牧師室'18. 2


◎ 2018. 2 ◎
「恵みと平安」

どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1:3)



  今、お隣の国、韓国では熱い戦いが繰り広げられています。平昌オリンピックです。
  オリンピックは平和の祭典とも言われています。だれもが望んでいる平和です。しかし、その裏には政治的な影も見え隠れしています。それは兎も角として、多くの国々から一流の選手が集い、技を競います。見る者に多くの感動を与えてくれます。それは一生懸命の姿です。金、銀、銅・・・それは素晴らしいことに違いありません。たとえメダルを手にすることが出来なかったとしても、私は、一生懸命の姿に感動するのです。そのためにはどれだけの努力をしてこられたことでしょうか。
  一生懸命とは、一つの目標を目指してあきらめずに一歩一歩前進して行くことです。パウロ先生は言いました。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)と。パウロ先生は、イエス様に出会って人生が180度変えられました。イエス様によって与えられた神の栄冠に比べたら、それまでに得たすべてのものは、ちりあくたのようなものだとさえ言うのです。
  その栄冠とは、死者の中からの復活(ピリピ3:11)です。イエス様を信じる信仰によって、この栄冠は既に約束されているのです。
  しかし、パウロ先生は、こうも言っています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)と。
  私たちは、一人で走っているのではないのです。イエス様が、私たちを捕らえ、ともに走っていてくださっているのです。オリンピックと言えば、もう一つ、パラリンピックがあることは、ご存じでしょう。その競技の中に、マラソンがあります。目の不自由な選手とともに走る伴走者です。繋がれたひもから伝わってくる感覚を頼りに走るのです。伴走者は相手の選手より速くても遅くてもダメなのです。選手の速さに合わせて、ピッタリと寄り添って走るのです。イエス様が「私は、いつもあなたとともにいる。」(マタイ28:20)と言われましたが、まさに私たちの歩調に合わせて、ともに歩んでくださっているのです。
  イエス様が「わたしは、・・・いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、まさに私たちの歩調に合わせて、ともに歩んでくださっているのです。
  私たちの人生、思ったようにいかないことだって沢山あります。でも、イエス様がともにいてくださるという確信を得たなら、鬼に金棒です。決して失われることのない確かな目標が与えられているのですから。
  詩篇23篇に「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(4)と。そして「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう、」(6)と。
  私ごとですが、今年受洗して50年を迎えようとしています。思い返しますと、どれだけ、この御言葉に助けられ励まされてきたことでしょうか。
  ですから、大変おこがましいのですが、パウロ先生が「恵みと平安があなたがたの上にありますように」と言ったこの御言葉は、私の思いでもあります。この言葉は神様の祝福を祈る祈りでもあります。
  「恵み」は、一方的な神の愛の行為です。すなわちそれはイエス様によって与えられた十字架の愛です。受けるに価しない者に与えられる愛です。そして「平安」はその「恵み」の結果として与えられるものです。
  ですから、私たち、主イエス様を信じる者にとっては、与えられた恵みと平安が、一人でも多くの方にも与えられるようにと、願い祈る思いは同じなのです。それは、互いに交わす挨拶言葉となっていることからも分かります。「GOD BLESS YOU」[ゴッド ブレス ユー]「神の祝福があなたとともに」と。
  ジョン・ウェスレーが最後に語ったと言われる言葉は「私にとって最も良きことは、主が私とともにいてくださることだ。」でした。
  イエス様は「いつも、ともにいる」と仰ってくださっています。ですから、ダビデが告白しているように、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩篇16:8−9) と。「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」アーメン