今このとき。
 純然たる力技で以って、撤退を余儀なくされたようでした。
 その、信じられないと言って余りある光景を。
 それこそが悪い夢の続きであるかのような顔をして、白髪の剣士は、見つめておりました。

 ――どうして、親父様のように立ちはだかりながら。
    どうして、鏡花のように打ち上げられながら。
    どうして、おまえだけ、生き延びる?
    親父様も、鏡花も、死んだのに。
    どうして、おまえだけ、許されている?
    ずるいじゃないか。
    不公平じゃないか。
    返せよ。おまえなんかいらない。いらないから代わりに返せ。
    親父様を鏡花を神楽の皆を、返せ。
    返せ返せかえせかえせかえせかえせカエセカエセカエセカエセカエセ!

 内から湧き上がる見当違いの怨嗟の声は、それでも、どうしようもなく際限もなく膨らんでいくのです。いっそ――未だ刀を握ったままの手に力が篭るのを、好ましくさえ感じました。
 そして。
 こんなにも惨めで無様で、これ以上無く心まで負け尽くしてしまった男を。
 少女は、あまりにもまっすぐに、見つめてくるのです。

「ねえ――ユウ?」

 振り向きざまの、その顔が。
 寂しげで優しげで――何より儚げなその笑みが。
 今度こそ。
 いつかの誰かと、完全に、重なります。
「きょう――」
 その忘れえぬ名前が、白髪の剣士の唇に上りかけた、そのときでした。 
 けぽ、と。
 唐突に少女の口から吐き出された血塊が、一瞬にして全てを打ち砕き。
 頬を凪ぐ風に誘われたように、とさ、と。
 冗談のように、拍子抜けするほどあっさりと、少女は、崩れ落ちたのでした。
 そして……それっきり、身動き一つ、しないのです。
「――か?」
 何が起こったのか、まるで、理解出来ませんでした。
 いっそ、性質の悪い悪戯か何かとさえ思いました。
 そして、しばし待っても変化が無いらしいと悟り。
 どうやらこれが現実らしいと受け入れ。
 少女の吐き出した血と、その胸部辺りから染み出る血とを交互に見やり。
 ――自分のあらゆる間違いに、その遅すぎる実感に、愕然としました。

「違う……これは違う、記憶のどことも重ならない光景、の、はず、だ……。
 なのに、オレ、は、知っている……こうやって、戦って、傷ついて、
 結局……けっきょ、く、何一つ、だ、だいじ、を、まも……れ、なか、った……。
 そんな…………ぶざ、まで、おろか、な、やつを……知って、い、る……!」

 気がつけば。
 ずるずると、体を起こすという行為さえ忘れてしまったように這いずりながら、白髪の剣士は少女の元に向かっておりました。未だ傷が癒着しきっていない左足からは、不吉なまでに水っぽい音が響いておりましたけれど、まるで気に留める様子はありません。
 あるいは。
 別の大事なことを思い出したために、それ以外のことを考える余裕が無いのかもしれません。
 例えば、炎の世界での出会いの日。
 何があろうと守り抜くと心に決めた――大切な少女のことを。
 そんな、あまりに自然で当然過ぎて、普段は意識にさえ昇らせないことを。
 そのときの想いと共に、今さらながらに、思い出したのかもしれません。
 本当に。
 本当に、何もかも、今さらながらに。
「あの背中……強い、凛然とした、姿…………親父様では、なかった……!」
 追いつきたいと願った心。
 なりたい姿を目指す想い。
 鉄の刀の誓い。
 強くなろうとした――子供。
「あの佇まい……笑顔、守ろうとする、姿…………鏡花では、なかった……!」
 認められたいと願った心。
 負けていられないと奮起した想い。
 白い花の誓い。
 相応しくなろうとした――子供。

「あれは……あれは、あの日あるべきだったオレ自身の姿だ、、、、、、、、、、、、、、、、、!」

 何度願ったかわからない。
 大切な人たちに、生きていて欲しかったと。
 何度呪ったかわからない。
 自分だけが、何故生き残ってしまったのだと。
 だから少年は、呪うように、願った。
 あの日あの時あの瞬間を、もしやり直せるとしたら。
 今度はこの身全てを引き換えにしてでも。
 絶対に、皆を、守るのだと。
 親父様の生き様のように。
 鏡花がそうであったように。
 その二人の面影を追うように。
 自分さえ捨ててでも護るべきモノを守るのだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、と。
 それを、今まさにあの少女は――遂げた。
 二人に似て、けれど確かに違う、あの日をやり直す少年のように。
 けれど。
 その、意味する、ところは。
「どうして気づかなかった……どうしてわかってやれなかった!
 あいつは、鉄の刀に浮かれた馬鹿な子供より……なお幼いのだぞ!
 力なんて全然足りてないって、わかりきっていたのに!
 倒せるはずなんて無いって、わかりきっていたのに!」
 それは本来、考えるまでも無く、当然のこと。
 だから、少女は。
 どこまでも確実に不意をつき。
 唯一の武装である篭手が、壊れるほどの火力で。
 真正面から零距離で、脆い傷痕を目掛けて打ち込んだ。
 でも、そうまでしてでさえ。
 ガーベラには充分逃げるだけの余力が残っていた、ということ。
 ゆえに残るのは、やはり炎を見るより明らかな、当然の事実だけ。

 ――少女には、ガーベラを倒す手立てなんて、何一つ、無かった。

 それどころか、たった一度の交錯でさえ、凌げる保証は無かったに違いない。圧倒的な力の差は、かつての神楽の少年とガーベラのそれよりも、まだ大きかったのだ。
 ――何故なら少女はまだあまりにも幼く、その現実だけは、覆しようが無かったから。
 それでも。
 そうと知ってでも、少女は――
「ただ、時間を稼ぐために……護るべきモノを守るために!
 無茶を承知で、覚悟の上で戦う奴の気持ちを……誰よりオレは知っていたのに!
 その痛みも……悔しさも……全部、忘れたことなどなかったというのに!」
 少年は言った。神楽の頭領が来るまで、時間を稼ぐことが出来たと。
 防げないのならば、待ち――そして、相撃ちに持ち込んだ。
 倒せないのなら、狙い――そして、ガーベラの耳を潰し、地中からの攻撃を封じた。

 少女は言った。あなたの傷が塞がるまで、私が時間を稼ぎますと。
 凌げないのなら、喰らい――そして、その上で反撃に出た。
 倒せないのなら、仕掛け――そして、全身を火に包ませ呼吸を奪い、退かせた。

 抱いていたのは恐らく、同じ矜持。
 力及ばずとも――守り抜く。
 ただ、それだけの、想い。

「悔しいに決まってる……恨めしく思うに決まってるじゃないか!
 オレは、出来なかった……何もかもを奪われた後で、みすみす奴を逃がした。
 でも、あいつは、遂げた。何も奪わせずに、奴を、退かせたんだ。
 オレは守れず、あいつは、守った。
 …………くっそォ!
 自分が出来なかったことを自分がやり遂げた光景を見た、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、なら、
 今ある自分自身が情けなくて、どうしようもなくて……否定するしかないじゃないか!
 でも……でも、ちくしょう、どちくしょう!
 ……考えもしなかった、思うことさえ思いつかなかった!
 ただ守られた側は……守ろうとした人間こそを想う残されたニンゲンは、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 こんなにも無力に震え、自身を厭い、死にたいほどに苦しむものだったなんて!」
 少年は、ずっと。
 大好きな人が助かりさえすれば、幸せだと思っていた。
 そのためには自分がどうなろうと良いと思った。
 ――なんて、愚か。
 大切な人に大事に思われている自分の意味を。
 今この瞬間まで、考えたことさえ、無かったなんて。
「本当に……くそ、くそくそくそォ! お、オレは、何もかも、間違いだらけじゃないか!
 知っていたのに……その戦士の魂を、わかっていたはずなのに。
 忘れてなんかいなかったのに……おまえに『優しいユウ』と呼ばれたとき、
 どれだけ心が救われたかなんて、忘れられるはずもなかったのに……!
 それでも、なお、間違いを重ねるか……このオレはぁぁぁぁぁぁ!」
 『あなた』と『おまえ』。
 揃いの名前。
 どこまでもアンバランスで。
 そのくせどこかそっくりな。
 優しい名前の二人。
 ――いつも、いつでも、そうだったはずなのに。
 この十日間、そう在ることが出来なかったのは。
 きっと、間違い以前の、ただの違い。
 大切だった人たち。
 大切な少女。
 どちらも比べようも無く大切で。
 その違いは、ただの、一つ。
 大切だった人たちは、もう、永遠に失われてしまっていて。
 大切な少女は、まだ、何一つ失われてなんかいなかった。
 そうと考えることさえありえないほど、一緒にいるのが自然過ぎた。
 だから。

 ――彼は、おそらく初めて、彼女に甘えてしまったのだ。

 我侭を言われるだけだった彼が、初めて、自分勝手になった。自分の都合だけで考え自分だけの世界に没頭し、構ってくる彼女を鬱陶しげに、悪し様に扱った。
 何故なら彼は、もう二度と届かない人たちのために、戦おうとしていたから。
 今だけ、いつでも手の届く彼女より優先したところで――きっと許されると、思ってしまったから。
 生きているというのは、先がずっとずうっとあるという、そういうことだから。
 でも。
 いつでも届くはずの手は。
 今、こんなにも、遠くなっていて――

「…………すまん。
 他に、言葉なんて見つからない。
 ガーベラじゃない……ガーベラなんかのせいじゃない……!
 その傷だけじゃなく……深く心を抉り、残酷に想いを踏みにじったのは。

 他のナニモノよりも炎の子供を傷つけたのは、神楽 優という大馬鹿野郎なんだ!

 オレは……ガーベラを倒すよりも何よりも、まず、そのことをおまえに謝らなければならない。だから……だから、聞いてくれ……恨み言を返しても、嫌ってくれても構わないから……だから、まだ、命のままでいてくれ……終わらないでいてくれ、ソナタ……!」
 世界はどこまでも皮肉なことに。
 炎の子供がもっとも望まなかったであろう、白髪の剣士の悔恨の台詞こそが。
 十日ぶりに、彼が彼女の名前を口にした、その最初の一言だったのでした。
 そして。
 やっとのことで、少女の傍らにまで、這い寄り。
 その小さな体を、そっと抱き上げた瞬間。
 白髪の剣士がもっとも望まなかったであろう、少女のあまりの軽さと不自然なほどの冷たさが、まるで意思を持って侵すように、腕に伝わってくるのです。

「っ―――――――――――!」

 ひうん、と、ささくれだった荒野の風が吹きました。
 それは、まるで。
 世界には最悪以下の結末だってあるのだと、悲しく、諭しているようでした。
 そして。
 起こってしまった結末は、受け入れるより他、無いのだとも。
 第7幕 〜敗者ばかりの黄昏時〜
 ――どうやってベースキャンプまで戻ったのかは、覚えていない。
 ただ、抱きかかえたソナタの軽さと失われる熱に怯えながら、わけのわからないことを喚き続けていたように思う。
 悪い夢でも見ているような地に足つかない感覚のまま、それでも皮肉なことに、長年培った生存のための技能は発揮されていた。
「安静に寝かせて、早く傷を塞がねば……いや、落ち着け、それでは細菌の感染が起きる!
 まずありったけの湯を沸かして、不十分ではあるが殺菌を行わないと……。
 その間に止血帯に使う清潔な布を……場合によっては傷口を縫い合わせる絹糸も、か。
 くそ、活力剤と栄養剤だけでソナタの体力を保たせられるか?
 支給品の応急薬では甚だ心許ないが……どうにか内臓へのダメージを緩和せねば!」
 ベッドに少女を横たわらせ、ベースキャンプの出入り口を締め切る。自然の空気は一般には健康に良いものだが、重傷人にとっては、傷口に砂埃や雑菌といった害毒をもたらす厄介者以外のナニモノでも無いからだ。まあ、そもそもベースキャンプの造りからして密閉性は皆無なのだが、かといってあえて風通しを良くしてやる義理も無い。やらないよりはずっとマシだ。
 もっとも、今ここにある森林の気配そのままの空気に限っては締め出すことも出来ないし、何よりイキモノに空気は必要でもある。ゆえに、石鹸で手を洗うかの如く、出来る限り綺麗になってもらうより他無い。
 さっそく肉を焼く器材を利用して火を起こし、備え付けてあったバケツに水を汲んで沸かし始める。水蒸気によって気休め程度でも空気の殺菌が出来るだろうし、もし簡易的な手術を行うのであれば、器材を煮沸消毒する必要も出てくる。じゃんじゃん湯を沸かして、困ることは無い。
 その傍ら、汚れにまみれたハント用防具を全て外し、当然斬破刀も壁に立てかけ、一般に許されるギリギリの範囲まで衣服も脱ぎ、全身を治療用の消毒液を含ませた布で乱暴に拭っていく。治療を施す自分が雑菌の源になっていたのでは、冗談にならないし笑えもしない。左足に差し掛かったところで、傷口がぱっくり開いてしまっていることに今さら気づいたが、手近にあった布切れで適当に縛って済ませた。無駄に出来る時間など無いのだ。
 そうして必要最低限の衛生を整えても、一息つく暇は無い。まだ治療は始まってさえいないのである。決して広くは無いベースキャンプ内を慌しく動き回り、どうにか治療体勢を整えていく。
 先に用いた布やバケツのように、実はハントには携帯しないような諸々の器材がベースキャンプには備えられている。一般には何日か滞在する場合を見越した生活用品や食糧の類、そして現地で調達しにくい場合は安全な飲料水なども追加されるわけだが、今回は、とりわけその危険度が充分以上に認知されている、あのガーベラの討伐依頼である。自然、医療用品が通常より多くてもおかしくないし、事実、そのとおりであった。片っ端からそれらを引っかき集めつつ、頭痛腹痛解熱剤などの不要なものをぽぽいっと除外していく。大量の回復薬に加え、活力剤などもストックがあったのは嬉しい誤算だった。
 ただ、それはいくらか足しになるという程度の誤差ともいえる。あくまで、ここで出来るのは応急処置――致命に至らせないための、悪あがきだ。それを済ませ、どうにか動かせる状態にした後、正式な医療機関に運ばなければならない。
 つまり、それは。
「リタイヤ、か」
 ちり、と胸の真ん中で、避けようの無い痛みが走る。
 リタイヤとは、依頼達成が困難であると宣告し、途中で棄権すること――すなわち、ガーベラの討伐を諦めるということに他ならない。それは今までの歳月を真っ向から否定するような苦渋の決断だったが、何故だろう、そうと思い悩みつつも忙しく動く手は止まることはなかった。
 その甲斐あってか、やがて強力な火力を誇る焼肉セットによって湯が沸騰し始めた頃には、とりあえずの治療を施せるだけの環境を整えることが出来た。
「――よし!」
 ここまでの所要時間はベースキャンプに到着してから4分。我ながら驚異的な手際だったが、それでも1分1秒を争うような場面においては、血の気が引いていくような長さと感じられた。
 ともかく。
 がちゃがちゃと薬ビンやら医療キットやらをベッドの脇に運び、横たわった少女に向き直る。
 否応無く目に入るのは、ずたずたになった胸当て部分の防具の残骸と、同じくぼろぼろになった左手の篭手の名残。篭手の方は単純に、爆破を連続で行ったがゆえの耐久の問題だったのだろうが、胸当ての方は、斬り裂かれたというよりは引き千切られたような有様だった。あの刀角によるものとしては違和感を禁じえないが、当然、そんな些細なことにかまけている場合でもない。
 ちなみにベースキャンプに戻ってくる際は、迂闊に触れたところで無駄に傷口を広げかねないので、この胸当てはそのまま放置しておくことにした、という事情がある(当然その上から盛大に消毒液を浴びせたりはしたが)。つまるところ、少女がどの程度の傷を負っているのかを確認するのは、今このときが初めてということになるわけだ。
 吐血は内臓のダメージを如実に示しているわけだから、これを胸部の出血と併せて考えれば、その部位の折れた骨が内臓に刺さっているのでは、と予想がつく。が、どの臓器をどう傷つけているのか、、、、、、、、、、、、、、、ということまでは、実際に見るまで判断のしようもない。
 もし心臓や肺に損傷を負っていれば――
(まだ骨も固まっていない上……纏える防具の重量にも著しい制限がある。
 ガーベラの一撃で真っ二つになっていないだけでも、ほとんど奇跡だ)
 この上もう一つ、『折れた骨は重大な臓器を避けていた』という奇跡まで望むのは、正直分の悪すぎる賭けに思えた。が、どうせ一つの奇跡を起こしたならば二つも三つも同じだろうと、祈るような脅すような気持ちのままどうしようもなく願いながら――慎重に、胸当ての部分を剥ぎ取ろうとして。
「…………」
「…………」
 目が、合った。
 目が合ったということは、両者が目を見開いているということになる。当然だ。
 それは自然、昏倒していた少女が目を覚ましたということにもなる。喜ばしいことだ。
 が。

「…………」
 こちらは突然のことに反応出来ず『喜ぶタイミング』を外してしまい。

「…………」
 少女は状況がよくわかっていないようでしきりに視線を彷徨わせている。

 ゆえに、どちらも等しく固まって。
 白けるのとはまた色の違う、芸術的なほどに微妙な沈黙が訪れた。
 少女の胸当てに手をかけたままの体勢と相まって、何やら締まらないというか、据わりが悪いというか、気まずいことこの上ない。それもこれも、先の一刻を争う切羽詰った精神状態と、その全てを空転させるような現状との、絶望的なまでの落差の為せる業だろう。
 しかし、すぐさま治療に移らなければならないという危険な状況は、依然続いている。無意味な沈黙で時間を潰している余裕は、肉体的にも精神的にも無いと考えるべきだった。
 気持ちを整え、意を決して口を開く。
「あのな」
「あのですね」
 かぶった。
 発言が見事に不協和音を奏でた。
 状況を打開するための努力は互いに的を外し、より気まずい空気を射止めたようだった。
「そっちから」
「どうぞ」
 繋がった。
 二人で台詞を分担するという、見事に呼吸の合った噛み合わなさだった。
「……」
「……」
 そして再び沈黙。
 ……何だろう、これは。
 決して、事態は変わっていないはずなのに。
 少女の傷を確認して治療を施す必要性は、揺らいでいないはずだというのに。
 どうにも、根こそぎ気力と緊張感を奪われたような心地である。
(……神様というのがいるとしたら、そいつはきっと、性格が悪いに違いない)
 一瞬、先ほどまで祈っていた対象を、ちょっと恨んでみる。
 別にその天罰というわけではないのだろうけれど。
 ふと何かに気づいたらしい少女が、彷徨っていた視線を真正面からこちらに向け、驚くほどはっきりとした声に明確な怒りの意思を込めて、叫んだのだった。

「……いったい何をしているのですかあなたは!」

 目覚めのご挨拶にしては随分な剣幕である。
 無論治療だ――と、至極真っ当な抗議の声を上げかけて、ふと思う。
(そういえば十日前も、ハンノキに無茶苦茶な治療を施していたハンターが、こんなふうに怒鳴られていたな。ひょっとしたら、何か見落としや、間違った点があったのだろうか?)
 大きな声を出す元気があるとわかったのは安心の材料だったが、それが怪我をおしての無理に繋がっていることもまた、疑いようが無い。これ以上そんなことをさせないためにも、また適切な治療を施すためにも、どうやら現状を見直す必要があるようだった。
 もっともそうした事情を抜きにしても、少女に対して感じている強い罪の意識のようなモノゆえに、そもそも頭ごなしの反論は出来なかったわけなのだが――それはそれ、である。
 努めて第三者的に冷静に、この状況を分析してみることにした。

 清潔を保つための、湯
 寝台に寝かされた、少女。
 入り口を締め切った、密室。
 何だか色々用意されている、薬と器具。
 申し訳程度に残っている少女の胸当てを剥ぎ取ろうとする、手。
 常識で許されるギリギリの範囲まで衣服を脱ぎ捨てている、男。

 …………………………………………………………………………。

 何故だろう。
 ナニカ、非常に、嫌すぎる予感が、頭をよぎった。
 この場においては不謹慎の誹りを免れないであろうその考えは、治療と根本的に関連しないはずのその予感は、しかし、どうしようもなく致命的な質量を伴って、心に暗い影を落とし始めたのだった。
 何かしらの否定を、そこにあるはずの救いを求めて少女に視線を向ける。が、今度は目が合うことは無かった。こちらの顔ではなく、別の一点を凝視しているらしい。
 不思議に首を捻りながら視線の先を追ってみて――そこには自分の下半身以外何も無いのだと知る。
 絶望的な気分だった。
「……私が、何を問題にしているか、ようく、わかりましたよね?」
「いや待てちょっと待て頼むから待ってくれ。
 そもそもその年齢で感じるような類の問題なのかという疑問は棚上げするにしても、おまえのそれは誤解であり誤解でしかなく誤解以外のナニモノでも無いと主張するし、つまるところこの諸々の状況はおまえを治療するためでだな――」
「だから、それが問題だと言っています」
「うん?」
 どこか話が噛み合っていない。
 通常、この年齢の子供との会話であるならば、不完全な感情の表出、主観のみの価値観、我侭と同義の自己主張、そうした当然の事情で、言いたいことが相手に上手く伝わらないことはままある話だ。
 ただ、この子供は『炎の子供』であり、少々常識とはかけ離れていたのである。
 だからあまりにも的確に、余分なモノを一切焼き払うような潔さで。
 あまり大きくは無い、けれど聞き逃しようも無いようく通る声で。
 一言で、全てを告げた。

あなたはまだ戦うのでしょう、、、、、、、、、、、、、?」

 半ば以上リタイヤに染まっていた心が、無造作に打ち抜かれる。
 動揺を声に変えないだけで、精一杯だった。
 少女はなおも続ける。

ならその足の傷を先に塞がないでどうするのですか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 自分の左足。
 言われて見やると、適当に縛っただけのそこは、なるほど、『全然治療してませんよ』と全力で自己主張するようにわかりやすく、無遠慮に血が滲み出している。少女が注視していたのはこれだったのだ。
 しかし、見た目こそなかなかの惨状を呈しているが、それでもベースキャンプまで走ったり出来る程度には回復しているわけだ。もう少しきちんと処置を施せば、確かに戦闘も可能だろう。
 戦闘――再び、ガーベラと、戦う、ということ。
 それは、当然存在するはずの選択肢。
 けれど、少女の治療を優先しなければならないという思いから、積極的にこれと向き合う気持ちが失せていたことも、また事実であった。
 ……いや。
 出来る限り目の前の状況に集中することで、考えないようにしていたのかもしれない。
「それにしても妙に驚いていますけど、いったい何を考えていたのですか?」
「あー……いや、何でもない」
 もちろん何でもないことは無いのだが、堂々と言えることでも、決して無い。
 子供に理解されるわけにはいかない大人の事情というものである。
 なので、『赤ちゃんはコウノトリが』と諭すような善意の欺瞞で、もう一度何でもないと繰り返したわけだが、少女はそれを不審と受け取ったようだった。
「まさかとは思いますが――私をダシに、リタイヤを望んでなどいないでしょうね?」
「いや、それは……」
 思い切り現状の的を射ているその言葉を前に。
 とっさに肯定も否定も出来なかった。
 先にリタイヤを考えたとき、ガーベラを捨て置く無念さは確実にあった。ただ、それ以外にどこかほっとしたような感覚があったことも、確かなのだった。
 心は、怯え震えるような頼りなさで、今もまだ揺れている――
「まあ、私も無事とは言えませんが……このとおり、口を利ける程度ではあります。
 あなたが再びガーベラと向き合わない理由はどこにも無いのですよ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「……ああ、そう、だな」
 つきつけられて、初めて、自覚する。
 本人が無事と言っているからといって実際はどうなのかわからないとか、今は無事でも後々響くような傷かもしれないとか、どのみち一度戻って体勢を整えないととか、浮かんでくるのは、ひたすら逃げ出すための言い訳ばかり。
 『仕方ないから今日のところは見逃してやる』やら『次にあったときは絶対に許さないぜ』やら、せいぜい威勢良く言い放って逃げ出すだけのチンピラみたいに、自分は、下らない体面を繕おうとしているだけなのだ。
 怒り以上の無力感。
 憎しみ以上の恐怖。
 嫌というほど見せつけられた現実。
 終わることさえ出来ず立ち消えた復讐。
 それらの前に、戦うための心は――すでに折れてしまっているのだった。
 なのに、少女は気づかず、自分が変わらぬ闘志を燃やし戦うものと信じている。
 そしてそれが失望に変わるのを恐れている自分がいる。
 どこまでも無様な意地だった。
「それから……その、これは言うべきかどうか、迷ったのですが」
「む?」
 伏せ目勝ちに言いよどむ姿は、そうと言葉にするまでも無いほどに、躊躇いが見られた。
 ――やはり、傷の具合が思わしくないのか?
 雑巾を勢い良く絞るように、気の弛んだ部分を、きゅ、と引き締める。
 やがて、ひどく申し訳なさそうに、少女は言ったものだった。
「残念ながら、あなたが楽しめるほどの感触は、まだ無いと思うのです」
「は?」
「いえ、その……手が、そのままですので」
「……」
 そういえば、何だかんだで胸当ての上に置いたままだったということに気づく。
「…………これは、失礼」
 気恥ずかしさというより、気だるい体を意思の力で突き動かす類の労力を使って、せいぜい年上らしい余裕を気取る。成功した自信は無かったが、さしたる追求もされなかった。
 ただその代わりに、すでに重大事では無いように錯覚しそうになっている、怪我の治療の話題が飛んできたのだった。
「では、あなたはまず左足の処置を。その間に、私も自分の分くらいはどうにかしますから」
「ああ」
 極めて歯切れの良い声を前に、申し出を断る理由は、無かった。
 そうして左足に巻いていた布切れを解きながら、ふと、結局少女の傷の程度を確認出来なかったことに気づく。だが、あの調子ならば別段気にするほどのことでも無いかと、疑念はあっさりと思考の隅へ追いやられたのだった。


