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虹を見たことのない人はいないと思います。 私は虹を見ると、必ずと言っていいほど、この創世記の記事を思い起こします。きっと、ノアの箱舟の記事を知っておられる方は、私だけではなく神様の契約のしるしとしての虹を思い起こされるのではないでしょうか。 七色の虹と言われますが、七は完全数で、神様の御業の完全性を表す数字でもあります。六日間で創造のわざを終え、七日目に休まれた。そして「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創1:31)とあり、2章に入ると「1こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2神は第七日に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3神は第七日を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」(2:1〜3)とありますように、「七色の虹」は、神様の約束の完全性、真実を象徴していると見る事が出来ます。すなわち、契約のしるしとして立てられた虹は、赦しの御業としての十字架、イエス・キリストへと思いを至らせるのです。 「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」(民数記21:9)とありますが、ヨハネはこの事を引用して「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14〜15)と、十字架のイエス様を指し示しています。 「 このように、聖書はまさしく、記された一つ一つのことを通して、イエス・キリストを証しているのを知る事が出来るのです。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)とイエス様は言われたとおりです。 ですから、虹を見るとき、私はイエス様を見上げ、救いの約束を真実として受入れ、主の前に生かされていることを感謝するのです。 |
私たちの人生には、失望し涙するときもあります。悲しみに打ちひしがれるとき、憐れみと、恵みと、希望の神様を知らないとするなら、光であられるイエス様を知らないとするなら、心にかかる暗やみを取り除くことは出来ないでしょう。 けれども、世の光として来られたイエス様は、雨の後に空に虹が架かるように、涙の後に、御言葉を通して、慰め励まし、希望と言う約束の虹を架けてくださるのです。 皆さんも主イエス様を仰ぎその御名を呼ぶとき、救いと永遠のいのちの約束を確信し喜びと平安を取り戻す、そのような経験をなさったことがおありかと思います。 けれども、雨が止んでも、雨の後に光が射さなければ虹は立ちません。詩篇84:5〜6にこうあります「5なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。6彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」と詩篇の記者は歌いました。 悲しみの中を通らなければならないとき、いえ、むしろ雨が降らなければ虹が架からないように、悲しみ苦しみの時そこに、神様の約束の言葉は、光を放つのです。虹はそのことを思い起こさせてくださいます。「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。」(創9:13)と。 またこの虹は、キリストの身体なる教会をも指し示しているのです。イエス様は言われるのです。 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)と。教会は天と地をつなぐ契約のしるしです。すなわち教会を通して、神様のすべての約束は成就されていくのです。そして、神様がお立てになった契約、約束は必ず成ると信じ、勇気と希望が湧いてきます。 契約のしるしである虹は、イエス様ご自身であり、教会であり、永遠のいのちへと導く神様の愛のお心です。日々主を仰ぎ見つつ希望に生きる者とさせて頂きましょう。 主の御名に栄光がありますように! |