牧師室'18. 1


◎ 2018. 1 ◎
「神様の右の手」

彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。
あなたが彼らを愛されたからです。
(旧約聖書 詩篇 44:3)



  私たちは、生涯誰の世話にもならず、一人で生きて行くことは出来ません。生まれた時から今日まで、そしてこれからも必ず誰かの世話になり生きていくのです。
  神様は創造の初めから私たち人間は助け合って生きていくようにと男と女に創造したのです。「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」と。このところからある人々は、「女性は男性に仕える者である」と、男尊女卑という間違った解釈をしました。
  この助ける、と言う言葉は一方的な力関係を表すのではなく、助ける者があれば助けられる者もいる、相互関係を表す言葉でもあるのです。イエス様は「良きサマリヤ人」の譬え話で、強盗に襲われた人の話しをされました。
  見て見ぬ振りをして通り過ぎた二人、ところが日頃仲の悪いサマリヤ人が通りかかり、その人を憐れに思って助けてあげました。その最後の所でイエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書10:30〜37)と言われました。 また、最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われた後でこう言われました。「主であり、師であるこの私があなた方の足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14〜15)と。
  宮沢賢治の詩の中に「東に病気の子どもあれば行って看病してやり、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い・・私はそのような人になりたい。」とありますが、イエス様のお話に繋がっていると思います。
  私たちは本来そのように互いに助け合う存在として神様によって創造された者なのです。
  しかし、こと救いに関しては、人間の手の及ばない一方的な神様の業です。
  「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」<詩篇44:3>
  この詩篇は直接的には、イスラエルの民が神に信頼して勝利を願ったにもかかわらず、敗北を喫して悲惨な目にあって嘆き、いっそう切実に助けを求める祈りです。
  しかし、イスラエルの民が、嘆き切に祈るこの祈りは、すべての人の救いに関する祈りでもあるのです。しかも詩編は古いものはモーセの時代まで遡り、紀元前400年頃までにまとめられ編纂されたと言われていますから、おおよそ3000年の間祈り続けられてきた世にあるすべての人になくてはならない祈りといえるのです。
  詩篇44:3に「あなたの右の手」とありますが、これは神様ご自身を現しています。右というのは、権威、権力を表す言葉です。ですから「あなたの右の手」すなわち神の右の手は、神様の絶対的な権威を言い表し、このお方にこそ救いがあると信仰告白しているのです。そして、その後に「あなたが彼らを愛されたからです。」とあります。神様の救いの絶対的な権威は「愛」です。
  「愛」は色々な形あるいは行為によって表されます。
  神様の究極の愛の表れは、言うまでもありません。十字架の愛です。神の独り子であられるイエス様が私たちの罪の身代わりとなって命を捨ててくださった、これほど大きな愛はだれも持ってはいません。 聖書はこう語ります。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5:8)と。
  「神様の右の手」は、罪のあるものをも愛し赦し、いつも変わらずあなたの手を握りしめ、人生の最後まで、ご一緒してくださるのです。「わたしはあなたとともにいる」(マタイ28:20)この御言葉こそ、愛なる神、権威と優しさにあふれた右の手なのです。