                             ◇


 しゅんしゅん、と湯の沸く音だけが響くベースキャンプの中で、何となしに背を向けあう形になった二人は、ともあれ、各々の治療に没頭した。
 医療知識と調合知識のみを比べれば、この少女はそこいらのハンターには決して引けを取らないのだが、実施においてモノを言うのはまず経験である。だからその手際を比べれば、当然のこと、白髪の剣士のそれは少女を圧倒的に上回っていると言えた。
 しかしその事実に反して、二人の治療状況は、ほとんど平行して進んでいる。
 理由は明らかだった。
「…………」
 さりげなく――と、本人は信じているらしい挙動不審具合で――白髪の剣士は、背中越しに少女の様子をうかがっている。自然、手元への注意は相当なおざりになっていて、なるほど、これでは治療が進まないわけだった。
 もちろんこの行動の背景には、純粋に怪我の具合を心配する部分もあったのだろう。しかしそれを踏まえたとしても、やたらめったらそわそわしている上、何事かを口にしようとして思いとどまったりを繰り返したりと、あまりにも落ち着きが無い。
 ようするに、先ほどのやりとりで、少女に謝るタイミングも気力も完全に逸してしまって、けれど何事も無かったかのように接することは出来なくて、結果、こうしてばれていないのが不思議なくらいにそわそわしながら、解決の糸口を探そうとしているらしかった。
「あー……その、なんだ」
「はい?」
 少女の声は、少し硬かった。その理由は、ツンと鼻をつく消毒液の匂いが雄弁に物語っている。ある意味、治療の中で今が一番辛い段階なわけだ。
「ん、傷は……痛むか?」
「当たり前でしょう。だから治療してるんじゃないですか」
 これまた当たり前のように、不機嫌な声だった。 
「いや、まあ……そうだろうな、うん……」
「変なユウ。でも、変じゃなかったらユウじゃありませんけれど」
「……」
 ごく自然にひどいことを言われた。
 自然に。
 いつものとおりに。
 何事も、無かったかのように。

 ――そんなはず、無い、というのに。

 蔑んでいるに決まっているのに。
 罵倒したくてたまらないに違いないのに。
 ハラワタが煮えくり返っているはずなのに。
 背中越しというこの距離にあって。
 自分は命あるままに、大切な人を彼岸まで失いつつあるはずなのに。
 なのに。
「……どうして、おまえは、何も言わない?」
「消毒するたび薬を塗るたび、痛い、しみる、と騒ぎ回れと? 日が暮れますよ」
「戯れ合いはいいっ!」
 声を荒げてすぐに、後悔と嫌悪が自己増殖を開始する。
 ――結局、自分が楽になりたいだけなのか。
 自嘲する醒めた心根とは裏腹に、感情と言葉は、止め処なく溢れ出していた。

「独りで充分だと大風呂敷を広げ、邪魔をするなと大見得を切り、その挙句どうだ?
 ガーベラに無惨に敗れたばかりか、おまえを死なせるところだった……!
 それも、オレの身代わりになるような真似をさせてだぞ!」

 怒声の嵐と感情の渦。
 その螺旋は、自分も相手も傷つける、諸刃の剣。
 こんなことを言うべきではない。
 こんなことを言うつもりでもない。
 なのに。
 そうとわかっているのに。
 脆い心が。
 決壊した想いが。
 止まらない。

「……原因がオレで、結果がこれだ。
 許されるはずが――許されていいはずが無い、こんなものは!
 なのにどうして、おまえは、何も言わない?
 疎めばいいモノを……恨んでくれればいいモノを! 何故だ!?
 どうして……どうして、おまえは――!」

 その後。
 しばらく、何事かを喚き続けていたのだろうと思うが、よく覚えていない。
 実際、言葉の内容などにまるで意味はなく、ただ、一言ごとに自分が内面から崩れていく感触と、背中越しに在る温かな気配が遠ざかっていく実感だけが、全てだった。
 そうして。
 吐き出すだけ吐き出して。
 ぶちまけるだけぶちまけて。
 残ったものは、ただただ、沈黙だけだった。
 ――否。しゅんしゅん、と湯の沸く音だけが、響いている。
 それ以外の全てが変わり果ててしまった、このベースキャンプの中で。
 何一つ変わらずに、響いている。
(失うときなんて……本当に、呆気無い)
 ふと、治療を放り出したままの左足に目を落とす。
 抜け殻のようになったこの体の中にあって――滲み出る血を押さえ込もうとするその戦いだけが、未だ懸命に生き抜こうとしている意思のようで、滑稽だった。

「ねえ、ユウ」
「なんだ、ソナタ」

 背中越しにかかった声は平静そのものに聞こえた。
 だからこちらも平静そのものに聞こえるように返した。
 お互い、その何気なさ、、、、を装うために、どれだけの努力を費やしていたのかはわからない。
 ただ。
 次に少女の口から紡がれる言葉が、諦めや同情、慰めや憤り――そのどれかかもしれないし、そのどれでもないのかもしれないと、漠然と思ったとき。
 理由の無い恐怖が、それでもはっきりと、背筋を凍りつかせていた。
 そのわけを探る間も無く、少女は、空気が湿ってきたので一雨来るかもしれませんね、というくらいの何気なさで、こう告げた。

「私はそこにいますか?」
「何……?」

 言葉の意味が上手く汲み取れず、何の芸も無い問い返しが口を突いた。
 しかし少女はもう一度繰り替えすでもなく、やはり何気ない調子で、続ける。

「私はどうも、あまり忘れるということが得意では無いみたいなのです」
「……ソナタ?」

 意外という以前に、それは、あまりにもわかりきったことだった。
 炎の子供は、一度見聞きしたことを決して忘れない。
 地図だろうと調合書だろうとヒトの顔だろうと戦術だろうと何だろうと、全てを記録したように記憶し、自在に引っ張り出してみせるのである。
 智は力なり。
 ハンターとして、誰よりも身体的な脆弱さを背負った少女の戦う術は、この使い古されたたった一言に凝縮されていると言っても過言ではないだろう。
 だが今、こんなタイミングでわざわざそのことを口にする理由は、まるで不明なのだった。
 そんな葛藤を知らずに、あるいは知っていても問題とはせずに、少女は続ける。
「だからきっと、それはあなたが忘れているような些細なこと。
 あなたにとっては取るに足らない、当たり前のことだったのだろうと、そう思います」
「何を、言って――」
「まず、右前腕の裂傷」
「……!?」
 言われて反射的にその箇所を見やる。もう判別出来ないほどの、けれど確かな古傷が、そこには刻まれていて――それが、少女と初めてハンターとしての公式な仕事をしたときに、その身を庇って負ったものだと思い出す。
 その間に、少女はなおも続ける。
「左側頭部の擦傷」
 これも、少女を庇った古傷。
「左手甲の刺傷2箇所」
 それも。
「腹部の打撲5箇所」
 あれも。
「背面部の火傷3箇所に裂傷2箇所」
 どれも。
「その他全身の主だった傷の合計が79箇所、うち骨折が4箇所。
 ……全部、覚えています。
 これまであなたが、私を庇って受けてきた傷……大したこと無いと言って、一人で我慢して、何事も無かったかのようにしてきた姿を、私は、覚えているのですよ?」
「…………」
 何も、言えなかった。
 自分のせいで大切な人が傷つくという、その重荷を。
 今まさに、体内でのたうつように渦を巻くこの感情を。
 少女は、ずっと背負い、そして戦ってきたのだ。
 無様な救いなんて、求めようともせずに。

「そして、そんなときのあなたは――ごめんなさい、という言葉が一番嫌いでしたね。
 戦士の傷に謝罪は侮辱なのだと。
 その悔しさは次の力に代えろと。
 あなたの大きな背中は、いつでもそう語って、私を諌めているようでした」

 ぞっとするような驚きがあった。
 少なくともそうと口にした覚えは無い。
 なのに、こんなにも――わかられている。

(ソナタは……いや、子供というのは、こちらが思うよりずっと見ているものなのだな……)

 同時に、ふと思う。
 幼き頃、自分が追いかけていた大きな背中のことを。
 はたして、今の自分は。
 物言わず多くのことを教えてくれたあの背中に、近づけたのだろうか――

「どこか不器用でひどく厳しい、その優しさが。
 私には少し悔しくて……そして、とても、嬉しかった。
 あなたは私を、どんなときでも一人の戦士として扱ってくれたのですから」

 そう。
 それは普段忘れているような些細なこと。
 意識するまでも無い、当たり前のこと。
 この少女は、誰よりも小さく、けれど雄々しい戦士だということ。

(……怒って、いるのか? まるでただの被保護者のように扱われたことを……。
 実際にガーベラを退けたのは自分なのに、まだお荷物扱いなのかと……)

 それはあたかも、傷への謝罪を嫌う自分と同じ、戦士としての誇りで――

「そして、それで満足しかけていた私を、、、、、、、、、、、、、私は許せない、、、、、、
「……っ!?」

 冷水を浴びせられた、などというものではない。
 胸を氷柱で串刺しにされ、がごんがごんとハンマーで打ち込まれるような心地だった。
 思い知る。思い知らされる。
 違う。
 問題としていることが、まるで違う。
 この少女は、『こんなに頑張ってるのにどうして認めてくれないの』とか、『怪我のことなんか気にしなくていいから悲しいこと言わないで』とか、そんなことは一切求めていない。
 怒っている。
 怪我のことなんか一切気にせず、まるで別次元のことにおいて。
 烈火のごとく、怒り狂っているのだ。


何故なら私はあまりにも弱かった、、、、、、、、、、、、、、、


 …………。
 ……。
 正直に言う。
 真っ白になった。
 いっそ場違いな冗談であって欲しいとさえ思った。

(これ以上物騒で勇ましい八歳児が、いったいどこの世界にいるというのだ……)

 そんなことを考えた自分は、確かに混乱していたのだろう。
 だから気づいたのは、今ある状況が全て終わってしまってからのこと。
 弱かった、と。
 少女は、過去形で、そう言ったのだ――

「私は、弱かった。
 いつでも守られるしかないほどに、ただ、弱かった。
 だからあなたは、私に守られてはいけないと思った。
 だからあなたは、自分が傷つかなければと感じた。

 大人のあなたにとって、、、、、、、、、、子供の私を守るのはひどく当たり前のことだから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 その逆をしてしまうことは、単純な、罪だから。
 だからあなたは今、そんなにも苦しみ傷ついている。

 この十日間のことだって、結局は、同じ。

 独りになろうとしたあなたは、そうとできてしまった。
 それは何故? 簡単なこと……あなたから手を伸ばしてくれなければ、私たちは繋がってなんていられなかったから。私に、あなたを支えるだけの力なんてなかったから。どこまでも単純な理由――子供は所詮どこまでも子供でしかなかった、、、、、、、、、、、、、、、、、、、という、たったそれだけのこと」
「それは……それは、仕方の無いことだ。気に病むことじゃ無い。
 子供だから出来ないのは……だから大人が支えるのは、自然なことなんだ……!」
 
 半分は本音だったけれど。
 もう半分はきっと、言い訳で出来ていた。
 だって、認めてしまえば。
 出来なかった子供の自分は。
 やってみせた子供の彼女を。
 どう受け止めればいいのか、わからなかったのだから。

「仕方の無いことだけれど。子供が子供なのは、ひどく自然で仕方の無いことだけれど。

 ――それでも、その『仕方無さ』に甘え、諦めてしまうのは、違う。

 『子供だから出来なくて当たり前』とか『特別何も感じなくていい』とか、そんなのは違う。絶対に、違う。先に言い訳を用意して、逃げ道を作って、それで何かが出来るはずなんて、無い。
 それは大人も子供も関係無い、『ヒトの弱さ』だから――心がうつむいて、曲がって、折れてしまうことだから」

 折れる心の弱さ。
 折れない心の強さ。
 それはいつか誰かが謳った言葉。

「もちろん、努力はしていたつもりだったけれど。それでも私は甘えていた。あなたが手を引いてくれている現状に、満足しきっていた。

 ――この十日間。離れてみて、そのことがようく、わかりました。

 だって、そうでしょう。
 私にとってあなたは必要だったけれどあなたに私は必要なかったのだから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「それは違う!」

 打ち消すような強い調子の声には、しかし、明確な根拠など無かった。
 むしろ、逆だ。
 独りである方がむしろ都合が良いとさえ、振る舞って見せた自覚がある。
 だがそれでも、考えるより先に言葉は出ていた。
 当たり前だ。
 理由なんてシンプルだ。
 自分が必要とされていないなんて。
 子供に口にさせていい言葉では、断じて、無い。

「いまさら、言い訳のしようなどあったものではないが、それでも!
 それだけは、違う! 何があっても、それだけは……!」
「では、なおさらのこと。
 必要とされても、弱いままの私では、何一つ応えることが出来ない。
 たとえば大切な人が窮地に陥ってもそれを見ていることしか出来ない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「……っ!」

 真紅の襲撃。
 宙に舞う体。
 過去の傷跡。
 そして。
 その影を追うようにして負った。
 背中越しの少女の――傷。

為すべきときに何も出来ないのは辛いと思いませんか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、?」
「…………おまえは」

 傷痕かこが――疼く。
 恐らく、意図していないことなのだろうけれど。
 少女の言う弱い自分と――あの日の神楽の少年とが、重なってしまう。
 まるで、罰も無くただ罪だけを突きつけられているように。
 じくじくと血が滲むほどに、ただ、疼く。

「だから私は、私のその弱さを許せない。
 ――ならば、強くなろうと、そう思いました。幸い時間はありましたからね」
「たったの十日間で……か?」
「それは、たった、ではありません。むしろ十日間もあった、というべきです。だって……」

 そこで何故か、ほんの少し、不自然で無い程度に言いよどんでから、少女は続けた。


「独りで過ごす時間は、いつもよりもずっと……ずうっと、長かったのですよ?」


 なるほど、と頷きごくごく自然に返す。

「そういえば、幼い頃は今よりずっと、時間を長く感じたものだったな。納得だ」
「……ともかくっ!」

 何故だろう。
 率直な不機嫌さの篭った声だった。

「古人曰く、三日会わざれば刮目してみよ――と言うではありませんか」
「……だから十日あれば十二分とでも? 馬鹿を言うな」

 十日間という期間は、何かの技術やコツのようなモノの向上ならばともかく、根本的な鍛錬の結果が出るまでの時間としては、あまりにも短い。そもそも、鍛錬の『鍛』は千回の練習、『錬』は一万回の練習を指すのだから、持続的な訓練の重要性は推して知るべし、である。
 しかし、少女はむしろ呆れたような声で、こう続けた。

「……やはり、あなたは忘れているのですね」
「何だと?」
「私が私の無力さを初めて思い知ったのが――たった十日前のはずがないでしょう、、、、、、、、、、、、、、、、?」
「な……」

 言われ、慌てて記憶を探ってみるも、穴の開いたポケットのようにまるで手応えが無い。
 ――いや、不自然なくらいに、無さ過ぎる。
 この少女が弱音を吐いているところ、辛いと文句を言うところ、何かを投げ出すという意味でのかんしゃくを起こしたところ、そんな光景が、何一つとして浮かんでこない。
 そして気づく。

(笑顔しか……覚えが無いだと!?)

 そう。
 思い出せないのではなく。
 はじめから、無かったのだ。
 もちろん、他愛の無いやりとり――具体的には自分があっさり言い負かされること――において、少女は怒りもしたし、涙を用いもしたし、甘え半分の我侭を言ったりもした。

 けれど、ハンターとしては一切、無い。

 戦いの場に立ったときには。
 いつでも背をピンと張り。
 小揺るぎもせずに。
 凛然と笑んできた。

(――異常だ。少なくとも自然ではありえない)

 往々にして子供は、『自分だけは大丈夫』とか『事故や死なんて関係無い世界のお話』とか、さしたる根拠も無しに信じ込む傾向があるが、この少女の場合はまるで事情が違う。
 弱肉強食の世界で、痛みも無力も存分に知った上で。
 それでも、全てを受け止めて微笑んできたのだから――

(だ……だが、もしそれがソナタの恐るべき意思の力で為されたことだとして……。
 いったい、いつ、なんだ?
 そんなにも深く呑んだ覚悟を得るような……決定的な出来事は。
 ガーベラとまみえてさえ微塵も崩れないこの存在を、傷つけられるようなモノがあったというのか?)
 
 その疑問を解く言葉は、あまりにも短かった。

「コルック村です」

 それは、少女がハンターになる以前に訪れた村。
 ……だとすると、まさか。

「覚えていますか? マックス爺さんと会った、あの場所でのことを。
 子供の戯言と取られて当たり前の、取るに足らない会話の中で。
 それでも、私は言いましたよ。
 『ただ守られっぱなしだなんて、御免ですからね?』と、あなたに」
「……ああ、よく、覚えているさ」
「ではその翌日。
 私が足手まといだからと、置いていかれたこともですね」
「…………無論だ」

 やはり、そうか。

「私は、同じ戦場に立ち守られるのではなく。
 はじめから同じ場所に立つことさえも、許されはしませんでした」

 ――今回の相手は、ソナタを守りながらでは存分に戦えぬ。
 そう告げて背を向けたのは、他でもない。
 この少女を最初に傷つけたのは自分だったのだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、――

「だからこそ。
 私はコルック村を後にするとき、こうも言いました。
 『もう二度と、置いて行かせなんかしません』と」
「……」

 言われた当時も、ひどく恐ろしい響きを持っている言葉だと思ったけれど。
 それ以上に物騒な意味があるなんて、想像さえ出来なかった。
 そう。
 たったの十日間などではなく。
 ハンターにさえまだなっていなかった、その日から。
 この少女は己の弱さと戦い続けていたなんて、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、―― 


「――二年、かかりました」


 幼い声が紡いだ、たったワンフレーズの言葉が。
 アンバランスなほどに、様々な想いの重さが篭った、その言葉が。
 胸の真ん中に、どすん、と響く。

「ガーベラという敵を前に、たったの一度でも、やっとあなたを守れた。
 初めてあなたと同じ場所に――守られるだけではない戦士に、なれた。
 だから今一度、問いましょう。

 私はそこにいますか?

 あなたと肩を並べて戦えるところに。
 二度と置いて行かせないと言える位置に。
 誰にも渡さないと決めた――あなたの背中を守る戦士という、その場所に。

 私は、そこに、いますか?」


 これが。
 ほんのこれっぽっちの問いかけが。
 この少女の抱く全てだったのだと、やっと、思い至る。

 彼女は、傷のことを案じ続けているのだ。
 自らのではなく――背中越しの男が、心に負ったそれを。

 そして彼女は、責めているのだ。
 背中越しの男をではなく――男を独りにさせてしまった、自分の弱さを。 

 だから、問うている。
 自分はあなたの背中を守れる戦士か、と。

 戦士であるなら――その傷への謝罪は侮辱なのだから、
 目の前の男が己を責める必要などなくなるのだと信じて、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 そして。
 二度と置いてなどいかせないと――二度と男を独りになどしないのだ、、、、、、、、、、、、、、、と、今再び、誓いを立てるために。

(……そんなにも策を尽くし、痛みを厭わず、涙さえ隠したままで。
 願ったのは……あまりにも子供っぽい、たったそれしきのこと、なのか……)

 何ということだろう。
 ほんの八年しか生きていない少女が費やした、二年という歳月は。
 たった一人の無様な男を守るためだけにあったというのか。
 まるで、一番尊敬した人のように。
 まるで、一番大好きだった人のように。
 まるで、その身がほんの小さな一振りの――護り刀であるかのように。

 護るべきモノを守るというただそれだけのために、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 ……こんちくしょう。

 だからたまに、嫌いたくなるのだ。
 憎んでしまいたくもなるのだ。
 そして、出来ないのだと思い知る。
 だって、そうだろう。
 君はあまりにも強くて弱くて。
 幼いのにずっと大人で。
 複雑なくせに単純で。
 どこもかしこもアンバランスで。
 噛み合うところなんか何一つ無くて。
 なのに。
 いつもいつでも、ひどく当たり前に。
 こんなにも、オレの心を。
 震わせる――

 
「今のオレは、独りだ。側には誰一人としていない。いるはずが、ない」
「……」
「だから今、目指している最中だ。オレがこの背を預ける戦士は、遥か前にいる」
「え?」
「ここに誓う。誰よりも小さく、けれど大きな心を持った戦士に、誓いを立てる。

 すぐに追いつく。
 二度と置いていかせなどしない。

 ――二年も、待たせたんだ。そろそろオレも、走り出して良い頃だろう?」


 告げてしばらく、反応は無かった。
 それどころか、呼吸の音さえ聞こえてこない。
 沈黙。
 聞こえてくるのは、しゅんしゅん、と湯の沸く音ばかりだ。
 そしてなおも沈黙。
 さすがに危ぶんで、振り向くべきかどうか思案し始めた頃。
 くっ……はぁぁぁぁあ、と、ひどく盛大に息を吐く音が聞こえ、


「あぁ……………………………………………………………………よかったぁ」


 本当に。
 本当に、心から、何もかもが報われたような調子。
 安堵と誇らしさと達成感の入り混じった幼い響き。
 表情を見るまでもなく、声だけで満面に微笑んでいるのがわかる。

 ――ああ、くそ。どうしてこの子は、こんなにも……こんなにも、信じられるのか。

 痛みは消えない。ガーベラから受けた敗北の残滓は未だ全身に残っている。
 でも、今湧き上がってくる感情は、別の熱を持ったモノだ。
 まだ終わらない、終われないという、魂の叫びだ。
 せめてこの気持ちを、そのままに伝えたい。
 こんなにもひたむきな存在に応える、そんな言葉を届けたい。
 後悔でも悔恨でも恨み言でもなく。
 まっさらな少女に応えるための。
 まっさらな自分の言葉を。
 たった一言でいいから。
 居てくれて良かったって。
 嬉しかったって。
 ごめんって。
 ごちゃごちゃでぐちゃぐちゃで、けれどあったかなこの想いを。
 全部君に伝える言葉が。
 ――欲しい。
 

「……ありが、とう」


 口をついて出た言葉に驚きつつ、そして納得する。
 この言葉も――何気ない日常の中で、少女が思い出させてくれたものだった、と。

「ありが、とう」

 もう一度告げた瞬間。
 込み上げてきて。
 溢れ出して。
 もう、どうしようもなかった。

「ありがとう、ありがとう…………ありがとう、ソナタ。ありがとう……守ってくれて。
 何よりも、生きていてくれて……ありがとう。本当に……ありがとう」

 声が、胸が、魂が、何もかもが震えて。
 それを押し隠すことは、もう、出来そうに無かった。
 涙のように言葉が溢れる。
 言葉のように涙が流れる。

 ありがとう、と。

 結局のところ。
 どれもこれもが、傲慢の為せる業、だったのだろう。
 全部、自分のせいだと抱え込むことも。
 全部、謝らなければなんて思ったことも。
 全部、ただの独りよがりに過ぎなかったのだ。
 何故なら。
 彼女は、保護すべき子供などではなく。
 いつでも自分と並び立たんとする――戦士だったのだから。


