牧師室'18. 3


◎ 2018. 3 ◎
「主と共に生きる」

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、
その日が、盗人のように あなたがたを襲うことはありません。(4)
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一5:2〜6)



  教会の前の公園から、お母さんと一緒に遊ぶ幼子の声が聞こえてくる季節となりました。もうすぐ春ですね。とは言いましてもまだ朝夕は寒い日が続いています。
 ところで、「春」と言えば、私たちクリスチャンにとって最も感謝と喜びに満ちた日を迎えます。それは「イースター・復活祭」です。これはイエス・キリスト様の甦りの日を祝う最も大切な日です。毎年毎年巡って来るのですが、イースターはクリスマス・12月25日のように日にちが固定していません。毎年変わるのです。知っていて損はないと思いますので、参考までにお知らせします。それは「春分の日の後の満月から数えて最初の日曜日」と定められています。
  そして今は、イエス様の十字架の道のりを偲びつつ、十字架に架かられ死んだけれども三日目に甦られた日、すなわちイースター(因みに今年のイースターは4月1日(日)です。)を待ち望む「レント・受難節」という時を過ごしています。これは四旬節とも言います。これは、イースターに遡る日曜日を除く40日間です。
  イエス様の復活を喜び祝うということは、主イエス様が私たちにも約束して下さっている永遠のいのちを信じ、与えられた今日の日を希望を持って生きる事が出来るという事です。ピリピ人への手紙3:21に「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」とありますように、私たちは、地上での歩みが終わっても、主イエス様のお側でお仕えすることが出来るのです。
  旧約聖書の伝道者の書3章11節に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」と記されていますように、神様の姿に似せて創造された人は、元々は永遠の存在として神と共に生きる者であったのです。しかし、罪によって死が入ってきた事により、永遠の暗やみ、滅びに定められてしまったのです。
  けれども、イエス様が十字架の上で貴い血潮を流し、罪の束縛から解放して下さり、暗やみから光へ、滅びから命への道を開いてくださったのです。
  皆さんも経験なさったのではないかと思うのですが、イエス様を信じる信仰を告白し、洗礼を受けた時、周りが明るくなったと。多くの方がそのように証しています。
  まさに闇から光への経験です。
  私はある時、真っ暗闇の中を車を走らせていました。車のヘッドライトが照らす前だけしか見えません。ライトの届かない先に何があるかは全く見えないのです。スピードを落としゆっくり前方を確かめながら走ります。そのうちに、空は白み初め、やがて太陽が顔を覗かせたその瞬間、暗やみはどこにもありません。今でもその時の事を思い出すと、あの時の開放感は、「あなたの罪は赦されました」と宣言され、洗礼を受けた時に経験した得も言えぬ喜びと同じようであったのです。
  そしてそれは、決して私たちから取り上げられることはないのです。
  今日の聖書テサロニケ人への手紙第一5:2〜6に約束されていますように、イエス・キリストに信頼し、私たちが主と共に生きているという確信を持っているなら、主がいつ来られても大丈夫なのです。黙示録に「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(22:20)と。 主イエス様は「わたしはすぐに来る。」と言われました。私たちはどうお答えするのでしょうか。「ちょっと待ってください。今はまだ困ります。」でしょうか?
  愛する皆さん。私たちも、「アーメン。主イエスよ、来てください。」とお答えできる、信仰の歩みでありたいものです。いえ、それがキリスト者の生き方だと聖書は語っているのです。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。 」(テサロニケT5:5)。「私が世の光です」と言われるイエス様が共におられるのですから、闇はありません。約束の通り「兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。」 「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」(同5:6)
  「主と共に生きる」私たちには暗やみはどこにもありません。
ハレルヤ!主に感謝します。