牧師室'18.9


 ◎ 2018. 9 ◎
「とこしえの道に」

23神よ。私を探り、私の心を知ってください。 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

(旧約聖書 詩篇139:23〜24)



  9月と云えば『敬老の日』日本は押しも押されもしない、長寿国となりました。「平成29年簡易生命表」によりますと、日本人の「平均寿命」が過去最高を更新して、男性は「81.09歳」、女性は「87.26歳」とのこと。
  これは喜ばしい事と思います。と同時に、その与えられた人生をどう生きるか、と云うことも重要な事です。先日ある方と老後について話していたのですが、私もそんな年になりました。その方が,「先生は何か趣味をお持ちですか?」そう聞かれて、「うん!趣味と言えるかどうかは分かりませんが、本を読んだり、音楽を聴いたり、散歩をしたり、でしょうかね!ただ、願望というか、やってみたいことが一つ、それは『盆栽』です。凝り性なので、生活費に支障を来さない程度にですかね。」
  ところで皆さんはいかがですか。
  さて、今日の聖書、詩篇139篇は、標題に「指揮者のために、ダビデの賛歌」とあります。いつ頃書かれたのかは分かりませんが、人生も終わりに近づき、歩んで来た日々を思い返しつつ、書き綴ったのではないでしょうか。
  一節に「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」と云っていますが、少年時代のことを思い出したのでしょうか。羊を襲う獅子や熊を倒し、大男に戦いを挑むダビデは、「私は万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」と宣言し、石投げと一つの石で倒します(Tサムエル17:34〜51)。王になってからは、チョットした気の緩みからか、戦場で戦っている部下の妻を横取りするという、とんでもない失態を犯します。
  しかし、心から悔い改めるダビデを神はお許しになりました。神様は、どんな状況の中にあったとしても、決してダビデを見放すことはなさいませんでした。「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。わたしのたましいは、それを良く知っています。」(14)と神様の深い憐れみによる導きに心探られるのです   私の歩んで来た今日までの人生70年を振り返りますと、色々なことを思い起こします。どれだけ主の憐れみと、赦しをいただいてきたことだろうかと、唯々感謝あるのみです。
  誰もが良く口ずさむ賛美ですが、「数えて見よ主の恵み、つぶやきなどいかであらん」
  辛い事も、悲しい事も、苦しい事も沢山ありました。でも、数えてみたら、恵みのほうが、遥に数え切れないほどに与えられてきたのだと本当にその通りだな、とつくづく思わされます。そんな思いの中で神様に心を向けたとき、では今、私には何の恐れも、思い煩いも無いのだろうか? いいえ、何時何が起こるか分からない。まさか、と思えるようなことが、次々と起こっているのを目の当りにすると、云うに言えない不安が心の中をよぎるのです。
  ダビデは、神に召されてイスラエルの指導者・王としての地位が与えられました。上に立つ者の責任の重さは計り知れず、しかも敵は外からだけでは無く、自分の長男に命を狙われるという、最も大きな、絶えられない試練にぶつかるのです。
 そんなダビデが、全くの平静でいられる訳がありません。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」と祈るのです。これは神様への信頼の祈りです。
 王であったとしても、富や権力で解決できないことがある、これは神様に依り頼むしか道はない。 神様。どうかそんな私の心を知ってください。とダビデは祈るのです。
  ダビデは、幼い時からそのように、神様に自らを明け渡し、祈る術を知っていたのです。神様が召した者を、神様は決して見捨てることはなさらないと彼は信じたのです。それは、昔も今も同じです。ダビデを召し出された神様は、私たちをも、キリストの十字架と復活の恵みをもって神様の御許へと召し出して下さいました。私たちもこの神様に信頼し自らを明け渡して祈るのです。「私の心を知ってください。」と。
  これからどれだけ、地上において生かされるか分かりませんが、神様の前に自らを明けわたす日々の歩みへと導かれていく者でありたいと願わされました。
  「主よ。私をとこしえの道に導いてください。」
  数え切れない恵みに、主よ。感謝致します。