「――大したことではありませんよ」


 それは。
 何もかもをひっくるめての、言葉だったのだろう。
 今までの仕打ちを。
 負わせてしまった傷を。
 どこまでも傷つけてしまった心を。
 重ね続けここに至ってしまった過ちを。
 その一切合財を。

 全て、許す、と。

 あまりにもあっさりと。
 あまりにも自然に。
 少女は、そう、告げているのだった。

「…………ぅ……」

 ぼろぼろの心から。
 ぽろぽろと雫が零れた。
 そこには、後悔とか悔恨とか、余分なモノは一切無く。
 打ちひしがれた心を洗い流し。
 そこから再び顔を上げるという。
 たった二つの純粋な願いだけが篭められた。
 まっさらで、とても、綺麗な――

「――どうやら、通り雨のようですね」

 眩しいほどに斜陽の差し込むベースキャンプの中。
 何もかもを抱きとめるような優しい声で、少女は背中越しに告げた。

「止むまで少し……待ちましょうか。
 輝くような雨上がりの空と――そこに吹く優しい風を、楽しみにしながら」

 応えは無い。
 だが、小刻みに震える大きな背中は、確かに一度、頷き返し。
 ほんの少し誇らしげな小さな背中は、静かにピンと、張られていた。
 決して顔を向け合っているわけでも、触れ合っているわけでもないけれど。
 心と心が、しっかと重なり合っている、そう確信出来る光景だった。
 そんな背中合わせの温かな沈黙の隣で。
 やはり、しゅんしゅんと湯の沸く音だけが、響いている――


                             ◇


 やがて、通り雨も一段落した頃。
「そっちの治療の具合はどうだ?」
「ん……軟膏塗りこんで、これからガーゼ当てるところです。もう少しかかりますね」
「そうか。なら……その間、少し昔話でも聞いてくれないか」
「なんですか、やぶからぼうに?」
 くすくすと笑む少女に誘われたのだろう。
 気持ち、力の抜けた表情で、白髪の剣士は告げた。

「古来より、東国には護り刀の一族があり――」

 それは小さな世界の小さな幸せのお話。
 そして。
 始まりは、突然で。
 終局は、呆気なく。
 儚く、消えた世界で。
 けれど、確かに生きた。
 大切な人たちの、お話。

「――その名を『神楽』と言った」

 彼は。
 彼女に。
 その一番深い傷の痕を、包み隠さず、さらけ出したのだった。


                             ◇


 白髪に剣士の始まりである昔話は。
 その六年間の歩み全てを決定付けた悪夢は。
 しかし、語りきるまでには、たったの30分もかからなかった。
「――これで、全部だ。
 ガーベラとの因縁も、神楽の村で起こったことも、そこで失ったモノも、全部」
「……そう、ですか」
 少女は、ひどく難しい表情をしていた。
 こちらも難しい――というより情けない顔をしている自覚はあったが、今さら無様な姿を繕ったところで始まらない。続く少女の言葉を、静かに待った。
 すでに二人共に治療を終えていて、少女はベッドから上体を起こした格好で、自分はその目の前で切り株椅子に腰掛け、向かい合う格好になっている。
 小さな上体のほとんどが白い包帯で包まれている姿は、ひどく痛々しい。実際感じている痛みも相当なはずなのだが、そんなことは決して窺わせない声色で、少女は告げてきた。
「……確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
 ああ、と頷いて先を促す。しかし、打てば響くいつもの反応ではなく、何やら言葉を慎重に選んでいる様子だった。まあ、控えめに言っても決して楽しくはない話を聞かされた後だから、あるいはこれが自然な反応なのだろうか――と、常識的な思索に耽っていた矢先。

「年齢は仕方無いとして……幸い私も黒髪なわけですが、伸ばした方が嬉しいですか?」

 ベッドに突っ伏したくなるほど非常識な発言が返ってきた。

「……今の話を聞いて、問うべき事が、それなのか?」
「はい。これ以上に重要なことが、何かありましたか?」

 即答だった。
 ……いや、別に同情や慰めを欲したわけではないが、それにしてもあんまりな感想だ。

「その痛みも悲しみも、何もかもが――あなたです」
「ん……?」
「『それ』を乗り越えようとするなら、どこまでも、あなたの戦いなのですよ、、、、、、、、、、、

 だから自分は手を貸さないと。
 あなたが自分で決着をつけろと。
 小さくも厳しい戦士は、言下に断じている。

「――戦えますか?」

 無駄なものが一切無い、刃の切っ先のような問いだった。
 対する自分はまるでナマクラだが、引け目を感じるような格好付けは、それこそ無駄というものだろう。

「……迷い無く頷いてみせたいが、正直、わからない。
 真っ向からぶつかり、そして遅れを取ったという事実は、決して軽く無い」

 感情の種類はどうあれ、先の戦いにおける戦意は高揚しきっていた。
 にもかかわらず、結果は完全な力負けだ。同じように突っ込めば、同じ結果が返ってくるだけなのは、まず間違いない。

 そして、良くも悪くも心の中心にあった復讐という動機は、すでに失われている。

 ならば同程度の戦意を発揮できるかどうかすら、わかったものではない。
 確かに、迷い無く頷けるような状況ではないのだった。

「あるいは、オレも――親父様を見習うべきなのか」

 懐から取り出したのは、一見、何の変哲も無い皮袋に収められた、どこにでもありそうな丸薬だった。綺麗に透き通った赤色をしているので、のど飴か何かだと言われればまず疑われないだろう。しかし、神楽の村の話を聞いた少女にとって、それは内臓が転覆しても受け入れがたい代物と言えた。

「まさか、ユウ……」

 散華の法。
 命を沸騰させ、爆発的な力を得ると同時に、やがて本当に爆発して散るという――ヒトでは無い死に方を運命付けられる外法。つまるところこれを口にするのは、体中に爆弾を巻きつけて飛び込むのと、同じ意味。

「古来より仇討ちなどというものは、死なば諸共の覚悟で挑むものだ。
 結末はどうあれ、遂げること自体に何かしらの意味がある。
 ただ……今この状況で、この選択が正しいのかは、わからない」
「…………」
「わからない……だがっ」

 ぎゅ、と丸薬を握る手に力が込められ。
 ぱきゃ、と呆気ない音がして、丸薬は粉々に崩れ去った。

「おまえに話すうちに……思い出したよ。
 親父様は……後に続くオレを信じて、託してくれた。命の意味を履き違えたりはしていなかった。だから、今オレがこれを使うのは……ただの逃げだ。
 ……ならば、親父様を見習えばこそ、この命を無駄にすることだけは、出来ん」
「ユウ……」

 とはいえ、有効な手段が他に無いのもまた事実。
 事態は一切、好転していない。

「まあ、本当はハントに出る前に、入念に準備をするものなのですけれどね」
「ぐっ……」

 正論だった。
 実際、ソナタは今まで用いなかった爆弾をふんだんに使ってガーベラを退けたのだから、ますます反論のしようが無い。

「お話を聞く限り、斬破刀で切り伏せることしか考えていなかったのでしょう?
 私を十日間も放っておいて、それでトラップの一つも作っておかないなんて、まったく」
「むう……」

 嫌味だった。
 許す、とは言っても、こういう部分ではまた別らしい。

「でも、まあ……あなたが真っ向勝負に拘ったのも、間違ってはいないのですけれどね」
「……馬鹿にされているようにしか聞こえないが」
「ガーベラはきっと、あなたが望む形で、しかも一対一で倒さないと、ダメなんです」
「…………」
「もし私がびっくりするくらい強くて、ガーベラなんか片手でポイだったとしても、あなたの命を救う以上の手出しをしてはいけないのだという……そんな感触がありました。
 さっきの……神楽の村のお話を聞いて、それは、確信になっています」

 そう、つまらない意地かもしれないが。
 もしあのとき、自分の傷が塞がるまで、少女が無事ガーベラを抑え込んでいたら。
 自分はきっと少女を下がらせ――自分の手での決着に、拘ったのだろうと思う。
 敗れた今もなお、ガーベラそのものへの執着だけは、決して薄れていないのだから。
 ……もちろん、それを敗者の遠吠えと言うのだと、理解した上で。

「そうでない限り、どんな結末であれ、納得出来る形にはならないって……思います。
 もし違う形で終わってしまったら……そのときはきっと、心が、ダメになってしまうのだと」
「わかっているつもりだ……そして、そのとおりなのだろう。
 ……が、同時にそれは、オレ自身の身勝手でもある。
 もはや、ガーベラとの戦いは私怨以外のナニモノでも無くなったのだから……」

 復讐なら、仇を他の誰にも譲れないのも、自分の手で決着をというのも、当然のことだ。
 しかしそれが叶わなくなり、少女を巻き込み、その上でなお、ガーベラと対峙する理由があるとしたら……残るのは意地と恨み、まるで胸を張れない後ろ向きの感情でしかない。
 はたしてそれは。
 この少女に不要な傷を負わせてしまってなおも、貫くべきものなのか――


「正しくなければ、戦えませんか?」
「え……」

 
 予想だにしない、もの凄まじい無茶を言われた。

「仇を取るため、無念を晴らすため、そうやって自分以外の誰かのために戦うと、決まってあなたは言う。でも、どうしてあなたがあなたのために戦ってはいけないのですか?」
「それは……」

 自分の、ため?
 そんなことは、まるで考えたことが無かった。
 ……ああ、そうか。
 結局、オレは。
 あの日誰も守れなかったオレ自身が、大嫌いだったのだ。

「――もし、ガーベラがあなたにとって超えなければならない壁で、倒すということ以外で、これを乗り越えられないというのなら。
 そうしないと、一歩も先に進めないというのなら。
 あなたの心が殺されるか、ガーベラを殺すかしか道が無いというのなら。

 戦い、そして生きるべきです。あなたがあなたである、ただそれだけのために。

 神楽だの何だの難しいことは関係ありません。
 生きるために、これから先へ進むために、戦うべきです」
「……先へ、進む?」

 そんなものが、あるというのか。
 ガーベラの先にあるモノ。
 わからない……わからない。
 自分にとっての終着点は、ずっとガーベラだったのだから。
 その先を生きる意味も意義も、何が自分を突き動かすのかも、まるで不明瞭で――

「生きることでは、誇れませんか?」
「……っ!」

 何かが、心の真ん中に、触れた。
 言葉にならない、熱でしかない感情の束が、そこから沸きあがってくるのがわかる。

 ――生きることを、誇る。

 焦げつく。ざわざわと気が落ち着かない。
 不快ではないけれど、何かひどく据わりが悪くて――爆発しそうだ。
 この感情の意味はまるでわからない。
 でも、生きる、ということ。
 その言葉から連想されるたった一つの事実だけが。
 胸の全てを埋めている。

 この生命は、いったい、誰が守ってくれたものだったか――

「――ソナタ」
「はい」
「恐怖とか、弱気とか、そんなのではなくて、だ。ただ、わからないことがある。

 ヒトは――過去に、勝てるのか?

 もう起こってしまったこと。もう取り戻せないこと。もうどうしようもないこと。
 そんなモノを前に、忘れてしまう以外のことなど、出来るのだろうか?
 ガーベラは……オレの過去、そのものだ。
 はたして、あいつを殺せたとして……それで、どうなる?
 何も戻らず、誰も生き返らず……いったい、流血の後には何が残る?」

 それは、復讐だけを心に抱いていた頃から、ずっと付きまとってきた影。
 ひょっとしたら――ガーベラがいなくなったら、自分には本当に、何も無くなってしまうのではないかという、漠然とした恐怖。
 一度敗北した今になって、思う。
 自分はきっと、ガーベラを殺し、そこで死にたかったのではないか――

「あなたが残ります」

 それは、心の影を照らし打ち消す、灯火のような言葉だった。

「起こってしまったことは変えられなくても。
 これからを変えられる、あなたが残ります。
 悲しいことを打ち破り。
 嬉しいことを増やしていける。
 私の大好きなあなたが、残ります」
「……これから。そんなものが、あるというのか……?
 ただ、ガーベラだけを追い続けてきた、このオレに……?」

 目を落とした両の拳は、いつの間にか血が滲むほど、固く握り締められ震えていた。
 そして、その上に。
 小さくて温かな手が、当たり前のように、添えられたのだった。

「独りでは真っ暗な道でも、二人でなら迷わず歩いていけるでしょう。
 あなたに残るのは過去ガーベラではありません。未来です」
「だがオレは、すでに一度、ガーベラに……心まで、折られてしまっている」
「神楽の護り刀も、一度折られ――そして、より強く打ち直されたのでしょう?」
「あ……」
「ガーベラは強い。そして恐ろしいほど頭が切れます。
 けれどあれは、あくまで弱肉強食の強さ、打ち倒す力です。
 より強いモノを前にすれば、たちまち崩落ちるだけの悲しい力です。
 ――私たちは、違うでしょう。
 牙も翼も無いこの身は、本来、打ち倒されて当たり前の代物です。
 でもね。
 ヒトには、そこからもう一度、顔を上げて立ってみせる力があるんですよ」
「もう一度……?」
「はい。打ち倒すモノは、確かに強いのかもしれません。
 でも、打ち倒されてなお立ち上がるモノは、きっと、もっと強くなれる。
 それがヒトの持つ――心の力なのだと思います」
「それがたとえ……もう二度と届かない、過去であっても、か?」
「――勝てます」

 添えられていた小さな手が、一度ぎゅ、と握られ、そして放された。
 軽い驚きに見張られた目を、少女は真正面から見据え。

「さあさ、お立ち会い」

 ぽん、と1つ大きく手を打って、まるで路肩の叩き売りみたいな口上で、語りだしたのだった。

「これから始まるのは小さな恋の物語。どこにでもあるけれどここにしかない、昔だけれど今語るべき、知り合いじゃなくても知ってなきゃいけない、そんな男女のお話なのさ」

 と言われても、突然のことでどうにも反応のしようが無い。
 ただ、それでも要らぬ半畳を入れずに沈黙を守れたのは、きっと。
 おどけた口上とは対称的に、その目が、狂おしいほどに真剣みを帯びていたせいなのだろう。

「男の名はセラニウム。農村の出身だけれど家を継ぐことはせず、考古学で身を立てたっていうからたいしたもんじゃあないか。
 女の名はエラティオール。地方貴族の娘で、本来は政略的な結婚をするはずだったけれど、どこをどう間違えたんだろうねぇ」

 少なくとも、二人とも聞いたことの無い名だった。
 例え話として、遠回しに何かを匂わせる算段でもあるのだろうか。

「出会いはよくあるお話だった。
 男が発掘に当たっていた遺跡現場に、たまたま物見遊山で訪れた女が、勝手に立ち入ってしまったんだな。別に劇的でもない、ただの偶然の出会いってやつさ。
 でもそのときに女は、それはもう、こっぴどく叱られたっていうじゃあないか。
 びっくりしただろうねえ。何不自由無く暮らしてきた女にとって、初対面の男に、それも貴族でも何でも無い一般人に怒鳴られるっていうのは、空が落ちるくらいには衝撃的だったんだろう。
 はじめはすごく嫌って、でも何故か気になって、いつの間にか離れたくなくなっていて。
 そうなればもう身分の差なんて無いも同然だ。恋する2人の前じゃあそんなもの、雨上がりの水溜りみたいにひょいっと一足飛びされてしまった。
 ああ、結局駆け落ちに踏み切ったのは女の方らしいがね。気の強いこった。
 そして――地図によっては記載されないくらい小さな村で、2人は、暮らし始めて。
 やがて、1人の女の子が生まれたんだ、、、、、、、、、、、、、
「…………!」

 ある予感が、頭から足までを稲妻のように走った。

(まさか記憶が戻ったというのか、ソナ――)

 叫びたい衝動が胃袋から喉にせり上がる。
 が、口までは上らずに立ち消える。
 当たり前だ。
 もしその予感が当たっていたら……これは例え話どころではない。
 まるっきり、自分の昔話と同じということになる、、、、、、、、、、、、、、、、
 それは、つまり。
 この少女を何と呼ぶべきかさえ、自分にはわからないという意味なのだ。
 何故なら。
 ソナタとは、己の名前を忘れた少女が自ら付けた名前なのだから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

「女の子は小さな箱庭のような世界を、まっすぐに幸せに生きて。
 そしてある日――夢が醒めるように突然に、何もかもを失ってしまったんだ。
 ……それが、あんまりにも悲しすぎたんだろうねぇ。
 大好きな両親から貰った大好きな名前さえ、女の子は忘れてしまったのさ」

 視線の交錯。
 一瞬の沈黙。
 その意味は、お互い、確認でしかなかった。
 これは少女の、傷痕の話なのだと。

「でも――ある日、女の子は思ったんだ。強くなりたいって。
 だから、全部、思い出して受け止めようと思った。
 大好きな人の分も受け止められる強さが、女の子は欲しかったんだからね。
 まずは自分から、出来るってことを見せなきゃって、そう思ったのさ――」

 ぽん、と手を打ち、少女は話を打ち切った。
 実際、その先はもう、必要無かった。
 炎の、世界。
 そこで生きていたのは、火竜リオレウスと。
 目の前にいる、炎の子供だけだったのだから。


「私は、乗り越え、強くなりましたよ――ユウ」

 
 その瞳は、やはり少し揺れていたけれど。
 それでも少女は、笑った。
 自分には決して出来なかったことを。
 自分とまるで同じ傷を背負いながら。
 やって見せているのだ。
 とても、信じられるものではなかった。
 ――ひょっとしたら、という疑念が沸く。
 記憶を取り戻したこの少女は、昨日まで自分が知っていたソナタとは、まるで別のナニカに変貌してしまっているのではないか、と。
 後から考えるとそれは、見せ付けられた少女の心の強さに圧倒された、混乱の産物以外のナニモノでもなかったのだろう。けれど、

「おまえは……おまえはいったい、誰なんだ?」

 真っ白になった心は、心無い言葉として吐き出されてしまっていた。
 それでも、やっぱり少女は。
 笑った。

「私はソナタ、炎の子供。あなたに頼り頼られる――相棒です」

 鎧袖一触。
 打てば響くその答え。
 『炎の子供』である証明として、これ以上のモノはきっと、無かった。

「相棒、か。ならば……今度はオレの番、というわけだな」
「――戦えますか?」

 先と同じ問いを、少女は発し。

「無論だ」 

 先とは違う答えを、自分は返した。返すことが、出来た。
 その言葉をかみ締めるように、軽く目を閉じながら少女はやんわりと笑んでいる。

「ふふふ――ユウらしくなってきたじゃあありませんか」

 そんなことを呟きながら、少女は、治療に使用していた薬類と一緒に置いてあった、携帯用のポーチのようなモノを手に取り、差し出してきた。

「これは?」
「使うかどうかは任せます。ただ、あんな物騒な丸薬よりはマシでしょう」

 訝しく思いながらポーチの中身をあらためる。
 するとそこには、音爆弾と閃光玉が、みっちりと詰まっていた。
 それらは紛れも無く、対一角竜に照準を絞った、ハント用アイテムである。

「……おまえ、こんなにも備えがあるのなら、どうして――」
「もっと使わなかったのか、そうしたらそんな傷を負わずにうんぬん、ですか?
 ええ……情け無いお話ですが、全然、使っている余裕が無かったのですよね」

 それは明らかな嘘だった。
 爆弾を幾度も投じていた少女に、閃光玉を織り交ぜる余裕が無かったはずはない。
 けれど少女は、そうしなかった。
 なまじ傷の塞がる時間を稼げば、男が再び無謀な戦いを挑んだであろうことを、理解していたのだろう。その結果、今度こそ、致命に至っていたであろうことも。
 そして予見していたのだろう。もしあの場で使い切ってしまっていたら、今こうして、男に最後の力添えをすることが、叶わなくなってしまうことまでも。

 その意味するところは、二つ。

 少女は、何もかもを覚悟の上で、傷を負うことを選び。
 そして、男が再び立ちあがることを、誰よりも信じたのだ――

「――そうか」

 その想いごと、受け取る。
 礼は言わない。嘘の裏にある少女の誇りを、傷つけたくは無かったから。
 けれど、考えずにはいられない。
 たった一日で、自分はいったい、この少女からどれほどのモノを貰ったのだろうか、と。
 きっと、一生をかけても返しきれないほどだろう。いやこの調子なら、これからも、どんどんかさんでいくのかもわからない。

 ――これからも、か。

 なら、一つだ。
 この身この腕この心で、今為すべきことは、ただ一つだ。

「……勝ちたい。ガーベラに……オレ自身に、負けたく、無い」 

 怯える心も、逃げ出したい感情も、まだ残っている。
 でも、負けたくないと叫ぶ想いもまた、自分自身のモノだ。
 ならば多分、それで、いい。
 完全無欠の超人やヒーローじゃなくても。
 弱さを呑んで強さに換えられるただの人間で。
 充分だ。

「ソナタ……オレは、勝てるな?」
「何を寝ぼけているのですか、あなたは」

 少女はやれやれと肩を竦めながら、兎は一羽と数えるのですよ、と確認する程度の何気なさで、こう言った。

私の相棒を倒したいのならその三倍は連れてきなさい、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 
 一瞬冗談かと思い。
 二瞬でそうではないと気づき。
 それからしばし、口が開きっぱなしになった。

「……本気か? 相手は、あの――」
「ちょっと強くて赤くて角付きな、お肉の竜でしょう?」
「……んな!?」
「それだけのことです」

 呆気に取られる以外、どうしようもない中。
 少女は、両の掌で、ぴしゃりと打つようにこちらの頬を包み込んだ。
 驚く暇も無く、どこにそんな力が……と思うほど、有無を言わさずぐいっと引き寄せ。
 息のかかるくらいの距離で、真っ向から瞳を覗き込み。
 うって変わって、ひどく真剣みを帯びた口調で、告げてきた。

「ここがあなたの胸突き八丁です。わかっていますね?」
「…………ああ」

 避けて通れない、戦い。

「悔しいのでしょう?」
「…………ああ」

 理屈で割り切れない、感情。

「諦めたくなんか、無いのでしょう?」
「…………ああ」

 終われない、意地。

「無様だと、思いますか? 格好悪いと思いますか?
 二度までも負けて、もがいて、足掻いて、みっともなくって」
「…………ああ」

 少女さえ傷つけた、過ち。

「でも、それでも顔を上げて、もう一度戦おうとすることの、どこがいけませんか?」
「ああ……ああ!」

 それでも譲れない――想い。

「なら、勝ちましょう。
 ――大丈夫。
 怯える心なら、私が全部燃やしてあげる。
 悲しい想いなら、私が全部温めてあげる。
 仄暗い未来なら、私が全部照らしてあげる。
 だから迷わないで。私はちゃんと、ここにいるから」
「ソナタ……」
「そう、私はソナタ。優しいあなたとお揃いの、優しい名前。

 だからあなたは――『優しい』ユウです。

 私は、誰よりも知っています。
 あの日あの時、炎の世界に降り立った、強いあなたを知っています。
 ゆえに、胸を張って誇りましょう。世界へ向けて謳いましょう。

 優しいユウが、最強です。
 そしてその背中を守る、私だって。
 だから、この戦士二人。
 ガーベラ程度に遅れを取る道理は、一切、ありません」

 微笑んで、少女はまっすぐにこちらを見た。
 両の掌でこちらの頬を包んだまま。
 ほんの少し目を細めて。
 気持ち小首を傾げるような格好で。
 見つめている。
 その瞳に映る自分の姿が。
 少しずつ大きくなっていき。
 やがて。
 あふれ。
 消えた。

「――――っ」

 重い意味の軽い音。
 消毒液の匂い。
 柔らかな熱。
 血の味。

 やがて、それらがゆっくりと遠ざかっていくのに合わせて、目を開ける。
 自分が反射的に目を閉じていたことに気づいたのは、それからだった。

「――なんて顔をしているんですか?」

 そう言われても、自分がどんな顔をしているのか、まるで理解が追いつかない。
 だから。

「勝利の女神が、一生で一度の魔法まで使ったのですよ」

 わかったのは、次いで紡がれた言葉、その意味だけだった。

「これで勝たなきゃ、嘘でしょう?」
「……っ!」

 ……この、嘘つきめ。
 はじめから、勝利を疑いもしていないくせに。
 世界のどこに、それを超える全身全霊の信頼があるというのだ。

 ――ぶるぶると、胸が心が魂が、何もかもが震え出す。

 怯えではない。
 悲しみではない。
 過去の疼きでもない。
 ただ、遅い。
 火が付いたように燃え立つ自分に、湧き上がる熱に、全てがついてきていない。
 だから震える。爆発寸前の火山のように、唸りを上げながら。
 このアンバランスに奮い立つ様を、東国では、こう呼ぶ。
 ――武者震い、と。

