牧師室'18. 6


 ◎ 2018. 6 ◎
「豊かなあしらい」

私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

(旧約聖書 詩篇13:6)



  1953年8月にテレビで大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継が始まったそうです。当時はまだ白黒でした。私は5歳でした。私が始めてテレビを見たのは、小学生になってからだと思います。とは言っても、自分の家にテレビはありません。当時は高価でしたのでテレビを持っている家庭はほんの僅かでした。親しい人の家で、プロレスや、プロ野球を見せて頂いたのを懐かしく思い出します。
  その他によく見たのは歌番組でした。当時は演歌が大流行で小さな子どもからお年寄りまで、演歌一色でしたね。でも、生まれたときからクリスチャンホームで育った私は、「空の鳥は小さくても、お守りなさる神さま」とか「わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」と、小さいときから口ずさむ歌は、子ども讃美歌でしたね。大きくなってから演歌も歌いましたけどね。
  皆さんは普段口ずさむ歌ってなんですか?そして、何気なく口ずさんでいる時って、心が安らいでいる時ではありませんか。
  詩篇13篇の記者(ダビデ)は「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。」(5節)。そして続けて「私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」と、ダビデの主に信頼する、平安と喜びの姿が伝わってきます。平安と喜びがあるとき、主への賛美は自然と湧き上がってきます。
  ところで、「あしらう」という言葉ですが、これは、「鼻であしらう」とか「適当にあしらう」というように「相手を軽んじた扱いをする。みくびって適当に応対する。」というように使われることが多いのですが、辞書を引いてみますと、その最初には「相手にふさわしい応対をする。」の意味だとあります。
  ですから詩篇の記者が「主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」と歌っていますがこの「豊にあしらわれた」というのは、記者(ダビデ)自身が思っている以上に、良くしてくださった。といっているのです。
  5節に「恵みに拠り頼みました。」とありますが、これはまさに「値しないものに与えられる神様の愛に拠り頼む」ことを言い表しています。そして「私の心はあなたの救いを喜びます。」(5b)とありますが、この救いとは、神様が共におられるということです。
  主に拠り頼み信頼する者に与えられる喜びは、主が共におられるという確信から来るのです。そこに与えられるのは大いなる喜びであり平安です。
  ヤコブは「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか.その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」(ヤコブの手紙5:13)といっていますが、祈りと賛美は主に拠り頼む者の心の中心にあるものです。
  そして、私たちの歌は、主に対する賛美です。「私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(6)と。
  しかし、この詩篇の1〜2節を見ますと「1主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。2 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。」と言っています。
  記者(ダビデ)は、神様が共におられるということが、見えないほどの苦しみ、悲しみの中にあったのでしょう。私たちもそのような経験をする事があります。しかし、先程のヤコブの手紙にありましたように、ダビデは苦しみの中で祈るのです。
  そうした祈りの中で「私はあなたの恵みに拠り頼みました。」と5節6節へと心は導かれていくのです。
    このように見ていきますと、私たちの信仰生活の中で、最も大切なことは、祈りです。苦しみ悲しみの中で「主よいつまでですか。」と祈り求めるとき、そこに見えてくるのは、イエス様の十字架です。私のために苦しみ命を捨ててくださったイエス様です。しかも甦っていつも共にいると約束してくださったイエス様です。この十字架と復活こそ主の私たちに対する「豊かなあしらい」です。そして「私の心はあなたの救いを喜びます。」と、主をほめたたえる賛美へと聖霊様は私たちを導いてくださるのです。演歌も決して悪くはありませんが、「私は主に喜び歌います。」「『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。』これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(第一テサロニケ5:16〜18)」