「ねえ、ユウ。帰ってきたら……私のもう一つの名前も、聞いてくださいね。
 あなたが神楽の優でもあると、話してくれたように。
 私の自慢の両親がくれた名を、あなたにだけは、知っていて欲しいから――」
「――ああ、約束だ」

 うん、と微笑んで、少女は最後の気合を入れるように、ぴしゃっと頬を張ってきながら、言った。

「いってらっしゃい」
「…………応っ!」

 ――風が、吹いた。
 少女はその強さに驚き、一瞬だけ目を閉じ、そして開く。
 すると、目の前にはもう、誰も居ない。
 ただ、締め切られていたはずの出入り口が開け放たれていて。
 壁に立てかけられていたはずの、斬破刀が――無くなっている。

「ふ……ふふふふふふ、あーっはははははは!」

 もし誰かが聞いていたら、傷に障るのではと心配せずにはいられないほど、声高く少女は笑った。心から愉快そうに、涙さえ浮かべながら。
 やがて笑いの発作が収まると、ほぅ……と、うっとりと夢を見ているような吐息を漏らし、にんまりと、悪戯が成功した子供そのものの顔で、こう呟いた。

「優しいユウが、帰ってきた――ざまあ、みろ……ガー……ベ、ラ…………」

 そして、満面の笑顔のままで。
 ネジの切れたゼンマイ人形みたいに、あっさりと。
 少女は、とさ、とベッドに倒れこんだ。
 そして動かない。
 きっと、少し頑張り過ぎて、疲れてしまったのだろう。
 寝息も聞こえないほど静かに。
 とてもとても安らかに、眠りについたようだった。

 ――開け放たれた出入り口から流れ込む風が、さらさらとその頬を撫でていく。

 そうしてひどく静かになったキャンプ内で、やはりしゅんしゅんと湯の沸く音だけが、いつまでもいつまでも、変わらずに響いていた――


                             ◇


「う……うううう……」
 歯の根が合わない。呼吸が上手くいかない。生きているのが難しい。
「ううううう……」
 頭の中はぐちゃぐちゃで。体はどこもぼろぼろで。心は芯までずたずたで。
「ぐぅ……ううううううう」
 なのに――どうしてオレは、こんなにも一生懸命に、駆けているのだろう。
「う……ぅああああああああああああああ!」
 わからない。
 わからない――けれど、それでも。
 止まれない。
 止まりたくなんか――無い。
 汗が張り付き、ざんばらの髪がそこに乗っかり、砂がざらざらと頬を舐めていく。不快さに頬を払ったところで、手甲の汚れと入れ替わっただけに過ぎない。
 僅かに群生した木々の間を突っ切る。
 ざざざ、とにわか雨のような音を受けながら、腕で木々を払い、絡みつくような草を振り払い、一心不乱に駆け抜ける。その途中、首筋の辺りを鋭い枝の一つが、じじ、と掠めた。
 その痛みさえ――遅い。
 まるで。
 まるで、この、無様な生き様のように。
「オレは……オレは、オレは、オレはぁ!」
 胸の中で飽和する感情の渦は、言葉未満の叫びにしかならないけれど。
 そこには後悔も怒りも自責も、消えずに残っているけれど。
 それでも、降り積もった激情の真ん中には、熱がある。
 理屈で無く自分を動かす、確かな熱が、宿っている。
「この……恥知らず! 無様! 卑怯者! それから……それ、から……!」
 何かが張り付いたような喉を潤そうと、唾を飲み込もうとするが上手くいかない。けほけほんと咽ながら、多分目の端に涙さえ浮かばせながら、それでも体は前へと、心は先へと、急き立てる。
 ――まったく、何を、やっているんだか。
 それは自嘲には違いなかったが、反面、とてつもなく素直な笑みでもあった。そのことに、本人はまだ気づいていない。
「ああ、愚か愚か……おまえならきっと、もっとずっと、気の利いた罵倒を用意出来るだろうに!」
 言ってから、微かに、口元を歪める。
「――否。そなたなら、、、、、、だ」
 そうと口にするだけで。
 熱を帯びた想いが、とくん、と波を打つ。
 これまで、努めて空っぽであろうとしてきた心の底に。
 少しずつ、確かな力が、溜まっていく。
「深く傷ついた……傷つけたんだ、オレが」 
 なのに、あの子は、笑った。
 ただ、当たり前のように、微笑んだ。
「罵倒してくれれば、情けない奴だと蔑んでくれれば、楽になれたのに」
 なのに、あの子は、怒った。
 ただ、後悔に潰れぬよう、檄を飛ばした。
「未来どころか今さえ見ずに、過去すら蔑ろにしてしまった、この阿呆を……!」
 なのに、あの子は、許した。
 ただ、あまりにも自然に、愛してくれた。
「だから……だから、終わらない! まだここでは、このままでは、終われない!」
 視界が開けた。
 砂塵の吹き荒ぶ不毛の大地は、何もかもを拒絶したような顔で、佇んでいる。ただ、そこかしこに、先の戦闘の痕跡が、まだ風化することなく残っていた。
 自然、足が止まる。だがそれは、呼吸の荒さを理由とはしていなかった。
 ――必ず、奴は再び、ここに来る。
 奇妙な話だが、それは、ある種の共感によるものだった。
 自身が、ガーベラに復讐を望んだように。
 ガーベラもまた、神楽に妄執を持っている。
 ゆえに。
 狩るか、狩られるか。
 それ以外の決着など、存在しない。
 その確信が、あった。 
「だから、ガーベラ! オレは――」
 そこで、不可思議な現象が起こった。
 叫びかけた白髪の剣士は、何かど忘れしていた大切なことを、ふと思い出したような顔をしたかと思うと、おもむろに、右手でゆっくりとこぶしを作り。

 ごがっ、と。

 盛大な音を響かせ、思いっきり、自分の額の中心を、打ち据えたのだった。
 つつ、と血が流れ、鼻筋を通りやがて口元へ差し掛かる。それを彼は指ですくい、一瞬口に含んでから――文字通り、唾棄した。


「――否。我は、、!」


 瞬間、変わった。
 いや、戻った、というべきか。
 そこにいたのは、ユウだった。
 紛れも無く、違えようも無く、優しい名前の剣士だった。
 かつて炎の世界に、護り刀の如く降り立ち。
 想い出も自身の名前さえも失った少女に、心からの笑みを与え。
 不器用ながらも、己に出来るあらゆることで以て、守り続けてきた男。
 恐らく世界で唯一、本当に対等な個人として、ソナタを扱い続けた存在。

 ――否。結局のところ彼は、他の誰よりも、炎の子供を尊敬していたのだろう。

 神楽の村の惨状。自分が自分であることさえ、出来なかった風の子供。
 炎の世界の惨状。自分自身を失ってでさえ、笑んで見せた炎の子供。
 重ねてみれば、わかる。
 炎の子供が。歳を比べれば当時の風の子供の半分にも満たない、少女というより幼女とでも形容すべき無力な存在が、いったいどれほどのことをやってのけたのか、ということを。
 そう。
 同様の惨状に身を置いた風の子供だけが、心の芯まで染み入る実感として、その意味を正確に理解出来た。
 あるいは劣等感さえ、感じうるほどに。
 ゆえに、周囲から何と言われようと――例えば変態などという不名誉極まりない称号を付けられてでさえ――彼は、炎の子供との接し方を変えなかった。そうと考えたことさえなかった。
 彼は、自覚さえ出来ないほどごくごく自然に、彼女に惹かれていたのだから。
 それはやはり、色めいたものではなく、自分が出来なかったことを成し遂げたモノへの畏敬に近い感情だったけれど、白髪になって以来復讐だけを掲げていた彼に、少なくとも一つのことを、思い出させたのだった。
 守る、ということ、その意味を。
 彼はかつて、ハンターになる彼女に、自分のハンターとしての姿勢を語った。けれどそれは、彼女が思い出させてくれたことに他ならなかった。
 だからこそ、伝えたかったのだ。復讐に身を焦がす自分のように、なって欲しくはなかったから。
 そのまっすぐな心根を尊敬し――誰よりも何よりも守りたいと、願ったから。
 それは未練のようなものだったのかもしれないし、純粋な好意だったのかもしれない。後ろ向きな罪滅ぼしであったのかもしれない。しれない、しれない。おそらくは、優しい剣士本人でさえも知れないのだろう。
 けれど今、たった今、彼は自身が何を望んでいるのかを、間違いなく、知っていた。
 驚くべきことにそれは、ガーベラに対するどす黒い感情を、さらに上回る強い欲求だった。
 それは獣が咆哮で示すような率直さで以て、言葉となって迸った。

「我は……取り戻す。あの炎の子供と肩を並べられるだけの、己自身を!」

 それは、宣戦布告だった。
 復讐を誓いながらも、心のどこかで『何も守れなかった自分自身』を諦め蔑んでいたことへの、三行半だった。
 そして。
 かつてその髪を白く染め抜いたほどの悲しみと、真っ向から戦うという意思の表明だった。

「親父様……鏡花……そして、神楽の血に連なる幾多の英霊たちよ。
 今また、見苦しい生き様を見せること、何とぞご容赦願います。
 そして、どうか目を逸らさずに見守っていて下さい。
 この未熟で無様で不甲斐ない神楽が――それでも顔を上げ、戦ういきる様を!」

 叫んだ刹那、大地が裂けた。
 抜刀すらしていない白髪の剣士の目に映ったのは、見まがい様も無い、真紅の刀角だった。
 必ず、奴は再び、ここに来る。
 そう考えていたのはガーベラも同じであり――さらに、機先を制す一手を講じていたのだった。
 待ち伏せ、そして奇襲。
 本来、人が飛竜を迎え撃つ手段のはずであるそれを、真紅の悪魔は惜しげもなく用いたのである。
 不毛の大地は、悲鳴を聞かなかった。
 ただ、空高く打ち上げられた人型のシルエットだけが、西日に照らし出されている――
 第8幕 〜嘘と炎〜
 ――きっと、私は悪い子なのでしょう。

 だって。
 私が意識を手放す直前に感じたのは、罪の意識では無く――ちゃんと騙しきれたという、心からの安堵だったのですから。

 この小さな胸に抱いた秘め事は二つ。

 一つは心の傷で、もう一つは体の傷。
 一つは永遠の嘘で、もう一つは期限付きの嘘。
 一つは決して見せられないモノで、もう一つはいつか見せたいモノ。

 その全ては。
 
 たった一人のための。
 たった一握りの嘘による。
 たった一つの冴えないやり方での。

 ――炎の子供の、戦いの傷跡。


                             ◇


 ――心の傷。永遠の嘘。決して見せられないモノ。


 それが活きたのは、ユウの口から神楽の村の惨状を聞いたとき。
 これに呑まれず。余裕さえ持って、笑み返せたこと。

 本当は、私にそんな強さなんてありませんでした。
 なのに出来たのは、そう。

 予め知っていたからこそ動揺しないで済んだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ただそれだけのことなのです。


 ユウが変貌した、あの日。
 人生で一番長い十日間が始まったあの時。

「フリージアさん」
「は……はい!」
「頼ります。あなたの力が必要です」
 
 ハンターギルドは異様なまでに門戸の開け放たれた組織ですけれど、いったん根付いたハンターの経歴までノータッチだとは、とても思えません。飛竜を倒すモノがただの人間を脅かせない道理は無く、全ての人間に自制の心と倫理が宿っていることを期待するのは、組織としてありえないお話だからです。

 だから私は、フリージアさんに。
 過去にそこで何があったのか、、、、、、、、、、、、、を正確に記した資料の提示を求めたのです。

 ひどく不意を突かれたような表情をした彼女は、ついで青ざめ、すぐに赤くなり、しばらくじっと私を見据えた後、苦笑を三つも並べてようやく元に戻ったようでした。
 きっと、『何を言われたのかわからない』『まさかそんな』『本気でそんなことを!?』の順で思考が移行した結果、『……覚悟の上か』とでも、結論づけたのでしょう。
 そもそも、ギルドの資料を外部に持ち出すこと自体が違反なわけですし、人道的にも少々どころでなく問題のある行為です。フリージアさんが抵抗を覚えて当然と言えます。
 けれど、彼女もやはり、ギルドが誇る受付け嬢。
 その精神の柔軟性と強靭さは、並ではないらしく。
 何かを悟ったような諦めたようなすっきりとした顔に、何か悪戯めいた表情を乗せて、潜めていても楽しげとわかる声で、こう言いました。

「――1週間、待ってもらえるかしら?」

 そして満面の笑みで応える私に向けて、さらにこう続けたのです。

「協力する代わり、と言ってはなんだけれど――」

 その見事と言う他無い切り替えの早さとしたたかさに。
 今度は私の方が、苦笑を浮かべる番となったのでした。

 そうして、努力と手腕により丸1日予定が縮まったらしい、六日後。
 私はフリージアさんの家に招かれ、毒々しいほど赤い字で『持ち出し厳禁』と印された資料の束を、文庫本一つ貸し借りするような気楽さで渡されたのでした。

「――本当に、それでいいのね?」
「ええ」

 それは、『不正に手を染めていいのか』という問いではありません。
 めくった1ページ目に掲載された、見知った顔の写真。
 併記された覚えの無い、、、、、名前。
 それに続く、個人情報の数々。
 つまりこれは、そういうこと。

「ソナちゃん、一つ聞いてもいい?」
「例の約束はもう果たしたはずですけれど」
「ええ、あれは私も満足のいく答えだったわ。これは別件、単純な疑問よ」

 軽く頷くと、フリージアさんは、思いのほか厳しい顔でこう言いました。

「私はあなたから話を持ちかけられたき、ユウくんの過去を知りたいのだと、、、、、、、、、、、、、、、思ったわ。手段の善悪はともかく、予め知っておくことには意味がある。もし彼の口から話をされることがあっても動揺しなくて済むし、何か対策だって考えられるかもしれない。有効性の高い、理に適ったお話よね。
 でもあなたはそうせず自分の過去の情報を要求した、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 ――そう。これは、私の情報が記された資料、、、、、、、、、、、
 炎の子供になる前の、優しい揃いの名前を得る前の、見知らぬ私。
 
「あなたの記憶の欠落は知っているし、その上で言うけれど。
 他の誰もがわからなくても、あなた自身はきっと本能的にわかってるんじゃない?
 思い出さないんじゃなく、、、、、、、、、、、思い出せないのでもなく、、、、、、、、、、、思い出したくないんだって、、、、、、、、、、、、
 外傷による記憶障害じゃなく、、、、、、、、、、、、、心を守るために閉ざされた記憶なんだって、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 どうして今このタイミングで、開けなくていい箱の蓋に、手をかけているのかしら?」

 説得というよりは、無謀な依頼を思いとどまることを、やんわりと勧告しているふうでした。
 けれど、私の答えは。

「ユウに必要なのは、辛い過去を一緒に悲しんであげることじゃありません」

 ぺらり、と。
 薄っぺらい紙を一枚、めくる音。
 記憶の蓋を自ら開く――覚悟そのもの。


ヒトはちゃんと過去にだって勝てるのだと生きた証を示すことです、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 
 見渡したページ。
 そこでは。
 あの日炎の世界で何があったのかが。
 あまりにも淡々と。
 どうしようもなく鮮明に。
 けれど平坦な文章で、淡々と、綴られ、て、い、て――


 ――死んだ――――
              ――――――違う死なせた――――
 ――――――――――お父さんも―――――――
                              ――――お母さんも――

             ――弱い私が死なせてしまった――

                  ――――悔しくて
――悲しくて―――――
                         ――――それでも何も出来なくて――

               ――――だから―――――


「――ナちゃ――――!? ――っかり――――――返事――て――!」

 声が遠い。
 私が遠い。
 頭の中で。
 心の中で。
 ダムが決壊したみたいに。
 私が崩壊したみたいに。
 ごうごうと。
 ぼろぼろと。
 流れていく。
 流されて、いく――


――――あの日――――
――――私は私を――――
――――死なせたんだ――――


                             ◇


 その日は6度目の誕生日。
 最高に幸せな日。
 皆が笑顔。
 私も笑顔。

 お父さんのプレゼントはお洋服。
 すぐに着てみせてくるりと回ると、顔中で喜んでくれて。
 お母さんのプレゼントはフルート。
 すぐに一緒に吹けるようになるわと、お祝いの曲を演奏してくれて。

 嬉しい時間。
 あっという間の時間。

 メインイベントはもちろんケーキ。
 大きなイチゴが6つ。
 立てたロウソクも6つ。
 私は大きく息を吸い込んで。


 ――吹き飛んだ天井を、その先の夜空を、不思議そうに見上げていた。


 紅蓮石の瞳。
 三日月が並べられた歯。
 その中で夜が蠢いている口。

 ――赤い、イキモノ。

 唸りを上げて迫ってくる夜と三日月。
 お父さんが立ち塞がって。
 ぞり。
 手足だけがごろん。
 
 ナニが起こったのかわからない。
 わかりたくない。
 そうだ。
 早く、ロウソクの火を吹き消さないと。
 
 でもお母さんが手を引っ張った。
 痛い。
 外へ走ってと言う。
 わかったと答える。
 でもお母さんは走り出さない。
 どうしてと聞こうとしたそのとき。
 両手を大きく広げたお母さんの向こうで。

 ――夜なのに、太陽が見えた。

 気が付くと。
 家だった場所はただ赤く。
 倒れているお母さんも。
 半分黒くて半分赤い。
 は、しっ、て、と。
 お母さんはもう一度だけ言った。
 答えずに私は走った。
 自分も赤くなるのが怖かったから。
 
 逃げて逃げて村の端っこ。

 振り返ったときには全部赤く。
 どうしようもなく赤く。
 大好きだったお父さん。
 大好きだったお母さん。
 赤は全部飲み込んでしまった。

 返してと呟く。
 でもダメだった。

 謝るからと告げる。
 それでもダメだった。

 何でもするからと叫ぶ。
 それなのにダメだった。

 どうしようもなくて泣いた。
 やっぱりダメだった。

 ――私のせいだ。

 私が逃げられなかったから。
 代わりにお父さんは赤くなった。
 私を逃げさせようとしたから。
 代わりにお母さんは赤くなった。
 そう思った。
 そうとしか思えなかった。

 ――こんな弱い私、いらない。

 だから消してしまおう。
 全部を飲み込むこの赤の中で。
 弱い心を消してしまおう。
 そしてそこから生まれ変わろう。
 逃げることなく戦うために。

 そう。
 今日は弱い私の6回目の誕生日。
 同時に。
 今日が強い私の最初の誕生日。

 洋服の裾を破って丸め。
 それを手近な赤に翳す。

 ――ハッピーバースディ。

 告げて一息に吹き消し。
 最高で最低なこの日。
 泣きながらでも笑い。
 震えながらでも立ち。
 私を終わらせ私を始めた。

 どこまでも赤いこの炎の世界に舞い降りた――炎の子供として。


                             ◇


「おはよう――気分はどう?」
「……またすぐ倒れそうなことに目を瞑れば、概ね良好です」
「それは普通、最悪って言うのよソナちゃん」

 全くでした。 
 実際、鉛を埋め込んだみたいな頭痛とか、ストライキを起こした胃袋周辺の吐き気とか、フリージアさんの部屋のベッドでのびていたという気まずさとか、窓の外がもう暗くなっていてびっくりとか、色々山積みだったのですけれど。
 でもそんなことは、問題にさえ、なりえなかったのです。

「……あ、すみません、ベッドに運んでいただいたりして、随分と御迷惑を――」
「はいストップ。そういうのはまず後回しにしましょ。
 子供が気ぃ使うのも半病人が無理するのもあんまりお勧め出来ないわ。
 どのみち、持ち出し禁止資料の件に比べたらどうってことないお話だしね?」

 ひらひらと手にした資料振りつつ身を翻すと、フリージアさんは背中越しに言ったものです。

「というわけで、これ返しておかないと首が飛んだりして色々アレだから、ちょっと一時間くらい出てくるわ。一時間よ。60分ジャスト」
「はあ」
「で、その後は一緒に食事して一緒にお風呂入って一緒に寝ましょ。オーケイ?」
「……泊まっていってもいいのですか?」
「レディには男に見せられない顔の一つや二つ、あって当然なのよ。じゃあまた後でね」

 がちゃん、ぱたん、と何の独創性も無いドアの開閉音がした後、当然ながら私はぽつんと一人になりました。
 そうして、呆気に取られるうち。
 ふらりと頭が揺れ、こてんと布団に突っ伏すのを、他人事のような無関心で受け止めながら、なるほどなあと思います。
 さすがはギルドの受付け、そしてレディとしての先輩。
 こういうときの気の遣い方まで、完璧なのでした。
 私にも子供なりの見栄もプライドもありますから。
 人前では、泣きたくても泣けないのです。

「……そっか。ユウはこんなの、、、、を、ずっと、ずうっと、独りで背負ってきたんだ。
 そうだね。確かにこれは誰かと分け合ったり、舐めあったりするようなモノじゃない」

 理解なんてされたくも無い。
 誰であれ触れることは許されない。
 そんな、心の真ん中にざっくり刻まれた。
 傷跡。

 でもきっと、それは無駄じゃない。
 無駄なんかじゃ、無い。

 こんなに痛いのは、それだけ大事なヒトが居たから。
 こんなに悲しいのは、それだけ大切な記憶があったから。

 ――だったら、無駄であるはずなんか、無い。

 覚えてる――いや、知っている、、、、、私は確かに識っている、、、、、、、、、、
 両親がくれたのは悲しみよりもずっと多くの笑顔だったと識っている、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 
 なら、この痛みの中。
 開いたばかりの心の傷とその血溜りの中心で。

 ――大事なヒトを誇ることから始めよう。

 大丈夫。
 もう二度と忘れないから。
 もう一つも忘れないから。

 どれだけ痛んでも。
 どれだけ辛くても。
 だって、私は――


「――お父さんとお母さんのことが、大好きなのだから」 


 ああ。
 もう一つだけ、思い出した。
 私は、こうやって。
 声を殺し、静かに涙を零す子供だったんだ――


                             ◇


 結局。
 その日ばかりか、なんとハントに出るその前日まで、夜はフリージアさん宅にお泊りすることになりました。
 というのも。
 格好よく覚悟なんか決めたところで、一気にどうにかなるものでもなく――最初に倒れた晩、ひどい揺り返し、、、、があったのです。精神的外傷を負ったヒトにまま起こるように、眠った後何度も過去の場面が繰り返し再生された結果、泣いたり引きつけ起こしたり過呼吸に陥ったりと、それはまあひどい有様でしたから、

「ソナちゃんはお早うからお休みまで私が面倒見るから、今日からお泊りするように!」
「でも、改良型強走薬とかを試しておかないといけなかったりしまして……」
「成長期前の子供がそんな危ないモノ飲んじゃいけません!
 私がやるからさっさと出す! 結果はきちんとレポートにまとめるから!」 
「えっと、御迷惑とか……」
「ガーベラ倒してくるんでしょ! それで貸し借り無しの恨みっこ無し!」

 こんな調子で、押し切られたわけでした。
 とはいえ、私はユウには絶対見せられないくらいの醜態を晒し続けたわけですし、てきぱきと適切な処理をして下さるフリージアさんの存在は、涙が出るほど嬉しかったと言えます。
 そして。
 私がひどい顔でぜいぜいと息を荒げながら飛び起きるたび、彼女は問うたものでした。

「――続ける? それとも止める?」

 叱咤するでも激励するでもなく、ただ意思と身を案じる言葉。
 だから私は、不恰好にでも笑い、胸を張って答えたのです。

「夢の、中で……何度でも、お父さんと……お母さんは……殺される、のです。
 でもね――その後、何度でも……ユウが、助けに、来てくれるのですよ」


 そう。
 後にユウの口から神楽の村の惨状を聞いたとき。
 これに呑まれず。余裕さえ持って、笑み返せたこと。

 本当は、私にそんな強さなんてありませんでした。
 なのに出来たのは、そう。

 あの日助けてくれたユウを、、、、、、、、、、、、今度は私が助ける番なのだと予め知っていたから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 でも、そんなことはおくびにも出さず。
 まるで、さもそれが当然のように繕いながら。
 あなたの背中を、そっと押すために。

 ――私は、何事も無かったような顔をして、嘘をつきましょう。


                             ◇


 ――体の傷。期限付きの嘘で、いつか見せたいモノ。


 一番危なかったのは、ガーベラとの戦いで、気を失ってしまったとき。
 もし、キャンプに運び込まれた私の目覚めが、あとほんの少しだけ遅く。 
 ユウが私の傷を確認出来るだけの時間があったのならば。
 少なくとも意識を失いつつある私は今、病院に向かって運ばれている最中だったでしょう。ガーベラよりも私を優先してしまったユウの腕に抱かれながら、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 薄っぺらい包帯で覆い隠しただけの嘘。
 それは危うくも渡り終えた細い綱で。
 小さな胸の大きな秘め事。
 

 そこに刻まれているのは――ガーベラの顔と同じ火傷の痕、、、、、、、、、、、、、


 そう。
 ハンノキさんがガーベラに重傷を負わされたのを目の当たりにしたとき。
 重厚な防具が容易く切り裂かれた有様を知ったとき。

 子供の私が纏える程度の防具では、ただの一度さえ防げないと直観しました。

 とはいえ、避けるというのも無理のあるお話です。
 子供の体で出せる速度は、どうしても大人のそれに劣ってしまいます。しかもガーベラはハンノキさんを含む4人を軽くあしらったわけですから、その速度は相当なものと想像出来ました。一か八かというよりは、確実に万に一つの領域のお話になってしまいます。

 だから。
 だから私は、諦めました。
 傷つかずに勝とうなどという都合の良い考えを、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 小さな体。
 どんなハンターより脆く。
 そしてどんなハンターよりも軽い体。
 

 ――ならば、爆発で誰よりも速く吹き飛ぶとは思いませんか、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


 そうと告げられて吹き飛んだのは、もちろん、空前絶後なオーダーを受けた工房の皆さんの常識とかだったようです。
 何故いつものように篭手で火薬を爆発させて飛ぶことを考えないんだていうかそんなの防具じゃねぇよ、という意味の言葉の集中砲火を受けながら、私は順に説明したものです。

 まともに避けたところできっと攻撃には繋がらないこと。
 相手が勝利を確信した決定的な隙を突くための手段だということ。
 何よりこの戦いはどんなことをしてでも勝たなければならないということ。

 そして――あなたたちの腕ならば、私の命を賭けられるのだと判断したということ。

 結局。
 レディの口説き文句はそれなりに功を奏したようで。
 出来上がった胸当ては三層構造。
 外層の志向性爆薬で私は刀角より早く空を飛び。
 中層の液体火薬を攻撃の下準備としてぶちまけ。
 下層がぎりぎりで爆発の衝撃と熱から守ってくれるという。
 無茶な要求を見事な形にした逸品と言えるでしょう。

 ただ、製作にあたったカポックさんは、最後の最後まで納得していないようでした。
 それは防具の出来という意味ではなく、根本的な部分において、です。

「……結構、馬鹿なのは、ソナタ」

 大正解。
 こんなの策戦とは言いません。普通は特攻と呼ぶでしょう。
 ユウを死なせないがために自爆じみた真似をする、確かに馬鹿丸出しです。
 でもね。

 ――賢しさで誰も守れないくらいなら、私はきっと、馬鹿でいい。

「……わかった。頑張るは、ソナタ。応援するは、オレ。
 でもオレ……やっぱり、嫌うが、あいつ……」

 何だか、カポックさんの中ではユウが悪者になってしまったようでした。


 そんな紆余曲折を経て得た力は、相応の傷と戦果を、確かにもたらし。
 ユウをもう一度立ち上がらせるという、当初の目的を果たすことが出来ました。
 けれど、もしこのことを――最善でも相撃ち覚悟で臨んだなんていうことを――ユウが知ったとしたら、確実に自分自身を責め、何を差し置いてでも、私の治療を優先させてしまうことでしょう。
 それでは、ユウは負けないけれど勝つことも出来なくなってしまうから。
 だから今は、この嘘もこの傷も、私の小さな胸一つに留めておくことにしましょう。

 大丈夫。
 嫁入り前のレディを傷物にした責任は、ちゃあんと、取ってもらう予定なのですから。

 いつか――というほど遠くは無い日。
 この傷ごと、私の全てをあなたに見せられるときが来たとき。
 鈍いけれど鋭いあなたは、一目で全部、理解することでしょう。
 そうしてただでさえ渋い顔をくしゃくしゃにして、何も言わずじっと耐えるのでしょう。
 だからそのとき、私はきっと。
 あなたを抱きしめながら、こう言うのです。

 ――この傷は、私の誇りなのだと。

 そうして、くしゃくしゃな顔のままであなたが笑ってくれるとしたら。
 それはきっと、とても幸せなことでしょう。

 さあ、そんな日が来るのは。
 五年後?
 十年後?
 それとも明日にでも?

 ……まあ本当は、十日間空いた分、今すぐにでも甘えたい気持ちもありますけれど。

 今は我慢して待ちましょう。
 あなたが誇らしく帰ってくるのを。
 そして。
 私が全てを話せる日を。

 胸と心を躍らせて。
 もう逃げられない罠をかけ。
 あなたの笑顔を脳裏に描きながら。

 ――私は、何事も無かったような顔をして、嘘をつきましょう。


                             ◇


 そうして私は、嘘をつき騙し尽くせたことにほっと安堵を覚え。 
 残っていた僅かな意識を手放すことにしたのです。

 もちろん、本当はまだまだたくさん、心配すべき事柄はあります。

 それは例えば、首尾よくユウがガーベラに勝ったその後のこと。
 岩竜と鎧竜を真っ二つにし、ギルドから危険視され始めているユウが、もし、ガーベラまで両断することがあったら、さて、どうでしょう。
 ハンターの手柄話に尾ひれが付くのは珍しくありませんから、今までは半信半疑といったところだったのかもしれませんけれど。

 ハンノキさんたち四人のハンターを退けたガーベラ相手なら言い訳は利きません、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 そうなれば文句無しの問答無用に、ユウは危険人物認定。
 本人は『村八分か』とか呑気なことを言っていた覚えがありますが、もっと能動的な危険――早い話が暗殺やら闇討ちに類すること――だって、充分在り得るお話です。
 その対策として逃走用に強走薬を改良しておき、念のためユウ本人に最終実験を施したりもしましたけれど、こんなのは、あくまでその場凌ぎでしょう。まさか今のユウに手加減して戦ってもらうわけにも行きませんし、根本的な解決策の無いまま、見守るしかないということです。

 そして、それ以前にして最も大きな問題――ガーベラ。

 残っているダメージの大きさにしても地の利にしても、依然としてガーベラに分があります。というより、あんな調子で走っていったユウの足は、いきなり傷が開いているかもしれません。

 三度目の勝負。
 純粋なコンディションだけで言えば、今回が一番不利な状況と言えるでしょう。

 けれど。
 それら全てを承知した上で。
 私は何の心配も無く安堵さえ覚えているのです、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 いくら問題山積みだろうといかに不利だろうと。
 何故でしょう。

 ――ユウが負けるという発想が、そもそも出てこないのです。

 それは私の、子供じみた幻想かもしれませんけれど。
 仮に。
 もしもガーベラが、ここで待ち伏せなんていう策を打つことがあれ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ば。
 不意をついて襲い掛かるという謀略に頼ったならば、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 もう、その時点でガーベラは、負けているでしょう。

 自分が有利な状況で。
 相手にダメージの残る状態で。
 本来格下が逆転を狙って行う策待ち伏せを用いたとしたら。

 ――ガーベラは、何をそんなに不安がっているのか、ということになります。

 それはきっと、私の安堵と同じ意味で真逆のこと。
 ガーベラは――ユウを恐れているのです。
 何故かなんて、考えるまでもありません。

 ――獣が怯えるのは、自分の勝てない相手と遭遇したからに決まっています、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 あるいは、二回目の戦闘開始時のように、不敵に堂々と、その身を晒して来るくらいの気概があれば、良い勝負になるのかもしれませんが。

 さあ。
 ガーベラははたして、どちらを選んだのでしょうか。
 どちらにしても何にしても、確実なことは唯の一つ。

 ――今のユウは、強いですよ。

 にっこりと笑みを浮かべ。
 私は最後の意識が溶け消えていくのを感じました。

 ……あれ、そういえば。
 一瞬で過去の出来事があんなふうに巡るのを……何ていうんでしたっけ。
 確か……東国の言葉だから……あとで、ユウに…………聞…………


 ――暗転。
 第9幕 〜いまひとたび風ははしりて〜
 ――立って、おりました。

 真紅の刀角で跳ね上げられたはずの、獲物が。
 それ自体は驚愕に値することではありません。ガーベラとて、かつてその刀角を防がれた覚えが全く無いわけではないのです。あの雷を帯びた刃物を抜き払って防いだ、と考えれば、得心は行くというものでした。
 ただ、問題は。
 その獲物は、宙で慌てず騒がずくるりとトンボを切って体を立て直すや、この場でもっとも危険な凶器――真紅の刀角の切っ先に、音も立てずゆるりと着地してみせた、ということでした。
 並々ならぬ自負を持つ凶器をこんな形で制されたことは、かつてありません。信じられない風情で鼻先――正確には角先――の獲物を見据えるガーベラでした。
 ところが。
 当の獲物は、そこから攻撃に転じるでもなく、視線さえ宙に向けたまま、独白のように何かを呟いているようでした。
「ああ――つまるところは、そういうことなのだな」
 自分が今どこにいるのかをすっかり忘れたような、聞き様によっては暢気な言葉でした。けれど、微動だにしないガーベラの緊張が示すように、それだけでは、ありえないのです。

「何のことは無い。鏡花も親父様も――おまえに負けてなど、いなかった。
 己の為すべきことを為した二人は、決して、絶望に沈んだわけではなかったのだ」

 だって、笑っていたのだから。
 朽ち行く命を、次に続くモノのために、燃やし尽くした人も。
 脆弱な力を、守るべきモノのために、精一杯振るった人も。
 最期は、まっさらな、心よりの笑顔をくれたのだから。

「あの顔は――まさしく、やり遂げたモノの誇りそのものだった」

 仮にガーベラが人の身であったとしても、その表情の意味を読み取ることは出来なかったことでしょう。何かを得た代わりに何かを失ったような、笑いながら泣いているような、表が裏返り裏が表返ったような、ひどくアンバランスな感情が同居しているのでした。

「だが、我は、そう思いたくなかったのだな。
 二人の無念を晴らすのだと自分に言い聞かせなければ、前を向くことさえ出来ないほどに――弱かった。弱いという事実さえ、受け入れられなかった」

 一番尊敬した人。
 一番好きだった人。
 失って平気なほど、強くなんかなかったくせに。

「誇らねばならなかった、背負わねばならなかった、忘れてはならなかった。
 なのに、我には、出来なかった。この苦しみが、ただ自分だけのものであると、認められなかった。逃げたのだ、復讐という二文字に。さも二人が悲しいだけの命であったように、偽ったのだ」

 もっと泣いて、もっと悔んで、それが全部終わってしまってから。
 ちゃんと、顔を上げれば、よかったのに。
 痛い苦しいと、言っても、よかったのに。
 近しい誰かに、寄りかかっても、よかったのに。

 ――でも、そんな素直には、出来なかったから。

 表情を殺し心を死なせ思い出を屠って。
 わかっていたはずのことさえ、忘れたふりをしたままで。
 やり場の無い思いを、復讐という心地良い衣に包んで、誤魔化してきた。
 賢しい子供が、ただ、良い子であろうと無理を重ねるみたいに。
 自分自身を、ひたすら蔑ろにし続けたままで。

 ――でも、もう、終わらせよう。

 初めて鉄の刀を手にしたときのように。
 心を、一歩、踏み出そう。


「敗北者は――ただ、悲しみから目を背けて生きようとした、我のみであったのだな」


 たった一つの、小さな間違い。
 それを認めるためだけに、なんて、遠回りをしてきたものでしょう。
 見上げる空は、不吉なほどに美しい黄昏を宿しておりました。
 それはとても澄み渡っていて、でも、故郷の空とは全然違っていて。
 何だか、随分、遠くにきたものだな、と思いました。
 そして。
 口を真一文字に結びなおし、目の前の敵に移された視線に。
 もう、迷いは、ありませんでした。

「ガーベラよ。この刀角……他に類を見ない異様は、亜種の中の亜種、といったところか。
 おまえは確実に、スタート地点から、よほど恵まれていたといえるのだろう。
 だが――その力で、何か一つでも、他の飛竜では得がたいモノを勝ち取ったか?
 ……否。答えを聞くまでもなく、断じて、否。だからこそおまえは、今ここにいる。
 獣の本能と真紅の乾きに浮かされたまま――どこへも辿りつけずに、な」

 奇妙な形で張り詰める空気の中、ユウは、ガーベラを見据え、断じました。

「おまえは鉄の刀に浮かれる子供に等しい」

 ――そう、かつての自分のように。
 己の手柄では無しにただ『与えられた力』に酔い浮かれ、まるで変わっていない自分自身には気づきもしなかった、そんな、迂闊。
 けれど、ガーベラのそれとは決定的な違いがあったことを、ユウは知っています。
 自分には、鏡花が居てくれたということを。
 たったそれだけの、けれど彼岸よりも遠い、この圧倒的な差を。

 ――見せてよ。キミ自身がどう変わったのかを、ボクに。

 真っ直ぐにそう呟かれたのは、もう、とても遠い記憶のように思えましたけれど。
 あの日真白な花に誓った想いの熱は、今でも、胸の奥に何かを残してくれている気がするのです。まるで、炎の子供の微笑に潜む、戦士の魂にも似た何かを。

「我をこの場に立たせている神楽の二人は……果てるそのときまで、笑っていた。
 信じられるか? その身を、命を散らせてまで貫く、そんな意志があるということを。
 わかるか? 己の後に続くモノを信じ、全てを任せて笑う、そんな強さがあるということを。
 ああ……信じられまいよ、わかるまいよ。
 ただ与えられた力を翳すだけで、振り回されていると気づけぬおまえには!」

 ――忘れるな。神楽の太刀は刃にあらず。その折れぬ心だということをッ!
 その言葉の意味が、今ならば、ようく分かります。

「おまえはすでに、負けていた!」
「……!」

 ガーベラは発作的に刀角を振り回し、振り落としにかかりました。
 それは、一瞬でも早く一歩でも遠く、ユウを遠ざけたいという一心から生まれた行為だったのですが、ガーベラ自身、そのことに気づいてはおりません。
 気づけば、認めなければならないからです。
 その言葉に――気圧された、と。
 ガーベラが動くより刹那に速く、自ら跳躍していたユウは、宙空で太刀を抜き払いました。

「二人の神楽の強き意志の前に、とうの昔に負け尽くしていたのだ!」

 雷光一閃。
 遅れて風切る音、次いで着地。
 半瞬後に舞う、真紅の飛沫。
 そして怒号。

「おまえは神楽と対し、いつまでも消えぬ傷の痛みと心根の渇きを刻み込まれ。
 いつしかそれを消してやると――神楽を根絶やしにしてやるとでも、思ったのであろう?
 
 なのに、二度と、神楽の村に近づくことさえしなかった。東国から、去りさえした。

 その行為が敗北で無くて恐怖で無くて逃走で無くて――いったい、何だと言える?
 神楽の影に怯え、仮初めの真紅で己を誤魔化し続けた、心弱き哀れな飛竜。
 それが、ただそれだけが、ガーベラと呼ばれる存在の全てであったと知れ、蒙昧っ!」 

 ひうん、と刀の血を払い、

「その弱さを認められぬおまえもまた、敗北者だ。
 我と同じく、弱き己から目を逸らし続けた、ただの、敗北者だっ!」

 振りかぶり、大上段に弧を張り。

「ゆえに、この戦いに勝利者などいない。意味も意図も意義も無い、一介の殺し合いに過ぎぬ。 敗北者同士の、無為で無意味で無様に過ぎる、馬鹿げた意地の張り合いだ。
 ……それでも、我は。
 復讐にさえ値しないと、知った上で。
 殺してでさえ気は晴れぬと、わかった上で。
 誰も何も帰って来るはずがないと、理解した上で。

 ――斬る。
 
 何かを護るためでもなく。
 何かを得るためでもなく。
 ガーベラという存在を終わらせ、我の弱き心を両断する、そのためだけに!」

 三度目の正直。
 仏の顔も三度まで。
 二度あることは――三度、ある。
 優しい名前の剣士と。
 真紅の刀角の飛竜と。
 その三度目にして最後の勝負の幕が。
 沈みかけた西日をスポットライトに、上げられたのでした。
 今度こそ何もかもに幕を引く、そのために。

「――否。我の勝利の女神を傷物にした分は、無論、覚悟してもらおうか」

 そして。
 そこからまた、何かを始めるためにこそ。
 新しい風は、はしり始めたのでした。


                             ◇


 ――神楽が来る。
 間違い無く、違えようも無いほどに、純真無垢の神楽が来る。
 我を退かせたモノ――神楽。
 傷痛ませ心渇かせるモノ――神楽。
 その真紅だけを望んできたというのに。
 この傷の痛み、この心根の渇きを潤すことだけを欲してきたというのに。
 何故……何故、こんなにも――

「――神楽一刀流・迅雷上月!」

 目標が消え、突き立てるはずの刀角は空を斬る。
 否。
 斬られていたのは、こちらの方だ。
 いつすれ違ったかも判らぬ間に、腹をざっくりと斬り裂かれている。
 ……違う。
 明らかに、先までの、獲物とは違う。
 速さが増したせいではない。動きが研ぎ澄まされたせいでもない。
 もっと根本的な、何かが。
 そう――奴の『神楽』が、圧倒的に、増している!
 だが、しかし、この技は。
 すでに以前、見たものに過ぎない。凌駕したものに過ぎない。
 ならば怖れるべきことなど、何も無い。
 ……怖、れる?
 馬鹿な。そんなことは、在り得ない。在って、なるものか!

「グオオオオオオ!」

 突進に見せかけ、直前で血の束を高速で飛ばし――射程外から、斬る。
 あの傷ついた足で、避けきれるものではない。
 事実、そうなった。
 獲物は避けようともせず、しゅん、と腕を振るい、告げた。

我もその技は以前に見た、、、、、、、、、、、

 目の前に、小さな球が投じられ。
 直後、炸裂。

「ガゴアア!?」

 光の奔流が、網膜を焼いていく。
 たまったものではない。
 回復の時間を稼ぐため、地面の中へ身を隠すことにして――

「それを指して、迂闊と言う」

 獲物の語尾を書き消すような爆発音が、耳元を殴りつけていった。
 ごうごうと頭で渦を巻く血の音以外、もう、何も聞こえない。
 前後がわからない。上下も不明瞭だ。自分は一体どこにいる!?
 そうして暴れ狂う四肢が、冷静に冷徹に、斬り裂かれていく。
 痛みだけが、気が狂いそうなほどに鮮明だ。

 ――これは、神楽か!?

 殺しても殺しても、静かに刃を呑み、最後の一片まで立ち上がり這い上がり向かってくる、そんなおぞましい概念が、神楽では無かったのか?
 ならば、この目を眩ませ耳を塞がせる戦いは、いったい、何だと言うのだ?
 いや……そうではない、そうではないのだ。
 これは、神楽だ。間違いなく、かつての記憶の比ではないほどに、圧倒的な、神楽だ。

 ――なのに、それだけでは、無い。

 別の『何か』が、あの獲物の中に、息づいている。
 神楽とは、まるで趣を異とする、何かが。

「神楽としてのオレ、、を指して曰く――
 ハンターとしてのを指して曰く――ユウ、、
 片方を肯定するために、他方を否定する……そんな必要は、無かったのだな。
 あなたは優しいユウ、、、、、なのだと、それで良いのだと、ソナタは教えてくれた。
 ああ、どちらも、『本当』だ。
 遠回りをしながらでも歩み進んできた、自分そのものであったのだ」 
 
 やっと、朧気に周囲を映すようになった右目は、すぐさまに暗転した。
 衝動的に目を瞑ったのだと、一瞬後に意識が追いつく。
 ……今、何を、見た?
 血塗れのまま、悪鬼のように――頬を奇妙に歪めた、アレは何だ?

「さっさと来い、ガーベラ。
 その真紅の刀角、その悪魔の謀略、おまえの全て凌駕し、終わらせてやる」

 ぞわりと脳髄を侵し血液を凍えさせていく、この不快な存在は、いったい――


                             ◇


 左足は、やはり応急処置では不十分だったようだ。もうほとんど感覚が無い。
 この分では、もう、すでに神経なり腱なりがダメになってしまっているのかもわからない。

 ――構うものか。

 血も、随分と流れ出てしまっている。視界の端が、徐々に暗く狭くなってきたようだ。
 ひょっとしたら、もうすぐ、意識を保っていられなくなるのかもわからない。

 ――問題無い。

 ガーベラは身を退き、やや間合いを開けた。
 臆したのかもしれない。何か策を講じたのかもしれない。
 どちらともしれない、どちらでも無いのかもしれない。

 ――同じこと。

 いこうか、と斬破刀に呼びかける。
 応ッ、という言葉の代わりに、静かに電光が二度、煌めいた。
 心地良い。
 手が刀になったようだ。
 刀が手になったようだ。

 ――ならば今の我らは、きっと、護り刀そのものだ。

 無事な右足で大地を蹴る。
 同時に、斬破刀を地面に突き立て、命じる。
 爆ぜろ、と。
 刹那、切っ先に集まった雷が、轟音と共に炸裂した。
 弾丸のように押し出された体の後を、残光が流星のように尾を引いていく。
 たちまちに、肉薄。
 ガーベラの驚きの表情さえ、遅い。
 八双に構えた直した刀を、袈裟斬りに薙ぐよりまだ遅い。
 雷光一閃。
 かつて、神楽の少女が刻んだ傷跡をなぞるように、真紅が咲いた。

 ――鏡花。おまえと同じくらいの大事が出来たと言ったら、怒るか?

 いつか、必ず聞きに行こう。神楽の村が一望出来る、山の上へ。
 あの日約束を交わした、白い花を携えて。
 隣で微笑む大切な人と、一緒に。

「グオオオオ!?」

 二、三歩とたたらを踏んだガーベラは、それでも体勢を立て直し、すぐさま地面を潜っていった。
 踏み込み、もう一太刀浴びせることも、不可能ではない。
 が、そうはしなかった。
 ――何なりと、仕掛けてくるがいい。
 そうしてその全てを凌駕して。
 過去の自分自身を乗り越えて。
 何もかもを、終わらせてみせるのだから。

 土煙が消え、台風の目のような、一瞬の静寂が訪れる。
 脳裏をよぎるのは、初めて逢ったあの日のこと。

 ――今度こそと、思ったっけ。
 誇り高く穢れを知らないその魂を、小さな戦士、と呼んだとき。
 本当は何よりも先に、声高く叫びたかった。
 生きていてくれて、ありがとう、と。
 今度こそ、この手で誰かを守ってみせるのだと。
 少年のように純粋に願った、炎の子供との出会いの日――

「ヴァアアアアア!」

 ガーベラが出でた場所は背後。
 中空に舞い上がり、かつその背に西日を背負っている。
 先に、閃光玉で視界を塞がれたことへの意趣返しでもあるに違いない。
 その悪魔じみた謀略は、なお止まることを知らないようだ。
 ――だが、それで、良い。
 左に体を捌き、刀角からその身を避ける。
 すると、目の前に、凄まじい勢いで尾が迫ってきた。
 鉄槌じみたそれは、あらかじめ逃げる方向を予測していたとしか思えない動きで、すれ違いざまに絡みつくように、迫ってくる。

 ――避けるは逃げるに有らず。

 受けるでも無く、むしろ尾の迫る方へ、最短距離で飛び込み、

 ――だが撃つは護るに然り。

 流れるように、一閃。
 ずぞ、と砂を削ったような音がして。
 自然が生み出した大槌は、絶叫を従えて宙を舞い、力無く大地に堕ちた。

 ――攻防は一対にして一体と、その身を以って知るが良い。

 これは、親父様が残してくれた技。
 優しい名前をくれた人の、もう一つのプレゼント。

「ゴ……ぅアアアアアアア!」

 一瞬で武器を一つ、完全に奪われた焦りからか。
 それとも、再び策を練り戦法を変えてきたのか。
 落下の勢いそのままに地面へ潜ったガーベラはすぐさま反転し、真紅の刀角を大地に覗かせたまま、突進してきた。かつて、神楽の民を、片端から切って捨てたときのように。

 ――音爆弾で、迎撃することも出来る。

 刹那に思考を巡らせる。
 だが、そうはしなかった。
 したく、なかったのだ。

 ――言いましたよ、ついさっきも。逃げたりなんかしないって、、、、、、、、、、、、
 また誰も守れないのかと、この身を呪いさえしたその瞬間に。
 そう嘯いて、炎の子供は駆けて行った。
 小さなその身で、戦うために。
 一直線に、迷い無く、笑みさえ浮かべたままで。
 打ち震えるほど凛然と在った小戦士と、初めて肩を並べて戦った日――
 
 やって、みせよう。
 まだソナタのように、上手く微笑むことは出来ないけれど。
 今ある限りの、精一杯の自分を弾ませて。
 一直戦に、迷い無く、打ち勝とう。

 迫る砂塵。

 その距離、9m。
 それでも、心には小波さえ立つことは無い。
 ゆるりと、大上段に弧を張り、待つ。

 その距離、6m。
 ただ一撃の威力のみを頼りとする、捨て身の一手。
 かつての同じ試みは、刀を折られての、負けに等しい相討ちだった。

 その距離、3m。
 けれど、何故だろう、今は。
 負けるどころか、勝てない理由が見当たらない。
 とても心が静かで、どこまででも自由に広がっていけるような心地がする。
 真新しい鉄刀を携えて野を駆けたときのような――真白な想いで。

 その距離、零。
 轟いたのは、電光。
 砕けたのは、大地。
 吹き飛んだのは、その下に潜んでいた巨体。

 轟音と衝撃で方向を失い、中空へと逃げ場を求めたガーベラは、見た。
 否、これ以上無くまざまざと、残った右目に焼き付けられた。

 ――目の前に、神楽が、いた。

 悪魔の如き脳髄は、気づく。嫌が応にも気づかされる。
 斬破刀の雷が放たれたのは、その斬撃が、大地を切り裂いた後だった、、、、、、、、、、、、
 つまり――その轟音で地の底からガーベラを叩き出し、同時に、己が宙へ舞い上がる力として利用したのだ。この逃れよう無い中空で、決定的な追撃を加えるための――策として、、、、
 
 は、か、ら、れ、た。

 その五文字をガーベラが脳裏に焼き付ける間に、二閃。
 退化したとはいえ、飛竜の存在意義である一対の翼が、完全に失われたのだった。

 しかし、それでもガーベラはやはりガーベラだった、というべきだろうか。
 翼を切り裂かれた直後、その身が落下を開始するより刹那に速く。
 刀角の圧倒的な長さを利用して、捨て身の一撃を見舞ってきたのだった。
 ――避けられない、流せない、受けるので精一杯。
 炸裂。
 一旦受けてしまえば、質量の差、単純な鈍器としての威力の差が全てを決する。
 舞い上がったときの倍の勢いで迫る大地。
 何とか体勢を整え着地する――が、ズン、と内臓までを揺らす衝撃に、傷ついた左足は、もはや耐えられなかった。ぶば、と苦しげに血を吐き出し、重力の導くまま、膝は大地に引かれていく。

 ――その大地が、大きく鳴動した。

 見れば、無理な体勢で反撃を試みたガーベラが、まともに背中から落ちたのだった。
 骨格上、飛竜は普通仰向けになることが出来ない。アーチ型の背骨で以ってその圧倒的な自重を支えている以上、逆方向への反り、というものに対して極端に脆いためだ。
 ゆえに、背中からの落下、というのは、それだけで致命傷となりうる。
 下手をすればそのまま、脊髄から真っ二つにさえなるだろう。

 だが、ガーベラは、立ち上がろうとしている。

 全身を震わせ、雄叫びを上げ、なおも真紅の刀角を振り翳さんとしている。
 それは獣の本能か、あるいは神楽への執着か――恐らくガーベラ自身にもわかるまい。
 しかし、そんなことはすでに問題ではないのだ。
 勝つか、負けるか。
 その単純にして究極の選択が今、目の前に広がっている。
 ならば、立つ。立つ以外に、道など無い。
 それをあの真紅は、わかっているのだ。

 ――その意や、良しっ!

 負けじと、沈黙しかけた左足に檄を飛ばす。
 もう痛みさえ感じ無い。熱いような染み入るような、漠然とした感触があるだけだ。
 それでも、動けと、命じ続ける。
 斬破刀を杖代わりにすることなど無しに。
 自らの力でしっかと大地を捉え。
 勝負の舞台に立つために。
 下らない意地なのかもしれない。
 それでも。
 この下らない意地を通さなければ、進めない。
 あの日止まった時間から、進めない。
 だから。
 ただ、信じるだけだ。
 命を散らせてでさえ、守ってくれた人たち。
 全身全霊で以って、目を覚まさせてくれた人。
 そんな人たちが信じてくれた自分を、今。

 ――何よりも、誰よりも、信じ抜いてみせる!

 念じた刹那、視界が一瞬、明滅した。
 出血のせいかと頭を振った、その瞬間。


 目の前に、少年が、いた。


 黒髪で、折れた刀を携えた仏頂面の少年が、じっと、こちらを見据えている。
 寂しそうな顔で、けれど、泣き出すことも出来ないふうに。

 『それ』はおそらく、あの日から時を止めてしまった、弱き心そのもの。

 心の深奥、あるいは、まっさらな自分、とでも言うべき『ユウ』としての中心部分。
 普段は幾重も薄紙のような壁に包まれていて、他人の目に触れることはおろか、自分自身と向き合うことさえなく、ただ、深くて仄暗い場所に沈めてあるはずの代物。
 『それ』が、今、目の前にいる。

 ――いつも、そうやってボロボロになるんだね、あなたは。

 少年は静かに言う。何だかひどく感情の希薄な、同情とも呆れとも取れる響きだった。

 ――そうして心も体も擦り減らせて生きるのか。いつかその身が消えうせる時まで。
    ……いったい、そうまであなたを突き動かす力は、どこから湧いているのかな?
    護り刀、復讐、ただの意地……どれでも構わないし知ったことでもないけれど、
    一番初めにあなたに『守ること』を意識させ、刀を握らせるに至った、
    『ユウ』という存在の原初とでも言うべき代物は、いったい、何なのかな?

 少年はやはり静かに言う。問いかけというよりは、独白そのもののように。

 ――我の、始まりの、記憶……。

 白髪の剣士は考える。
 物心ついたときにはもう、自分は護り刀になると言っていたのではないだろうか。いずれ霞み行く純真さで以って、目に映るものだけが全てだと、当たり前のように信じながら。
 そう。
 小さな世界の小さな幸せだけを、ただ守りたくて―― 

 ――ああ、そうか。
    我は大好きな人たちを守りたかった。その笑顔がいつまでも続くよう願った。
    でも、それだけでは、半分だったのだな。

    我も、また、笑いたかったのだ。

    皆と一緒に、空に届くくらい大きな声で。ずっとずっと、いつまでも。
    それが、ただそれだけが、幸せであると、知っていたから。

 それが、原初の、覚悟。
 大切な人を、その幸せを、守る。
 そうすることで、自分もまた、幸せであり続ける。
 子供らしい、とても欲張りで我が侭で、そのくせどこまでもまっすぐな願い。
 だが、それで、良かったのだ。
 大人になり、世界が自分の目の前以上に広がっていることを知れば、自然、折り合いと妥協を覚える。そうしなければ世界に適応出来ず、生きていけないから。だから夢の代わりに知識を詰め込み、感情を抑えて理性にすがる。それが成長するということだから。

 でも、幼き日に抱いた想いは、きっと、間違ってなんかいない。
 
 出立を前に、炎の子供は、言った。
 「あなたが覚悟と呼んだ『それ』は――本当に、そうと呼べるモノですか?」と。
 その意味が、今ならわかる。
 あの恐るべき少女は、風の子供の如き幼い想いそのままに、やり遂げようとしているのだ。
 ずっと、一緒に、どこまでも。
 ただそれだけのまっすぐな願いを遂げるために、ハンターになり、飛竜を屠り、傷つくことさえ厭わずに白髪の剣士の目を覚まさせた。
 きっとこれからも、曲げること無く貫き続けるのだろう。それがどれだけ困難であろうとも、凛然と笑顔を湛えたままで。
 それこそが、真に覚悟と呼ぶべき。
 揺るがない、想いのカタチ。

――負けてなど、いられない。

 大切な人を、守る。
 そしてもしも、自分が傷つくことで、大切な人まで傷つけるのであれば。
 この身さえも、守ってみせる。
 そう。
 自分を捨てるのは、勇気ではない。
 命を投げ出すのは、覚悟ではない。
 何故ならば。
 そうして大切な人が生き延びても。
 その心が死んでは。
 その笑顔が失われては。
 本当に守りたかったものが亡くなっては。
 意味なんて、無いのだから。
 だから、言える。
 この我が侭な自分を、貫くことこそ勇気。
 不様に足掻いてでも、生き抜くことこそ覚悟。
 ならば、為すべきことは、単純にして明快だ。
 我らが前に立ち塞がる、全ての禍を払い、乱を沈め。
 誰も傷つかせずに。
 自身さえ傷つかずに。
 どこまでも、圧倒的に――勝つ。

 はたして、それは、とてつもない困難を伴うモノだろう。
 ただ勝利する以上のモノを、常に、掴み取ろうというのだから。
 だが、元より、難しいから諦められるほど物分りの良い性質ではないのだ。
 やってみせる。
 無理でも遂げる。
 無茶だろうとやる。
 無謀など承知の上だ。

 ――想いだけでは、守れないよ。
 少年は言う。どこまでも胸に痛い言葉を。
 けれど。

 ――知っている。そうして我は、鏡花を失ったのだから。
 この痛みから、もう、目は逸らさない。

 ――力だけでも、守れないよ。
 少年は言う。どこまでも心を抉る言葉を。
 けれど。

 ――知っている。そうして我は、ソナタを傷つけたのだから。
 この弱さから、もう、逃げはしない。

 だから。

 ――力だけでは真紅に堕ちる。
    想いだけでは白花は散り往く。
    そう思い知るだけの失敗を、我は、重ねてきた。
    ……ゆえに、今、勝てる!
    ガーベラに、そして弱き心の自分自身に。
    幼き日に願った真の護り刀……その第一歩として!

 少年は、押し黙った。そして、息を一つついてから、まるで遠く離れた友とやっと再会出来たかのような、安堵と歓喜とほんの少しの緊張とが入り混じった声で、短く、こう告げた。

 ――お帰りなさい。

 心の深奥、あるいは、まっさらな自分、とでも言うべき『ユウ』としての中心部分。
 普段は幾重も薄紙のような壁に包まれていて、他人の目に触れることはおろか、自分自身と向き合うことさえなく、ただ、深くて仄暗い場所に沈めてあるはずの代物。
 『それ』が、今。
 確かに、微笑んだようだった。


 はっと目を見張った刹那には――もう、少年は霧のように掻き消えていた。


 ただ、そこには。
 獰猛な唸りと鮮血を従えて立ち上がった真紅の獣と。
 しっかと大地を踏みしめて立ち上がった白髪の剣士の姿だけがある。

 ――ほんの一時、意識が飛んでいたのか?

 思いかけて、否、と断じる。
 きっと、いつか炎の子供とめぐり合わせてくれた、不思議な声のように。
 ずっと、自分を見守ってくれている誰かが、最後の一押しをしてくれたのだと。
 そう、信じることにした。

「――ただいま」

 手にした斬破刀と、それ以外のナニモノかに、呟く。
 決着の一瞬が、迫っていた。


                             ◇


 ――神楽め。
 奴に刻まれた傷、骨まで達したか。
 奴に打ち落とされた傷、髄まで達したか。
 なおも動けばこの痛み、我が命まで侵し得るか。

 ――だが、それが、どうした?

 痛む傷痕は告げる。
 今こそ神楽の真紅を以て、我が傷痕を紅く塗り潰せと。
 渇く心根は告げる。
 今こそ神楽の真紅を以て、我が心根を熱く潤し満たせと。

 ――ああ、この渇望こそ、獣の本能か。

 ならば往こう。
 残る力はただの一撃。
 我が誇りの具現、この真紅の刀角に全てを賭けて。
 我が悲願の成就、神楽の真紅目掛けて駆け抜けるのみ。
 はたしてその先に待つモノが、己が終焉であろうとも。

 ――そう、敗北よりは、よい。

 たとえ刹那の勝利であっても。
 この痛みを消し。
 この渇きを潤し。
 一心不乱の真紅を背負い。
 狂喜の内に果てるならば、それも本望。

 ――今こそ貴様の断末の時ぞ、神楽!

 さあて。
 真紅の続きは。
 地獄の鬼を相手にでも、所望するとしようか――


                             ◇


 最小面積に最速斬撃を最短時間で。
 次が最後の一撃になるだろうと直感した時、脳裏に浮かんだのは、刀術の基本である切断の原理、それだけだった。
 ただ鋭く。
 何よりも速く。
 どこまでも斬る。
 それは技でも型でも無く、『刀術』という本質にどこまでも肉薄した、澄み切った思考。
 この境地を、ある流派では次のように呼んでいる。
 『基本即ち極意』と。

「我は、神楽」

 右手で自然に振りかぶり、それに左手を添える――八双でもなく上段でもない、天突くような異形の構え。
 神楽に、このような構えは存在しない。
 だが、ただ『切断』の一点に心を定めたとき、自然と体もこうして定まったのだ。
 まるで、想いがそのまま体を突き動かしてくれるように。

「名を、ユウ」

 澄み渡る心。
 研ぎ澄まされる感覚。
 体が消えうせたように軽く。
 けれど決して揺るがない芯を感じる。
 ナニモノにも遮られない、疾風のように。
 疾風となって駆け抜けた、神楽の少年のように。
 
 ――風の、世界。

 ならばそこにいる我もまた、風なのだろう。
 それはきっと、とても相応しく――なによりも嬉しいことだ。
 ソナタが、風を巻き起こす凛然たる炎ならば。
 我は、炎を猛らせる優しき風となろう。
 独りよりも二人。
 二人でこそ一つ。
 そうありたいと、願う。
 ――否。
 そうあるのだと、誓う。

「炎の子供の背を守る……護り刀なり!」

 一緒に歩こう、どこまでも。
 手を取り合って、喧嘩もして。
 今はまだ不揃いな二人だとしても。
 構うものかと、笑いあって。
 幼き想いで描いた『明日しあわせ』を。
 今、ここから、始めよう。
 炎と風の――戦士二人で。

「その抱く想い、悠久の薫風の如し!」

 大好きだったあの人を、忘れることは出来ないけれど。
 それでもきっと、追憶あのころではなく、未来これからを向いていける。
 だって、見せたいのだから。
 あなたがくれた、この命で。
 どれだけの喜びを守れるのかを。
 どれだけの悲しみを断てるのかを。
 どれだけの笑顔を作れるのかを。
 ちゃんと、見せたいのだから。

「その翳す刃、刹那の迅雷の如し!」

 見える。
 ガーベラが来る。
 こちらを目掛けてやってくる。
 けれどもう、心は揺れない。揺るがない。
 あれを終わらせ。
 そこから始める。
 ただそれだけのことだから。

「そう、我は――」

 必要なのは、はやさ。
 100mを10秒で走る速さではなく。
 一歩を刹那で踏み越える、はやさ。
 想いの重さを乗せて。
 望みに臨むための。
 小さくて大きな。
 その一歩を。
 踏み出し。
 今こそ。
 越えろ!

「これより始まる、我は――」
 第10幕 「――我は仁雷の風なり!
 両者の激突を、結論から申しましょう。
 ガーベラは、その力を余すところ無く注ぎ込んだ突進を見舞い。
 白髪の剣士もまた、全身全霊を込めた一撃で以て、これを迎え撃ちました。
 そして。
 ガーベラはその速度を微塵も落とすことなく、白髪の剣士の居た空間を走破し。
 やがて――徐々にゆっくりと、自然にその速度を落とし、停止したのでした。


                             ◇


 ああ――これだ。
 これこそが、待ち望んだ真紅だ。
 この紅いこと。
 この熱いこと。
 ああ、痛みが引いていく。
 ああ、渇きが潤されていく。
 この全身を舐めゆく真紅の奔流の、何と甘美なことか。
 言葉にならぬ。思考にならぬ。
 ただ全てを……紅く、紅く……染め抜いた、ような……これが、待ち望んだ真紅、か。
 ふ、はははは…………はっはははははははははははははははははは!
 ああ………………満足、だ。もう……………………獣の疼きも…………収まった。
 この……………………神楽の真紅は……………………美味くて、敵わぬ…………


                             ◇


 勝敗を決したのは、僅かに、一寸。
 真紅の刀角へ、真正面から打ち込まれた、たった一寸の傷。
 それが、全てでした。
 切断の成否を握るのは、最初の一瞬に、『刃が立つ』か否かです。
 即ち、僅かにでも対象を『切断』することが出来れば、破壊はそこを口火に如何様にも広がり、逆にまるっきり弾かれてしまえば、文字通り『刃が立たない』こととなってしまいます。
 零か一かの二者択一。
 ゆえに。
 この一寸の傷が刻まれた瞬間に、真紅の刀角の――即ちガーベラの命運は、決したのです。

「おまえの顔は、もう、見飽きた」

 斬破刀と真紅の刀角との接触点から、雷光が火の粉のように弾けながら。
 傷は一寸が二寸へ。二寸が三寸へ。
 刀角はその切っ先から、徐々に切り裂かれていくのでした。
 それでも、ガーベラの突進の速度は全く落ちません。
 けれど、白髪の剣士も、斬撃を見舞った位置から微動だにしていないのです。
 それが何を示しているのかは、すぐに、知れました。

 バクン、と。

 まるで最初から、それがクチバシか何かであったような自然さで。
 真紅の刀角が、先端から、真っ二つに、両断されたのでした。
 それは白髪の剣士を避けるように左右に割れ、そして、なおも広がってゆくのです。
 ガーベラの突進に等しい速度で。
 そう。
 そこには一切の抵抗が無く、ただ触れる先から破壊を及ぼすという。
 そんな圧倒的な切断の一撃が、頑として存在していたのでした。

大輪の菊ガーベラよ――散れおわれ

 刀角から頭部、頭部から首、胴体、そして尾。
 ガーベラの全身が白髪の剣士の居た場所を通過するまで――即ち、その身が完全に両断されるまで、1秒の半分もかかりませんでした。
 ゆえに。
 ガーベラ自身、己の身に何が起こったのか、まるで気づきはしなかったことでしょう。
 その突進は、すぐには止まりませんでした。
 徐々にゆっくりと、自然にその速度を落とし。
 思い出したかのように、斬られた断面から、盛大に真紅の噴水を上げ。
 その勢いで、体は左右半分ずつに、ぱっくりと割れながら別れ。
 一度ぐらり、と大きく揺れてから、ずん、と倒れ。
 ガーベラは、その生命ごと、停止したのです。
 己の真紅に溺れ沈む様は、不思議と、どこか幸せなふうにも見えました。

「なるほどな……これが、復讐の味というものか。
 ……確かに、すっきりした。空を覆う暗く重い雲を、一薙ぎに払ったような心地だ。
 はちきれんばかりの仄暗い満足感に、どこか眩暈さえ感じる。
 圧し掛かっていた見えない錘が、刺さっていた見えない棘が、もうどこにもない。
 頭蓋の底にこびりついた、偏頭痛にも似た悪夢の痕跡が、過去へと色褪せていく。

 そして――ただ、それだけだ。

 胸がすぅすぅするくらい空っぽになって、何も残らない。心に空いた穴も塞がらない。
 先に進むための……これからための力は、何一つとして、湧きあがってこない。
 もしも我が、ただ復讐のみを目指したままここに立っていたならば……この場で終わる以上の結末は無かったと、そういうことなのだろうな。
 復讐のためだけに生きて、復讐を終えて、そこで初めて、もう何も無い自分に気づく。
 結果、やはり誰も何も帰ってこないと知って……終わったのだろう。
 ……今となっては、馬鹿馬鹿しいくらいの『もしも』だが、な」
 
 ひうん、と刀を払い、鞘に収めながら、白髪の剣士は呟きました。

「悪いが……おまえの真紅は口に合わんようだ。
 その所業、生涯忘れはせん……。だが、もう、思い出すこともすまいよ」

 そうして、一度だけ、ガーベラの亡骸を振り返りました。
 ちり、と胸の真ん中で、言い知れぬ感情が僅かに疼きましたけれど。
 ただ、それだけのことでした。

「我は進む。おまえはそこで、悪夢かこと共に朽ちてゆけ」

 そうして、二度と振り返ること無しに、白髪の剣士はその場を後にしました。
 通常、飛竜を討伐した際に行われる剥ぎ取り作業などは全く行われず、もう、そこで為すべきことは何もかも終わった、といった風情で、ゆるりと歩を進めます。
 それは、帰るべき場所をしっかと見据えている、そんな足取りでした。
 やがて。
 ガーベラの亡骸が砂塵の向こうに消えうせる頃、くはぁ、と大きく息を吐いて、白髪の剣士は空を仰ぎました。

「……とは言え、第一歩から壮絶な難題だな。はたして、何の借りから返したものやら……」

 やんわりと頬を持ち上げ、何とも嬉しそうに――けれどなかなか許してはくれなさそうに――悪戯っぽい表情を浮かべる少女の姿が、目に浮かぶようです。
 そして、その目の前で長い体を二つに折って、必死に頭を下げている自分の姿も。

「なんて……幸せな、日常だろう」

 微笑とも苦笑ともつかない表情は、ともあれ、一刻も早く少女の下へ帰らんとする心境を、雄弁に物語っているのでした。
 けれど、その足はもう、前へと歩みを進めてはおりませんでした。
 それはそうでしょう。両の膝ががっくりと大地へ落ちた体勢で、歩行が成立するはずもありません。にもかかわらず、白髪の剣士は、自身のそんな状態にまるで気づいていないようでした。
 もしこの場に第三者がいたならば、怖気すら交えて指摘してくれたことでしょう。限界を超えた一撃を見舞ったことで、完全に傷口の開いた左足から、取り返しのつかないほどの真紅が溢れ出しているという現実を。恐らくは、『この世には神も仏も無いのか!』という呪いの言葉を添えて。

「それから、二人で、何から……始めようか。
 やりたいことが、山ほど……ある。嬉しいこと、だ…………なあ、ソナ――」

 ずざ、と無慈悲な音がして、白髪の剣士は完全に崩れ落ちました。
 再び立ち上がらんとする僅かな抵抗の兆しさえなく、まるで眠りにつくような安らかさで、そのまま、動こうとしません。
 びゅウ――と強い風が吹きました。
 それは太陽を見送る風だったのでしょうか、紫紺の空は濃紺へと姿をかえ、その表情を一変させたのです。
 体温を奪い、生命を凍えさせる、厳しい砂漠の夜の到来でした。


                             ◇


 ……ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。


 鉄の刀を携えた少年は、草に足を取られて半回転し、その衝撃でけほんとむせた。
 自然、空を見上げる格好になる。
 そこは広くて明るくて、ただそれだけで何も無い原っぱだった。
 そして彼女は当然のような顔をしてそこに立っていて、愉快げに顔を覗き込んでくる。
「や」
 彼女は短くそう言って、軽く手を上げた。
「ん」
 起き上がりながら短く応えて、頷いてみせる。
 多分、世界で一番短い、再会の挨拶だった。
「……オレを迎えに?」
「期待していたのかい?」
「いや」
 苦笑しながら、告げる。
「もしそうなら、すぐにごめんって言わなきゃならないから、嫌だなって」
「――いいね。どこにも力が入らずにそういうことを言えるのって。すっごく、キミらしくてさ」
 そう言って、本当に屈託無く、彼女は笑ったものだ。
「じゃあ、会いに来てくれた?」
「半分正解の半分外れ」
「……どこから半分?」
「ボクは最初から居たんだ。ずっと、キミの傍に居たんだよ」
 彼女は苦笑しながら続ける。
「ただキミが、気づいてくれなかっただけ」
「そっか。悪いことしたな」
「でも、気づいてくれたから」
「そっか」
 彼女は、満足そうに微笑んでくれた。
 それだけのことが、妙に、嬉しかった。
「本当は、ボクはもう、こっちに留まっていてはいけなかったんだけど、ね」
「そうなのか……」
「うん。心は空に、体は大地に、それぞれ還るものだから」
「なのに、まだ居てくれている?」
「そうだよ。どうしてもキミに一言いってやりたいことがあってさ。これだけは、譲れなかった。
 そうだね、それこそ『死んでも死に切れない』ってやつかな」
「怖いな」
 率直に言うと、
「もちろんさ」
 と返ってきた。
 めちゃめちゃ怖かった。
 それを知ってか知らずか、彼女の目に真摯な色が広がっていく。
「キミが随分荒んでいたときには、いっそ、忘れてくれって残そうかとも思ったんだけれどね。でも、今のキミには、生きることを始めたキミには、やっぱりこれが一番相応しいと思うから」
 彼女は、少し丁寧に息を吸い込んでから、言った。

「――ありがとう、優」

 それはかつて、白い花を受け取ってくれたときと、同じ言葉。
 束の間の――けれど忘れえぬ、幸せな日々の始まりだった言葉。

「ボクを愛してくれて、ありがとう。
 ボクに愛されてくれて、ありがとう。
 添い遂げることは叶わなかったけれど、ボクはもう、キミから充分に貰っていたんだ。
 本当に――夢見るように、幸せな日々だった」

 彼女は、瞳に微かに涙を溜めて、けれど決して流すこと無しに、凛として言った。

「だからキミはもう、迷わなくていい。
 他の誰かを愛していいんだよ。
 他の誰かに愛されていいんだよ。
 大丈夫。
 ちゃんとヤキモチ焼きながら、ずっとずうっと、見守っていてあげるんだからね」

 眩しいくらいの笑顔だった。
 自然、ちぇ、と舌がなる。
「全然一言じゃないぞ」
「そうだね」
「そして恥ずかしい」
「そうだね」
 照れ隠しにもならないようなことを言っていると、あんなに明るかった原っぱが、急に、薄暗くなってきた。どうやら、もう、時間切れということらしい。
「そろそろ、行くよ」
「もう?」
「思い残したこと、全部、吐き出したからね」
 そう言う彼女の体は、足元からだんだんと、霧のように薄くなっていく。
 話したいことなら山ほどあるはずなのに、どうしてだろう、出てこない。
 そう。
 たったの、一つだけしか。
「オレからも、あるんだ。聞いて欲しいこと」
「うん?」
 もう胸の辺りまで消えかけているのに、器用に小首を傾げる彼女を、真正面から見据えて、言う。

「オレも、幸せだった。夢見るように幸せだった。
 でもこれから、もっと、幸せになる。
 もう、幸せになることを、躊躇ったりしない。
 だから、胸を張って堂々と、ヤキモチを焼いてくると嬉しい」

 彼女は少し押し黙っていたが、やがて耐えかねたように、吹き出した。
 大爆笑だった。

「うん、楽しみにしているよ――大好きな、優」
「ああ、楽しみにしていろよ――大好きだった、鏡花」

 そう残して、彼女は立ち消えた。
 笑顔が、最後の表情だった。
 ――いや、いつだって、彼女はそうだったのだと思い出す。
 木漏れ陽に目を細めた春も。
 風が誇らしげに薫った夏も。
 山の色に心弾ませた秋も。
 胸温かな冬も。
 いつだって、陽だまりのような笑顔で、照らしてくれていた。
 それは、あまりにも当たり前過ぎて忘れかけていた、柔らかな記憶の残照。

「これから鏡花を思い出すときは、いつだってその笑顔だけだ。
 悲しい真紅の記憶が這い入る隙間なんて、もう、どこにもない」

 だからきっと、大丈夫。
 不器用にでも――笑っていけると、そう思えるから。 


 ……ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。


 薄暗さはどんどん加速し、辺りはすっかり暗闇に包まれていた。
 ここにいても仕方ないので何とか歩を進めてみるものの、右へ進んでいるのか左へ進んでいるのか、前を向いているのか後ろを向いているのか、空を飛んでいるのか地面を潜っているのか、皆目見当がつかない。
 目印代わりにしようと近くの木に寄り添ってみても、寄る先から木は塵となり、塵は黒い蝶となり、たちまち飛んでいって消えてしまう。
 やれやれとため息を暇も無く、自分の手さえ確認出来ないほどの真闇が広がっていく。
 すぐに身動きが取れなくなった。
「……まいったな」
 確か自分は、どこかへ行かなければならないのだ。
 神楽の村のような気もするし、鏡花の家かもしれない。判然とはしないが、とにかく『帰るべきその場所』へ、一刻も早く辿り着かなければという焦燥だけが、胸にある。
「……もう、立ち止まるのは、たくさんだ」
 いっそ、暗闇でも構うものかと、意を決して進もうとしたそのときだった。
 目を細めてやっと見えるほど遠くに、小さな――けれど温かな光が見えた。
 それがいったい何なのかは知れないが、ともあれ、文字通りの光明には違いない。
 勇んでそこまで歩き出そうとして――自然に、足が止まった。
 それはそうだろう。
 こちらは動いてもいないのに、光の方から段々と、近づいてきているのだから。
「光が来る……? 違う、静かに確かに揺らめくあれは……炎、なのか?」
 それに答えるでもなく、炎はゆっくりと、けれどまっすぐに、こちらへやってくる。当初、ほんの灯火程度に見えていたそれは、どうやら子供くらいの大きさがあるようだった。
 不思議なものだと首を傾げていると、炎はさらに大きくなっていった。闇のせいで遠近感が狂っているのだろうか、それともあの炎が燃え広がっているのかだろうか。
 ――もし仮に、後者だとしたなら。
「すぐにでも逃げ出さないと、焼かれてしまうな……」
 けれど、炎が本来備えているはずの凶暴さが、眼に映るそれからは微塵も感じられない。
 むしろ、安息と平和を彩る、街々の生活の灯を見ているかのように、ほっとする。
 つまりどうにも、逃げようとか怖いとか、そういう感情を抱きにくいのだ。
 ――否。
 あの炎が来るのを、不思議と、心待ちにしている気さえする。
「……来た」
 眼前に迫った炎は、もう、大人ほどもある塊となっていた。
 熱よりもその眩しさに、思わず目を覆う。
 瞼を閉じてなお、視界を真っ白に染めていく光は――しかし、突然に、その力を弱めた。
 ありがたいというよりも、不審がまず先に立つ。
 おそるおそる目を覆っていた腕を避けていく。すると、そこにはもう、炎など無かった。
「……え?」
 そこには、ヒトがいた。
 炎よりなお凛然と在る、一人の女性が立っていた。
 見覚えは、まるで無い。
 少なくとも神楽の村の者ではないはずだが、
「あなたは……どこかで、お会いしたことがありましたか?」
 そんな言葉が口を突いて出ていた。
 けれどその問いに女性は答えず、黒目勝ちな瞳を優しくたわめ、頭一つ高い位置から、少年を見据えている。
 反応が無いこと自体は、何故か気にならなかった。そればかりか、なんだか無条件に、このヒトには絶対に頭が上がらないような、そんな予感さえ覚え始めていた。
 失礼に当たるかもしれないと思いつつ、あらためて女性を見直す。

 背中まで届く艶やかな黒髪と、どこまでもまっすぐな目がとても印象的な人だ。綺麗、という言葉が元来備えている儚さとは縁遠い、しなやかな美人ぶりだと、朴念仁なりに思う。この感想はきっと、彼女のいでたちにも、原因があるのだろう。
 左手には、禍々しい鉤爪じみたシルエットの凶悪な小手を。右手には、花の蕾で包まれたようなずんぐりとした小手を、それぞれ纏っている。服も機動性を重視した、けれど必要分の頑丈さを備えていることは疑いようも無い――どこをどう切り取っても、戦うことを前提とした代物と言えた。唯一装飾品らしいモノと言えば、この闇よりなお澄んだ黒の髪を束ねる、バレッタくらいだろうか。生物の毛で出来ているらしいそれは、まるで意思を持っているように、時折青白い光を放っているようだった。
 やはり、どう考えても、見覚えなど無い。というより一度見たら忘れられない類の人間である。
 なのに、どうしたことだろう。
 見ず知らずの人への挨拶さえすっ飛ばして、この口は、想いを吐き出していた。

「オレ……すごく、会いたい人が居るんです。それが誰かは、思い出せなくて……でも、きっと居るんです、その人は。そこからなんです。全部、何もかも。
 だから――行かなきゃいけないんです。こんなにも真っ暗な道であっても、もう、回り道なんてしたくないから。もう、走り出してもいいはずだから」

 言ってから、それはこの女性に何の関係も無い上、そもそも何をどうして欲しいのか自分でもよくわかっていないことに気づく。
 自業自得だからこそ、たちまち、身の置き場も無いほどに恥ずかしくなってきた。
 そのため女性から目を逸らし俯いていたところ――かしゃん、と金属の擦れる音が聞こえた。反射的に見やると、女性の左手を覆っていた凶悪な小手が外され、その下から、思いのほかほっそりとした綺麗な手が覗いているところだった。
 そして、女性はそれをまじまじと見つめる視線に気づくと、これなら怖くないかな、と悪戯っぽく微笑んで、その手を差し出してきた。
 独りでは真っ暗な道でも、二人でなら迷わず歩いていけるでしょう――そう嘯きながら。

「あ……」

 胸がざわわと音を立てる。
 二人でなら、という彼女の声を聞いたとき。
 不思議と、その手を取ることに、何の抵抗も覚えなかった。
 そしてその温かさに触れたとき。
 世界が、表情を変えた。
 あれほど深く広がっていた闇が、冗談のように一薙ぎに消えたのだ。どこぞから太陽でも顔を出したのかと思ったけれど、そうではなかった。
 光を放っているのは、彼女であり――自分自身だったのだ。
 そして今。
 目の前には道が続いている。
 どこかへ続く、どこまででも続いていそうな、一本の道が。
 けれど、何故だろう。
 早くどこかへ行かなければという焦燥は、いつの間にか消えている。
 それはきっと。
 ここ、、から、何もかもが始まるからなのだろう――

「――あなただったんですね」

 どうしても会わなければならない人。
 帰るべき場所。
 しかし、彼女はくすくすと笑いながら、いいえと首を横に振り。
 そして付け足した。
 『あなた』はあなたでしょう、と謎かけみたいな言葉を。
 ほんの一瞬首を傾げてから。
 雪解けの水で花が開くような心地がして。
 ようやく『それ』を思い出す。

 自分と揃いの――優しい名前を。

「ああ――!」


 ……ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。


                             ◇


「――ソナタ!」


 叫んだ先にはあまり星が見当たらない夜空。
 戸惑う暇も無く、痺れるような左足の痛みが現実となって襲い掛かってくる。次いで、傷口の痛みに混じっている別の感覚に気づく。
 寒い。
 刺すような寒さとはこのことだろうか。何にせよ失血で気を失っていたとなれば、雪山で眠っていたのと状況は同じだ。体温は相当下がっているだろう。早く行動を起こさなければ死に繋がる。
 どうにか上体に気合を込め、起き上がろうと力を尽くし――  

「まだ起き上がってはダメですよ」

 少女の顔が逆さまに飛び込んできた。
 ……少女である。
 髪も長くなければ大人でも無い、いつもどおりの揃いの名前の少女。
 そして、ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。

「……え?」

 自分がどんな状況にあるのか、一瞬理解が追いつかなかった。
 とりあえず、緊急の事態では無いようなので起き上がるのを断念し、再び寝転がる。
 そんな自分の迂闊さに眩暈がした。
 自分の頭が転がっているのは、少女の膝の上だったのだ。
 そして、途切れることなく、ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音が聞こえる。

 ……どうやら、自分たちは何かの荷台らしきモノの上に乗っていて、その荷台が結構な速度で走っているらしいと気づく。

 荷台は頑丈なのか粗雑なのかわからない造りの長方形をしていて、四隅に一つずつ、釣竿みたいな棒が立っている。その先でゆらゆらと提灯のようにランプが揺れているところからして、夜間仕様、ということらしい。
 しかし注目すべきは、その荷台を引いている主である。
 二足歩行のネコ。
 数匹がかりとはいえ、馬車にも匹敵するこの速度。慣れないモノが見たらやんやの喝采を挙げるところだろうが、あいにく、ハンターにとってはひどく馴染みのある乗り物と言えた。

「……ネコタクか?」
「ええ。眠れるお姫様は王子様を心待ちにしていたのですが、なかなかこないどころか普通にぶっ倒れていましたので、迅速に依頼終了を示す照明弾を上げて、迎えを呼んだ次第です」
「……すまん」
「まあ、その……目覚めて第一声が私の名前でしたから、はい。許します」
「では……ありがとう、だな」
「――はい!」

 その笑顔が、ひどく近かったせいではないが。
 さすがに、少女の膝の上に転がっているのも、色々とよろしくない。
 それに、言うべきことも、ある。

「だから、まだ起き上がっちゃダメですってば」
「そうかもしれんが……一応、決着がついたのでな。
 自分の口で、その報告をしたいと思う」

 少女は、仕方ないという顔をしながらも、左側から器用に体を支えてくれた。ありがたい反面、少女とて浅くない傷を負っていることを思い出す。出来るだけ自力で体を起こし、視線を正面から合わせた。

「で、仇敵とやらは倒せましたか?」
「ああ、真っ二つだ」
「満足しました?」
「さあ、別にどうということは無かったぞ。
 ――少し強いだけの、赤くて角付きな肉の竜だったのだからな」
「それもそうですね」
「ああ、そうだ」

 ごく自然に少女は笑い。
 ほんの少しぎこちなく笑み返す。
 二人ともぼろぼろだったけれど。
 それでも、素直に、嬉しいと思えた。

 ――当たり前の二人に、ようやく、戻れたということが。

「……それにしても、我はいったいどのくらい眠っていたのだ?」
「あ」

 少女の表情がぴょこんと跳ねる。何かが嬉しかったようだ。

「どうかしたのか、ソナタ?」
「あ、いえ。そうですね……実は私もあの後結構良く寝ていたようで、完全に日が暮れてから目が覚めたのですよ。正確なところは、よくわかりません」
「む? 以前、星の位置から時間を割り出す方法は教えたであろう?」
「……何を言っているのですか、あなたは」
「?」

 少女の指差す先を見ると、荷台の四隅に立っていた提灯みたいなランプが何故か消えていた。全部一気に消えている辺り、油切れというわけでもないらしい。

「もっと、先ですよ」
「ふむ」

 さらに少女の指差す先。
 すでに砂漠の姿は無く、暗闇でもわかるまばらな草原と――どこかへ続く、どこまででも続いていそうな、一本の道が伸びている。
 そのもっと先。
 双子の山に渓谷、間を流れる滝のような川のような水の音。
 そこをまっすぐに貫いて。
 太陽が、まさにその顔を覗かせる瞬間だった。

「――夜明けか」

 突き刺さるような眩しさに目を細めながら。
 確かにこれでは星の位置どころではないなと納得しながら。
 けれど、そんなことがどうでもいいほどに。

「――長い夜が、明けましたね」

 隣で呟く少女の先で。
 世界は輝き満ちていた。

 遠く近くの山々からは、気の早い鳥たちが群れを成して飛びたち始めている。ぎぃぎぃと声を上げているのは、渓谷の森をねぐらとする猿か何かだろうか?
 思いを馳せている間に、昇陽に連れて吹く大きな風が、草原を凪ぎ、樹海という名そのままに、木々をざざざと鳴らしていく。どこかで木霊のように狼の吠える声。羽虫が驚いて飛んでいく。連れて栗鼠が顔を出したがすぐに隠れ去っていった。その後を追いかけていったのは何故か兎のようで、その愉快な取り合わせに思わず笑みが漏れる。

 ああ――まるで朝日に芽吹くように――生命が踊っている。

 はっとして、忘れかけていたように息を吸い込む。濃い緑の匂いに混じって水の匂い。そういえば、来るときにも水筒の水を補給するため川べりに寄ったりしたかもしれない。
 だがそうした光景はまるで心に残っていない。いや、そればかりではなく――

「世界は……こんなに、明るかったのか?」
「ええ。今までは暗かったのですか?」
「あ……いや、何というのだろうな。ぼろぼろなのに、感覚だけはひどく鮮明ですっきりしていて、まるで体中の血が、新しくなったかのような心地がするのだ」
「新しく、なったのではないですか?」
「まさか」
「あなたがですよ」
「……そう、なのか?」
「ええ、きっと。だって――」
「うん?」
「――今のあなたの笑顔は、下手くそですけど、素敵です」

 そうして隣で微笑む少女の。
 朝日を浴びてなお輝くような瞳に。

 目と――恐らく心を――奪われていた。

 ほんの一瞬。けれど確かに一瞬。
 息も、出来ないほどに。

「何です? 見とれていましたか?」

 そんないつもの軽口に。
 いつも通りの苦笑かだんまりを選択せず。
 
「――いや、そういえば、ソナタとの約束があったと思ってな」

 妙に言い訳がましいことを言ってしまったことに、気づかれたろうか。

「そうでしたね。私のもう一つの名前を、聞いてもらうことになっていました」

 そんな、こちらを見透かすような無頓着なような調子で言って、秘め事のように悪戯っぽく、唇を耳に寄せてくる。
 ――唇。
 むず痒いような感触が蘇ったのは、きっと気の迷いなのだろう。
 しかし、

「――――です」
「!?」

 その名前を聞いた瞬間、気の迷いなど完全に吹き飛んだ。
 まるで始めからそんな壁なんて無かったみたいに。
 全部自分で勝手に決め付けていただけのことのように。
 笑うことが大の苦手だったはずの男は。

「あーっはははははははは! く……くはあっははははははははは!」


 大爆笑していた。
 こんなことが、、、、、、
 こんなことが本当にあっていいのかと、、、、、、、、、、、、、、、、、
 神様というのが居たらとんでもない酔狂ものだと、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 目の端に涙さえ浮かべて、笑い狂った。

「え……ちょっと何ですかそれ! いい名前でしょう!?
 何がどうおかしいんですか……って、まだ笑いますか!?」
「ははははははは、く……苦しい……ふ、あはははは!」
「知りませんよもう!」

 ぷいっとそっぽを向く少女には悪いけれど、笑いの発作は収まりそうに無い。

 ――だって、こんなのは出来すぎだろう。

 あの日。
 大切な人を守ると誓った白い花。
 そして。
 今再び守り抜くと心に誓った少女。
 それが
 全く同じ名だというのだから、、、、、、、、、、、、、

 ああ、もうやれやれだ。
 こんなにも楽しくて仕方ないから、きっと、魔でも差したのだろう。
 あるいは、あの夢のせいだ。
 ……もう、靄がかかっているように、詳細な内容までは思い出せないけれど。
 でも、懐かしい人に逢った気がする。
 これから出会う人に触れた気がする。
 過去と未来が繋がり。
 今の自分に、ほんの少しだけ、勇気をくれる。
 さあて。
 明日を始めてみようか幸せになってみようか

「ふと、思ったんだがな」
「何ですか! まだ笑いますか!」

 いいや、笑わない。
 信じてみようと思うだけだ。
 誰よりも何よりも。
 自分の心を力ずくでこじ開けた。
 目の前の、少女を。
 そして。
 少女の選んだ、自分という奴を。
 
「髪――伸ばしてみてはどうだ、ソナタ?」 
「あ……!」

 頬を撫でるように、すっと髪に手を差し込んでみる。くすぐったかったのか驚いたのか、少女は一瞬びくっと身を固くし、けれど跳ね除けるでもなく身を逸らすでもなく、少しだけ中途半端なままに、こちらを見つめている。

「きっと、似合うと思う」
「え……ぁぅ……」

 む。ひょっとして短い髪の方が気に入っているのだろうか。そういえば長いと手入れが面倒だと聞いた覚えがある。好みの押しつけとも取れたかもしれない。やれやれ、この朴念仁加減はなかなかに直らないということなのだろうか。

「あ……あのっ!」
「ん?」

 急に大きな声。
 やはり嫌だったのだろうか。迂闊な真似をしてしまったのかもしれない。
 しかし自信満々の顔で嗜めるか、やれやれと軽くあしらうかと思われた少女は。
 意外なことに。
 というより、想像を三週半は超えて。


「きゅ……急に、そんなこと……ユウのくせに……困り、ます…………」


 語尾が掠れるような頼りなさで。
 うつむき加減で躊躇いがちに視線を向けながら。
 耳どころかうなじの辺りまで桜色に染まる勢いで。
 緊張に全身を固くしながら、こちらの言葉を待っている。
 ようするに。
 少女は、ひどくわかりやすく、照れていた。
 が。

「…………」

 驚いたのはこちらもである。あるいは少女以上に衝撃はあったのかもしれない。
 いかなるスイッチを押したのか爆薬を踏んだのかは知れないが、少女がこんな顔をするのだ、ということ自体がまず理解の枠組みの外にあった。
 何故ならいつも、この少女は――

 …………いや。待て。

 当たり前すぎるほど当たり前だが――少女は、少女なのだ。
 詭弁でもトートロジーでもなく、まだその年齢が二桁にも届いていない、文字通りの小さな子供。それはつまり、そのままの意味で。

(……純粋に、免疫が無いのか!?)

 しかし、キャンプではその……あっちから、されたわけだが。
 ……待てよ、そういえば。
 自分は少女のような卓越した記憶力は無いが、それでも。
 少女に抱きつかれることはあっても、自分から手を伸ばしたのは初めてな気がする。
 …………だから、だとしたらひょっとして。いや、今さらかもしれないが。
 これはとてつもなく、窮地という奴なのでは無いのだろうか……?

「…………」
「…………」

 傷のせいではなくちょっと気が遠くなりそうな沈黙。
 落ち着け。落ち着くのだ。
 迷ったときは基本に立ち返れ。
 基本即ち極意だ。
 ……こういうときの、基本って、何だっただろうか?
 心当たりは一つだけだが……適用出来るのか?
 ええい、迷っていても埒が明かぬ。
 ままよ!

「……あのな、ソナタ」
「は、ぃ……」

 お互い、ひっくり返るどころか転覆しそうな声である。

「これが正しいのかはわからんが、基本即ち極意というのがあってだな。
 刀術の言葉なのだが……いや、それはいいとして、だ。
 つまり、そのな。何事も基本というのは大切で、何故ならばあらゆる場面でそれなりに通用するモノを基本と言うのだから、なのだと思う。ゆえに、だ」
「――あ」

 不器用に、というほか無い挙動で。
 それでも出来るだけ柔らかく、少女の肩を抱く。
 豆鉄砲で打たれる鳩をはじめて目の当たりにした猫みたいな顔をしているが、少女のことだ、自分の発言くらいすぐに思い出すことだろう。

 0点ですね。ここは『そうだな、砂漠の夜は冷えるから――』くらいのことを言って、さり気無く肩を抱いたりする場面ですよ。基本中の基本です。

 悪戯っぽくそう話した、とりわけどうということもない、幸せな日常の一コマを。

「確かこれは、砂漠の夜の基本だったと聞いていたが……間違いでは、無いだろうか?」

 腕の中の、びっくりするほど小さくて華奢な体に呼びかける。

「――はい。充分及第点ですよ、ユウ」

 いつもの調子をいくらか取り戻しながら、少女は笑む。
 つられて笑み返すと、何だか愉快で仕方なくなって。
 二人で、声を上げて笑った。

 空に吸い込まれるような、ただ楽しくて楽しくて笑う。
 それはいつからか忘れていたはずの、純粋な笑顔。

 大丈夫。
 もう二度と忘れない。
 絶対に――


                             ◇


あの日の誓いの白い花。 東国の百合ユィリの花。 花言葉は――『あなたのは偽れない』。


                             ◇

 ネコタクは走る。
 ことんことんと、急かすようななだめるような、不思議な音を立てながら。
 その荷台で二人は、益体も無いことを話した。
 十日間の空白を埋めるように、笑いあった。
 そうして、山を二つばかり越えていって。
 やがて、住み慣れた街が見える頃になってから。
 少女は、ぽつりと漏らしたのだった。

「ガーベラは、真っ二つだったそうですね」
「ああ」
「これから色々、大変かもしれませんよ」
「そうだな」
「ひどい依頼を回されたりするかもしれません」
「我らなら出来るさ」
「仕事を干されたりするかもしれません」
「他のハンターに混ぜてもらおう」
「人間にさえ、狙われるかもしれません」
「二人で逃げればいいだけのこと」
「ハンターでなくなるかもしれません」
「我が家の主婦はやりくりの天才だよ」 

 たまらず、くすっと少女が笑み。
 あわせて、にやっと自分も笑う。
 そっと少女は手を重ねる。
 ぎゅっとそれを握り返す。
 恐れるモノは無いとばかりに。

「さあて、お立ち会い」
「どこからでも来るが良い」

 それは。
 街へ戻ってから、間違いなくギルドに目を付けられるという厳しい状況を、百も承知の上での言葉だった。
 そんな満身創痍のニンゲン二人の心情を、ネコタクのネコたちが、どのように察したのかはわからないけれど。
 ネコタクの速度は、ほんの少しだけ、緩められ。
 気持ちばかり、二人きりの時間は、引き延ばされたようだった。
 閉幕 〜されど見届けるモノとして〜
 昔話をしましょうか。
 ありきたりで、つまらなくて、そして救いの無いお話を。
 あるところに、少女が一人、おりました。少女の父親は優しくて誰からも信頼される村長さん。母親は世界一のラズベリーパイを焼く料理名人。とても、幸せな家庭でした。
 ある時、少女たちの住む村の近くに飛竜が現れました。
 父親は急いでハンターギルドに依頼を出し、やがて、一人の大きなハンターがやってきました。
「あなたたちを守り、飛竜を倒す。それで良いな?」
 静かに問うハンターに、父親が頷き、母親がお辞儀をし、少女は黙って見つめておりました。
 そしてハンターは、依頼を一つも違えることなく、達成しました。
 けれど、村は滅びました。
 ハンターは、依頼をした一家は守りましたが、それ以外の人々は守らなかったのです。
 すっかり飛竜に焼かれた村は、うすら寒いほど見晴らしが良くなっておりました。
「何てことをしてくれたんだ!」
 父親は怒りました。
「ああ、皆が……村が……」
 母親は泣き崩れました。
「――」
 少女は黙って見つめていました。
「…………」
 ハンターは、何一つ言わず、夜空を見上げていました。
 父親が殴りかかっても、殴り疲れるまで身じろぎもせず。
 母親がおいおい泣いても、慰めに肩を叩くことさえせず。
 案山子のように、立ち尽くしているだけでした。
 やがて、罵倒も泣き声も一段落したところで、ハンターは踵を返しました。
 そのとき、少女はハンターの服の袖をくいっと引きました。
「どうして、何も言わないの? あなたは悪いことしてないのに。私を守ってくれたのに」
「…………」
 ハンターは少女をじっと見つめたまま、微笑みました。
「どうして、笑っているの? 私のお父さんもお母さんも、泣いているのに」
「…………」
 ハンターは少女の頭をくしゃりと撫でると、背を向けて歩き出しました。
「ねえ、どうして?」
「…………」
 ハンターは、もう、立ち止まることはありませんでした。

 結局――ただそれだけの、どこにでもある悲劇、だったのでしょう。

 酒に溺れる父親。慰めを別の男に求めた母親。それでも、離婚、という選択肢に辿り着くまでは、少女が少女でなくなり、自分一人で生きていくと言い出せる程度の時間がありました。
「でも、私には何にも残っていない」
 そう思った彼女は、いつかのハンターのことを思い出しました。
「あの人はどうして、何も言わず、微笑んでいたのかしら」
 そんな、ひどく些細な疑問。たったそれだけが、生きるための原動力となりました。
 他に、自分で何かを望むことも、願うことも、出来そうになかったからです。
「探そう、あのヒトを。私には、他に何も無いから」

 そうして、フリージアという名の、ギルドの受付け嬢が誕生しました。

「ギルドに入れば、ハンターの足取りくらいつかめるはず」
 その考えは、まさに的中し。
 ほどなく。
 あのハンターは、後に別の討伐依頼であっさりと死んでいた、という記録が見つかりました。
 疑問は永遠に闇に葬られ、フリージアは、ほんの些細な生きる理由さえ、失ったのです。
「でも、これで相応しいのかもしれないわね」
 凍てついたモノ――フリージアン。
 笑顔も不満も、涙さえも――全ては手札の一つ、手段の一環、ただ、それだけのこと。
 そう割り切ると、受付けの仕事は不思議と上手くいきました。冷めた視線は、残酷なまでの客観性で相手の力量を見据え、適切な仕事を割り振ることを可能としたのです。

「これで、いいのかもしれないわね」

 日々は過ぎる。変わらぬ速さで。
 私は続く。変われぬままで。
 だって、何も望んではいないのだから。
 だって、何も持ってはいないのだから。
 心は氷。体は硝子。打てば砕ける虚ろな命を道連れに。
 生きないまま死なないまま、私は私から遠ざかっていく――


「よぉよぉ、割りの良い依頼はねーか? 今月ピンチでよ〜」
 軽薄を装うのは、高い薬が必要な恋人のために、収入の大半を費やしているハンター。
「ええ、ではこの毒怪鳥の依頼はどうですか?」
 決して無事では済まないであろう依頼を、私は選びました。
「は〜ん、ま、悪くねえな! 楽勝楽勝」
 そう――この人は断れないし、命懸けでも成功させると、わかっているのですから。
「頑張って下さいね」
「おうよ! ああそうだ、終わったらデートでもどうだい?」
「な……何を言ってるんですか、もう!」
 膨らませた頬の中身は、空虚で満ちておりました。
 目の前のハンターの瞳は、すでに、遠い恋人だけを映しているのですから。
「全く――もう」


「どうも調子が悪くってねえ」
 苦笑いするのは、生活費全般をギルド名義の領収書で落としている、馬鹿なハンター。
「でも、最近稼いでないでしょう? ランポスの討伐でも、どうですか?」
 確実にこなせるであろう依頼を、私は選びました。
「あ〜、やっぱダメだわ。頭痛いし、帰って寝る」
 その足が向かうのは家ではなく酒場であると、調べはすでについています。
「あらら、残念ですね〜」
 苦笑いの下で、ギルドナイツへの報告書にサインを入れます。
 『上記の者、ギルドへの反逆行為の疑い有り。速やかなる処置を期待する』と。
「本当に、残念ですね」


「もっと難度の高い依頼はないのかよ!?」
 必要以上に大きな声で言うのは、自分の力を過信している若いハンター。
「残念ですけど、ドスイーオスがせいぜいですね、今のところ」
「飛竜ないの! 飛竜は!」
「あ……ちょっと待ってください。ディアブロスのが、つい昨日入りましたよ」
 明らかに荷の勝ち過ぎるであろう依頼を、私は選びました。
「おお、上等上等! 見てろよ、でっかい角、持ち帰ってやるぜ!」
 勇んで紅潮する顔が、青白く萎んで帰ってくるのは、すぐのことでしょう。
 失敗をきっかけに大きくなってくれれば、ギルドとしてはありがたいことです。
「あはは、そうですね。待ってますよ」
 もちろん――死ななければ、ですけれど。
 そんなことは、私の与り知らない世界でのことですから、関係ありません。
「あまり期待はしませんけれど、ね」


 そうして踊る。命と命が。私の指揮で踊って狂う。
 あるモノは生きて返り、あるモノは死して還り。
 どちらでもない私がそれを見据え、笑う。
 ――ただ、それだけの、日々。
 いつからでしょう。受ける笑顔を虚しいと感じだしたのは。
 いつからでしょう。善意でさえも疎ましく思いだしたのは。

「フリージアさんは、いつも優しいね」
 ――違う。私は残酷なだけ。
「キミは、いつも笑顔が素敵ですねえ」
 ――違う。私は無為なだけ。
「あんた、いつも元気だよな」
 ――違う。私は空虚なだけ。

 誰も私を見てはくれません。凍りついた心を見つけてはくれません。
 わかっている……はず、なら。何故、痛むのでしょう。
 涙さえ、出ないほどに。

「あの人はどうして、何も言わず、微笑んでいたのかしら」

 それが、痛みを覚えたときに口を突く癖だと、気づいたのはいつだったでしょう。
 答えの無い問い。変われない疑問。
 それはまるで、自分自身のようで。

「あの人はどうして、何も言わず、微笑んでいたのかしら」

 いつかその答えが見つかるとき、変われない疑問が変わるとき。
 変われない私も――変われるのでしょうか。
 もっとも。
 そんな『いつか』は、永遠に来ないのだけれど。

「こんにちは。ご用件は、何でしょうか?」

 日々は過ぎる。変わらぬ速さで。
 私は続く。変われぬままで。
 だって、何も望んではいないのだから。
 だって、何も持ってはいないのだから。
 心は氷。体は硝子。打てば砕ける虚ろな命を道連れに。
 生きないまま死なないまま、私は私から遠ざかっていく――

 その、はず、だったのに。

「厳しさの意味を知っている優しさは――素敵ですね」

 この衝撃を、どんな言葉で表せるというのでしょう。
 厳しいと、残酷だと――空虚な私自身を見据えて。
 その上で、それは素敵な優しさですよ、と言ってくれた、少女との出会いを。

「愛想のよさ、純潔、親愛の情、ですか。やっぱり素敵なお名前ですね。
 親御様の愛情と人格が窺えようというものです」

 凍てついたモノ――フリージアン。
 そんな心を溶かして有り余る、温かな言葉。
 思い出すのは、少女の頃。大好きだったはずの、両親の顔。
(何にも無いわけじゃなかった……ただ、私は、目の前の苦しさだけで、大切な時間さえ忘れて、どれもこれも、何もかも、無いモノとしてしまっていたんだ……)
 フリージア。
 その名を呼ばれるだけで、仄かに幸せが灯った記憶だって、ちゃんと残っている、と。

「ようこそ、炎の子供の世界へ」

 当たり前のことを、当たり前のように、溢れ出させてくれたヒト。
 だから、正直に、嬉しかったのです。

「頼ります。あなたの力が必要です」

 必要――と。
 その言葉だけで、もう報われたような心地でした。
 けれど、私はそれ以上を期待してしまったのです。
(この子なら……あの問いの答えを、見つけてくれるのかもしれない)
 そんなはずはない、と思う制止よりも、ひょっとしたならばと、はやる誘惑の方が勝りました。
「協力する代わり、と言ってはなんだけれど――ちょっと、聞きたいことがあるの」
 私は、誰にも話したことのない昔話をして、少女に問いました。

「あの人はどうして、何も言わず、微笑んでいたのかしら」

 すると少女は、どうしてわざわざそんなことを聞くのかわからない、といったふうに、小首を傾げながら、あっさりと答えました。
「何も言えないから何も言わなかったし、笑いたいから笑った、それだけでしょう?」
「は?」
「そのハンターさんは、失敗したのですよ。村が被害を受けないうちに倒すつもりだったのに、予想以上の抵抗にあってしまい、時間がかかって、村を守り損ねたのです。
 普通ハントは日中に行うのに、そのハンターさんが見上げたのは夜空だったのでしょう?」
「あ……」
「だから、言い訳のしようが無いくらい、口も開けないくらい、自責でいっぱいだったのでしょうね。だいたい、慰めなんて口にしたら、あなたたちの悲しみを一層深くするだけだったでしょうし」
「悲しんでいた……ようには、見えなかったわ。
 私たちなんか見向きもせず、そ知らぬ顔で夜空を見て……」
「泣きそうだったのですよ。そのハンターさんも。
 例えば上を向いていないと涙が零れそうなくらいに、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
「……!?」
「自分は責められるべきで、一緒に悲しんで良い立場では無い、とでも思ったのでしょう。
 黙って殴られて、罵られて、せめて欠片でも気を晴らす手伝いをする以外無い、と」
「何よそれ、馬鹿……じゃない。村を焼いたのは飛竜で、あの人の責任じゃないわ!」
「そう思えるあなたが居たから、微笑んだのです」
「……え?」
「断言しても良いですが、そのハンターさんは、あなたに勇気を貰ったはずですよ。
 泣きもせず、責めもせず、まっすぐに見つめる瞳を、尊敬さえしたことでしょう」
「そんな……はず、無いわ。直後の依頼で、あの人は死んでるもの。
 きっと、責められたと思って、自暴自棄で、そんな依頼を選んだに決まってるわ!」
「そうかもしれませんね」
 拍子抜けするくらい、少女はあっさりと引き下がりました。
「私は当人ではないから、わかりません。ただ、その人、どこかユウに似ている気がするのです」
「……そうなの?」
「ええ。そして、もしもユウなら、守るべきモノを守ろうとして命を賭けることはあっても、
 自責で死を選ぶようなことは、それこそ死んでもしませんよ」
 そう言い残して、少女は去りました。
 ぽっかり穴の開いた心のままで、私は、無意識に一枚の古ぼけた書類を取り出しておりました。
 あのハンターが受けた最後の依頼の、報告書です。
 依頼内容は、餌場を無くして彷徨い歩いている、つがいの火竜の討伐でした。
「こんなの……一人で受ける依頼じゃないわよ」
 報酬も捨て値で、なのに難度はほぼ最高。
 ハイリスクでローリターン。
 正直、こんなのを受けるヒトが本当にいたのかしら、と思われてなりません。
「結果は、雌火竜を倒した後に、残った雄火竜と相打ち……か」
 それは、今までに何度も確認したことでしたので、別段感慨は湧きません。
 普段なら、そこで切り上げて書類を仕舞い込むのでしたが、何の偶然か、当時つがいの火竜が生息していた地域を記した一文に、目が行きました。
「あら……これ、村を離れてから住んでいた場所に、随分近くて――」
 瞬間。
 雷に打たれた心地でした。
「ちょ――待って! つがいの火竜は……『餌場を求めて』彷徨っていた!?
 じゃあ……こんな、近くに住んでたら……格好の、餌、なわけで……」
 誰も受けないであろう依頼に、単身向かった、その意味。
 最後の最後まで逃げ出さず、相打ちでやり遂げた、その意義。
 今はもう土塊に還り、何も語ることのないハンターの、その想い。

「私……守られてたの? 知らない間に守られてた……あの人に……?
 なに……この現実は、なんなの? どうして、こんなことが、起こりえたの!?」

 理由の無い涙が零れました。
 零れて、溢れて、止まりませんでした。

「馬鹿だ……私もあの人も、救いようが無いほどの大馬鹿者だ。
 何よ……答えなんて、最初っからあったんじゃないのよ……!」

 本当に欲しかったのは、笑顔のわけでも、無言の意味でも、なかったのでした。

「あの人の言葉が聞きたかった。あの人の寂しくない笑顔が見たかった。
 生きる理由を無くしたとき、私が追っていたのは、あの人の背中だった。
 あの日あの時、ただ見送るしか出来なかったことだけを、私は後悔していた。
 追いかけたかった……待って、行かないでって、ただそれだけが言いたくて、私は……!」

 結局は、恋、だったのでしょう。
 炎の子供と仁雷の風が、互いに魅かれ合ったように。
 理屈ではなく、打算ではなく、ただ当たり前のように、必要だと思い合える存在。
 それが――もう、永久に失われてしまったあのヒトだった、と。
 そんな、ありふれた悲恋、だったのでしょう。

「もしもあの人を追いかけていたら。もしもつがいの火竜がいなかったら。
 もしも私たちが再び出会うことが、あったとしたら。
 『もしも』と『たら』で塗り固められた夢より遠い世界に、私が生きることが出来たなら。
 そうね……そうよね。私、絶対に、ハンターになってたわ。
 きっとあの人を困らせて、振り回して、笑わせて、ねえ……そうでしょ、ソナちゃん?」

 そう。
 『もしも』と『たら』の私が、ほんの近くにいるのです。
 追いかけるまでもなく掴まえて、ハンターになった少女がいるのです。
 そして、言ったのです。私の力が必要だ、と。

「――大丈夫。あなたたちを見守り続けるって、私だって、決めたんだから」

 ぎゅ、と古ぼけた書類を握り締め。
 今まで口にしたことの無かった、あの人の名前を呼びました。

「あなたハントを。私は出会いを。それぞれ上手く出来ずに失敗してしまったけれど……でも、全然、無駄なんかじゃなかったわよね?
 だって今、繰り返させないために、やれるもの。そうでしょ――アドニスさん」

 やっと出会えた、戦士が、二人。
 誰も知らない、けれど誰よりも強い願いを胸に。
 ただ、守るためだけの戦いを、始めたのでした。


                             ◇


「行ってきます」

 そう告げて、白髪の剣士の後を追う少女を、見送ってから。
 フリージアは、一枚の書類を取り出しました。
「多分、ソナタちゃんは、最終的にガーベラとユウくんを一対一で戦わせるはず。
 だとしたら……勝っても、ただじゃ、済まないわね」
 実際、すでにギルドから、ユウというハンターは危険視されているのでした。
 鎧竜を両断するような戦闘力は、一介のハンターの分を遥かに超えているのです。言ってみれば飛竜以上の危険因子であり、何かきっかけさえあれば、排斥の方向へと動くことでしょう。
 飼いならせない獣ならば、毛皮にでもした方が役に立つ、と。
 そういった愚直な思考に至りやすい場所に、不思議と権力というモノは収まっているのです。
「ガーベラまで両断するようなことがあれば……間違いなく、動くわね。
 ソナちゃん、今までそうさせないために立ち回ってたみたいだけど……隠し切れないわ」
 そして、手元にあるのが、まさにその書類――諜報部からの上告書――なのでした。
 そこには慇懃無礼を地で行く調子で、やんわりと『懐柔が無理ならば始末を』という意味にしか到達できない文章が、婉曲極まりない冗長な言葉で綴られておりました。
「こうまでせつせつと書き記した、その努力は買うけれど、ね」
 わしゃしゃ、と小気味良い音がしたかと思うと、書類は、たちまち紙ふぶきに転職したようでした。
 ぱさ、と景気良く舞わせると、吸い込まれるようにゴミ箱が受け止めます。
「ははは……バレたら、最低でも給料100%カットでとっても長い夏休みだわよう……」
 ぶるり、と武者震いがしましたが、それで済めば安いモノ、と言えるでしょう。
 これぞまさに完全完璧完結で、言い訳無用の喧嘩上等な、ギルドへの敵対行動なのですから。
「大丈夫……大丈夫だよ、アドニスさん。私、まだ、戦えるからね」
 古ぼけた書類をお守りのように携えながら、自分にだけ聞こえる声で、呟きます。

「さあさ、お立ち会い」

 いつかの少女の口調そのままに、そっと、微笑みます。
 ――あなたほど、上手い魔法は使えないけれど。
 それでも、と思うのです。
 自分が変わって見せるなら。自分で変えて見せるなら。
 その開幕には、やはりこれが、一番相応しい、と。

「これから始まるのは、世にも不思議な『嘘つき』の魔法さ。
 この魔法にかかってしまうとさあ大変。嘘が本当で本当が嘘、天地無用のあべこべ模様。
 だあれも何にも気づけない。いつの間にやら明日は昨日で今日は今日。
 それでも結局最後には、ちょっぴり幸せが増えている、そんな素敵な魔法なのさ」

 ポン、と軽く手を一つ打って、山となって溜まった書類に向き合います。
 様々なハンターたちが達成した依頼の報告書やら、依頼書の写しやら、売店の売上の明細書やらを、片っ端から引っ張り出して目を通す傍ら、ぶつぶつ呟いたりがりがりと計算式を立てたりして、何かを必死にやりくりしているようでした。
「こっちの人を持ってきて、ソナタちゃんたちと一緒に依頼をこなしたことにして……
 報酬の差異は、売店の売上で調整、報告書もそれっぽい記載を追加して……」
 ギルドの人間が聞いたら、たちまちひっくり返って泡を吹くような、裏工作の現場でした。
 つまり、ユウの規格外の戦闘力を少しでも覆い隠すために、ユウとソナタ二人でこなした依頼を、実は三人でこなしましたと書き換えたり、報告書の飛竜両断の事実をそれとなく伏せたりしているのです。一番凄いモノでは、依頼をでっち上げたり逆に消し去ったりと、それだけで三桁近い法律や条例に触れてしまうような内職を、着実にこなしているのでした。
「今日は、いつにもまして仕事熱心だなあ」
「オレたちも見習わないとな」
「だな。ハンターって稼業はああいう人の努力に支えられてるって、しみじみ思うよ」
 そんな賞賛の声を浴びながら、受付け界における重犯罪の金字塔を打ちたてていくフリージアでした。
 結局。
 金額は一桁台で綿密な調整が行われ、依頼日時、日程も報告もごくごく自然で、そのくせ内容はてんで現実とは異なる書類が山となって完成し、提出されたのでした。

「私には、あなたを笑わせられるような気の利いた魔法は、持ち合わせが無いのよね。でも、ほんの少しだけ嘘をついて、世界を優しくしてあげる。誰も何も知らないうちに、ちょっぴりだけ」

 一応、上司からチェックをされた上で受理されるのですけれど、ほとんどそれはハンコの流れ作業でしかなく、よっぽどのことが無い限り、現場からフリーパスなのが実状です。とりわけフリージアの仕事ぶりには定評がありますから、自然、信頼という名のやっつけ仕事が横行するわけです。そこにつけて、本物以上に本物らしい綿密さで構築された裏工作ですから、誰一人として、その片鱗さえも感じ取ることは出来ずに、ほんの少しずつフリージアの望むように事実は改竄され。
 一ヶ月後には、それが揺ぎ無い現実として君臨することとなるのでした。
 もちろんその『現実』では、ユウへの懸念は何故かすっきり洗い流されていて、
 『最近のハンターの地力の底上げ、結束の強さには目を見張るべきものがある』
 なんて、可も不可も無い一文に、取って代わられているのでした。

「あなたの大事なヒトを苛む現実なんて――嘘」

 守る、という意味において、これほど見事な戦いは、他に無いでしょう。
 けれど、炎の子供も、仁雷の風も、その戦いを知りません。
 自分の知らないところで、こんなにも守られていることを、知りません。
 誰も、何も、知りません。

「こんな魔法を私がかけたっていうことも――嘘。
 後に残るのは、どこか嬉しいだけの、ありふれた現実よ」

 フリージアは、呟きます。独りではない笑顔を浮かべて。
 変わらないけれど、変わって行く私。
 ただ嬉しいから笑えて、届けたいから言葉に出来る、そんな自分。

「嘘だった笑顔が本当になっても、手段だった言葉が真心に変わっても、
 きっと、誰も何も気づかない。ううん、私が気づかせない。
 でも――嬉しいって思える私は、ちゃあんと、ここに居るんだよね」

 だから変わらず微笑むだけ。変わった私が微笑むだけ。
 何も変わっていないようで、やっぱり何かが変わっていて。

「あなたたちの幸せな足跡は、私たち、、、の願いなんだから、ね。
 ばっちり上手くやらないと、承知しないわよう」

 そうして微笑んだままで、静かに待つのです。
 もちろん、ちゃんと二つの飲み物を用意しながら。

「決めたもの。ずっとずうっと、見守るって。
 だから、あなたたちは今日も、ちゃんと勝ってくるの。
 飛竜なんかじゃなくて、もっともっと大きなモノに、勝ってくるのよ」

 例えばそれは、ありふれた悲劇。
 例えばそれは、当然のすれ違い。
 例えばそれは、残酷な現実。

「凍てつくモノにさえ――温かな炎の世界は訪れる。
 打ちひしがれた時だって――不器用にでも仁雷の風は吹く。
 そんな素敵な光景を、いつまでもいくらでも、私は心に刻み続けるんだから」

 やがて近付く、いつもの影。
 白と黒。
 子供と大人。
 のっぽとおチビさん。
 何もかもが歪な二人。
 けれども、今日は。
 花咲く笑顔が二つ、なのでした。

「笑ってるよ……アドニスさん。『もしも』と『たら』の世界で……私たち、笑ってるよ」

 さあ、今日の土産話は何だろう。
 仕事上ガーベラをどう倒したのかは気になるし、人生の先輩としてはそれ以外の成果も気になるところ。あの調子ならば当初の予定以上の成果が得られたことは間違いないし、ひょっとしたら、教えてあるレディの心得以上にまで進んじゃったりしたのだろうか。既成事実が出来たとしたら、もう、あらゆる意味であの朴念仁の牙城は崩されたも同然だ。いつかの笑えない冗談が現実になってしまう日も、近いのかもしれない。まさか、すでに、ということは無いと信じたいけれど、さてさて、どうなのだろうか。……ああ、どうにも話の種は尽きそうにないけれど、大丈夫。飲み物の用意だって、万端なのだから。
 ――でも、まずは。
 この笑顔と言葉で迎えることから始めよう。
 あの日の想い、そのままに。
 少しだけ変われた私から。
 精一杯の、感謝を込めて。

「お帰りなさい」


第二章、これにて閉幕
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